掌のぬくもり

文字数 5,067文字




(この人を死なせるわけには行かない!)
 鮎子は自分に強く言い聞かせた。
 とは言え、重篤な状態にあることは一目でわかる、最後は患者の生命力に頼る他はない。
(お願い! 頑張って、死なないで! 神様、この人を死なさないで!)
 鮎子は外科医、理詰めの思考回路を持っている、そして神に祈ることの無意味さも身に染みて知っている、それでも神に祈らずにはいられなかった……

 鮎子は外科医、研修を終えてまだ二年だが持ち前の頭脳と熱心さ、手先の器用さもあって二〇代で大きな手術も任されるようになっている。
 それでも普段なら生死を分けるような手術ではベテランに見守ってもらうのだが、夜中の救急患者ということもあり執刀できるのは鮎子だけ、全く単独でここまで重要な手術をするのも初めてだ。
 それでもやらなくてはならない、鮎子がやらなければ患者は助からないのだ。


 鮎子は交通事故遺児だ。
 父と母、そして鮎子の三人家族、つつましくも幸せに暮らしていた、もうすぐ弟も生まれるはずだった。
 その幸せは、父が運転する車に対向車線から飛び込んできた車によって一瞬にして奪われてしまった。
 運転席の父は頭から血を吹き出し、リアシートの右側に座っていた母も身重の腹を抱えてみるみる青ざめて行く。
 リアシートの左側だった鮎子は奇跡的に無傷だったが、大切な父と母の命が消えて行く様を目の当たりにした。
 父の頭から噴き出す血を左手で押さえ、体を二つ折りにして苦しむ母の背中を右手でさすりながら、まだ五歳だった鮎子ができることと言えば一つしかなかった。
「神様! パパとママを助けて!」
 だが、神はその願いを聞き入れてくれることはなかった……。


 児童養護施設で暮らすようになった鮎子、だがそこに幸運な出会いが待っていた。
 院長の大沢だ。
 実は父と母もこの施設の出身、院長の大沢を兄とも慕い、兄妹のように育って社会に巣立って行った二人が再び出会って恋に落ち、結婚することになった時に我が事のように喜んでくれたのも院長になった大沢、その二人が不運にも命を落としたことを他の誰よりも悲しんだのも大沢、そして二人の間に生まれた鮎子が両親同様に孤児となった時、誰よりも寄り添って支えてくれたのも大沢だった。

 鮎子は少し扱いにくい子だった。
 自分の心の底からの願いを聞き入れてくれなかった神を信じられず、自分自身だけを信じ他者に中々心を開こうとしない、人一倍聡いだけにその態度は頑なだった。
 だが、僅か五歳の少女がそこまで自立しようとするのは無理がある、大沢は殻に籠ろうとする鮎子に辛抱強く寄り添い、頑なに閉じようとする鮎子の心の僅かな裂け目に暖かい手を添えて暖めた、完全に閉じてしまわないのは鮎子の心からのSOSだと知っていたから。
 
 そうやって社会との接点を失わずに、無事に成長することができた鮎子。
 そんな鮎子には大きな目標があった。
 それは医師になること、神に頼ることなく人の命を救える存在になりたい……。
 私大の医学部は経済的に到底無理、孤児が医師を目指すならば国公立大の医学部に進む外はない、それも奨学生の待遇を受けられなければ卒業はおぼつかない。
 そんな鮎子の必死の頑張りを支え、応援してくれたのも大沢、そして大学に合格した時、医師試験に合格した時、研修医期間を終えて一人前の医師になれた時、我が事のように喜んでくれたのも大沢だった。

 
 その夜、鮎子が勤務する病院に救急車で運ばれて来たのは、他でもないその大沢だった。
 既に児童養護施設を定年退職していたが、今でも養護施設協会の委員として孤児や育児放棄された子供たちのために尽力していることも知っている、しかしそれ以上に鮎子にとっては今でも大沢は「院長先生」であり、両親に勝るとも劣らない愛情をかけてもらった恩人、なんとしても死なせるわけには行かない、まだ死んで良い人ではない……。
 
 そして、神は鮎子の願いを聞き入れてくれた。
 手術は成功し、大沢は命を取り留めることができたのだが……。

 大沢が目覚めたと聞き、鮎子は集中医療室に駆け付けた。
「お加減はいかがですか?」
「私は……まだ生きている?」
「ええ、生きてらっしゃいますとも、もう大丈夫ですよ」
「先生が手術を?……ありがとうございます」
「先生だなんて……鮎子です、院長先生に良くしていただいた鮎子です、やっと恩返しができました」
「院長? 私が? 鮎子さん……どなたでしたかな……」
 唯一気がかりだったことが起きてしまった。
 失認症。
 脳梗塞から回復しても記憶障害が残ることはままある、手術で腫瘍を取り除いたり血管をつないだりはできる、だが損傷してしまった脳の部分は元には戻らないのだ。
 失認症とは視覚、聴覚、触覚の感覚の機能には問題はないが、それが何であるかがわからないことを言う、認知症と良く似た症状だ。
 無理に治そうとせず、現実にできる動作を生かす、失認があっても、それなりに生活できる環境を整える他はない、唯一回復の望みがあるとすれば、他の感覚と関連づけて認識できるようになること、それを促すことだけだ。

「あなたは児童養護施設の院長をなさっていました、私はその施設で育ちました、院長先生は頑なに閉ざそうとしていた私の心に温かく寄り添ってくださいました、医師になりたいと心に決めた時もそれを応援してくださいました、鮎子です、覚えていらっしゃいませんか?」
「……児童養護施設……院長……鮎子……わからない……」
 失認症を発症した人に無理強いは禁物だ。
 何も思い出せない、認識できないことに一番困惑しているのは本人、周囲が焦っても本人を追い詰めるだけだ。
 後は何かの拍子に他の感覚と結びついて認識できるようになるのを期待する他はない。
 
 日は流れ、手術の傷は癒えて行く、失認症以外の後遺症の心配もなさそうだ。
 だが大沢は依然として何も思い出せないでいる。
 恩を着せたいわけではない、手術を成功させたことで既に充分に感謝されてもいる、だが、鮎子は大沢に思い出してもらいたかった、倒れる前の大沢に戻って欲しかった。
 自分だけではない、多くの孤児や育児放棄に遭った子供たちの親となり、暖かく見守り、優しく寄り添って来た人だ、そういう経験を共有した施設の仲間たちのためにも、そしてもちろん大沢本人のためにも元通りになって欲しかった……その手助けができないことに鮎子は自分自身をもどかしく思っていた。

 もうすぐ退院というある日、鮎子は廊下で大沢とばったり出くわした、もう体の方は回復してきている、ベッドに寝たきりでなまった体を元通りにしようとリハビリのために歩いていたのだ。
「頑張っていらっしゃいますね」
 鮎子がそう声をかけると、あやふやな笑顔が返ってくる。
 このところ良く会う顔だということはわかるらしいが、鮎子が自分の主治医だということまでは思い出せないのだ、もちろん自分の施設から巣立って行った子供の一人だということも、いろいろと心配をかけた鮎子だということも。
 だが、その時、鮎子に一つのアイデアがひらめいだ。
「これから小児病棟へ回診なんです、よろしければそこまで足を延ばしてみませんか?」
「小児病棟……」
「病気や怪我をした子供たちが入院している建物です」
 その時、大沢の顔にあいまいでない、心からの微笑が浮かんだ。

「鮎子先生! もう歩けるようになったよ!」
「鮎子先生! 僕いつ頃お家に帰れるの?」
「鮎子先生! あたし早く学校へ行きたい!」
 鮎子は小児病棟でも人気者だ、難しい顔をした男性のベテラン医師よりもよほど親しみやすいのだろう。
「良かったわね、きっとまた走れるようになるわ」
「う~ん、もうすぐだと思うわ、小児科の先生とお話ししておくわね」
「今は焦っちゃダメ、きっとまた学校に行けるようになるから、今は怪我を治すことを第一に考えようね」
 鮎子も一人一人に真摯に向き合って答えて回る、大沢の背中を見て覚えた子供との接し方、今鮎子はそれを実践しているのだ。
 個室、二人部屋と回って、最後は六人の大部屋、ここの子供たちはもう退院間際の子が多い、それだけににぎやかに鮎子を迎えてくれる、あっという間に子供たちに取り囲まれるが、その中の一人の女の子が鮎子に抱き着いた。
「先生、病気を治してくれてありがとう、明日退院なの」
「そう、良かったわねぇ」
「でも、もう先生に会えなくなっちゃうのは寂しいなぁ」
「ふふふ、ここは病院よ、病院なんて縁がなければその方がいいわ」
「でも……」
「ほら、泣かないの」
 鮎子がしゃがみこんで子供と話しているのを見て、大沢も同じようにしゃがみこんだ。
 子供と話す時に大沢がいつも取っていた姿勢だ。
 女の子は見知らぬ老人の行動にちょっと驚いたが、本能的に優しく信頼できる人だと見抜いたのだろう、大沢に抱き着き、大沢もしっかりと抱き返した。
 その時だ……。
 大沢の顔に大きな変化が現れた、それまでは様々なことが認知できないことに自信を失い、自分が何者だったのかさえ思い出せないことを歯がゆく思い、心がそこにないように呆けた様な表情だったのだが……。
「こんなこと……以前にも何度もあったような気がする……」
「え? ええ、ええ、院長先生はたくさんの子供たちをそうやって抱きしめて育ててくれていたんです」
「別れ……」
「いいえ、別れじゃないんです、それは旅立ち、巣立ちです、先生はたくさんの子供たちをそうやって送り出して……」
「児童養護施設……私は……」
「はい! 院長先生でした、私もそうやって抱きしめてもらいました、そして先生の元から巣立ったんです」
「君は……鮎子……ちゃんだね?」
「はい! そうです! 鮎子です!」
 鮎子は大沢に抱き着き、大沢は鮎子をしっかりと抱き返し……共に涙を流した……。
 いつの間にか集まってきた子供たちが手をつないで、そんな二人を包み込むように輪を作っていた……。


「先生、退院おめでとうございます、よく頑張られました」
「先生はやめてくれ、今は僕のほうから鮎子先生と呼ばなくちゃならない立場だよ」
「いいえ、先生は私の中でいつまでも院長先生です、優しくて心から信頼できる……お父さんと呼びたいくらいの……」
「鮎子先生も心から信頼できるお医者さんだよ」
 大沢が退院する日が来た。
 まだ完全に何もかも思い出し、認識できるようになったわけではない。
 しかしきっかけは掴めた、記憶を呼び戻し、様々なことを認識する術も学んだ、大沢はゆっくりとでも元通りの院長先生に戻って行けるだろう。
「家に戻れるのはうれしいが、鮎子ちゃんと会えなくなるのは寂しいな」
「今度は私が見送る番ですね、退院は病気からの卒業ですよ」
「そうだね」
「それに、院長先生の主治医は私なんですから、病院と縁を切ってもらっては困ります、また倒れたりしないためにも」
「ははは、実な病院というのはあまり好きではないんだ、でも『老いては子に従え』とも言うからね、ご忠告に従うことにするよ」
「ぜひそうなさって下さい……では、お大事に」
「ありがとう、何度言っても足りないが、ありがとう……」

 病室を辞す時、本当は抱き着きたかった……さすがにそれははばかられたが……。
 しかし、鮎子の中で、施設で、大沢の元で過ごした日々が蘇る……閉じてしまいそうな心を大きな手で温めてくれたこと、周囲と折り合いがつけられず尖っていた気持ちを掌で擦るようにして丸くしてくれたこと、医師を目指すと決めた自分を励ましてくれたこと、夜遅くまで明かりが消えない自分の部屋に温かい夜食を運んできてくれたこと……温かい記憶ばかりだ。
 自分もメスをふるって病巣を切るだけでなく、暖かい掌で患者の傷を癒すような医師でありたい、そうあるべきだ。
 この数週間、大沢と過ごした日々がそれを教えてくれたような気がする。
(院長先生、ありがとうございます、やっぱり先生は今でも私の道しるべなんですね……)
 鮎子はそっと目頭を押さえると次の病室に向かった、自分を待っていてくれる人達がそこにいるから……。

(終)
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