第一章 母御前がやってくる

文字数 8,727文字

第一章 母御前がやってくる

母御前

第一章 母御前がやってくる

その日も暑かった。まあ、確かにお盆のシーズンなので、ちょっとばかり朝晩涼しくなったなあという言葉が聞こえてくるようにはなっている。し、しかし暑い!のは変わりない。

杉三が、お盆用の花立を買いに行くために、自宅からちょっと離れたところにある仏壇屋さんを訪れた時のこと。とりあえず、目的の花立は購入し、親切な仏壇屋の店長さんに手伝ってもらいながら、一生懸命支払いをしていた時である。

突然、がらがらと店の入り口が開いた。古い店なので、自動ドアが設置されておらず、お客さんが自らの手で、ドアを開けるようになっている。時代遅れな店だと言われたこともあるけれど、このほうがお客さんの来訪がすぐわかると言って、対抗している。

「いらっしゃいませ。」

急いで店長がご挨拶をする。お客さんは、やや高齢の女性で、紫いろにカールした髪を染め、一般的な眼鏡屋さんではまず入手できない超高級な老眼鏡をかけて、多分きっと何十万もするんだろうなと思われるきらきらした紫色の色無地を着ているところから、多分、ただ者ではないことはすぐわかった。まあ、こういう仏壇屋となると、このような女性が来訪することは珍しくなかったので、店長さんも大して顔色を変えることはなかったが、一般の人から見たら、多分、どっかのお公家さんの奥様か、大会社の社長の奥様とか、そういう特別な人だと思われるほど立派であった。

「はい、何をご希望でしたっけ?」

「ええ、お塔婆を一本いただけませんか?」

言い方からしても、まさしく大富豪。一般の人とは口調が違っている。しかし、見たことのない顔ではない。仲のいい人物にどこか似ている。あれえ、誰だっけ。杉三は一生懸命考えて、考え抜いてたどり着いた結果、思わずこう言ってしまう。

「もしかして、おばさんは、伊能蘭のご親戚?」

おばさんも杉三の顔を見て、ちょっと驚いたようだが、すぐにこう答えを出した。

「うちの息子の関係者ですか?」

「うちの息子って、、、。」

「はい、伊能蘭の母の、伊能晴でございます。」

実物の伊能蘭とはちょっと違う、堂々とした雰囲気の女性であるが、やっぱり杉三が指摘した通り、顔かたちは蘭にそっくりなところがある。

「いのうはれさんね。なるほど、道理で似ていると思った。つまり、おばさんは蘭の母ちゃんだったのか。息子は母ちゃんに似るというが、本当なんだねえ。」

「失礼ですけど、あなた、うちの息子とはどういう間柄なんでしょうか?」

「おう、大親友だ。僕の名前は影山杉三。あだ名は杉ちゃんだよ。ちなみに蘭の家から、すぐ隣の家に住んでます!よろしく!」

杉三がそういうと、伊能晴、つまり伊能蘭の母親は、やったという顔をする。

「息子さん、さがしてた?」

「勿論です。それも、最近になって始めたわけではありません。あの子ったら、新居に引っ越したのも、結婚したのも、なにも知らせなかったから、もうしびれを切らして、来させてもらいました。ちょうど、息子のすぐ近くに住んでいるのなら、連れて行ってくれませんか。もし、よろしければ、こちらで運転手を手配させましょうか?」

晴は当然のように言ったが。

「すまんが、僕、ユニキャブ仕様の、福祉タクシーじゃないと乗れないのよね。」

と杉三は断った。

「それもちゃんと心得ております。蘭だってそうだったわけですから、気にしないでください。ここまでは、運転手と一緒に来ましたけど、」

「だってそれだって、セダンみたいなので来たんでしょ。あるいは高級車のベンツかな?」

言葉をさえぎって杉三がそういうほど、こういう奥さんの移動手段は、高級車であることがほとんどである。

「でも、蘭の時もそうだったけど、必要があれば、今までの運転手をいったん帰らせて、ワゴン車に変えてもらうことだってあったんですよ。」

「やだ。そんな二度手間するんだったら、はじめっからユニキャブを呼び出してもらったほうが早い。」

「いいえ、そんなものはまだまだ信用できません。静岡県が始めたとしても、県が始めた事業なんて、大したものじゃありませんよ。あなたもわかると思いますけど、お役所がやっていることなんて、大体障碍者本人が求めていることとは、ずれてますもの。それだったら、うちの会社で使っている運転手にやらせたほうが、よほど効率よく目標を達成してくれますよ。」

「そんなことないと思うがな。」

杉三は首をかしげたが、晴は迷いなど何もない様子だった。

「とりあえず、お塔婆だけ買わせていただいたら、運転手に急いでワゴン車を持ってこさせるようにします。役に立たないタクシー会社に頼むより、よほどよいと思いますから、ここで待っていてください。」

「はあ、強引だなあ。」

驚いている杉三を尻目にして、晴は店長さんにお金を支払って、超高級な白木の塔婆を一本買い、そのまま店の出入り口のドアをがらりと開けた。すると、一人の頭の禿げた中年男性がやってきて、彼女が持っていたものを素早く受け取った。息の合っている、彼女の使用人だ。

「すぐに車を持ってきます。」

と、彼は言うが、

「この人を乗せるから、すぐに車をかえて戻ってくるように。」

「はい、ちょっとお待ちください。」

晴が威圧的に「命令」すると、すぐに駐車場に向かって走って行ってしまった。杉三が、おい、ちょっと待てと声をかけても、返事をするひまもなく、主人に誠実に仕える兵隊といった表現がまさしくぴったりだった。

「へえ、すごいねえ。息子さんが見たら、びっくりするだろうな。」

「何を言っているの。蘭の時はいつでもそうだったのよ。」

杉三が驚いてつぶやくと、晴は当然のようにそう返してきた。これには、仏壇屋の店長も驚きを隠せなかったようで、口をあんぐり開けたまま、何も言わなかった。

数分後、例の運転手が、

「奥様、車を持ってきましたよ。どちらへ行けばいいのですか?」

とガラッとドアを開けてやってきた。

「あ、僕のうちは、この仏壇屋さんからだとちょっと遠いんだよなあ。いいのかい?」

杉三が言うと、

「どこにあるんですか?」

確かに、タクシーの運転手より丁寧なしゃべり方だった。

「ショッピングモール近くの、バラ公園を横切っていく。」

「わかりました。じゃあ、とりあえず、バラ公園まで行きますので、近づいたらまた詳しく指示を出して下さい。ここからバラ公園は40分くらいかな。乗ってくださいませ。」

「あれえ、もっとかかるような、、、。」

仏壇屋さんの店長がそう呟く。バラ公園は、道路が混んでいることが多いため、下手をすれば一時間以上かかってしまう。

「いや、大丈夫ですよ。抜け道を行けば、40分くらいで行けます。なるべく早く着くように、抜け道を調べておくのも運転手の勤めです。さあどうぞ。」

「はい。」

運転手に促されて、杉三は仏壇屋さんの外へ出た。自分でついていくからいいといったのに、晴は、運転手に車いすを押してやるようにと言った。そんなわけで運転手に押してもらいながら、仏壇屋の駐車場に行った。駐車場に超高級なワゴン車が一台止まっていた。運転手は当然のように後部座席のドアを開けて、杉三をそこへ乗せた。確かに、みんなのタクシーの運転手より丁寧ではあった。だけど正直に言えば、ここまで丁重にしなくてもいいのではないか、と思われるほどであった。

「じゃあ、バラ公園へ行けばいいんですね。」

運転手が改めて確認する。杉三は、そうだよと面倒くさそうに言った。運転手は、明るくわかりましたと言って、車を走らせ始めた。

「あなたね、今日の主役のようなものだから、何でも困ったことがあればこの沼袋に言いつけなさいよ。」

晴が杉三に当然のように言うが、にこにこしながら運転している沼袋さんが、なんだかかわいそうだなと思った。

沼袋さんは、道に関しては何でも知っていて、混雑をすることで有名な幹線道路を避けて、本当に40分でバラ公園についてしまうことに成功した。バラ公園から数分走れば、杉三の家はすぐにたどり着くことができた。

「はい、ここですよ。ここでおろして。」

「了解いたしました。」

沼袋さんは、杉三の家の前に車を止める。

「まあ、あの子ったら、影山さんの家に居候しているのですか?影山という表札が見えるわ。」

晴がいうように、玄関には影山と書かれた表札があった。

「ちがうよ。蘭の家は僕の家じゃなくて、隣の家だよ。」

「だって、表札が付いてないじゃありませんか。」

「まあ、このあたり、若い人は都会へ出ちゃうし、年をとって家を手放して、老人ホームみたいなところへ行ってしまう人も多いから、結構空き家が多いのよね。それを買ったから、まだつけてないだけなんじゃないのか。」

杉三が解説している間、沼袋さんが、丁寧に杉三をおろしてくれた。

「全く、所帯を持って、こんな家まで買ったなら、ちゃんと所有者として、表札くらいつけろと教え込んできたはずなのに、なんで何も守らないのかしら。」

晴は、どんどん蘭の家に行って、乱暴にインターフォンを押した。

「蘭!いるんでしょう。いるのなら開けなさい!今日こそ、話をつけましょう!」

丁度、下絵を描いているところだった蘭は、その声を聞いてギクッとしたが、車いすである以上、どこかに身を隠すこともできないし、窓から逃げてしまうなんてことも勿論できなかった。

「開けないなら入るわよ!何をしているの!」

晴は玄関ドアを乱暴に開けて、どんどん草履を脱いで部屋に入ってしまった。段差の何もない玄関は、こういう時には全く役に立たないもので、外部からの侵入は簡単にできてしまうものなのであった。

こうなれば降参だ、と思った蘭は、居間に行って母親を出迎えた。

「いったい何をしていたの!」

「下絵を描いていた。」

これは嘘もつけないので正直に答える。

「しかもなんでここがわかったんだよ。」

「偶然訪問した仏壇屋で、影山杉三さんという方にお会いして、連れてきてもらいました。」

「影山杉三じゃなくて、杉ちゃんと呼んでくれ。杉ちゃんと。しかしなんで蘭も、せっかく遠くから母ちゃんが来てくれたのに、そんな嫌そうな顔するんだよ。」

何も知らない杉三がそう言う。

「杉ちゃんの手にかかったら、何よりもおしまいだ。」

「なんだ、蘭の絶望的な顔。」

ぽかんとしている杉三を尻目に、晴はさらに息子をしかりつけるのである。

「この人と、親友だそうね。それに、家を買うときだって、この人にずいぶん助けてもらったそうね。いい、ただでさえお嫁さんをもらう時ってのは、親に見せて許可をもらってからするもんなのに、それさえもしなかったばかりか、勝手に家を買って、家を買うのを手伝わせたお礼さえもさせないなんて、一体どういうつもりなの!」

「どういうつもりなのって、必要ないからだよ。」

「馬鹿なこというもんじゃありませんよ!いい、結婚というのはね、知らなかった家と家がつながって新しい家族を作ることでもあるんだから、双方の親が互いの同意をして決めるもんなのよ。それをしなかったら、後でいろんな困ったことが起きるでしょ!ただでさえあんたは、歩けないんだし、お嫁さんに負担もかかるのは当然の事なんだから、私たちがお願いさせてもらうようなものなのに、親に何も知らせないなんて、親不孝にもほどがあるわよ!」

「なんだ、蘭はアリスさんと一緒になったの、母ちゃんに知らせなかったのか。」

「だってさ、、、。」

蘭は大きなため息をついた。さすがに、そうなったらどうなるか、見えているじゃないかとは言えなかった。

「すぐに奥さんも連れてきて、話をつけましょう。話によると中東から連れてきた人らしいけど、そういう地域から来たのなら、まともな職業についていたのかどうかも疑わしいわ。もしかしたら、体を商売にしていたとか、そういう汚い仕事に従事していた可能性もあるし、そうなったら、蘭の体だって危なくないとは言えないでしょ。すぐに連絡をとって、話をつけなさい。さすがに、スマートフォンくらいは持たせてあるでしょうし!」

「いや、アリスさんなら、東京に下宿している。今頃一生懸命大学の講義を受けていて、電源は切っていると思う。それに、泊まり込みで実習もあるようだし、すぐに帰ってくることはできないよ。」

蘭が答えを出せない代わりに、杉三が解説した。

「なんかね、もう子供を作れる年齢をすぎちゃったから、他人の子供が誕生するのを助ける仕事に就きたいって言って、お産婆さんを養成する大学に行っているよ。ああいう地域の人は、形のはっきりした仕事のほうがやりやすいんだろうね。つまり、機械でどうのこうのというよりも、人に触って人の顔を見る仕事のほうがいいんだよ。そして、本人も感動が多き方がいいんだろ。そういう人だもん、パソコンとかスマートフォン相手の、つまらない仕事はまるで向かないだろうよ。」

「あんまりべらべらしゃべらないでくれよ、杉ちゃん。」

蘭が静止したのも杉三はまるで平気である。

「知らせないでどうするの?今まで全く知らせなかったんなら、いま知らせないでどうするんだよ。」

「そうじゃなくて、」

と、言いかけたが、杉三に自分の家の都合を説明しても理解はできないだろうな、と改めて思ってしまった。

「杉ちゃん、今日は帰ってくれないかな。僕は、お母さんと話すから。」

「いいえ、この人は、重大なことを知っていると思うから、残ってもらいます。もとはと言えば、何も報告しないで勝手に事を起こした蘭が悪いのよ!」

「そうだね。」

「じゃあ、ドイツまで行かせておきながら、一体どういう経緯で、こっちに来たのか、説明してごらんなさい!」

しかし、蘭は力尽きてしまい、説明をしようしても文書が全く思いつかず、ため息しかでてこないのであった。

「蘭の母ちゃん、あんまり説明させるとかわいそうだ。とりあえず、僕の家でなんか食べながらゆっくり話し合いでもしよう。」

杉三が晴にそっと言った。

「そのうち、うちの母ちゃんも、仕事から帰ってくるよ。そうすれば、女の人の意見も聞けるよ。」

そうかもしれない。意外に男性よりも、女性のほうが、場を和ませるのには優れていると思われる節があった。歴史的な書物でもそうである。

「うちの母ちゃん、意外にダジャレもいうし、リーダーシップも取れる人だから、何とかしてくれるかもしれないぜ。」

蘭も、そうしてもらうしかないなと確信した。当事者同士では、こういう話は必ず泥沼化することになるので、第三者にいてもらったほうが、崩壊する可能性は低くなる。

「よし、そうしよう。」

杉三は決断が早い。すぐに車いすの向きを変えて、隣にある自分の家に戻ろうとする。

「カレーを作って待ってるから、二人とも早く来てな!」

「行こう。」

こればっかりは、蘭も男らしくしっかりと発言した。

「変わった人ね、あの人は。」

軽く笑いを浮かべて、母子は外へ出た。このときは、息子が先導し、母はそのあとに続いた。彼は、母親を隣の家に招き入れて、なんだかぼろぼろと文句を言いながらも中に入れることに成功させた。この一部始終を家の外に止めていた車の窓から見ていた沼袋は、初めて息子が先導して母がそれについていくという、伊能家にとって「歴史的」な瞬間を目撃したことになった。これをみた沼袋は、何か感動的なものを覚えてしまったほどである。

さて、杉三の家に入った母子は、その強烈なカレーのにおいに驚いてしまった。

「昔のカレー?」

と晴がいうほど、そのにおいは独特だった。蘭は、杉三がカレールーの名前を言えないことなんて説明できなかった。

「なんか綺麗なおうちじゃない。すごい和風のものがたくさん置いてあって、私が若いころに住んでいた家にそっくり。」

そう言ってくれてよかった、救われたなあと蘭は思う。真偽は不明だが、とにかく母がそう思ってくれるなら、まだ自分が助かる可能性はある。

「蘭も、蘭の母ちゃんも、適当に座ってくれ。もうちょっとしたら、カレーができるから。」

台所から杉三の声がするので、

「行こう。」

と、蘭は母親に入るように促した。

「お邪魔します。」

晴は、懐かしいものがたくさん置いてあるので、なんだかうれしいな、という顔をしながら中に入った。

食堂に入ると、杉三がカレーを盛り付けていた。蘭に促されて晴は食堂のテーブルの前に座った。数分後に、皿に乗ったカレーがドサリと置かれた。

「どうぞ。」

杉三が匙を手渡す。目の前に置かれたカレーは、今風のヨーロッパ系の高級なカレーという感じではなく、子供のころに目を輝かせて食べた、発売されたばかりのカレーにそっくりであった。思わず口に入れてみると、見かけばかりではなく味も、子供のころのものにそっくり。なんとも言えなく懐かしくて、ものすごい勢いで食べてしまった。

「杉ちゃん、これ、なんていうルーをつかった?」

蘭がそっと聞くと、

「知らない。僕が読めないの知っているだろ?」

当然のように杉三は答えを出した。えっという響きがあった。読めないのなら、どうしてこんなカレーを作ることができるんだろうか。

「読めないやつに、ルーの選別はできないよ。」

「面白い人ね。」

晴はやっとそれだけ言えた。

「面白いというか、僕の事は馬鹿な人と言ってください。」

余計に面白くなってきた。

同時にガチャンという音がして、

「ただいまあ。疲れた疲れた。あれ、女の人の草履があるけど、お客さんが来ているの?」

杉三の母である、影山美千恵が入ってきて、晴は、やっと正気に帰った気がした。

「おう、母ちゃんおかえり。あのね、この人、蘭の母ちゃんだって、名前はえーと、」

「初めまして、伊能晴です。伊能蘭の母でございます。製紙会社を経営しております。」

そう言って、晴はカバンの中から名刺を取り出し、美千恵に渡した。

「製紙会社って、お蚕さんの繭から糸をとるのを商売にする会社の事?」

「その製糸会社じゃなくて、紙を作る会社だよ、杉ちゃん。」

杉三がそんな発言をして、蘭がそれを訂正すると、晴は思わずふきだしてしまった。

「今時そんな言葉を知っているなんて、変わってるというか、かえってすごいわよ。製糸会社という言葉は死語よ。」

「まあ、僕の知っていることは、みんな馬鹿の一つ覚えだと思ってください。ていうか、僕は全部馬鹿の一つ覚えでできています。」

「面白いわね。この人は。このカレーの味と言い、製糸会社という言葉を知っているといい、あんたも変わった友達を持てたものだわ。」

「まあ、そういうことですな。その親友を産んでくれた母ちゃんなんですから、僕たち心から歓迎いたしますから!」

蘭は、杉三がいてくれてよかったと心の底から思った。一方の晴は、杉三の家の中にある者が、大変珍しいらしく、美千恵にこう尋ねている。

「ねえ、影山さん、お宅のご主人って何か和服に関する仕事でもしているのですか?今時あんな形の裁縫箱がまだ置かれているって、なんだか懐かしいわ。私が子供のころに、お仕えの和裁士の方が持っていたんですよ。」

このセリフからでも、晴がものすごい大富豪であることがうかがえる。

「まあ、大したものじゃないですよ。和裁は、息子の杉三がやっているんです。あれは、私がインターネットのオークションで買ってきたんですよ。今は、そういう古いものが、意外に簡単に買えちゃうものだから。」

美千恵もにこりとして、その通りの答えを出すと、彼女はさらに驚いた顔をした。

「ええー、すごいわねえ。あそこに置いてある桐たんすと言い、なんと言い、なんだかみんな私が子供のころにはあったけど、知らないうちに処分されていたものばっかりよ。このお宅は、そういうものが所せましとおいてあって、なんだか、懐かしいわ。」

「あら、それなら、リサイクルショップとかインターネットのオークションなどを訪問してみたらどうですか。そうすると意外に買えますよ。今は、古いものが本当に安く買える時代でしょ。かえって、簡単に入手できるかもしれないわよ。」

美千恵と晴はさすが女同士、そんな話を始めた。

「杉ちゃん、ちょっと隣の部屋に来てくれないか。」

と、蘭が言う。二人は、おしゃべりをしている女性の間を抜けて、縁側に出た。

「今日は助けてくれてありがとう。あの人、周りの人から母御前と言われるほど、ものすごい権力のある人だったから、黙らせるのは、本当に大変だったんだよ。運転手の沼袋さんだって、本当に苦労したと思うよ。」

蘭は素直に礼を言ったが、

「何も大したことないよ。それより、もっと喜べや。母御前というより、母ちゃんじゃないか、せっかく来てくれたのに、うれしくないのかい。」

と杉三はさらりと流した。

「それより、蘭は、本当に母ちゃんに何も言わなかったのか?」

「だって、母御前だもん。」

その一言に、すべての問題が集約されているような気がした。
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