第1話 小社会

文字数 1,546文字

 幼稚園にあがる頃には、ブ厚い眼鏡をかけていた。牛乳瓶の底のような眼鏡。両親も祖父母も、眼は全く悪くない。わたしだけが、ド近眼だった。
 眼鏡以外に、わたしには何の特徴もなかった。おとなしすぎるほどで、ほとんど存在感もなかったと思う。ダダをこねて親を困らせた覚えもない。「全然お前は手が掛からなかったねえ」と、成長してから、母に言われたことがある。
 わたしは次男で、二歳上の兄が、防波堤のような存在だったからだと思う。ワガママが溢れ出す前に、兄はわたしをやんわりなだめ、堰き止めた。わたしは、そんな兄に甘えてばかりいた。わたしは、兄が大好きだった。

 兄は勉強の成績が常にトップクラスだったし、背も高く、足も長く、細身で、ほそおもての顔は、キリリとしてカッコよかった。おまけにスポーツ万能。性格も良くて、やさしかったから、女の子たちによく好かれた。イイ男だった、同性からも、憧れられていたと思う。
 そんな兄が死んだのは、わたしが高校一年の六月だった。縁側で、兄は横になっていた。「そんな所で寝てたら、風邪ひくよ」と祖母が声をかけた。だが、何の反応もない。揺り動かしても、兄は揺り動かされるままだった。その身体は、もう二度と動くことはなかった。兄は、兄であった容姿だけを残して、突然どこかへいってしまった。

 その年の春先に、兄はスキー場で足を骨折し、一ヵ月ほど入院していた。退院後も、骨がくっつくまで、家で静養していた。だが、恢復後、部活のバドミントンで急に激しい運動をした。それが心臓発作の原因ではないか、ということだった。また、心臓がある左側を下にして寝る体勢も、よくない、とかいう話も聞いた。
 わたしには、そんな原因も遠因も、どうでもよく思えた。どんな理由が事実にせよ、もう兄が家にいなくなったこと、これが全てで、それだけでいっぱいだった。

 それから、家から笑いがなくなった。母はいつも泣いていた。わたしは、自分が死んでおればよかったのに、と思わなくもなかった。わたしは(どん)で、成績も中、スポーツは中の下、何をやっても「中」を越えることのない、平凡を絵に描いたような人間だった。わたしが死んだほうが、家族の悲しみも、どんなに軽かったろうと思えた。要するに、賢兄愚弟── いや、「愚」とまではいかなかったから、賢兄凡弟、の典型だったのだ。

 次第にわたしは、どうしてここにいるんだろうと、ぼんやり考え始めた。自然のなりゆきだった。どうして、何のために、ここにいるんだろう。すると、まわりにいる人たち、親や、同級生、先生、町を歩く人たちまでが、どうして、何のためにここにいるんだろう、というふうに見えた。現実味のない、漠然とした、実体のないものに感じられた。同時に、これが現実で、何も漠然となんかしていない、全てはこのままで、一切が明白なんだ、とも感じられた。

 あの日から、わたしは一人っ子になった。次男から長男へ、否応なく押し出されたようだった。家庭という小社会の、自分の位置への意識が、確固としたフレームをもって、わたしに迫って肥大化するようだった。親から、何かプレッシャーめいたものは受けなかった。わたしは自分の意識の中に、自分の収まる枠を見、その中に自分の存在のあり方、それからの生き方、つまりは運命を決定づけたのだと思う。
 受け容れること。飲み込むこと。この世のあらゆることに、そういう態度で接していくこと──
 わたしの、兄の急逝に対した気持ちを正直に書けば、その死が悲しくて、泣いていたのではなかったと思う。残された自分が悲しくて、泣いていたのだと思う。
 そんな、身勝手な自分自身をさえ、認め、受け容れていくこと。

こと。それを、わたしの人生に対する態度にしようとしていたのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み