第8話 章魚蘭

文字数 51,265文字

 一一月にもなると、山小屋は急激に寒くなり始めた。日毎に寒さが厳しくなる様相は、具衛の周りのそれと比例しているかのようだった。
 これまで山小屋周辺で、ろくに見かける事がなかった町に一つある駐在所のミニパトカーを、ほぼ毎日見かけるようになった。合わせて山奥には余りに不自然な、然も色気のないセダンも良く見るようになった。車内には、几帳面にも背広を着込んだ二人組の男。全ての原因は、先月の出張所前での演説会である事は言うまでもない。その劇的な変化は分かりやすく、あからさまだった。
 あの日は非番だった。昼まで大家の顧問弁護士の実家で農作業の手伝いをし、昼食をご馳走になった帰りに、本の借り換えで出張所二階の図書館へ足を向けた。出張所前で演説会がある事は知っていたが、一応立ち寄ってみて、出入り出来るようなら行こうと思っていたところ、思わぬ光景に出くわしてしまった。仮名と大家とその顧問弁護士が、三人で演説を立ち聞きしているではないか。具衛は、しばらく遠目でその様子を伺う事にした。今にして思えば、やはりそれがまずかったのだ、と思う。遠目で様子を伺っていた者が、一時を経て聴衆の輪に入れば、警察官なら何事か不審感を抱くのも無理はない。ただでさえ、要人警護中で気が立っている連中である。それは分かってはいたが、具衛はやはり近づけなかった。
 大家の様子からして、仮名の素性を知った上で話をしているのが見て取れた。つまりそれは、仮名の素性を大家から辿る事が可能である事を意味する。それは仮名の本意ではない、として、近づく事を憚った。仮名と大家が知り合いなのであれば、具衛の素性は大家から抜ける可能性が高いだろうが、その点に関しては具衛は殆ど頓着していない。少し変わった経歴の他は、取るに足らない存在である。あくまでも、対等な関係を望む仮名に添っているに過ぎない。あえて自分から語っていないだけで、訊かれれば答える用意はいつでもある。仮名がそれを望んでいないから、そうしているだけだ。只それをすると、恐らく引かれてしまうのであるが。
 そんな事を考えていると、それなりの地位や身分を持つ者が気の毒になる。この比較的自由で平和な時代において、自由がないと言う息苦しさは、常人には堪え難いだろう。恐らく仮名もそうした人種の一人である事は、最早疑いようがない。ならば、目が覚めれば捨てられる身である。この歪な間柄の事であれば、気の済むまで自由にさせてやろう、と具衛はこの時も考えたのである。
 が、やはりこれは少しまずかった。
 大家と顧問弁護士が仮名から離れてしばらく後、偶然を装って仮名と接触し声をかけたまでは良かった。が、これを事もあろうに、何故か要人本人である高千穂に見咎められてしまったのだ。周囲の護衛の目は、それでも欺いていたつもりだったが、この時はまさか仮名が要人と繋がっているとは思わなかったため、要人の目までは気にしていなかったのだ。そこが迂闊だったと気づいた時には、既に高千穂から直接指示を受けた追手が迫っていた、と言う訳である。
 高千穂に睨まれた瞬間、その悪寒を敏感に察した具衛は、偶然通りがかった路線バスに飛び乗った。すぐに警察の覆面車両が詰め寄って来たが、具衛はその前に、次のバス停でさっさとバスを降りており、あっさり煙に巻いていた。その日はそれで済んだのだが、一週間もすると、冒頭の通りの有様となってしまったのだった。
 それにしても、
 ——暇な連中だな。
 と、呆れたものだったが、もっと呆れたのは、その指示を出したと思われる高千穂の執念深さである。
 具衛も春まで東京暮らしの人間である。政界で悪名を鳴らす中堅どころのすけこましの事は、それなりに知っていた。今や外相である高千穂は、中堅議員の期待の星だが、その目は昏い。その目から、遠く離れた演台より浴びせられた憎悪にも似た眼光。ああでなくては国家権力は
 握れないもんかな——
 思い出しては侮蔑しながらも、居間の卓上に置いていたスマートフォンが、着信音を発したのを確かめる。見ると、スマートフォンの画面に「映像一件」の表示があり、それをタップすると、橋を山小屋に向かってやって来る仮名のアルベールの映像が出た。警察車両が周辺をウロウロし始めたため、山小屋の周辺に密かに設置した超小型デジタルカメラによる映像である。立体センサーつきで、動く物に反応しては映像を再生先である具衛のスマートフォンに送って来るが、何しろネット通販で購入した安物であるため画質は良くない。また赤外線機能などはついておらず、夜間でもセンサーに反応して映像が転送されて来るものの、真っ暗闇で殆ど何も見えかった。それでも昼間はそれなりに見えるため、安物でありながら充分過ぎる程の性能は発揮してはいる。
 が、今の問題はそこではなく、
 ——ん?
 目視すると確かにそうであり、そこで初めて腹に響くようなエンジン音が耳に入って来た。普段なら、遠くから轟くその音だけで接近を感じていたところだ。その音に気づきもせずに考え込んでいた、と言う事が問題だった。
 それにしても——
 妙な事になった、と厄介事に絡まれた感満点の展開に、然しもの世捨て人も気を囚われ、それでものんきそうに一人、口を歪める。
「こんにちは」
 気がつくと、目の前に仮名が立っていた。
「あ、どうぞお掛けになってください」
 流石に夏につけていたターフは、既に収めている。お陰で居間の奥まで明かりが届くが、もう日没も早い。庭木はまだ葉が散っておらず、ただでさえ弱々しくなった日光を遮っており、辺りは既に薄暗かった。
「まだ開けっ広げてるの?」
 などと呆れながらも、
「寒くないの?」
 仮名は相変わらず部屋には上がらず、縁側の右隅に腰を降ろす。
「昼間は火鉢さえあれば、まだ開けててもそこまで寒くないんですよ。それに締め切っていると、一酸化炭素中毒が怖くて」
 具衛が説明臭くも漏らすと、
「隙間風で大丈夫なんじゃないの?」
 相変わらず仮名も、それを論って笑った。
 が、実のところ昼間開けっ広げているのは、相手の出方を探るためでもある。具衛の行動パターンは、恐らく既に抜けている。それなら在宅中は下手に締め切るよりも、開けっ広げた方が相手には牽制になる、と考えての事だ。近寄らせなければ、別にいくら覗かれようと減る物でもない。ただ、近寄られると何をしでかすか分からない。具衛の周辺を嗅ぎ回っているのは、まだレベルこそ低いがそう言う手合いだった。
 見える範囲に、今はいない。
「すっかり秋ね」
「ええ」
 いつも通り粗茶を出すと、座卓に戻る。
 周辺の緑は、ほぼ赤に染まった。残る緑は常緑の物だけであり、紅葉は最盛期を迎えている。
「朝晩は冷えるようになりました」
 と言う物干し部屋側には、
「夜はガラス戸を締めます」
 があった。
「そりゃそうでしょ」
 仮名はやはり、素直に突っ込む。
 その戸は「横額障子」と呼ばれる、真ん中部分にガラスがはめ込まれた物だ。春に越して来た直後に少しは使ったが、一か月もしないうちに暑くなって鎧戸だけにしていたのだ。夏が来るとそれすら使わなくなり、夜間でも開けっ広げて寝るようになった。それでも鎧戸は、外出時の戸締まりの用で出番はあったが、ガラス戸の出番はまるでなくなった。よってガラス戸は春先以来の再登場であり、仮名には使用状態をお披露目した事はない。
 冬になったら——
 どうするか。流石に開けっ広げた縁側に座らす訳にもいかないだろう、とぼんやり考えてみる。縁側に座らせるのは、今時分が限界だ。もう仮名が立ち寄る夕方には、寒さの押し寄せが顕著になっている。
「やっぱり夕方はもう寒いわね」
 と言う仮名の横に、具衛は火鉢を置いた。
「ありがとう」
 と、慣れた口振りで謝意を口にした仮名が、早速それに手を伸ばす。となると、そろそろ来訪の折は、居間に上げる必要に迫られるのではないか。具衛は、密かに生唾を飲み込んだ。
 これまでは、如何に人気のない山深い中の小屋で二人切りの事とは言え、開けっ広げた縁側でのもてなしだった。外の気配が、辛うじて怪しくなる雰囲気を、何処か中和していたものだったのだが。ガラス戸を閉めて、居間に上げてしまうと、日が早くなり暗くなった密室で二人切り、
 と言う事に——
 なってしまうではないか。
 ——うーむ。
 具衛が悶々と、冬の心配をしていると、
「あの、さ」
 その一言は、唐突だった。
 纏わりつくような迷いが滲んだその声は、瞬間で具衛の動揺を誘う。その、か細く艶かしい程の弱音を、少なくとも具衛は、これまでに仮名の口から聞いた覚えがない。
「はい」
 平生を装ったものの、思わずまた生唾を飲み込み、体が固くなった。
「何か、さ」
「何でしょう?」
「困った事、ない?」
「困った事、ですか?」
「うん」
「そう、ですね——」
 具衛は仮名の深刻さを、あえてのんきそうに片手で顎を摩りながら
「近くに安い散髪屋がない事、ですかね」
 剥ぐらかした。
「散髪屋ぁ?」
 仮名が求めていた答えではなかったらしい。あからさまに顔を顰めて具衛を睨む。
「安い散髪屋は山を降りないとなくて。バスで往復してたら結局この町の散髪屋の料金ぐらいになるし。この町の散髪屋のおじさんは良い人なんですが、今時のカットはどうも——」
「いや、そうじゃなくて!」
 仮名は、具衛がごちゃごちゃ理由を述べているのをばっさり切って遮った。
「はぁ?」
 具衛もわざとらしく
「だって、困った事って言われたから、答えただけですけど」
 不服げに漏らす。
「言い方が遠回しだったわ。大体、普段のその形で、髪型のカットがどうのとか——」
 裾周りを刈り上げて、後は長いところを適度に切ってすいただけの、極ありふれた髪型である。見た目もそれ相応に大した事はなく、まあそれなりにスッキリしている程度だ。普段の形に至っては、最早言うに及ばない。
「う」
 具衛はわざとらしく、痛いところを突かれた風を装った。
「誰かにつき纏われたりしてない?」
「つき纏い——ですか?」
 そうですねー、とまた、具衛はのんきに顎を摩る。
「施設の子供達から、仕事中なのに遊べ遊べとつき纏われてやれません」
「はぁ? 子供ぉ?」
 仮名は、更に盛大に顔を顰めた。
「流石に仕事中に、子供達と一緒にゲームしちゃまずいでしょう。でもつき纏われてどーしよーにもないんですよ」
「何言ってんの?」
 冷たく言い放った仮名は、
「何それ自慢? もてて大変ね!」
 全霊をもって皮肉を込める。
「ストレートに聞くわ。嫌がらせ、受けてない?」
「嫌がらせ、ですか?」
 そうですねー、と具衛がまた顎を摩ろうとすると、
「顎はもう摩らなくていい!」
 仮名が手厳しい言葉を浴びせた。
「はぁ」
 戸惑いを示しつつも、
「えーと、」
 具衛が答えを引き延ばす。
「散髪屋や施設ネタは、もういいから」
 仮名がついに、予め厳しく念を押した。
「そうですか」
 具衛は、少し観念して
「何も、ないですよ」
 ついに、まともに答える。
「ホントに?」
「はい」
「そんな事言って、何か隠してないでしょうね?」
「どうしたんです? 一体?」
「いや——気になって」
 腑に落ちない表情で俯く仮名は、何処となく悔しそうでもある。
 ——高千穂の事なんだろうな。
 具衛は、最初から分かった上で剥ぐらかしていたのだが、仮名もそれを承知で念押しをしているようだった。何れにせよ、どちらかが「高千穂起因の嫌がらせ」を口にしてしまえば、それは明白に、仮名と高千穂が浅からぬ関係性を持つ事を公言してしまう事になる。仮名が高千穂の名を出さないと言う事は、やはりその関係性を知られたくない、認めたくない思いがあるのだろう。それを感じ取った具衛は具衛で、仮名の本意でない事を聞くのは本意ではない。
 その悔しそうな横顔の一方で、
 ——今はまだ黙っとこ。
 その実、高千穂の魔の手は中々早かった。

 演説会で高千穂の命を受けた護衛の警察官につけられた具衛は、その日のうちに監視や迎撃の準備を始めた。何故か分からなかったが、高千穂の醜悪に触れ、すぐに護衛を動かしたその異常さに、身に迫る危機を感じたのだ。既に山小屋の周囲に設置している超小型デジタルカメラもその一環である。少ない資金を元に、二日に一直をこなしながら大急ぎで準備し終えた頃、警察の内偵が山小屋周辺に至った。
 やれやれ間に合った、と思っていたところ、早速施設で宿直中の一〇月末、具衛のスマートフォンに、山小屋周辺に設置しているデジカメの立体センサーが反応した事を示すメールが届いた。
 デジカメはブルートゥースで映像を転送するタイプであり、山小屋にいる時は直にスマートフォンで受信して再生出来るが、外出中は遠過ぎて電波が届かない。よって、自宅に置いている小型のミニノートPCに受信させ、そのPCのOSをスマートフォンで遠隔操作して映像を確かめる。流石にずっと映像をチェックしていられないので、デジカメの立体センサーが反応した段階で、PC経由でスマートフォンにメールが届くようにした。
 丑三つ時の真夜中に獣か何かだろうと思いながらも、仮眠から目を覚まして一応映像を確かめたところ、川土手から文字通り、抜き足差し足で忍び寄る人間が写っているではないか。辺りは真っ暗闇だが、忍び寄る側も真っ暗闇では歩きにくいのだろう。ご丁寧にも、足元をライトで照らしながら歩いていた。素人だ。これで唐草模様のほっかむりでもしていたら、絵に描いた旧来型の
 ——ドロボーなんだが。
 などと失笑しながら、具衛はどの罠を使うか検討を始める。
 罠は二通り仕掛けた。自動式と手動式である。自動式は、接触に対して自動作動する物で、通常人の動線になり得る場所以外に設置した。一方、手動式はその逆で、動線になり得る場所に張り巡らし、文字通り遠隔で作動させる。具衛は、泥棒の通り道から後者を選んだ。自宅PC経由で罠を作動させると、泥棒が山小屋の庭の入口辺りで突然倒れる。
 ——よし。
 かかった。
 具衛は、後は放置にして仮眠を再開した。ナイフぐらいは携帯しているだろうが、今使った罠は鎖である。素人ならばあの罠からは逃げられない、と値踏みした。もし外せたとしても、また何処かの何かに引っかかる。
 因みにこうした罠は、設置に関してやはり法を頼みにするもので、一般的には、鳥獣保護や害獣対策を論じた狩猟法を根拠の拠り所とするケースが多い。基本的には無闇に鳥獣を捕獲してはならない旨であり、如何に害獣対策といえども、農地保護に限り罠の種類によって免許、許可、届出を要する。農地でも何でもない具衛の借家の敷地に罠を張り巡らす事は、いくら害獣対策を主張したところで到底認められないだろう。仮に家庭菜園を営んでいたとて、そのレベルでは罠の設置は認められないと判断される事が一般的である。もっとも狩猟法は、あくまでも獣を対象としており、そもそもが人間に対する罠に関する法など存在しない。如何に借家の敷地内に対する侵入対策といえども、防御権を逸脱する罠は即座に過剰防衛に直結する。具衛のように、やっつける気満々で手を凝らした罠を設置すると言うその行き過ぎは、最早言うに及ばない。侵入者に対する明白な暴行、傷害の故意に繋がる愚行である。
 が、攻めて来る相手は、恐らくは高千穂の息のかかった裏の組織なのだ。
 いざとなりゃあ——
 法廷闘争にもつれ込む事など考えられなかったが、もしそうなるようなら、組織的な犯罪の防止を目的とした「組織犯罪処罰法」を論うなど、個人ではなく組織的ダメージを食らわす内容を
 ちらつかせりゃあ——
 それなりに取引は出来る筈だ。
 とにかく、非合法でゴリ押しして来る相手なら、躊躇しなければ良い。その程度の楽観視だった。
 明けて非番。何処にも寄らずに真っ直ぐ山小屋に帰ると、庭の木にもたれて眠り呆けている若いチンピラ風の男を発見した。片足の足首に、鎖が何重にも締まっている。犬の散歩に使う物なのだが、締まり方がキツければ、一度締まるとちょっとやそっとでは解けない。具衛の接近にも気づかず、眠り呆けているその男の着ているジャンパーのポケットに入っていた小型ナイフなどでは、到底切れる代物ではなかった。結局男は解く事を諦めて、その場に眠り呆けていた、と言う訳だ。
 具衛は男の寝顔を写真撮影した後、バケツの水をぶちまけて男を起こし、倉庫から持ち出した薪割り用の斧で盛大に脅した挙句、用件を確認して男を解放してやった。
 男は、
「知り合いに頼まれて、張り紙をしに来ただけじゃ」
 と強がっていたが、男を解放する前にこっそり仕込んだ紛失防止タグが行く先を確かめると、広島市内中心部に拠点を構える武闘派の暴力団組事務所を指し示すではないか。
 ふぅん——。
 花火大会の時、交通トラブルでお世話になった、あの組員の組事務所だ。
 男が持っていた張り紙の内容は、
「あの女から手を引け」
 と言うストレートなものである。
 ——あの女ねぇ。
 明らかに高千穂からの戦線布告だった。
 随分とまあ——
 ヒステリックな事だ。
 具衛のような、名もない一般人にやるような所業ではない。つまりは高千穂が、何かを目的として仮名を狙っており、その野望のためには、それに纏わりつく邪魔者を容赦なく払う、と言う意思の表れでもあった。
 高千穂は、若かりし頃から頗る評判の悪い男、と具衛は把握していた。元首相の父の力を始め、政財界に張り巡らされた高千穂の血脈を傘に好き放題と言うご乱心振りは、注目するつもりがなくても耳目に入って来たものだ。その上更に、黒い交際の噂が絶えない男と来たものだから、最早何故
 こんな男が——
 野放しなのか理解に苦しむ、とは具衛がネット検索で閲覧したところの情報である。鵜呑みには出来ないだろうが、結構いい線を行っている、と言ったところだ。事実、警察に内偵をさせて情報を掴み、ヤクザを使って実力行使に出る、と言う手口は、質が悪く手慣れたものだった。二つの組織は決して表では連携しないが、それを両方握る者がいれば、皮肉にもこう言う使い分けが出来る訳である。
 これは思いの外、
 ——根が、深いのかなぁ。
 高千穂のうわさの実情はもっとひどいのだろう、と具衛は推測し、次に備えた。
 次の襲撃は、貼り紙男を追い返した翌日の昼下がりだった。
 例によって仰々しくも、何処かで見覚えのある黒塗りの国産高級ミニバンが、山小屋前の橋を渡って川土手から山小屋の庭先まで入って来て止まると、中から絵に描いたような柄の悪い大男が三人降りて来た。
「随分とせっかちだな」
 具衛がのんきに居間の縁側から用件を尋ねると、そのうちの一人が矢庭にオートマチック式拳銃を突きつけて来て、手を挙げて庭に降りて跪くよう要求する。仕方なく言われた通りにすると、残る二人がそれぞれ具衛の腕を取り羽交い締めにした。
 が、拳銃を突きつけた男が用件を語ろうとしたその瞬間、突然庭の両側からその男に向かってロケット花火が襲いかかり形勢逆転。当然、具衛が仕掛けた罠だった。慌てふためく男達の中で、唯一冷静な具衛が瞬間で羽交い締めを外すと、両脇の男達は、それぞれの頭を掴んでごっちんこさせて沈黙させる。その直後、すかさず拳銃を持つ男のその手を蹴り上げた。拳銃が下に落ちて来る間に、それを持っていた男の顎を拳で叩きつけ、軽い脳震盪を起こさせ地面に押し潰す。満を持して落ちて来た拳銃を手に取ると、具衛は何の躊躇もなく安全装置を解除して、地に伏して呻く男達に突きつけた。伊国製の名のある銃だ。
「最近のヤクザもんは、いい銃使ってんなぁ」
 のんきな言の一方で、流れるような体捌きと言い、慣れた手つきで拳銃を操作する仕種と言い、一々ギャップが凄まじい。
「さぁさ、どこに当たるか分からないよー」
 続け様に悪い冗談でも言うような余裕振りで宣言した具衛は、男達の足元を狙って全弾撃ち尽くすまで思う様に発砲すると、何処からともなく取り出した例の薪割り用の鉈で、いとも簡単に拳銃を破壊してしまった。その躊躇しない言動と柔い形が、どう見ても釣り合わない。それは見方を変えると、何かの感情が欠落した危ないヤツにも見て取れたもので、事実三人の男達は、そんな具衛に狂気染みたものを察したのか、恐れをなして呆然としていた。
 その前で具衛は、また飄々とその連中の汚い面を写真撮影したのだったが、縛っている訳でもないのにいつまで経っても呆けたまま立ち去らない。撃つのも撃たれるのも、どうやらキャリアが低いらしく腰を抜かしたようだった。仕方なく次に倉庫から斧を取り出し盛大に脅しをかけると、失禁しながらもヨロヨロと四つん這いで車まで戻り、逃げ帰って行った。これが二回目。
 因みに拳銃及び空薬莢は、全て粉々にして分解破壊し、資源ごみの日に金属ごみとして出している。それを所携した男達の目の前で破壊したのは、既に回収不能である事を教えるためだった。持っていると、この餌にまたよからぬ連中が群がりろくな事にならない。二回目の襲撃の男達にも密かにタグを仕掛けたのだが、行き着く先はやはり例の組事務所である。
 三回目は——
 どんな志向で来るものか。
 何処までものんきに構えていると、次は一一月に入ってすぐの夕方だった。非番日に夕食を準備していると、例によって近辺に似つかわしくない黒塗りのミニバンと、その前をバキュームカーがやって来るではないか。一見してそれは、住宅を回る糞尿収集用途の車であり、橋を渡って庭先まで来ると流石に山小屋の中まで臭って来る。
 晩飯前だと言うのに——
 デリカシーのない事である。
 山小屋はこう見えても、下水道完備である事は既に書いた。明らかに招かれざる客だ。具衛はすぐに、台所のタオルで顔の下半分を覆面した。
 庭先で止まると、山小屋に向かって闘牛の牛を連想させるかの如くエンジンを激しく空吹かし始める。そしてしばらく後、特に何を宣言するともなく山小屋に突っ込んで来た。が、途中、一番木々が覆い茂る庭の括れの部分で、バキュームカーは突然前部が沈み込み、鈍臭い音を伴って車体の下半分が土壌に埋もれてしまった。具衛の拵えた落とし穴である事は言うまでもない。仮名が出入りするため、普通車クラスでの陥没を避け、大型車や重量のある車を防ぐべく仕掛けて置いたのだ。山小屋の大きさを鑑み、重量のある工作車などによる突進対策を企図したその仕掛けは、確かに奏功した。が、流石に臭いだけは、
 どうにもならん!
 然しもの具衛も、これにはそれなりに立腹した。落とし穴は傾斜状に作られ、前部はフロントガラスの底辺まで埋もれていたが、後部は地上高のままだった。出られなくなっても困るためあえてそうしたのだが、衝突の衝撃で朦朧としている二人の乗員に向けて、具衛の仕打ちはまた「斧攻撃」である。
「一般人相手に節操なさ過ぎだろ。今日は許さんで」
 フロントガラスを豪快に割り、運転席のボディーを走行可能な程度に壊していると、慌てた調子でミニバンが駆けつけて来た。躊躇なく車内から降りて来た二人の男の手には、先日同様オートマチック式拳銃。具衛は、バキュームカーの中で喚いている二人におもちゃの手榴弾を一個投げ入れると、その討手を迎え撃つため腰に挿していたスリングショットを手に取った。例によって、何言か下卑た喚声を上げつつ駆け寄って来る討手が瞬く間に肉薄するが、具衛は何処か人ごとだ。それでも、その時履いていたジャージのポケットからパチンコ玉を取り出すと、討手の二人が拳銃を構えるよりも早く、一弾指の内に逡巡なくそれを速射して見せた。何かの演舞の決まり事のように、忽ちそれぞれが転倒して悶絶し始める。追加でもう二射して追い討ちし、討手の気を削いだタイミングで、バキュームカーの中に放り込んだ手榴弾が、情けない喚き声を上げる男達の手の中で
"パン!"
 と乾いた音と共に破裂し、紙吹雪を散らして終幕。よくある殺陣の一幕のようだった。
「あんたら、寄ってたかって市民を襲撃して、ヤクザ失格だな」
 数分後、ロープです巻きにした四人の筋者を、例によって斧と拳銃とで盛大に脅した後、いい加減襲撃に煩わしさを覚え、襲撃の元凶を吐かせる。やはりその大元が組長である事を掴むと、
「組長の弱みを教えろ」
 を吐かせ、落とし穴の片づけをさせた後、夜陰に乗じてそのまま逆襲に乗り込んだ。
 三人は山の木に縛りつけておき、一人に情婦方マンションまで案内させると、マゾヒストの組長が情婦とSMに勤しんでいるところへ正面切って単身乗り込み、戦利品の拳銃で盛大に脅しながらも、その様にならない格好を激写し呆気なく作戦を完遂。
「襲撃をやめないならばらまく」
 拳銃片手に脅しをかけ、そのまま休戦協定を締結した。組長は、具衛の飄々たる無茶苦茶振りに感心し、つい気を良くして協定に付随してある情報をもたらしたのだったが、それこそが事もあろうに仮名の素性だったのである。
「あんた、悪い事は言わん。サカマテの専務からは手を引いた方がええ」
「何でです?」
 と惚けてみたが、具衛の心中が、ここ最近にない動揺で激震していた事は最早言うまでもない。SM組長は、裏の世界では広島有数の求心力を持つと言う中々の大物だが、花火大会での組員の不始末でケチがついており、これ以上の醜聞を嫌うと言わんばかりに決断は早かった。
「ヤクザは止められても、国家権力の闇は止められん。手を引いた方がええ」
「まぁ、手を引いたって事にしといてください」
 襲撃さえ無くなれば面子に関わる暴露はしない、と言う具衛は、筋者の運転よりは、自分で運転した方が確かだとして運転を代わってやり、自らミニバンを運転して帰宅後、人質の解放他襲撃一件の後始末を済ませると、
 ——サカマテの専務。
 から、検索を展開し始めた。
 他人による暴露を、流石に仮名も少しは想像していたとは思うが、よりによって高千穂の横暴が原因になるとは考えていただろうか。これまでの、せっかちで、あからさまで、強引な高千穂の手管は、ヤクザ者の攻め口同様にまさに節操がなく、それを思うと演説会で見咎められた瞬間から、少しはその筋を心配していたのかも知れない。そう言う機微に聡い仮名の事である。それを思うと、少し仮名を気の毒に思ったものだったが、あえて知ろうとしてはなかったものの知ってしまったものは仕方ない。その心底に巣食っているものを調べる絶好の機会だ。
 それを思うと——
 何もしないなど有り得ない。
 具衛は腹を括って調べる事にした。
 それにしても、そう言えば、町の北隣に県内有数の大企業があったものだ。今まで何故そこを調べようとしなかったのか。自分の愚鈍さを恨む。洗練された普段の身形とあの車。山小屋近辺で会社勤めなら、それに見合う企業は、サカマテ以外に考えられないではないか。溜息を吐いては、すっかり遅い晩飯をつまみながらも、スマートフォンを突き始めた具衛は、とりあえずサカマテ専務の画像検索から確かめた。すると、何枚も何枚も、仮名の美貌が映し出されるではないか。
 一見して今より若い時代のものから、今時分の頃のものまで、仮名の画像はどれをとってもやはり美しかった。どの画像を見ても、外見年齢は三〇そこそこのようでもあり、いつの時代の画像か区別がつかない。そこがまた、らしいと言えばらしかった。
 サカマテ専務は仮名の事で間違いない事を確かめると、次にサカマテのホームページから名前を確かめた。
 ——高坂真琴。
 顔写真つきで紹介されており、何やら専務以外にも、やたら様々な肩書きがつされている。
 これはもしや——
 そのまま固有名詞で検索したら、ネット辞典でヒットするのではないか。早速そのフルネームで検索したところ、その衝撃的な検索結果から、具衛はめっきり箸が進まなくなってしまった。固有人名登録されているようなビッグネームである事が明らかになると、詳らかにされるその情報を前に、自分の間抜け振りがじわじわと心臓を締めつけ始める。
 旧財閥高坂宗家嫡流長女——。
 東京のベッドタウンの高級住宅街に居を構える、文字通り由緒正しき実家を出自に持つような御令嬢だ。その御令嬢が、そのまま東京で生活しているのであればさておき、何故これ程の有名人が、この大田舎をうろついているにも関わらず、全く噂にもならずこの近辺は平穏を期しているのか。それが他ならぬ大家によって箝口令が敷かれ、ごく数人レベルでしか把握されていない噂である事を、具衛は知る由もない。
 そもそも具衛は、積極的に人の噂を嗅ぐような人間ではないのだ。今のような夜の単独勤務を満喫しているような仕事に就いている身とあっては、情報に接する機会も少なかった。農作業の手伝いをしても、噂話などそもそも興味も持てないし、そもそも箝口令を敷かれているのだから、広まる事もなければ当然耳にする事もない。
 現(株)高坂マテリアル取締役専務執行役員兼CAO、兼(株)高坂総合研究所取締役、兼高坂財団理事、等々高坂グループの役職を兼務するその御令嬢の経歴は、いきなり衝撃的なもので、中卒後進学せず独学で司法試験を突破し、十代で弁護士登録をしたと言う尋常ならざる肩書きからスタートしていた。
 十代で弁護士?
 そんな事が有り得るのか、などとこの時点で既にたじたじの具衛である。今更ながらに国内法を掻い摘んでは知ったか振りを晒して自分に、穴があったら入りたいとはまさにこの事だ。釈迦に説法を説いていた訳である。学歴は、英国オックスフォード大学院卒とあるが、
 いきなり大学院?
 高校、大学を丸ごと飛び級しているらしい。ますますもって、
 そんな事が——
 有り得るのか。
 その通常ならざる就学期の後の経歴は、今一釈然としないと言うからしくないと言うか。何故かいきなり、民放大手テレビ局のキー局アナウンサーになっている。確かに滑舌の良い美声である事に納得する一方で、確かに才色兼備であり受けは良いだろうが、仮名の根底に散見される慎ましさが、それに違和感を強く感じさせた。
 その採用年は、具衛にとっての
 ——高三か。
 具衛としても、ちょうどドタバタしていた頃だ。これ程の美人なら見ていれば覚えていただろうが、幸か不幸か見覚えがなかった。民放の女子アナを卑下する訳ではないが、その何処かしら華やいだイメージは、如何にも仮名らしくない。その印象そのままに、事実仮名のアナウンサー時代は「最恐の才媛」などと、凄まじい持て囃され方をされながら、僅か二年で終わっている。手の早い大物コメンテーターからセクハラ被害を受け、最恐の才媛らしく相手を投げ飛ばしたらしい。詳細は分からないが、この時ばかりは世論の圧倒的支持を受けたようだ。それを受けたコメンテーターの方が、示談に積極的だったこともあり、結局示談している。この時点で既に、弁護士資格を有するアナウンサーなのだ。訴訟に持ち込めばそれこそ、
 ちょっと肉を切らせて——
 盛大に骨を断つ、と、以前口走っていた仮名を思い出し、具衛はスマートフォンに向かって噴き出したものだった。
 次なる経歴は外務官僚であり、具衛はここで衝撃的な事実を知る。
「バ、バツ一?」
 同じく当時外務官僚だった高千穂と二五歳時に結婚し、翌年出産と同時に離婚しているではないか。
「な、な、何ぃ——!?
 流石に盛大な絶叫を上げた具衛である。
 と言う事は、
「子供は!?
 と言う当然の疑問も即座に浮かんだ。
 が、今の仮名には、何処をどう切り取っても子供がいるようには見えないし、その影すら掴めない。
 その外務省も三〇で退官すると、以後はエリート街道一色。渡欧し仏フェレール財団出資の世界的シンクタンク「フェレール平和基金」主席研究員、その後に続く国連軍縮研究所法務官、等々その手腕は高く評価されている。
 数年前に、実家グループの役員就任に伴い帰国。今に至るようだった。今では慈善団体役員もいくつか兼ねており、その肩書きは多忙振りを連想させて余りある。
 こんな女傑を相手に
 俺は一体、何を——
 やっていたのだろうか。
 返す返すも、その一念が頭の中をぐるぐる巡り続ける。家柄と言い、経歴と言い、肩書きと言い、落ち着いていて当然ではないか。この視座から見える人間など、まさにバカ者だらけで当然である。リゾートで羽目を外す日本人に嫌気が差したとか、八月六日に黙祷するだとか、以前に口にしていた事がとんでもないレベルで裏づけされてしまい、本当に重ね重ね強調されるのは、具衛の間抜け振りだった。
 そう言う自虐的な事で頭を抱えていると、以前に
「男なんてバカばかりだ!」
 などと言っていた事ももっともだ、と思い出してしまい、自らの妙な記憶力を恨めしく思ってしまうその女傑は、ご丁寧にも合気道六段らしい。
 強い——
 訳である。
 日頃の冷淡さの中の歯切れ良さは、こうしたところから来ているのかも知れなかった。いくら賢いとて、武道の鍛錬は一筋縄で行く筈もない。相当に苦労したであろう事は疑いなく、血の滲む努力をした、と言っても大袈裟ではないだろう。世間の男共がバカにされても仕方がない位階である。
 ここ最近にない動揺で激震しているネタを目の前に愕然とする中で、やはり気になるのは、その離婚歴と子供の事、そして最後に出て来たその実母高坂美也子の大物振りだった。具衛でさえ聞き覚えのあるそのフィクサーの地盤高坂家は、明治維新後、遠戚も含めれば、政財界に網の目のように血脈が張り巡らされていたようだが、戦後財閥解体の憂き目に合い、大半は没落したようだ。が、時の当主(真琴の祖父)の卓越した商才により見事に復活を遂げ、文字通り中興の祖となるや再び隆盛を極めつつある。その中で出て来た勢いのあるフィクサーだ。その母と高坂真琴は、成長過程の早い段階で対立し、現在も確執を抱えたまま、とまで掲載されていた。
 中卒後は進学せず、家を頼らず文字通り実家を飛び出し、自分の足で歩んで来たその女傑が、どうして高千穂のようなすけこましの毒牙にかかってしまったのか。出産するなり離婚したその原因は、妊娠中の高千穂の不倫のようだが、馴れ初めも気になるところではある。子供は一人のようだが、その情報には辿り着けなかった。仮名の自宅は、子供が住んでいるような雰囲気はなかったように思うのだが。年齢から計算すると、今年で一六歳だと言うその子は、男のようだが名前は出て来なかった。
 親権を奪われたのか——?
 高千穂は元首相の子であり、家柄的にもその跡目は必要だろう。片や高坂真琴は高坂宗家嫡流とは言え、女の身でありしかも第二子だった。嫡流は継げないようだし、子供を育てたところでフィクサーの母親に利用されると考えたのかも知れない。などと勝手な推測をする。腐っているとは言え、高千穂もサラブレッドの家柄だ。
 込み入った事情まではやはり分からないが、要するに、
 ——政略結婚。
 その推測は、当然と言えば当然としたものだった。離婚云々は、その末のごたごたなのだろう。これまでの仮名を見て来た限り、高千穂と上手く行く事など到底想像出来ず、離婚も当然と言えば当然の結果だった。
 ネット辞典の固有人名データだけでも、これ程詳細に掲載されている人物が、自分の知己であり、
 こんな山小屋で——
 何となしに交流を育んでいる。
 その結果、現在何となく微妙な間柄となっている事が自分でも信じられず、当初は只々慄くばかりだった。その格差としがらみの凄さは仮名が口にしていた以上であり、今更ながらに素性を語る事を嫌がっていた理由が痛い程理解出来た。いきなりこのような只ならぬ情報の洪水に晒されれば、相手をさせられるのが常人の男ならば、耐えられず立ち所に引くだろう。それは然しもの世捨て人たる具衛とて例外ではない。具衛でさえ正直なところ、
 無理だったろうな。
 断じて知己になるようなつき合いにはならなかった、と思う。
 その後もしばらく、ネット上の情報を漁ったものだったが、高坂真琴の生き様は独特であり、推測するに、若かりし頃から実家に居場所はなく、孤独に苛まれたであろう事は手に取るように分かった。あの家にしてあの母親を持つ身である。その観点だけでも、仮名はその割に、至極常識的な人格を形成しているように、具衛には見えた。
 ——選ばれた民。
 ネットには「優性人種」などと批判的な情報ばかりで、ネット辞典の固有人名データ以外では、ろくな書かれ方をしていなかった。アナウンサー時代に全国区になった事が、悪影響をもたらしているのは間違いない。今はネットによる誹謗中傷に事欠かない時代だ。
 これなら——
 彼岸花に投射する仮名の気持ちも、無理からぬものと思う。本当に彼岸花の如きの、忌み嫌われようだった。この世間の悪意を垣間見た常識人なら、大抵は受け止め切れず、仮名の相手など務まらないだろう。だから残るは野心家のろくでなし、と言う事になる。
 その止めが、様々な蔑称のオンパレードだった。狼だの女狐だのと酷いものだ。その激しい気性と涼しげな外見が影響しての事のようで、言われたい放題である。中には「うどん」と言うフレーズもあり、呆れる他なかった。何故あの美女の蔑称が「うどん」なのか。理由は地毛の色のようで、髪が赤い狐、と言う事から、即席麺大手の商品名をなぞらえたらしい。
 これは——ひどい。
 そのフレーズをネットに書き込むだけで侮辱罪が成立するではないか。その「うどん」のフレーズに引っ張られるように、よく使われる蔑称は、赤い狐とか女狐のようだ。
 なんで——
 黙っているのか。仮名の舌鋒からすれば、とっちめる事など容易いだろうに、と思ったがすぐに止めた。一々一つずつ訴えたところで切りがないのだ。罰は軽いくせして捜査は手間がかかりがちなそれを、警察が積極的に捜査したがる筈もなく、しかして犯行は迅速大量だ。諦める他なかったのだろう。その無念を思うと、
「今、この状況は夢なの——」
 仮名のそのフレーズが、突然何かを伴って思い出され、その意味を痛感させられた。気がつくと、握り拳を作ったその手が汗ばんでいる。
 その心底に巣食っていたものは分かった。
 その巣食っているものを
 俺が——
 全部取り除いたら、この女はどうなるのか。そんな事を考えた事があった事を、合わせて思い出す。
「——その可愛さは罪ね」
 と言う仮名の迷言がここへ来て、途轍もない時間差で具衛の腹を抉った。分不相応にも程がある。本当に、可愛らしいバカを言ったものだ、と今更ながらに自分のバカさ加減に呆れてしまった。何をどうしろと言うのか。全く分からなかった。裸一貫の今の具衛が与えてやる事が出来るものなど、まさに男の矜持に関わる部分でしかないではないか。そして、そんなものでどうにかなるのであれば、仮名はとっくの昔に、その巣食っているものから解放されている。それこそ、具衛に出会う事もなかったろう。
 だが具衛は、幸か不幸か、彼岸花に込められた本当の意味を知っている。偶然の遭遇が歪な交流に結びつき、結果としてその本当の姿を知ってしまったのだ。
 こんなの——
 常識人で退場しない男は、はっきり言ってそれこそバカ者だ。いくら天涯孤独で身軽なのが信条の具衛とは言え、これ以上首を突っ込む事は常軌を逸している。このまま抗えば、何かのヤバい渦に飲み込まれる事は分かり切っている。
 分かっちゃいるが——
 事情を知った男なら、放っておける筈がないではないか。
 ——上等だ。
 やってやる。世間のバカな男は単純なのだ。
 相変わらずの波乱含みに苦笑しつつも、具衛は改めて彼岸花を、それでも
 支持してやろうとも。
 と思ったのは、実はほんの数日前の話なのだった。

 火鉢の傍で寒そうな素振りを見せつつも、仮名は相変わらず縁側に座り続けている。一一月ともなると、日の入りは午後五時過ぎだ。仮名が訪ねる頃には、大抵太陽は既に西の峰の向こうに沈んでいる。縁側から外に目を向け景色を愛でようにも、日没後の残光が辺りをぼんやり照らすのみであり、刻々と迫る闇を感じるのみであった。
「夕暮れも素敵ね——」
 移り行く秋は、その夕暮れが如実に語る。もう一、二週間もすると、今の時刻では辺りは殆ど闇に埋没してしまうだろう。
 縁側はもう——
 限界だ。
 それはつまり、仮名が縁側に腰を下ろす根拠を失う、と言う事だった。つまりは立ち寄ったところで部屋の中、と言う事になる。景色も何もあったものではない。山奥の山小屋で男女が密会、と言う構図が成立する事になる。
 ——有り得ない。
 会話を嗜む、と言う趣味を持たない具衛としては、座卓に座って口を開かず黙って茶を啜る様子を想像するだけで息が詰まりそうだった。
 今日の出立ちは、ライトグレーのシンプルながらスッキリしたロングコートである。仕事帰りなのだろうからコートの中はスーツなのだろうが、それは膝から下に覗くチャコールグレーのスラックスしか見えない。一見地味だが、そう見せないのがこの美女の凄いところだ。片や具衛などは上はジャージ、下は年中変わらずの綿パンである。
 最も凄いのは、本当に
 年上なんだよなぁ——。
 と言う事だった。
 一見して三〇そこそこに見える仮名の年齢は、ネット辞典によると本当に今年で四二を迎えるらしかった。だが、約二〇年前のアナウンサー時代や、その数年後の外務官僚時代の露出画像を確かめると、少し若さが感じられる程度で今とさして変わらない、と言うから本当に驚きしかない。典型的な大人顔と言うヤツで、加えて若い頃から老けていたようだ。三〇過ぎるまでは今とは逆で、老けて見られていたのではないかと思われるその容貌は、テレビ仕様のきっちりメイクで明らかにずば抜けており、メディアで持て囃されるのも分かるような気がした。綺麗どころの女優と遜色ないどころか、その上を行っている。
 が、若い頃の仮名は、何処か今以上に、鋭利な印象が強いように思えた。年齢を重ねただけ、ほんの少しは往生したものか。雰囲気が丸くなったような気がする。きっと良くも悪くも様々な思いを積み重ね、より洗練されたと言う事なのだろう。それは、良い年の取り方をしている事の裏づけであり、具衛は若かりし頃の仮名よりも今の加齢を経た仮名の方が、はっきり言って好きだった。具衛に対して何処となく上から目線だったのは、年上と言う事も少なからず影響していたのかも知れない。それよりも何よりも、仮名に比べれば具衛などは確かに頼りない。
 この姉御にそれなりの好意を持たれている事は、確かに嬉しさもあったが戸惑いの方が強かった。それはつまり、仮名を取り巻く周囲の思惑に対する恐れの表れである。そしてそれと同じくらい、その子供の事も気になった。今の仮名には、そうした母性が感じられないのだ。その外見相応の知性と意外な徳の高さを目の当たりにして来た具衛は、仮名が例え父親が高千穂と言えども、その子の事をおざなりにする筈がない、と思いたかった。のだが、仮名はそれを全く匂わせない。何故なのか。
 今は、
 とりあえず——
 仮名の素性共々、気に留めておくだけにする。
「縁側は今日が最後ね」
 例によって聡い仮名が、具衛の思考を口にした。
 それは——
 もう、立ち寄らなくなる、と言う事なのか。約五か月、押しかけられたが、それがなくなると思うとやはり寂しい。
「次からは、中に上がらせて欲しいんだけど」
 立ち寄らない、と言う事ではないらしい。先回りし過ぎていた思考を否定出来る事が嬉しかった。が、
「でも、居間からは何も見えませんよ。もう日も短いですし」
 そうなると、山奥の山小屋の中に微妙な男女が、となるのだが。
「別に構わないわよ」
「え?」
「だって、息抜きだもの」
「はあ」
「景色は見えなくても、一息つければいいのよ」
 仮名は当然めいた物言いだが、構わない
 と、言われても——
 具衛にとっては一大事である。
 気の利いた事は言えんしなぁ。
 見た目は詐欺師でも、口は詐欺師ではない具衛である。
「部屋に入ってしまったら、何も変わった志向はありませんよ」
 何も言えず、気まずい雰囲気になる事請け合いだ。縁側の時とは違い、よもや本人を目の前に本を読む訳にも行くまい。
「だから別にいいんだって」
「いや、でも」
「もう、普段のあなたと来たら——」
 仮名はホトホト呆れた体で、額に手を当て小さく嘆息した。
「何もいらないのよ。その——同じ空間を、さ——」
 か細く呟いたその思わぬ内容に、
「え? なんて?」
 具衛は耳を疑った。また何か、今、そのイメージを破壊するような事を吐いたような。
「ああもうっ! 何もないって言うんなら、庭をライトアップすればいいじゃない!」
 俄かに固まる具衛を前に「このニブ!」と悪態を吐いた仮名は、
「真っ暗になったからもう帰るわ!」
 捨て台詞と共にさっさと車に乗り込むと、瞬く間に立ち去った。先日、バキュームカーが転落したばかりの落とし穴跡に気づいた様子もなく、アルベールは庭を後にする。
「ライトアップねぇ」
 それなら目のやり場が担保出来る、と具衛は、立ち去るアルベールを目で追い続けた。

 ヤクザ者の襲撃が収まった次は、やはり国家権力だった。多くても日に何度か見かける程度だった駐在所のミニパトカーや、私服警察官が乗る素気ない仕様のセダンが、張りつきになってしまったのだ。文字通り四六時中、具衛の行動を監視するようになったのは、仮名に庭のライトアップを勧められた次の日。ヤクザと休戦してから一週間も経っていない事から、やはり高千穂の命である事は明らかだった。
 本当に、
 ——暇なヤツらだなぁ。
 である。
 大抵は、セダンの私服二人組が張りついているのだが、この二人組は具衛が行く所なら何処でもついて来る、と言う徹底振りだった。が、具衛の行き先など知れている。それでも、私服の二人組は延々とついて来るのだった。
 尾行は、その対象者に気づかれた段階で、軽犯罪法に定める
 「追随等の罪」だろーに。
 に該当する可能性があり、捜査機関といえども、その行為に正当性(正当職務行為)が認められない限り、違法性は阻却されない。のだが、この場合それを警察に訴えたところで、取ってつけたような理由を根拠に、正当性を主張する事は火を見るよりも明らかだ。そもそもが、職務上の秘密だとか捜査上の秘密だとか抜かしては取り合わないだろう。相手にされない事こそが、火を見るよりも明らかだった。
 で、あるから捨て置いている。
 具衛は理由が分かっているため、つけ回されるだけなら全く平気だった。が、こう言う展開は、その周囲が騒ぎ出す。何せ、具衛の移動にも一定の間隔を空けてつけ回すため、具衛が狙われている事は誰の目に見ても明らかだったからだ。当事者と尾行の一対一の構図なら平気でも、これに周囲の好奇の目線や根も歯もない噂が加わると均衡は崩れる。
 それにしても、日本の国家権力も
 なかなか——
 辛抱強い。
 神経戦、と言うヤツであった。そもそもが大抵の国ならば、国家権力を握る者の手管と言うのは諜報機関による事が常である。間違っても精密さと言う観点において、日本のヤクザのような素人に毛が生えたような稚拙な手は使わない。つまりは、このあからさまな遠巻きの状況は、今のところ国家権力による物理攻撃の恐れはない、と言う事でもあり、暗に警告していると言う事も出来た。手を下す前に手を引け、
 ——と言う事なんだろうな。
 ヤクザの次は、本物の闇の組織が攻めて来る。今の状況はその前の繋ぎだ。
 ——って、どんなのが来るのかねぇ。
 あくまでのんきな具衛が勤務先で宿直中も、近くの道端にセダンが飽きもせず止まっている。
「先生、今日も止まっとるよ!」
 夜、宿直室で晩飯を食っているところへ、例のケンタが怒鳴り込んで来た。
「勤勉な人達だからなぁ」
「護衛も大変なんじゃねぇ」
「風呂にも入らず、徹夜で張り込みよー」
「徹夜するん?」
「大人になったら、そう言う仕事もあるって事だな」
「ふーん。大変なんじゃねぇ」
 たわいないやり取りだが、実はマークされている本人に対するこうした声は少ない。大抵の場合、噂話は尾ひれをつけて水面下で広まり、気づいた時には、本人以外のところでそれが真実となっている。事実は一つでも、真実は人の数だけある。それは法をかじる者の間では常識だ。ケンタのような無邪気な声は、実は貴重だった。
「次の出廷はいつなん?」
「それは言えんな。守って貰っとる手前、俺の口からは言えん」
 重要事件の証人になってしまい、命を狙われる可能性があり私服警官に護衛されている、と言う体で、このケンタを介してそれとなしに噂を拡散させた、と言う訳だ。
「ふーん。今度行った時、なんかお土産買って来てよ」
「裁判所でか?」
「うん」
「じゃあ売店で、小六法でも買って帰ってやろうか?」
「しょーろっぽう?」
「法律の辞書みたいなもんだ」
 素人向けの判型の小さい、言わば家庭の法律辞典であるそれは、法の実務家が使うには内容が薄い。一昔前には、大抵の家庭に一冊はあったものだ。が、近年ではネットで検索した方が、法の内容により多く確実に接する事が出来るため、家庭で見かけることは少なくなった事だろう。
「うえ。饅頭とかでいーんじゃけど」
「裁判所饅頭か?」
 今時、饅頭と言うフレーズを口にする子供がいるのか、と具衛は思わず口にした物を噴き出しそうになる。
「まあ、何かあったら買って帰ってやるよ」
 その愛くるしい素朴さに、思わず期待させるような事を答えてしまった。

 一一月中旬。
 サカマテ周辺の山々は、紅葉の最盛期を迎えた。
 平日の昼下がり、
 山が燃えるって——
 こう言う事だと、真琴は卓上一杯に並べた資料を背に、会社の自室から西中国山地の山々を眺め、また目を休めていた。最近は、流石に赴任直後のような忙しさはなく、逆にのんびり事を構えている。
 慌てても——
 じたばたしても変わらないのなら、腰を据える事にした。上が代わる度、効率だの改善だの改革だのと、そのとりあえず何かを言って何かをやった振りを見せると言う、適当で無責任で独善的な思想に振り回されては、被害を受け続けて来た社員達の不信感は相当に根強い。それならば、いつまで役に座らされ続けるのか分かったものではないが、じっくりどっかりやって行く事にしたのだ。
 机にかじりつく事は少なくなり、会議のための会議はやめた。工場内に出ては、現場の意見を吸い上げ続けた。会社の不信感、特に経営層に対する疑念を晴らさなくては、多数を占める社員は何れ離れて行く。日本の半導体事業の現状は相当に厳しく、社内がブレていては未来はない。
 しかし、それもいつまで
 続けられる——かな。
 一昔前は、最高品質を誇った日本企業のそれが世界を席巻したのは、今となってはまさに遥か昔の過去の栄光だ。その一昔前でさえデジタルの世界は、文字通り日進月歩であったにも関わらず、ずるずると過去の栄光にすがり続けた日の丸半導体の没落は予想以上に早かった。効率ばかりを追い求め、高い技術力と品質革新で世界を牽引していた時の努力を惜しむようになると、業界内が根拠のない虚勢と慢心で覆われるかのように空回りし始め、世界の急速なデジタル化の波に乗り遅れた事も相まって、瞬く間に品質も生産力も立ち遅れ始めた。今となっては技術力も生産力もどっちつかずの中途半端振りであり、見事なまでの脆弱振りを呈している。
 それこそ一昔前は、その存在を認める事すら困難だった近隣諸国の黎明企業が、今や世界市場を席巻する巨大企業に変貌しており、過去の英雄がそのお零れにすがりついている。まさに、デジタル戦国時代における下克上の敗者。それが現代日本の半導体事業の実相だ。サカマテがそれでも持っているのは、優秀な技術者の存在と、勤勉な社員による高品質生産力、それだけだった。
 本当に——
 呆れる程にそれだけなのだ。今のサカマテを食い止めている要因は。旧来型の設備を継ぎはぎして、騙し騙し何とか回している。本当に首の皮一枚で繋ぎ止めている。本当にそんな状態だった。これで技術者を引き抜かれ、品質保持が追いつかなくなれば、瞬く間に生産が滞り、あっという間に債務不履行に陥ってしまう。今や風前の灯のグループ内のお荷物。それがサカマテの実相だった。国内勢を吸収合併し続け、二〇年前に本社を広島の片田舎に移転させ、一大集約拠点とした。そこまでだった。そこで、止まっている。
 この状態で、
 人を失ったら——
 終わってしまう。一人が二人、二人が三人、そんなふうに海外勢に引き抜かれ始めたらもう終わりだ。何もかもが滞り、慢性的な閉塞状態に陥っている社内で、真琴が出来る事は原点回帰、つまりは現場に寄り添う事だけだった。そんな真琴のスタンスは、一部の社員の中で支持を集め始めたようだったが、一方でそれに反比例して経営層のあからさまな不興を買い始めた。お日さん西々の、典型的な事勿れ主義が席巻する旧態然とした経営層は、その殆どが巨大グループに胡座をかいて、自己都合にのみ執着している寄生虫ばかりである。真琴に何か功績を上げられては、それまでのさばっていたその他の経営層の無能振りが際立ってしまう。その程度の心配しか出来ない愚か者の集まり、それが今のサカマテの経営層だった。
 その中でもやはり孤立している真琴は、赴任当初は侮られたくない、と言うプライドから、しゃかりきになったものだったが、もうやめた。経営層は深刻に腐っていたのだ。如何に創業宗家出身とは言え、戦前の財閥経営めいた強さなど、母は未だに保持しているが、殆ど実家から勘当状態である雇われ専務の身である真琴にはある訳もない。そもそも現職就任が、何故突然自分に向けられたものか。そんな事すら分からないまま勤めているような有様だった。誰の何の思惑か知らないが、この会社は、
 ——もうダメだ。
 逆にこの状態で、よくぞここまで持ったものだ、とさえ思えて来る。最期の時の責任を取らされるために宛てがわれた、と言う現実味が帯び始めると、途端に意欲も消え始めた。再建の道筋や、そのプランの用意はない事はない。が、それは自分一人では断行する力もなく、自分の頭の中だけの計画に過ぎない。何処かでサラリーマン上級職の経営層を刷新しない限り、瓦解は目に見えていた。
 窓の外は、本当に燃えていた。
 燃え上がる朱の中に、橙や黄が混ざっており美しいのだが、火勢の強い山火事のようにも見える。専務室から見える山々は、常緑樹の緑がまるで見えなかった。
 ——火の車か。
 景色が社内を写しているかのようだった。絶望に近い諦めが、そんな自嘲を誘う。すぐにそれを忘れる程、真琴は山々に魅入られ始めた。とにかく会社がどうあれ、真琴がどうあれ、山は只そこにあり、全体が燃える様で只々素晴らしかったのだ。
 本当に——凄い。
 その圧倒的な朱に飲み込まれる一方で、不意に一緒に思い出すのは、やはり山小屋の箱庭である。
 先週はホント——
 思い出すと、何処かしら沈鬱な心中が和らぐのだが、そのコミカルな記憶に思わず真琴は失笑した。先週訪ねた山小屋は、殆ど予想外の見合いのような体だったのだ。訪問時は、やはり既に真っ暗で寒く、とても縁側で何とかと言う気にはなれず、従前の宣言通り
「上がるわよ」
 縁側下の靴脱石で脱靴し、居間に上がり込んだ。まではよかったのだが、待っていたのはぎこちない静けさだった。会話らしい会話が出来ず、出る音と言えば、たまにお茶を啜る音だけ。
 何もいらない、と言っていた手前、先生がいつも通り出してくれたお茶をゆっくり啜り続けたのだが、
 何よ——これ?
 静か過ぎるのだった。
 居間に上がって、縁側のガラス障子を閉めると、火鉢一つでも比較的暖かいものだった。が、普段と打って変わって耳を突くような静寂だ。その思わぬ静寂に動揺し、正直、
 間が——
 持てない。認めざるを得なかった。
 ガラス障子の向こうは真っ暗闇で、目のやり場がない。耳は普段の縁側とは比べ物にならない程敏感になっている。そして座卓のお茶を啜る二人の距離感は、畳半畳程度の直径しかない正円形の座卓を隔てた隣り合わせでしかない。手を伸ばせば簡単に
 ——届く。
 何か月か前に、先生に言及された迂闊のフレーズが色濃く思い起こされたが、後の祭りだった。せめてもの救いは、真琴は客人であり、庭に対面する上座に位置し、それに合わせて先生が目の前に座らず、左側のやや下座寄りに座り、更に二人の間に火鉢を置いた事だ。これならば向かい合わず、予期せぬ視線の交錯も起こりにくい。間に火鉢がある事は、先生に限って何か事に及ぶ事は考えにくかったが、火傷の危険があるそれは防波堤代わりにはなった。が、だからといって、それがいつもの程度の滞在時間を凌ぐようなアイテムにはならない。
 先生はこれまでのように、本を開く事はなかった。流石に客の目の前で本を開く訳にもいかない、と思ったのだろう。堪り兼ねたように座るその横の男が、
「真っ暗なだけって——言ったじゃないですか」
 ぼそぼそと、恨み節を吐いた。
「だから、ライトアップしたらって言ったじゃないの」
 お互い、言うに事欠いて皮肉を言い合ったものだったが、本当はもう少しまともな事を口に出来ると踏んでいた真琴である。始めから先生の会話は期待していなかった。普段はまるで冴えないこの男が、まともな事を言えるとは思ってはいない。それで良いと思っていた。自分がリード出来る、そう思っていた。要するに、土壇場に追い込まれたのは真琴の方だったのだ。真琴自身が予想外に何も出来ず、固まってしまったせいだ。
 結果的に二人に残された選択肢は
 予想外の——
 肉弾戦、と言う艶かしい状況となったのである。それは流石に
 ——まだ
 覚悟が出来ていない真琴だ。それは操の事でもあり、お家事情の事でもあった。女としても、高坂の長女としても、先生と本気で向き合うには、まだ確固たる覚悟が足りていない。まだどうしたいのか悩み、迷っている。そんな混惑の坩堝にいた真琴を目の前に、結局先生は肉弾戦も何も、胡座をかいたまま殆ど動かなかった。
 ——何なんだ。
 この座禅のような状況は。いっその事、足を組んで瞑想すればちょうど良いではないか。途中から開き直った真琴は、座卓の上に頬杖をつき、
「暖かいと、眠たくなっちゃうわね」
 今日は目を使い過ぎたし、などと言いながら目を閉じた。一応面目を保つための格好でもあり、先生の出方を伺うスタンドプレーでもあったそれで、主導権を先生に放り出した真琴は、結局その後、ある程度の滞在時間を心地良さそうな体を繕い、山小屋を後にする事が出来た、つもりである。これがもし、先生の自制が危ういものだったのなら、どうなっていたか分からない事は認めざるを得ない。もっとも先生は、不意を突いてがっついて来るような人間ではない事は分かってはいたのだが。片や、それに対して自分がやった事は、後から思い返すにまるで、
 誘った——みたい?
 つまらない強がりで、何やらふしだらさを露見させてしまったようだと気づき、小さく後悔したものだ。とどのつまり、真琴の目論見の甘さが露呈した格好である事は明らかだった。それはお互い、内心では気づいている。
 何か良い手は、
 ないものかしらね——。
 同じ空間を共有したいのは事実だ。だが、山小屋の居間の現状では間が持てない。これまでのように、縁側と座卓ぐらいの間合いで、同一方向を眺めるような体でなくては、口も開かず共有する事は難しい。つまりそれは、まだその程度の距離感が二人の間には厳然と存在する、と言う事を意味していたのだが。
 別に——
 何かされても。それこそキスぐらい
 ——良かったのに。
 などと世迷言を悶々と募らせていると、専務室のドアがノックされ、入室する者があった。隣室の秘書課の女史だ。
「専務宛に速達です」
「速達? 私に?」
 サカマテ就任以来、名指しで速達など受け取った事がない。少し構えて慎重に受け取り、とりあえず封書の送り主を確かめたところ
 山下——
 とあった。

 次の日。
 真琴は急遽、午後から半休を取った。出張扱いも考えたがプライベートな事であり、急の予定変更によるブーイングが水面下で聞こえて来そうなものだったが、休暇扱いにした。
"山仕事にて、何日か空けています"
 例の大地主である武智の顧問弁護士から届いた速達の全文である。暗号めいたそれは、一見して山小屋事で火急の用あり、と言っているようだった。社員に開封される恐れを考慮したのだろう。速達、普通の別を問わず、届くスピードは殆ど変わらない距離感である。武智には名刺を渡している。用があれば電話やメールで済む筈なのだが、わざわざ速達なのが気になった。文面の内容の事もある。それで念には念を入れて一度自宅へ戻り、流しのタクシーを拾って最寄りのデパートを経由後、別のタクシーにて武智邸へ向かった。
「これはまた、随分と——」
 タクシーに乗ったまま大きな正門を潜り、閉門するのを確かめて降車した後玄関先で少し待っていると、山下ではなく主人の武智自らが出向いて来た。
「その——こう言う事なのではないかと思いまして」
 黒のロングストレートのフルウィッグに、有名人仕様の大きなボストン型のサングラスをかけ、頭には女優帽の別称を持つワインレッドのガルボハットを被り、首元から脛までも同色の秋物ロングコートで覆っている。身体が動きを見せる度にコートの裾下から覗くのは、見事なボディーラインが浮き彫りになっているライトグレーのタイトニットのロングワンピースだ。これらは皆、デパートを経由した際、大至急で店員に適当に見繕わせた物であり、購入後その場で着替えた。つまりは変装である。ただ若い定員に見繕わせたためか、何だか形が今時のモデル風になってしまったのだ。辛うじて真琴の趣味に合うのは、やはりワインレッドのベルベットのショートブーツぐらいだった。
 もし尾行されているのであれば、尾行が入りにくい婦人服売場、それも若い年齢層をターゲットにしたブランドを扱う店に入ったのだから、ある程度は致し方ない。これでも店員が勧める物の中から、控え目の物を選んだぐらいだったが、化粧が負ける程のコーディネートになってしまったため、
「こんなチグハグな形じゃ店内を歩けないわ」
 などと駄々を装い、特上得意様特権を駆使して、バックヤードから一階に抜けると言う目眩しをかましておいた。で、化粧品売場内のパーソナルスタイリングコーナーで顔を見れる限界まで真っ白に塗りたぐり、スカーレットのシャインリップで決めてデパートを後にしたのである。
「ただ、こちらの邸宅に出入りするには、そぐわない身形になってしまいまして——」
 恐らくこんな派手な形の人間など、武智邸には出入りしないだろう。やり過ぎ感が強かった。
「いや恐れ入りました。ま、立ち話もなんでございます。どうぞお上がりください」
 真琴は軽く会釈をし、また石庭の縁側へ案内される。
「そもそも変装とは、自分を悟られないためにするもの。そのぐらいでなくては。ただ——」
 その道すがら、武智の声が俄かに曇る。
「何をお召しになられても、あなた様はよく似合い過ぎますな」
「そのような事は」
「いえいえ本当に。名乗られなければ私などは全く気づきませんでした。高名な俳優のような。只ならぬオーラで思わず腰を抜かしそうに——」
「また、お戯れを」
「いえ本当に。はっはっは」
 例によって、やたら長い縁側が見えて来ると、先月の国賊演説会の折に世話になった辺りに、同じあつらえで座布団が敷かれている。お互いに座布団に座ると茶が運ばれて来た。
「夕方前のお忙しい時に押しかけまして、申し訳ございません」
 再び二人になったタイミングで、真琴がもう一度謝意を述べた。時計は既に午後三時を回っている。帽子を脱いでサングラスを外すと、先月に訪問した時とは明らかに低くなった西日の柔らかさに気づいた。庭園を赤く染めている落葉樹に差し込むそれは、木々の根元に柔らかい晩秋の木漏れ日を落としている。広大な庭の地面は全面玉砂利が敷き詰められており、美しい見た目は一方で防犯効果も高く、相変わらず隙がなかった。
「いえ、不躾な文でお呼びしましたのは手前共にて、そのようにおっしゃられると困ります」
「いえ」
 武智が一服したタイミングを見て、真琴も一口つける。また、本家本元の陳皮茶だった。
 やはり——。
 それが用件を確信させる。武智は何も言わず好々爺然として茶を啜っているが、間が長引く程に事の深刻さを痛感させられ、沈黙の中で真琴は喘いだ。
「その——大変申し上げにくいのですが」
 ついに武智が思い口を開くと、
「遠慮なさらず、おっしゃって頂けますか?」
 ここぞとばかりに真琴が食いつく。
 元々姿勢の良い真琴だが、真正面を向いたまま、気持ち更に背筋を伸ばした。
「実は、これなのです」
 それを受けた武智が、何処か不甲斐なさげに横から大封筒を取り出し、二人の間に置く。表面の下部に社会福祉法人の銘が打たれたそれは、武智が理事長を勤めている法人の物なのだろう。封はされていない。
「普通郵便で届いた物です。これが届く少し前から、警察が山小屋の主の近辺を嗅ぎ回るようになりました」
「え?」
 真琴の表情が目に見えて強ばった。
「あの演説会が終わって、一週間後ぐらいからです」
 心臓が飛び跳ねた。声にならない代わりに、瞬間で小さく息を吸い込む呼吸音が自分の耳を突く。
「ここ一週間は、四六時中つけ回されているようです」
「そんな——」
 訳が、と言いかけて真琴は止めた。
 こう言う事態を恐れていたにも関わらず、先生はそんな素振りを全く見せなかった。それで愚かにも、安心する向きがあった訳だが、
「ご覧、頂けますか?」
「——はい」
 封筒から取り出したそれは、A四大の白い用紙二枚。
 一枚は「不破先生」なる職員が、まだ勤めているのか、と言うもの。もう一枚は、やはり「不破先生」なる職員には本当に世話になった、と言う内容のものだ。いずれも黒インクの明朝体で印刷されており、フォントサイズは一二ポイント前後のもので、差出人名はない。
「不破、と言うのは、山小屋の主の苗字です」
「そう——ですか」
 いきなり思わぬところで、苗字を突きつけられてしまい、真琴は密かに動揺した。
 こんな形で——
 知りたくはなかった。
 殆ど自分の都合で伏せていたお互いの素性である。それを、本人のいない所で掴もうとしている事の罪深さに、真琴はまず打ちひしがれた。が、武智がわざわざ、それだけのために真琴を呼び出す筈もない。真琴の動揺は、既にそれだけでそれなりに大きかったものだったが、当然と言えば当然のように、武智は更に続けた。
「不破の仕事はご承知かとは思いますが、夜間における有事対応職員でして——」
「はい、存じております」
 それを聞いた真琴は、思わず目を瞑り眉間にしわを寄せた。手紙の内容は、明らかに専門性の高い介護職員の業務に対する謝礼が述べられており、先生の業務とはまるで違う。そしてその一方で、わざわざ人間違いではない事を強調するかのように、先生の特徴を丹念に書いている。
「その手紙にあるような、過去の入居者家族から、礼状を認められるような仕事ではありません」
 その一言が止めだった。
 当たり障りのない筆運びで油断させるその文面は、宛名職員に対する一方的で作為的な虚構の当てつけであり、それをもって施設内を疑心暗鬼に陥らせようとする怪文書、つまりは脅迫文書だった。
 打ちひしがれる一方で、それと同時に瞬間で何かが込み上げて来るのを、真琴はギリギリで歯を食いしばって止める。自分に向けられた悪意なら慣れたもので意に介さない真琴だが、
 何で黙ってんのよ——
 先生の身を案ずるが故堪え切れず、少し喉が鳴ってしまった。
 察した武智が、
「この様な形でお伝えするのは、私としましても不本意なのですが」
 重苦しそうに漏らす。
「我が家の山下に尋ねましたが、中々巧妙な手口のようです」
「そのよう、ですね」
 真琴は怒りの余り、震える手をどうにか抑えつけながら、二枚の素気ない紙を封筒に納め、静かに縁側に置いた。握り潰さなかったのは、それが証拠資料と成り得るからだ。そうでなければ感情に任せて、バリバリに破いていただろう。
 こうした内容による信書での「揺さぶり」は、生命身体に対する危害目的が明らかであれば、それをもって脅迫罪、侮辱する内容であれば侮辱罪となり得る。それが法人や組織に送られたのであれば、それをもって威力業務妨害や偽計業務妨害を論ずる事も出来よう。が、先の内容では、脅しとも侮辱とも言い難い文言であり、これをもって直ちに脅迫、侮辱と捉える事は難しく、よって直ちに業務妨害を論ずる事も難しい。内容は褒めちぎるものであって表面的に悪意がないし、その上更に「勘違いだった」と言い逃れされてしまえばそれまでである。
 だが、こうした内容の文面は、わざわざ送りつける事自体が「不安」を煽るとも「つき纏い」と捉える事も出来る訳であり、これらに対する犯罪を取り締まる根拠は、各都道府県が制定する迷惑防止条例や、軽犯罪法、ストーカー規制法等が挙げられる。が、やはりそれらにしても、一見して悪意が見えない信書では、今一つ押しが弱く、ストーカー規制法以外は厳しそうである。最後に残ったストーカー規制法とて、高千穂と先生が真琴を巡って恋愛沙汰で揉めていると捉えて、それでどうにか首の皮一枚規制にかかるかどうか、それすら相当に無理があるレベルである。つまり、その手紙だけではどうしようにもなく、相手方を捕まえるネタは、その他の証拠が必須と言う事だった。
 状況的には高千穂が絡んでいる事は限りなく黒いが、高千穂を引っ張り出すには、まずこの柔な怪文書の送り主を特定しない事にはどうしようにもない。が、それは素人には、どう考えてもハードルが高い。警察に訴えたとしても、高千穂が操っている状況からして、受けつけるだけの体になる事は言うに及ばない。様々な法や手続きを上手くすり抜ける手口、構図は、明らかに実情に詳しい者の介在を意味していた。
「山下の言うところでは、警察に相談しても無駄である、と」
「そうでしょうね」
 真琴は険しい表情のまま、小さく答えるのがやっとだった。
「これだけなら、まだ良かったのですが——」
「え?」
 他にも何か、と言う言葉は、もう声にならない。
「警察がつけ回す前には、柄の悪い者達の出入りや、銃声らしきものも聞こえた、と言う噂もありまして」
 真琴はついに、片手を目頭に当て口を歪めてしまった。
 最悪だわ——。
 恐れていた事が現実になってしまっている。問題を先延ばしにし続け、その場限りを面白おかしく過ごして来たツケが、ここへ至り集約されてしまった格好だ。それは先月からの高千穂絡みもそうであるし、突き詰めれば、何十年来の母親との確執もそうだ。その真琴起因のいざこざに、名もない善良な庶民たる先生を、物の見事に巻き込んでしまったのだ。
 一刻も早く謝罪を述べたいのだが、目頭が濡れてしまっていて手が離せない。自分の体裁を気にする事など許される状況ではない事は分かっていたが、こうでもしてないと、自分の浅はかさを憎む余り叫びそうだった。
 やむなく、目頭を押さえたまま
「申し訳、ありません」
 無礼を承知で差し当たりの謝罪を述べる。それでも、情けない程に声が震えてしまった。
「ああ! そこまで深刻に捉えてはいけません」
 真琴のぐずぐずを聞き取った武智の方が、より一層動揺したようだ。
「私共は謝罪を求めている訳ではありません。少なくとも不破は、そんな事露程にも考えちゃおりません」
「え?」
「年寄りと言うのは心配性でいけない事は承知してはいるのですが——」
 武智の声色が急に明るくなり、責める向きをとっぱらおうとしている事が痛い程分かった。叱責する相手が女で、泣き崩れてしまったら男は弱いだろう。その構図を真琴は忌み嫌っていたにも関わらず、物の見事にはまってしまっていた事に気づく。
「いえ本当に、申し訳ございません」
 真琴は形振り構わず、ぐずぐずの顔のまま武智に土下座をした。それを受けた武智が更に狼狽する。
「速達でご連絡してまでお呼びした本当の理由は、不破の事と言うより、実はあなた様が心配になったからです」
「私が——ですか?」
 真琴は、そのぐずぐずの顔のまま、表を上げて武智を見る。
「ええ。不破はあれで、中々の男ですから。実はこうしたいざこざに関しては、全く心配していませんよ」
 武智は、少し顔を逸らした。
「いやぁ、あなた様は本当に。どんな形も絵になりますな。——そのお顔は、爺には毒です」

 同日午後五時過ぎ。
 真琴は武智に連れられて、先生が勤める施設の理事長室を訪ねていた。
 折角、この山奥まで変装までして出直して来たのだから、
「ついでに施設を見て行かれては如何ですか?」
 と、殆ど無理矢理気味に誘われたためだった。先生の事で引け目があり、同時に勤め先も気になった真琴は断れなかった。が、今更ながらに、施設見学にはそぐわない派手な身形で来てしまった事を小さく後悔する。
「ご愛嬌ですよ」
 真琴の勘違いでなければ、今晩は先生が宿直に就く日である。恐らく今頃は、山小屋から施設へ向けて歩いている事だろう。
「弊施設がお世話になっている慈善団体の方、と言う体で行きましょう」
 慈善団体の会員が視察に来た、と言う設定である。
「慈善団体の方々の中にも、身形の良い方は多いですし。もっともあなた様程の方は見た事がありませんが」
 細かくは、サングラスは先天性の羞明と言う事にして、マスクは感冒対策。極めつけは、
「聾唖者と言う事で」
 つまり、耳が不自由になり、それにより声を失った、と言う事である。社会福祉法人の理事長とは思えない無茶振りをするものだが、武智は、
「あくまで設定です」
 と言い切った。
 一応施設の視察の手前もあり、法人本部も兼ねたその理事長室で、法人や施設の概要の説明を受けたものだが、障害者を侮蔑するどころか、介護施設に母子施設、障害者施設等数々の福祉施設を運営しており、どれもこれも中々行き届いたもので驚いた。真琴は実際に慈善団体の会員であり、こう言った視察にも出向く事があるのでその内情はよく知っている。のだが、武智の法人は施設の充実を図るあまり、殆ど赤字になっていた。積極的な寄付を募る事もなく、他の事業で釣り合いを取っているらしかったが、その事業と言うのが武智家の個人的な投資と言うから中々の強者である。そんな調子で施設を整えていれば、職員の待遇も中々であり、給与も業界内の水準より良いようだった。
 が、一方で、職員の教育にはそれなりに厳しい、と言う。
「自己を律する事の出来ない者が、他者を思い遣る事など出来ませんから」
 真琴は、右手の人差し指を右こめかみ辺りに一度当てた後、左右それぞれの手を上向きにし、人差し指と親指を胸の前辺りで二回つまむ仕種を見せた。手話で意味するところの「同感」である。真琴は手話が使えた。実は施設に来てからと言うものは、手話を使える武智も手話を使っている。全ては設定だ。これ程の変装をしていれば、先生にも気づかれないだろうから、ついでに仕事の時の顔を
「見て行かれては?」
 と言う、つまるところ全ては、仕事の時の先生を見るためのお忍び視察であった。
 何でこんな事に、
 ——なっちゃったのかしら。
 先生が有事や土壇場に強い事は、真琴もこれまでに何度か目の当たりにして来ており、それは認めるところではある。が、拳銃沙汰は流石に捨て置けない。高千穂絡みの裏の組織が動いている事は推測出来たが、武智によると警察が前面に出始めてからは、入れ替わるように大人しくなったらしい。
「不破の仕業でしょう」
 武智は呆気らかんと言ったものだ。
 それはつまり、裏社会の襲撃を黙らせた、と言う事のようだが、それならそうで一体、
 どう言うヤツなのよあいつは。
 いくら腹が据わっているとは言え、贔屓目に見てもそれは普通ではない。が、花火大会の時のトラブルでも、真琴はそれに接している。確かに先生ならやり兼ねない、と思いもした。
 武智は、不思議そうな顔をする真琴に差し当たり、
「私なら、あれは敵に回したくはありません」
 とだけ言った。
 素性を語っては二人に水を差す、として、先生の事に関しては
「あれはあれで、虎ですから」
 と、一言だけ添える。
 真琴はついその瞬間で、先生と出会った頃「男は虎狼の輩だ」などと拙い説諭をされた事を思い出し、危うく噴き出しそうになった。
「私などは到底敵いません」
 そこまでの事情は流石に知らないであろう武智が、先生のどの部分を捉えてそんな事を言ったのか。真琴は詳しく聞かずとも、何となく分かった。
 基本的なスタンスとしては、観念的ではあるが争い事を好まず、平和主義者である。が、それは決して無力と言う訳ではない。逆に腹が据わってしまうと、その柔そうな外見から想像出来ない大胆不敵さで、状況を覆してしまう。そんな、世間を穿つかのような力が先生に認められる事は、これまでの「火遊び」の要所要所が良く物語っていた。武智の意味合いも、そうした部分だったようで、だからこそ武智は今回のいざこざも、先生を過度に心配せず、先生自身も特に誰にも助けを求めていないと言う。
 それよりも、この状況の外で、状況の悪化を知らずに手を施さないでいる真琴の方が心配だったのは、どうやら本当らしかった。
「不破の周りでさえこの状況です。あなた様の方こそ裏で何をされているか——」
 最悪を考慮し、通信手段を安易に使わず、必要最低限の結果があの速達、との事だった。
 真琴の身辺は、特に目立った動きを感じるような事は、今のところない。しかしそれは、あからさまな尾行がない、と言うだけであり、武智が言う通り、水面下では国権を傘に何をされたものか分かったものではなかった。
 一方で、先生はと言うと、外圧にへこたれる様子は見られないようではあったが、その身辺は一見して高千穂の傍若無人がまかり通っており、どう考えてもペースは完全に高千穂だ。先生がそれを真琴に知らせる事は、素性を伏せている間柄故考えられず、それで余計を承知で、二人を知る武智がこっそり動いた、と言う事らしかった。
 それを受けて真琴は、
「探ってみます」
 とだけ言った。
「それが良いでしょう。分からないなりにも、牽制ぐらいはしておくべきです」
 取り返しがつかなくなる前に、と武智はにこやかに頷く。口にしている内容と表情がこうも一致しないのは、
 何処かしら——
 先生に似ている。
 真琴は密かに思った。
 返す返すも自分の迂闊さを恥ずかしく思う真琴は、それを飲み込むために出されたお茶を啜る。
「お恥ずかしい限りですが、そろそろ中をご案内します」
 武智は腰を上げながら、
「視察の手前、不破だけを見る訳には参りませんからな」
 悪戯っぽく笑んで、胸の前辺りで右手の人差し指と親指を二回つまんだ。それを受けた真琴も、少しうなだれ恥ずかしそうな素振りを見せながらも、先程と同じように両手でつまんで答えた。
 施設の中は、何処もかしこも掃除が行き届いていた。築三〇年と言うからそれなりに使い込まれていて決して新しくはないのだが、手入れが行き届いている。人手を惜しまず、本当に赤字覚悟で経営している様子を垣間見る事が出来た。驚いたのは、職員の殆どが非正規職員ではない事だった。ありがちな外注や派遣の形態を殆ど採用せず、運営上の管理は各職員が責任を持つ。手に負えない事物だけ他の人手を頼む、と言うスタンスである。人任せにしない心がけが、馴れ合い凭れ合いを防ぐ。
 更に驚いたのは、施設生活の中心となって来る食事と入浴と日課時限だ。視察時はちょうど夕食時で、介護施設で提供されるそれを見る事が出来たが、食器は一見してプラスチックのありがちなお膳ではない。一般家庭で使う極ありふれた陶器だった。
「プラスチックの食器は使いません」
 真琴の驚きを察した武智が、先回りで説明する。施設らしさを払拭したいのだそうだ。確かに一般家庭では、それは幼児向けであり、大抵使わないものだ。介護施設でそれを使う訳は、その素材故である。軽くて丈夫なそれは、手元がおぼつかない入居者に寄り添った結果、としたものなのだが。
 もっと驚いたのは、提供されている食事の内容だった。盛りつけられているそれは、洒落た西洋料理仕立てではないか。
「これは——」
 一体どうした志向か。一見すると、これで酒でもあれば、ちょっとしたコース料理に成り得る。 
「世の中には、物好きがいるものでして」
 何でも、長年仏国で腕を奮ったシェフ上がりの厨房職員がいるらしい。グループ内の管理栄養士と共に、当施設に限らずグループ内の他施設の献立も
「牛耳られてまして」
 食費のやり繰りが大変なのだとか。
 料理人の業界に比べると、労働環境が断然良く、しかも喜んで貰えるからやり甲斐がある、と言うそのシェフが在籍していた店と言うのが、
「えーと、店の名前が、小洒落過ぎとりまして、爺には何回訊いても覚えられんで——」
 武智の失念の体で本人の口から語られた店を耳にした真琴は絶句した。世界的なグルメガイドに常連で掲載されている店である。そこでの経歴があれば、日本でも大手を振って一流店で再就職出来るレベルのビストロだったのだ。
「何故——」
 真琴が思わず、出そうになった後の句を飲み込むと、
「人に寄り添う仕事がしたい、のだそうで」
 武智が、また察して補足した。
 仕事一筋で周りを顧みず、気がついたら、周りに当たり散らしながら人生の中間点を折り返していた、と言う生粋の職人肌だったらしい。
「そこを上手くたらし込みましてな」
 武智は悪戯っぽく笑んだ。
 そうだろうとも。そうでなくては、とても引き抜けるような人材ではない筈だ。日本の仏料理界が知ったら驚く。そんな逸材である。
 急に決まった視察であり、決して仕込まれたものではない事は言うまでもない。介護食であり、フルコースとまでは行かないが、それは明らかに一般家庭のレベルを超えていた。
「食は生活の源ですから」
 一見して歯応えが有りそうな肉の塊が見えるのだが、調理法を駆使してその実相当に柔らかいらしい。
「魚の日は、骨まで食べて頂いております」
 骨を抜かずに提供するなど、真琴が巡った施設では、一つも聞いた事がなかった。少し覗き見ると、圧力鍋を使っている。厨房内の設備も充実しており、何より綺麗だった。
 驚いたのも束の間、次に案内された風呂は、
「温泉です」
 武智はあっさり言った。
 そう言えば、先生の山小屋もそうであり、源泉は同じようだった。施設の裏山はおろか、この近辺の山は全て武智家の私有林らしい。温泉は自噴しているので只それを引いた、と言う事なのだが。流石に介護施設と言う事で、入浴をサポートする機材こそ散見されるが、明白に一般的な介護施設の浴室とは一線を画しており、驚く程すっきりしている。それどころか、温泉宿のような、綺麗で整ったあつらえではないか。
「湯治場のような感覚です」
 入所時は車椅子を使っていた人も、歩行器で歩けるようになったり、歩行器だった人が杖になったりして、介護度が下がるケースが多いと言う。因みにいつでも入浴して良いらしい。まさに温泉宿だ。
「生きようとする気概を、如何に導き出すか、と言う事でして」
 食と入浴で身体を養い、普段の生活で生き甲斐を見出す事が出来れば介護レベルも下がる、と言う論調だが、言う程生易しい事ではない。
「特養にしろ老健にしろ、畑じゃございませんからな」
 特養は「特別養護老人ホーム」、老健は「介護老人保健施設」と呼ばれ、決定的な二つの施設の違いは、終の棲家かどうか、と言う事である。特養は終身利用を前提としており利用者の介護度も高い。一方で老健は、リハビリを行いながら退所・復帰を前提とした一時的入所のための施設である。
 それにしても、
 中々思い切って——
 やったものだ。
 この施設の取組は、真琴の見る限り相当野心的だった。事実として、噂を聞きつけた同業者の見学や取材が後を絶たないと言う。
 それは——
 そうだろう。真琴もここまでやる施設は、見るも聞くも初めてだった。大抵は、徹底管理型で健康状態に過干渉となり、栄養と水分を気にする余り無理矢理食べさせたり飲ませたりして、畑化するものだ。一律平等をモットーを掲げる施設は多いが、それを良い事に過剰な管理に突っ走りがちである。それは日課時限にも顕著に表れるもので、一般的に夕食後は就寝を待つのみと言う施設が多いものだ。が、視察しているうちに食後を迎えても、施設内は何処となく高揚感のようなものが漂っていた。
 何か、賑やかな気が——
 するのも当たり前で、入所者が寄り合いスペースでテレビを見ている。それは、
 まあ——
 たまに見かける光景であり、驚くような事ではない。が、それ以外にも
 マ、マージャン!? 花札!?
 等々、様々なボードゲームに、テレビゲームまで楽しんでいる入居者までいるではないか。
「えっ? ええっ!?
 真琴の驚きようも無理はない。
 食後は自室で就寝に入るのが常識なのだ。真琴はつい、声を出して驚いてしまった。聾唖者の設定だ。それにしては躊躇なく叫声を出してしまい、うっかりの体で手で口を塞ぐ。
「まぁ、学生時代の徹マンと同じ事で——あ」
「徹夜マージャン、ですよね?」
「つい、俗な事を申しまして」
「いえ、それは——」
 良いのだが、どう考えてもわざと業界の常識の逆を行こうとしているように見えてならない。
「認知機能は劇的に改善します」
 武智はまた、事もなげに言った。
 つまるところ、多くのスタンダードな施設は、入所者に配慮するようでいて、実は
「過干渉なのです」
 手を尽くすところを間違えている。
 大多数の施設は、生活の世話を主眼に運営しているのに対し、
「私のグループ法人では、何よりもまず、尊厳の保持を掲げています」
 人としての姿に寄り添う、とは確かに聞こえは良いが、それはやはり中々難しいのだ。賛否の両論が派手に噴出しそうなその方針も、
「そもそもが、施設と言う体裁自体が不満でしてな」
 社福故、その肩書きは運営上どうしようにもないのだが、目指すところは
「家です」
 と言う事らしかった。
 確かに建物内は、外見こそ鉄筋コンクリートのようだが、内部の色味や質感は日本家屋的な木造感が強い。家なのだから日課時限もない。ルーティン化させないから認知機能は刺激され続ける。
「職員は大変ですから、賛否も多いですが——」
 まあ、私の法人ですからな。と、その好々爺然とした風貌からは、余りにも似つかわしくない不敵な言葉が、その口をついたものだった。
「思いついたらやってみて、良いものを残して、只それだけです」
 確かにそうなのだが、当たり前を当たり前に突き進む事の難しさは、何も福祉業界に限った事ではない。今、真琴が、七転八倒している仕事向きの事もまさにそうだ。要するところこの施設は、武智の器の大きさを映し出しているのだった。が、
「償いのようなものなのです」
 一族がこの地で、長き年月に渡り君臨して来たと言う、その極僅かばかりの還元なのだ、と武智は言う。
「恥晒しのようなものなのですよ」
 いつまでもこの地に居座り、寄生し続け、搾取し続ける井の中の蛙。しかしてそれを捨て去る事が出来ない一族の伝統と言う名の束縛は、少なからず真琴にも覚えのある無念だった。
「お察し、致します」
 本当に、意外な所に人物はいるものだ。真琴は改めて、この僻地での出会いに感謝する。そんな真琴の迷いを察したかのように、武智はまた胸襟を少し開いた。
「思うように生きれば良いのです。自分が納得出来れば、それで良い」
 何をやっても、良くも悪くも注目を集める御大尽。それは武智にも真琴にも共通する捨て去り難い名家の殻である。その一方で武智は、今でこそそれなりの人格を帯びているが、
「若い頃と言うのは、良くも悪くも色々あるもので——」
 具体的にはとても口に出来るものではない、と憚ってみせたものだ。
「そう、なのですか?」
「ええ。お恥ずかしながら」
 言いながら武智は、照れを隠すかのように、年齢の割に豊富な髪を蓄えるその後ろ頭を何度か軽く叩いて見せた。その叩く手が、刀を模すように後ろ頭に突き立てられる。それなりに波乱はあった、と言う事らしい。
「ただ私は、後悔だけはしたくなかった。本当にそれだけでして」
 ははは、と乾いた笑いを浮かべると、
「為るようにしか為らないものです。焦りは禁物ですよ」
 気がつくと、何だか励まされていたようだった。
「——はい」
 何の因果が思いがけぬ果実をもたらすものか。本当に分からないものだ、と真琴は、この偶然の産物にまた感謝する。
 ——あ。
 そう思った時、真琴は小さく息を飲んだ。
 もしかすると——
 今日の事は全て、武智に仕組まれていたのではないか。何事か波乱含みの展開を垣間見、真琴を心配する向きを語っていた武智である。この状況は、その真琴に、道筋の一端を教示しようとした、と言う事は出来はしないか。
「どうかされましたか?」
 思いを巡らす真琴の様子を察したような武智が、また声をかけた。
「いえ」
 人は為るようにしか為らない、とは言っていたものの、その達観はこの施設からは感じられないのだ。その野心的な雰囲気は、逆に百折不撓めいた突貫力すら覚える。
「為す者は常に成り、行く者は常に至る——」
 武智は突然、また一つ格言を口にした。
「そう、でしたね」
 実はその原文が、先程案内された理事長室に掲げられていたりしたものだ。「為者常成行者常至」のそれは、晏子が語ったとされる名言である。
「相手によって、言葉は使い分けるものです」
 それを思い出した真琴は、密かに消沈した。何と言う鈍さだ。
「あなたはその身故に、ご自身を追い込み過ぎているように見えるものですから」
 やはり、そこに繋がってしまうようだ、と打ちひしがれた。それは演説会の時にも、説諭された事ではなかったか。
「本当に至らぬ事で、面目次第もございません」
 この施設を見ていれば、その折に諭された「虚から実を引く」の格言を地で行っている事が良く理解出来る。その何と言う説得力か。今更ながらにその言の確かさに舌を巻いた。
 良い人を——
 親代わりに持っているものだ。
 先生の生い立ちを詳しく知らない真琴だったが、この時ばかりは、少し先生を羨ましく感じたものだった。
「職員達は、大変かも知れません」
 私がいつも無茶を言うものですから、と矛先を職員に向けると、少し意地悪そうに笑って見せた。悪気はない、と言うが、その武智の無念を内包した施設運営は、入居者に向けられた数々の試行、挑戦として世に還元され、果たして同じように職員にも向けられていた。常の施設より手厚い待遇の職員数は、一般の施設よりも充実しているようだった。そもそもが低賃金の不規則労働で、ストレスの溜まりやすい業界の事だ。欠員まみれの施設が多い中、人材が多いと言うのは、それだけで強味である。シフトのローテーションにゆとりが生まれ、その分をOJTに費やす事が出来る。スキルの醸成は勿論だが、それよりも人間力を磨く事に重点を置き、遠回りでも人としての生き様にプラスになるような学びの機会を経験させ続けているらしかった。職員の待遇が良ければ、より高いレベルの仕事を要求しても、
「文句は言わせませんよ」
 と、武智は嘯く。
 入居者に寄り添う、と言う事は、それだけ職員が負担を負う、と言う事に繋がるのだ。例えば、先程少し出た歩行サポートに関しては、極力機材を使わない代わりに、職員は転倒に備えた身のこなしを学ばなくてはならない。
「それを——」
 整形外科医、理学療法士、作業療法士、柔道整復師、鍼灸あんまマッサージ師等々のグループ内のメディカル、コメディカルから身体の構造から学ばせているらしい。そもそもが社会福祉法人内にこれらの医療従事者が存在する事自体が異例なのだが。常識的には、精々嘱託医が一人と、常勤の看護師がいるぐらいである。そこは老健も抱える手前、医療法人も病院も経営している武智のグループが成せる技だ。病院を退院した高齢者が、リハビリのために入所する老健の経営母体は、その病院を経営する医療法人である事が多い。その理由として常勤医が必要である事が挙げられる。社福で常勤医を雇うケースは、人件費的観点からも余り聞かないものだ。
 その職員達は、皆
「私服なんですね」
 だった。白衣のイメージが強い看護師でさえ、私服を着ているようだ。大抵は、法人が指定するユニホームで揃えられたものだが、
「それでは如何にも——」
 施設らしい、と、やはりそこもブレてはいなかった。着衣はずばり、職員の個性と良識任せらしかった。
「夏など、アロハシャツにハーフパンツの者もいますよ」
 その代わり、仕事に対する姿勢にはうるさいですが、と笑う。今は厳冬期を控え、流石にそこまで開放的な服装の者はいなかったが。
 が、その職員達に注目していると、シェアハウスのような感覚の介護施設内において、
「お子さんが——」
 ちらほら行き交っているではないか。面会家族にしては、よそよそしさが全く感じられない。まさか近所の子なのか。
「ああ、母子施設の子ですよ」
 建物は、一応各別に建てられているのだが、健康状態に問題がなければ出入りを制限していないらしかった。
「分け隔てるのは、嫌いなものですから」
 初めはゲーム機目当てだが、次第に打ち解けると、ゲームに限らず様々な交流を持つようになると言う。それは高齢者には刺激と活力を与え、子供達には敬老精神の醸成に結びつく。
「母子施設には、学校の友達も遊び来ますし、入居している子に連れられて介護施設を訪ねる子もいますよ」
「やっぱりですか」
 真琴の懸念は、やはり見透かされていた。遠慮の向きに乏しい年端も行かない外部の子供との接触は、高齢者にとっては脅威にも成り得る。そこで何か事が起れば、親族が黙ってはいないところだが、
「まあ、そこは職員もおりますし」
 半分児童館化しており、理解する向きが多数だと言う事だった。事実、介護施設に児童館が併設されている事例は、全国でもそれなりに存在する。
 色々と、独自色豊かな介護施設で、文字通り目から鱗のような状態のまま、引き続きそのまま隣棟に案内された。
「母子施設も、作りはそう変わりませんが——」
 と、案内された先は、確かに使い込まれてはいるが、やはり何処か整っており、妙に静まり返っている。
「まぁ母親達が、まだ仕事から戻ってませんから」
 にしては、入所者には子供もいる筈なのだが、子供の姿が一人も見当たらない。
「お子さん方は?」
 小学生なら、学校から下校している時刻の筈だ。それこそ、介護施設側に遊びに行っているのか。
「宿題さえやれば自由にさせておるのですが——」
 と説明されると言う事は、一人残らず宿題が終わって、綺麗さっぱり誰もいない、と言う事ではないようだ。
「——仕方のないヤツらじゃ」
「はあ」
 武智は小言を漏らしながらも、そのまま法人本部や付属施設など、全ての施設の入口を兼ねる正面玄関まで戻った。三方向に廊下が展開しており、正面を少し中に入ると、小一時間前に案内されていた理事長室がある。左右にはそれなりの広さ玄関ロビーを挟んで、一方には職員事務室があった。片やもう一方は、受付めいた小部屋がある。のだが、何やらその内部は見た目の大きさの割に人の気配のようなものに満ちており、きっちり閉められた扉や窓の内側から騒めきが聴こえて来るではないか。先刻理事長室に案内された時には、その存在すら気づかなかったのだが。
 武智がノックもせず、仏頂面で静かに片開き扉を開けると、
「母子施設の子供達の大半です」
 溜息を吐いた。
 中を見ると、小学生の低学年から高学年ぐらいまでの十数人が、六畳一間の狭い和室に入り浸り、銘々が思い思い様々なおもちゃで遊んでいる。
「こりゃあ! 宿題の時間じゃろうが!」
「やべ! 理事長先生じゃ!」
 武智が怒鳴るのが早いか、子供達が逃げ出すのが早いか。蜘蛛の子を散らすよう室内から飛び出だして来た。かと思うと、皆慌てて母子施設へ走り去って行く。
「子供達には、ある程度の社会性を身につけさせるためにも、日課時限を守らせております。元教員もおりますので、夕方は宿題の面倒を見させているのですが——」
 二日に一度は、いつもこの有り様なのだ、と言う事だった。
 ——二日に一度?
 真琴がそこに引っかかっていると、部屋の真ん中に、先程はその姿が確認出来なかった人影が現れている。
「不破先生、あんたも何とか言いんさい」
 呼ばれるなり、のそのそ部屋から出て来たのは、紛れもない先生その人ではないか。
 子供しか——
 いなかった筈だったが。どうやら子供に纏わりつかれ、その姿が埋もれていたようだった。
「いやぁ面目ありません」
 然もうだつが上がらない調子で、のんびり頭を掻きむしりながら、何やら肩や首の凝りをほぐす仕種で真琴の姿を見る。
「あ——」
 先生は、一瞬驚いた顔を見せたが、
「ご来客でしたか。——これは失礼しました」
 愛嬌を含ませ慌てて頭を下げた。
 その如何にも疎漏な有様は、倫理観が高く、姿勢の良い職員達の中において、何処か隙だらけで異質である。
「あぁ、視察でいらっしゃった慈善団体の方で——」
 武智が手話で、それを先生に伝えるたと、先生は真琴に向かって、肩の高さで両掌を見せた。
 ——ん?
 なんでいきなり降参か? などと思ったのも束の間、先生は続いてそれぞれの掌を交差させるように宙で弧を描き、その後で人差し指を立てた両手を、やはり肩の高さで向かい合わせて第二関節を折り曲げて見せた。
 あっ!
 真琴は危うく声を上げかけたが、どうにかそれを飲み込み、武智の設定をキープする。先生は驚く真琴を差し置き、最後に会釈した。
 ——こんばんは。
 何処かしら緩慢な動きの手話は、いつもの先生の、気の抜けたような声が聞こえて来そうだ。
「弊施設の宿直専門職員でして。彼も手話を使えます」
 武智は、驚いて固まりかけた真琴をほぐすように間を取り持ってみせた。目を瞬いた真琴は、我に返ると慌てて会釈を返す。
「以上が弊施設の概要になります」
 武智の手話に、真琴が重ねて会釈をする前で、武智がそそくさと携帯を取り出した。何やら一人芝いなのか本当の連絡なのか、真偽のつかない通話をし始める。が、
「申し訳ありません——」
 急用が入った旨で、先生に真琴のタクシー手配を指示するなり、さっさと足早にその場を立ち去ってしまった。呆然とそれを見送る真琴に、先生がふらふらと真琴の目線に片手を泳がせて来る。
「お見苦しいところをお見せしまして」
 旨で、苦笑を浮かべつつも謝罪すると、玄関ロビーにある応接ソファーを勧められた。緩慢な動きながら、確かな手話ではある。真琴はまた会釈して、勧められたとおり応接ソファーに座った。
「一台迎車をお願いしたいんですが——」
 早速宿直室内の電話で、先生がタクシーの手配をしていると、早速先程の子供が一人、抜き足差し足で宿直室に戻って来るではないか。
 ——あら?
 斥候の子が、鬼が引っ込んだ事を確かめると、またぞろ芋づる式に入室して行く。電話が終わる頃には、結局元の木阿弥になってしまった。
「お前らまた!」
 先生が叱りつけるも、多勢に無勢で全く言う事を聞かない。
「裁判所饅頭まだ食っとらんけー」
 などと、部屋の中に入るなり、
 裁判所饅頭?
 聞き慣れない和菓子を囲んでいるようだ。それにしてもまさか、その饅頭だけが目当てではないだろう、と気になった真琴が、子供達の邪魔をしないよう、それこそ抜き足差し足で宿直室に近づいてみたところ、受付カウンター越しに見えた室内にはおもちゃが散乱していた。ぬいぐるみや人形などの見る物、車や動物など電池やゼンマイで動く物、ままごとなどのごっこ物、ブロックなどの組み立て物、盤やパズル、カードなどのゲーム物、極めつけは宿直室のテレビでテレビゲームをしている子もいるようである。
「あーもう、落ち着かねーなー」
 などと愚痴りながら、先生は真琴の姿に気づき
「一〇分程度で来ますから」
 と手話で言った。
 真琴は胸の前で左掌を上に向け、右手を手刀のように左掌に垂直に当てた後、拝むように右手を顔の前に引きつけた。
 ありがとう。
 である。
 先生は、同じく顔の前で右手刀を二回振って見せる。
 どういたしまして。
 先生は、子供達の喧騒の中で、宿直室内の座卓に載せたおもちゃの数々を前に何やら顰めっ面をしていた。よく見ると、座卓上にあるおもちゃは、何処かしら故障があるようで、先生はそれを修理している。真琴のその視線にまた気づいた先生が、
「一つ直してやったら、この有様になっちゃいまして——」
 この施設での宿直員は、有事対応要員であるため、平時では大した仕事もなく、殆どが室内待機なのだと言う。それを見かけたある子が、
「暇ならおもちゃ直してよ」
 声をかけて来て、たまたまそれが上手く修理出来てしまったものだから、瞬く間に現状の有様となってしまったらしい。部屋に押しかけている子供達は、おもちゃの修理待ちなのだそうだった。
「おもちゃの修理なんて、した事はなかったのですが」
 今ではすっかり経験を積まされ大抵の物は直せる、と先生は苦笑いする。
 仕事中に施設の子に絡まれて困っているのは、
 ——ホントだったんだ。
 先日先生に、困っている事はないか詰問した時の、その先生の返答を思い出す。確かに玄関ロビーを挟んで向こう側は職員事務室だ。余り騒いでいると職員の目が刺さるだろう。盆踊りの時の射的で、おもちゃの銃やコルクの弾を見る目が、玄人めいていたのも腑に落ちた。
 それにしても——
 子供達がよく懐いている。一見ぎゃあぎゃあ言い合っているようだが、深刻さが微塵もなく何処か微笑ましい。その寛容さが如何にも先生らしく、真琴は一人で勝手に噴き出しそうになった。
 部屋の中をよく見ると、盆踊りの時に事件の要因になった野球盤や、先生が射的屋からせしめた、日本では名の知れたすごろくの姿も見える。
 懐かしい——。
 あれからもう三か月。季節はすっかり寒々しくなったものだ。
 ——それでも、
 二人は相変わらず、先生と仮名のままだ。先生はどうやら、真琴に気づいていない。それがまた無性にもどかしい。気がつくと、仲睦まじく先生に絡んでいる子供達を、羨ましいと感じている自分を認め、心音が跳ねた。
 いい加減——
 名乗りたい。
 秘密を抱える事に、真琴はすっかり疲れてしまった。好意的な対象に自己の存在を明かせない事が、これ程堪えるとは思いもしなかった。正体を明かして、出来ればそれを受け止めて欲しい。様々な思いを共有して欲しい。
 宿直室を覗いていると、何やらもやもやと只ならぬ感情が湧いて来る事に動揺し、真琴は慌ててロビーのソファーに退いた。
 不破、さん。
 苗字は分かった。
 ファーストネームは?
 次は、名前を欲する。
 そろそろ——
 本名で呼んでみたい。
 私はここにいるのに——
 何故気づいてくれない。
 晒したい、共有したい、知りたい、気づいて欲しい。
 こんなの子供だ。
 こんな駄々を捏ねるなどいつ以来だ、などと思いながら、ついさっきまで噴き出しそうになっていた自分が、今度はサングラスの中で密かに目を潤ませている。
 もう傍にいるだけでは、
 物足りない——。
 気がつくと、顔の目の前で人差し指を立てた先生の右手が揺れていた。いつの間にか俯いていたらしい。タクシーが着いた事を知らせる手だった。我に返った真琴が慌てて立ち上がる。が、晩秋の夕方は早いのだ。辺りは日が暮れ暗闇が押し寄せている只中において、室内でサングラスの上、目を濡らして視野が呆けていた真琴である。不用意に立ち上がった事が止めとなって、足を踏み出そうとした時につまずいた。
 あっ!
 声を上げそうになったが、驚きよりも予想外に体がよろめいて声にならない。日頃着慣れないタイトニットのロングワンピースのせいで、足が縺れたのだ。
 それを、
「おっと」
 先生が極あっさり、深刻さを装う事なく真琴の両肩を掴んで受け止めた。流石にこの辺りの事は、他の職員同様に入居者の転倒防止のための教養を受けているのだろうか。寸刻前、傍にいるだけでは物足りないと思った真琴は、予期せず先生の胸に両手と顔を押しつける格好となり、堪らずすぐ様引こうとした。が、
「急に動いちゃ危ないです」
 先生が、掴んでいる肩を離さない。
「今度は後ろのソファーに引っかかりますよ」
 先生は手話を使っていない。
 それに気づいた真琴は思わず身体を固くした。
 ——バレてる。
 と分かると、今度は不意に恥ずかしさが込み上げて来る。何せ、普段では絶対にしないような、自分の中では勘違いにも程がある格好だ。それなのに先生からは、相変わらず仄かなパンのような匂いがした。
「いつから気づいてたの?」
 真琴は顔こそ離したが、両手は先生のポロシャツの胸の辺りを、しわが寄る程しっかり掴んだ。震えそうになる声を、手に力を込めてごまかす。声はそれでも何とかなった、と勝手に思った。が、涙目の方はどうしようにもない。いくらサングラスをしていても室内でありこの至近距離だ。見られたくない。顔は背けた。
「最初からです」
「ウソ」
「他人の目は騙せても、私は騙せませんよ」
 真琴はあえて
「何を根拠に」
 その次の句を期待して反駁する。
 その甘い目論見を欲するなど、実に自分らしくない。分かっていながらも、今は無性にその一言が欲しかった。
「あー! なんか抱きついてるし!」
 そこへ宿直室の中にいた子供達が気づき、冷やかしの連鎖が始まった。
「やかましい! 違うわ! この人は目が悪いんじゃ! 散れ散れ!」
 それを先生が、四段構えで容赦なく乱暴に追払う。真琴の目の設定の事を先生は知らない筈だが、そうした機微にも聡い。
「サングラスじゃ、足元が覚束ないでしょう」
 その辺りの事もまた、端くれといえども施設職員としての嗜みの範疇のようだった。真琴に呟き、そっぽを向く真琴のその左手を取り、右肩に腕を回してそのままエントランスへ足を向ける。目は先天性の羞明だ。そうされる事は全く不自然ではない。真琴は自分の中でそれを再確認しながら、先生のそれに甘えた。
「最初は何か意図があるのかと、様子を見てたんです」
 下駄箱に到達すると、真琴を傍の椅子に座らせ、ショートブーツをその足元に置いて片膝立ちでしゃがみ込む。
「でも、只のお忍び視察のようだったので」
「だから何で?」
 先生は、ポケットからタオルハンカチを差し出しながら
「他ならぬあなたの事ですから——で、良かったですか?」
 悪戯っぽく笑み、片膝立ちしたその形は、まるで高貴な女性に恭しく控えた従僕のようである。事実そうした格差の二人なのだが、その構図が何やら禁断めいて見えてしまい、真琴は我に返った。
 そう言う無理を私は——
 先生に課そうとしているのだ。
 この絶望的な格差を、
 この男に——
 乗り越えさせようと言うのか。
 それは余りに危うく、自分の願望が如何に罪作りであるか、今更ながらに思い知らされる。勝手に感極まってしまった真琴の両頬を、不意に涙が伝い始めた。
「粗末な物ですが、よろしければとりあえずこれで——」
 少し困惑しながらも先生は相変わらず柔らかく、タオルハンカチを真琴の手に握らせる。真琴はついに、ぐずぐずの目を先生に晒してしまったが、ハンカチを受け取ると、それでも小さく嘲笑した。
「照れるようじゃ、まだまだね」
 強がりを吐きながらサングラスをずらすと、早速ハンカチで目元や頬を押さえ始める。
「ハンカチは借りとくわ」
 ありがとう、と言い捨てた真琴は、そのままタクシーに乗り込み施設を後にした。
 乗り込むなり我慢していたものが噴き出し、堪らずサングラスを外す。慌てて借りたばかりのハンカチで両目を覆うと、自分でも驚く程目元が濡れ始め、もう外せなかった。
 ——バカね。
 それなりに身形を整えた女が、ハンカチを持ち歩いていない訳がないではないか。それでも真琴は、相変わらず仄かに米糠の匂いがするそのハンカチを顔に押しつけ続けた。冬を迎えたせいか、夏時分に仄かに香っていたバニラのような甘さはすっかり薄らいでいた。

 その夜。
 真琴は、自宅から実家に電話をかけた。何処にいた時もそうだったが、極々稀に用がある時に実家からかかって来る事はあっても、自分からかけるなど本当に記憶がない。家政士が出ると、母を呼び出した。
「珍しいわね、電話なんて。何年振りかしら?」
 電話向こうの母の、その鼻にかかったような声に瞬間で嫌悪感が押し寄せ、それだけで思わず電話を切りそうになる。が、一息ついて気を落ち着かせると
「要件だけ言うわ」
「なぁに?」
 小馬鹿にしたような声に喉まで罵声が迫り上がるが、更に一息ついてどうにか飲み込んだ。
「高千穂が周りを嗅ぎ回ってるのを、やめさせてくれないかしら」
 母が全て御見通しである事は、まず間違いない。この女を出し抜ける人間など、真琴が知る限りこの世には殆ど存在しないのだ。専属家政士だった由美子の事もあり、周辺事情は筒抜けと言って良いだろう。
「今度は婿養子になるって言うし、良いじゃないの」
「誰が!」
 初婚の際、真琴は高千穂性を名乗った。高千穂は当時元首相の息子と言う事で、その父親が引退すれば、地盤を引き継いで政界に出る事は確定的であったし、真琴は真琴で実家を継ぐ必要もなければ全く未練もなかったためだ。それが今回は、高千穂が復縁に当たり養子になる、と言う。高坂宗家の地位と名誉と財産目的であることは明白だ。
 ここで腹を立てては肝心な事が聞き出せない。真琴は、辛うじて続く罵声を飲み込む。
「一体、どんなお土産を掴まされたのかしら?」
 高千穂の復縁を許す上、高坂の養子になる事を認めるような土産である。相当なものである事は容易に推測出来るが、果たしてそれが何なのか。今の真琴には検討もつかなかった。
「それが分からないようだから、あなたは甘いのよ」
 電話向こうで勝ち誇る母に、真琴は最大限の我慢を用いて歯を食いしばった。口惜しさが声に漏れ出ないよう、怒りで震えながらもどうにか抑える。やはり聞き出せよう筈がないし、開示する筈もない。
「まあいいわ。年内一杯猶予をあげるから、身の回りの事を清算しておきなさい。年内一杯よ」
 母は宣言するなり、早々に電話を切った。相変わらずの高飛車振りに、脳内でその声を反芻するだけでも反吐が出そうになり、吐き気をもよおす。
「年内一杯——」
 それまでに高千穂の土産の中身を調べ、その上を行くものを提示出来ない限り、再婚を防ぐどころか先生の身が危うい。と言っても、あの寄生虫以外の何物でもない高千穂を受け入れざるを得ないような土産なのであろうから、例え高千穂を吐かせて土産の中身が分かったとしても、それを超えるような土産が用意出来るだろうか。
 それなら最初から、母を落とした方が良いのだろうが、それは始めから検討する事すらありえない愚問である。それでもとりあえず出来る事をやってみようと思い、電話をしてみたのだったが、まさに話にならずこの有様だ。
 何と言う——
 稚拙で体たらくな事か。いい年してこの程度の手管しか持ち合わせない自分に嫌気が差す。
 大体、
 あの女が——
 落ちる訳がないではないか。それを論ずるだけ時間の無駄なのだ。いっその事、この世から消えて欲しいとまで思うのだが、御年八三の母は忌々しい程に頗る健康体である。
 憎まれっ子世に憚るね。
 真琴は忌々しげに苦笑した。
 では、どうするか。
 逃げるか——
 全てを投げ打ち、自分だけなら逃げる事は出来る。でもそれでは、報復として先生が何をされるか分かったものではない。であれば、
 一緒に逃げるか。
 とも思うが、一緒にこそこそ逃げ回るような生活で、先生が寄り添ってくれるだろうか。少なくとも母が死ぬまでは、文字通り隠棲しなくてはならない。余裕で一〇〇まで生きそうなあの母の事である。と、考えたところで、
 それもう、殆どやってるわ。
 先生の今の生活が、殆ど隠棲状態である事を思い出し、失笑した。それなら残る問題は、
 一緒に逃げてくれる——か。
 そこまでの関係性でない事は明らかだ。まだお互いに、素性すら明かしていない。考えれば考えるだけ
 ——無茶な話ね。
 自分で言うのも何だが、世間が羨む美貌と地位と名誉と財産を持っている。だがそれは、偶然高坂に出生したためであって、大抵のそれらは自らの力で得たものとは言い難い。それを恨んでばかりで逃げ回り、何もして来なかったツケが、ここへ来て噴出しているのだからその様と言ったらない。事ある毎に分かっていた筈なのに、毎度毎度この身を恨んでは、
 逃げ回るだけ——。
 その壮大なツケを、先生を足がかりとして清算する道を探っている。
 虫が——良過ぎる。
 そもそもが、自分はもう四〇過ぎの女なのだ。後はもう転がり落ちるように枯れて行く事が明らかな女を、先生が望むだろうか。それに加えてバツイチ子持ちで。そんな自分の何処を誇って
 ——どの口が?
 一緒に逃げてくれなどと言えたものか。自分勝手に巻き込んでおいて、今更自分に自信が持てず揺らいでいる。思えば何もかもが定っていない。そんな状況であるのに、タイムリミットは二月も残されていない。
 時間が足りない——
 それは絶望的に短かった。
 母との電話で得た事と言えば、そのタイムリミットを知り得た事ぐらいだ。それをまた、何だかんだで受け入れている自分が余りにも情けない。結局は
 いつも、言いなりだ——
 唯一丸く収まる道は、いつもいつも母のシナリオでしかない。結局いつも、あの母には敵わない。掌の上で弄ばれた挙句、最後は煮湯を飲まされるのだ。
 真琴は居間のソファーの背もたれに盛大に背を預け、先生のハンカチを顔から被った。

 翌週、真琴は山小屋を訪ねなかった。
 仕事をこなしながら、母や高千穂周辺を嗅ぎ回りつつ、改めて先生をどうしたいのか考えていたら、とても余裕がなくなってしまったのだ。
 すると週末の夕方、初めて先生から
"今週はお出でにならないのですか?"
 と、メールが届いた。
 会社の自室で相変わらずの書類まみれだった真琴は、片手で目頭を押さえながら一息入れる。就業時間は仕事、就業後からが対婚工作である。国内で下手に鍵回ったところで母の息がかかっている事は分かり切っているため、表立っては動かない。国内向けは、ひたすらネット検索での情報収集である。どの道真琴は、国内には大した人脈を構築していない。三〇まで日本で暗黒時代を過ごした真琴の人脈は、渡仏後に築いたものばかりである。つまり情報収集の主戦場は海外、それも欧州時間での様々な人脈を活かした接触がメインだった。当然直に会う訳ではなく、リモート接触なのであるが、情報提供者達の都合に合わせて欧州時間で活動するため、日本時間では午前様続きとなる。就業時間の多忙を乗り切った後からのそれは、一週間も続けると想像以上の疲労をもたらした。成果が得られればその疲労も慰められようものだが、今のところはっきり言ってさっぱりであり、相変わらずの絶望感だ。海外の事象にも当たりをつけつつ、海外経由で国内を探るのはどうしても時間がかかり、焦りを生んだ。
 真琴の母は、典型的な保守派の防衛族である。よってあの高千穂を高坂に迎え入れる程の土産とは、その方面で母が喜びそうな事なのであろうが、国防に関わる事は、基本的に話が漏れにくい。国家の浮沈に直結するため、当然と言えば当然である。それを、海外経由で核心に迫ろうとしているのだから、相当に厳しいどころか無理も甚だしい。只でさえ、母は尻尾を見せない事に関しては超一流だ。情報は山のように集まるが、それを一々精査する時間が
 圧倒的に足りない——。
 それなら高千穂を叩きたいところだが、近寄るだけでも虫酸が走る。ここへ至っても自らの我儘に失笑したものだった。高千穂が無理ならば、せめて国内の事は国内の識者に接触したいところなのであるが、先述のとおり国内に人脈は全くない。今更ながらに、暗黒時代に少しでも人脈を築いておけば良かった、と後悔するが、後の祭りである。
 嘆息しながらも、
"今週は忙しくて"
 とだけ、返信する。今やっている事に関しては心配をかけたくないし、何かを察せられたくもなかった。
"分かりました。またのお越しをお待ちしています"
 すぐに届いた返信は、何だか良く耳にする接客用語のようで、思わず噴き出した。そんなよそよそしいメールでも、先生からの発信は初めてである。内容はともかく、その事実だけで何かが胸に競り上がって来る。

 一一月下旬に入った。
 気がつけば、会社の自室から見える山の色に灰色が増えている。
 紅葉狩りに行きたかったな——
 明けても暮れても仕事と私事に追われ、目頭を押さえる事が増えた。もうすぐ師走だと言うのに、今からこの忙しさはどうなのだと、真琴は夕暮れ時の色褪せた山に向かって溜息を吐く。
 次に目を開いたら、すっかり陽が落ちて真っ暗になっていた。
「あれっ?」
 慌てて時計を確かめると、就業時刻を少し過ぎている。
 い、いけない。
 相変わらず仕事中は多忙を極めるが、最近は割り切って、極力定時上がりを貫いて来た真琴である。昨今の働き方改革の手前、大企業は率先して国策を意識していないと、忽ち批判に晒されてしまう。
「専務、今日は残業されますか?」
 秘書課の女史が、それとなく確認のために入室して来た。役員であり、就業規則も残業もあったものではないのだが、だからと言って上役の者が就業上のルールを破っていては、大多数の一般従業員に対する示しがつかない。
 サカマテでは、大抵の企業の例に違わず残業は事前申請を要し、所謂許可性となっていた。端末もシャットダウンしてなくては、内部監査の時など各部署で数値化され、後が面倒である。
「いえ、帰ります」
 言いながら真琴は、慌てて端末のマウスを動かしシャットダウンさせ、卓上の片づけに入った。
 次に気がつくと、自宅マンションの地下駐車場入口で、シャッターが開くのを待っているではないか。
 ——え?
 車で帰った記憶はあるのだが朧気であり、きちんと運転して帰って来たのかどうか非常に怪しい。通勤経路は殆ど高速道路であり、余程下手を打たない限り事故など起こさないだろうが、高速を降りれば数分でも一般道を走る。が、きちんと信号を守ったものか、その自信すらなかった。もっとも何かおかしな運転をすれば、優秀なナビがやかましいので、それで異変に気づく筈ではある。
 ——疲れた。
 真琴はやはり、ぼんやりと駐車枠へ向かい、車を止めた。頭はぼんやりしていても体が覚えている。車庫入れし終えると、一つ溜息を吐いた。
 真琴は最近、溜息が増えた。
 ここ二週間弱は、変わり映えのない常なるプレッシャーに晒された日常の繰り返しだ。焦りが諦めになりつつある日常。じわじわと首を絞められる感覚がどう言ったものか、真琴は何となく分かったような気がした。窒息に喘ぎながらも、気が遠退いて脱力して行く。今日の帰宅時などは、正にそれだったのかも知れなかった。後は脱力し切って失神するのみなのだろう。
 車庫から出て、いつも通りシャッターを閉めようとした時、すぐ目の前の車庫内の壁の一部が赤点滅している事に気づいた。
 あれ?
 閉まりつつあったシャッターを途中で止めて確かめると、インターホンの留守機能のようだ。家政士の由美子がいた頃は、こんな事に気を配る必要などなかったのだが、実はこんな所に留守機能を備えたインターホンがある事を今更ながらに思い知る。
 再生すると、コンシェルジュが宅配を預かっている、と言う内容だった。基本的にこのマンションには集合ポストがない。外部からやってくる郵便物や配達物は、まず裏口に詰めている管理会社が受け取り、配達要員の社員が各戸に配達している。留守宅の荷物は、コンシェルジュが預かる事になっていた。
 宅配?
 頼んだ覚えがない。部屋違いだろうと思いつつ、面倒ながらもコンシェルジュカウンターに足を向ける。
「六〇階の高坂ですが、宅配を預かって頂いていると連絡が——」
 覚えがない、と言いかけたところでコンシェルジュが、カウンター内から五号のホールケーキが二段重ねで入っていそうな大きさの白い箱を一箱持ち出した。
「こちらでございます」
 白い箱だがダンボールであり、食品では無さそうだったその上面に貼りつけられた送り状は、一見してよく見る宅配業者のそれではない。コピー用紙に印刷された物が貼りつけられてはいるが、手作り感が強く記載内容も素気なかった。
 宛名はマンション名と部屋番号と苗字のみの記載、送り主は「峠茶屋山小屋」とある。記事欄に「お忘れ物をお届けに上がりました」旨短文が一行。
 ——怪しい。
 一見して山小屋、つまり先生による物なのだ、とは容易に推測出来るのだが、周辺事情がきな臭い時期だ。どの手合いの何の策なのか分かったものではない。肝心の物品欄は「植物」とあった。コンシェルジュが持って来た感触を見ても軽そうである。衝撃で何かが起こるようなものでも無さそうだった。
 危険な物には見えないけど——
 危険物であれば、後は開封時か時限方式を警戒するとしたものだろう。それが無いなら嫌がらせ目的で、物自体に何らかのメッセージを含ませているか。
 コンシェルジュも何事か怪しんだようだったが、一応真琴本人の意向を確認して判断するつもりだったらしい。持参した人物像を確認したところ「細面のすっきりとした男性」との事で、どうやら
 ——先生本人?
 の、ようでもある。
 とりあえず真琴は、荷物を受け取り自宅に戻った。とりあえず内ベランダのテーブルの上に置く。で、とりあえず、何か起きてもすぐ行動出来るよう、仕事着のまま、手荷物も傍に置いて開封準備に入った。異物の飛散を考慮し、サングラスにマスク、エプロン、防寒用手袋を装着する。慎重に箱の側面に耳を近づけるが、特に中から音もなければ匂いもしない。ガムテープで隙間という隙間に封をされているため、これを上からいきなり剥がさず、まずは、ダンボールの上面と側面の接合部の一部をカッターで静かに切り離した。真琴は爆弾処理など、当然経験値がない。見よう見真似と言うか、慎重に事に臨んでいるだけだ。専門家に言わせれば、この時点までの行動で既に何度か爆発しているのではないか。自分自身にそんな稚拙さを思いながらの開封作業である。
 とりあえず開封時に何らかのトラップはなさそうだった。もしあるようならカッターを入れた瞬間で何か起きている。軽く隙間が開いたので、その隙間から漏れ出る空気を手で扇いで臭いを確かめてみた。が、特に刺激は感じない。強いて言えば、植物臭のような青臭さを仄かに感じる。それだけだ。その後少しずつ、上部中央のガムテープをカッターで真っ二つに全部切った。すると、若干開封方向に癖がついていたダンボールの上部が、勝手に軽く開いた。既に隙間から中が見えそうだ。上から軽く覗いてみると、鉢に入った緑の葉の植物と、横封筒が一つ入っているのが見える。
「うーん」
 何なのか。
 慎重に二つを取り出してテーブルの上に置くと、箱自体に仕掛けはないようだった。植物は緑色の細くて固そうな葉が七、八本、茎を中心に扇状に伸びているが、花はついていない。茎高は三〇cm程度である。メッセージカード入りと思われる横封筒は封がされていない。相変わらずの防備のまま慎重に中を開けると、手紙が一通入っていた。
"頂き物ですが、山小屋では寒過ぎるので、よろしければご笑納ください。彼岸花様を相手取って植物の贈呈は気が引けたのですが、日頃の感謝を評して"
 山小屋の仙人、とある。
「なによ!」
 真琴は、手袋を始めとする装備品を乱暴に取っ払った。文面は明らかに真琴と先生にしか分からない内容であり、彼岸花のネタは高千穂がうろつき始める前の話だけに、それをもって警戒を全面解除する。
「もう!」
 こんな時に何だと言うのか。真琴は軽く立腹しつつ、植物の正体を調べる。スマートフォンで撮影し、ネット検索すると
「アングレカム——」
 とあった。
 アフリカ南東及びマダガスカルで原産するラン科の花だ。観賞用の花だが、寒さに弱いのに開花時期は一一月から二月と言う事もあって、日本では基本的に温室でなくては育てられず、認知度は高いとは言えない。国内の生花店では手に入りにくい花である。
 頂き物——ですって?
 そんな筈がない。原種が自生する地域も近年慢性的な内戦や飢餓で、やはり手に入りにくいと言うそれを、生で見るのは真琴も初めてだった。
 これが、そうなの?
 が、その名は知っている。
 一一月二二日の誕生花であるそれは、奇しくも真琴の誕生日のそれだった。日本国内では近年「いい夫婦」の日として知られ、真琴にとっては忌々しいその日が、今日だった事にようやく気づく。スマートフォンの検索結果は合わせて花言葉も掲載しており「祈り」「いつまでもあなたと一緒」とあった。
「あぁもう!」
 最近涙脆くて仕方がない。傍に置いていたバッグの中から慌てて先生のハンカチを取り出し、両目元に宛てがった。施設にお忍び視察して以来先生には会えておらず、借りたハンカチは洗濯しながら勝手に使っている。きっと安価な物なのだろうが、手放せなかった。その想いと花言葉が重なり、ハンカチで目元をいくら拭っても、次々に溢れ出ては止まらない。
 随分と探し回った事だろう。誕生日がバレている、と言う事は素性もバレているのだろう。
 いつ——
 バレたのか。
 誕生日プレゼントなど、息子から貰う以外に覚えがない。そんな事よりも今はただ、花をつけていないその葉だけの花を眺めて、送り主に想いを寄せる。
 ——ダメだ。
 両目がぼやけて止まらない。
 ここ数週間の疲弊振りと言ったらなかったが、その最中にこんな事があったものか。
 止まらないんだけど——
 こんなに嬉しい「いい夫婦」の日は初めてだ。先生から借りているハンカチは、またぐずぐずになってしまった。
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