第3話 出産

文字数 26,201文字

 ※

 人は死期が近づくと昔を思い出すという。
 私はもうすぐ死ぬ。しょっちゅう小学生の頃を思い出すもの。一番親の愛情を求め、一番家族でいられた日々を。
「はり」が酷い。特にここ一週間は何かに寄りかからないと立っていられないほど強くなっている。
 はりに襲われると丸くせり出したお腹がカチカチに固くなり、木枠にはめて育てたスイカのように四角になる。
 胎児が外に向かって四肢を突っ張っているようで、このままお腹を突き破って出てくるのではないかと恐怖すら覚えた。
 捨て場所を探し自転車で走り回っていることに抗議しているのかもしれない、私は出歩くのを控えた。
 部屋で静かにしていても腰や股関節が痛くなり、お腹が強く収縮する。カチカチに固くなって、肺も気管もぺちゃんこに潰れたように息ができなくなる。
 今朝もはりに襲われ、自転車のハンドルに寄りかかるようにして登校した。
 授業中でもはりは消えては現れる。下着に違和感を覚え、休み時間にトイレに駆け込んだ。ピンポン玉くらいのシミが下着についていた。血だった。
 『妊娠後期の強いはりと出血は切迫早産の前兆である』とネットで読んだ。
 切迫早産は赤ちゃんが予定日より早く生まれる危険が差し迫っていることで、確か、早く生まれすぎると赤ちゃんの生命に関わるって、書いてあったような。
 死ぬ? 今更? ここまで引き延ばしておいて今更死ぬの? 散々私を振り回しておいて、苦しめておいて、今更死ぬの? それって冷やかしじゃない。もっと早く死んでくれればよかったのに。死んでもちゃんと出てくるんだろうか? お腹の中に死体のまま留まり、腐って私の体を蝕むなんてことにならないかな。
 病院に行った方がいい、と思う一方、死ぬなら死んでもいい、私も赤ちゃんも死ぬ運命だったんだと割り切る自分がいた。
 疲れていた。考えることにも悩むことにも体の不調に耐えることにも。あらゆることが面倒くさく、どうでも良くなっていた。
 せめて死ぬ時はきれいに死にたい。下半身丸出しで股から血を流して死ぬなんてサイテー。そんな恥ずかしい姿、親にも見られたくない。
 チャイムが鳴る。
 ――……授業に遅れる。
 ナプキンは持っていない。仕方なく、トイレットペーパーを三重に折りたたんで下着に当て、教室に戻った。

 ――どうしよう、お腹が痛い。
 出血してから「はり」が治まらない。学校が終わるまで我慢するつもりだったけれど、……無理だ。
 職員室に行き、「体調が悪いので早退します」と担任に告げた。
 担任は「家の人に迎えにきてもらったらどうだ。先生がお母さんに連絡しようか」と心配してくれたけれど、「いえ、一人で帰れます」と断った。
 お腹がはるから迎えに来て、なんて言えるわけがない。
 自転車を押し校門を出た。
 自転車にまたがると下腹部に体重がかかり痛みが増した。石のように固くなったお腹が更に収縮し、息ができず、自転車を倒し地面に手をついた。額から汗が滴る。
 歩いて帰るのは、無理。
 ――救急車を呼んで……病院に……。……でも……。
 意識が朦朧としてきた。たまりかね、鞄を漁りスマホを握る。途端、謀ったようにはりがひいていった。
 呼吸が楽になり、視界もはっきりする。
 ――…………。
 私はスマホをしまい、自転車にまたがりペダルをこいだ。

 やっとの思いで家にたどり着く。庭先まで持って行く体力がない。自転車を家の前に止め、ふらふらと鍵を開け、玄関へ倒れ込んだ。
 靴を脱ぎ、上り口へよじ登る。生温かいものが下着を濡らす。足の内側を細く流れ、フローリングの上に水たまりを作る、透明の液体。
 ――……お漏らし……?
 呆然とする私の目の前で透明の液体は上がり口の縁を乗り越え、玄関先へ伝い落ちていく。
 私は慌てて靴下を脱ぎ、液体を拭き取った。濡れた靴下を鼻に近づける。尿特有の臭いはしない。
 ――……はすい……。そうだ、破水だ。
 羊水が漏れているんだ。もうすぐ産まれるんだ。でも、まだ八か月かそこらのはず。今生まれても生きられないんじゃ……。
 腰の痛みが強くなる。腰や脇腹の筋肉がお腹の真ん中に向かって引っ張られ尾てい骨をぐりぐり押されるような、今まで経験したことがないタイプの痛みだった。
 ――……もしかして、……陣痛……?
 陣痛が来てどれくらいで産まれるんだっけ? 陣痛ってどれくらい痛いの? 赤ちゃんが生まれたらどう処置すればいいんだった?
 書き溜めていた情報がこんな時に限って思い出せない。答えが出ないまま疑問は次々と浮かび、ますます混乱した。
 痛みがすーっと消える。額が汗で濡れていた。
 ――……きっと、また来る。
 日記帳を読み直している暇はない。事態は差し迫っている。私はよろよろと立ち上がり、二階にあがった。
 濡れたスカートと下着を脱ぎ、ニットとロングスカートに着替える。破水対策に新しい下着にナプキンを当てた。
 クローゼットに隠しておいた紙袋を引っ張り出し、中にスーパーの袋とバスタオルが入っているか、今一度確認する。
 出てきた赤子をバスタオルにくるみ、スーパーの袋に入れ、紙袋で包んでおけば体温の低下を防げ、誰かが見つけてくれるまで「もつ」はず。せめてもの罪滅ぼしに拾われるまで見張っていてもいい。もし、死んでいたら……。念のため、スコップを紙袋に入れた。
 捨てる場所は河川敷のトイレにしよう。距離は家から三キロ、自転車で行ける。人目につきにくく、夕方頃になれば犬を散歩する人やジョギングをする人がちらほら出てくるし、少年野球がグラウンドで練習を始める。
 たどり着くまでに陣痛が本格的にならなければいいけれど……。
 四月とはいえ朝夕はまだ冷える。防寒対策にジャケットを羽織り、部屋を出る。
 廊下が濡れていた。羊水が漏れた跡だ。
 時間がもったいない。そのまま行こうと思った。でも、万一私より先にお母さんが帰ってきたら……。それに産んだ後は濡れた廊下を拭き、下着や制服のスカートを洗う体力は残っていないかもしれない。
 やむを得ず、ジャケットを脱ぎ雑巾で濡れた床を拭いて回る。洗面所で雑巾と下着を洗い、水で薄めた中性洗剤をしみこませた布で制服のスカートのシミをたたく。
 その間も強い痛みが波のように寄せては引いていった。
 ――……急がなくちゃ。
 下着と雑巾を洗濯機に入れ、スカートを部屋干しする。
 再びジャケットを羽織り、紙袋を持つ。
 土曜日なら良かった。今日は木曜日、明日も学校がある。狭くて汚い河川敷のトイレにこもっていたら疲れ果ててしまいそう。河川敷って風が強いから風邪をひくかも。どれくらいで出てきてくれるだろう。あんまり時間がかかると家の前でお母さんと鉢合わせする。
 今は十六時三十分。お母さんが帰宅する十九時三十分までには帰りたい。あっ、そうか。今日は塾がある。遅くなっても疑われないや。ある意味ラッキーかも。
 つい、苦笑した。
 ――……私ってすごいわがまま。
 こんな状況でも自分の都合ばかり考えている。私は母親以前に「人間失格」なんだろう。
 痛みが強くなってきた。
 腰やお腹周辺の筋肉が強く収縮するような、生理痛が酷くなった痛みだ。尾てい骨を押し上げられ失禁しそうだった。肛門を締め、ふう、ふう、と息を吐く。
 ――早く。早く、治まって。
 思いとは裏腹に痛みは加速度的に強くなる。がくりと膝をついた。
 ――痛い、痛い。早く、治まって。
 床に四つん這いになり、ふううー、ふううーと息を吐きながら秒刻みに進む針を見つめる。
 汗がだらだらと流れる。拳を握り、ふううー、ふううーと息を吐く。汗をびっしょりかき、手足がぶるぶる震える。
 ドアノブがはるか頭上に見え、手を伸ばしても届かず、立ち上がろうとしても足に力が入らない。
 陣痛ってこんなに痛いの? 私だけ? 私が捨てようとしたから赤ちゃんがお腹の中で暴れているの?
 汗が流れ、唇が震える。もう、どこが痛いのか分からない。内臓や筋肉といったものが血液と混ざってぐちゃぐちゃに溶け、骨を押しのけ膨れあがっているようだった。
 意識が朦朧とする。瞼の裏に青や赤の光が飛ぶ。
 ――……みず……、水が、飲みたい。
 水器に入った水が目に浮かぶ。亡くなったおばあちゃんが神棚に毎日祀っていた。人は死ぬ間際に水を欲しがるのかもしれない。喉がからかからだった。
 ――…………みず、……みず……。
 痛みは痛みでなくなっていた。体を構成する全ての臓器が極限まで膨れ上がり、股の間にある一点から外へ押し出ようとしていた。
 ぶるぶる震える唇で、「うーー、ううー、ふううー……」と唸り、おもいっきりいきんだ。
 股間に火を押し付けられたような熱を感じ、構わずお尻に力を入れ体内で暴れ狂う痛みの元凶を押し出した。
 股の間から生温かい塊が滑り出るのをはっきりと感じた。
 ばったりと床に伏す。
 汗で濡れた頬に冷やりとした床の感触が心地よかった。股の間がずきずきと痛むけれどさっきまでの痛さに比べればたいしたことはなかった。
 私は横たわったまましばらく放心していた。
 頭が少しずつ回りだす。
 ――……そうだ……、赤ちゃんは。
 床に両肘をつき体を起こす。股間がズキンと痛み、短く呻く。両腕で床を這い、その拍子に股の間から何かがズルリと抜けた。
 脚の方へ目を向ける。短い悲鳴が喉に張りついた。
 私の両脚の間に青紫色で平べったい物があった。血管が木の根のように張り巡らされている。
 赤子の成れの果てかと思った。産むのに失敗し、潰れてしまった赤子かと。けれどそれは赤子ではなく胎盤だと、後になって知った。
 黒い物体が平べったい物と青白く光る細長い管で繋がっていた。転がっているとかじゃなく、誰かがそっとつまんで置いたみたいに静かにそこにあった。
 私は手を伸ばし、ソレに触れる寸前で、手を止めた。
 ――……これが、……赤ちゃん……?
 肌の色が真っ黒だ。それに小さい。ゆうすけ君より二回りは小さい気がする。
 できの悪い人形のようであり、毛が抜けた猿のようでもあった。それくらい小さかったし、動かなかった。
 ――この子、死ぬんだろうか? それとも、もう死んでる?
 私は寝そべったまま、ぼんやりとそんなことを思った。
 母親である私に抱かれもせず、冷たい床の上で死んでいく赤子が哀れだった。
 哀れ? 少し違う。可哀そう、というはっきりした同情ではなく、この子一人で死ぬんだなぁ、顧みられない命ってあるんだなぁという、今まで知らなかった現実を知り、軽く、へぇーと頷くような感じ。
 自分の体内から出てきた小さな生き物を抱き上げる気にはならなかった。怖いとかいうんじゃなく、体を動かすのが億劫だった。激痛から解放されやっと一息ついたんだ。しばらく動きたくない。
 もう少し休んだら立ち上がれる。そうしたら紙袋に入れて捨てに行こう。
 せっかく生まれた小さな命が消えていく。今生まれて、今逝こうとしている。
 悲しくはなかった。辛くもなかった。派手に汚れた部屋をどう掃除しようか気がかりだった。
 脚の内側をちょろちょろと流れる生温かいものが、くすぐったく、心地よかった。

 玄関のドアが開く音がした。
「唯、帰っているの?」
 お母さんの声だ。
「あなた、塾は?」
 お母さんが階段の下から呼んでいる。
 私は血の気がひく思いで両腕をつっぱり、上体を起こそうとした。視界がバチンと弾け、暗くなる。そのまま目を見開いていると、床の板目が再び現れた。
 ――……なに……? 私、どうなってるの?
 立ち上がろうと頑張っても体に力が入らない。鳩尾が背中に押しつけられたように苦しく、吐き気さえ覚える。
「唯、あなた今日塾でしょう?」
 足音と声が階段を上がってくる。
 鍵、鍵をかけなきゃ。鍵をしていない。
 頭がぐらぐらする。すごく気分が悪い。私は床に伏した。手足がやけに冷たく、腿の内側が火傷しそうなほど熱い。
 酷い眩暈を堪え、脚の方へ顔を向ける。
 暗く赤い一筋が脚の内側を細く長く伝い、赤い水たまりを作っていた。血だった。
 ――……ずっと、流れているの? これ?
 さっきからやたら寒気がするのは、気温が低いからというごくありふれた理由でも、出産後の体力の消耗というありそうな理由でもなく、私の体から血が流れ続けているから……? 
 体に力が入らないのも、眩暈も、吐き気も、意識が朦朧とするのも、出血のせい?
「唯? いるんでしょう? 開けるわよ?」
 扉のすぐ外で声がする。
 ――……だめ、……あけ、ないで……。
 意識が遠のき、瞼が勝手に下がっていく。
 暗闇に引きずり込まれながら、お母さんの悲鳴を聞いた。

 ※

 薬品の臭いが鼻につく。
 私はベッドに寝かされ点滴を受けていた。
 下ろしたブラインドの隙間から陽光が差し込み、室内全体が明るい。病院着がさらりと肌に心地よく、かけられた布団は羽根のように軽く肩や胸を優しく温めてくれる。
 糊がきいたシーツの上に全身の力を抜き横たわっていると生きている実感がひしひしと湧いてくる。
 ――……病院に運び込まれたんだ。
 遠のく意識の中、お母さんの悲鳴と私を呼ぶ声が聞こえた。返事はできなかったけれどずっと私の名前を呼んでくれていた。お母さんの声が聞こえなくなり、死んだと思った。
 病室には誰もいない。
 ずっとこの静かな空間に浸っていたい。
 妊娠していたこと、赤ちゃんを産んだこと、お母さんと、きっとお父さんにもばれてしまった。この病院の人達も知っているに違いない。学校にも知られたかな? 千穂に軽蔑されるなぁ。
 ――……私はこれからどうなるんだろう……。
 学校にはいられなくなる。警察に捕まる。お母さんとお父さんに責められる。近所に噂される。病院の看護師や先生からも冷たい目で見られるんだろうな。
 お父さんは会社に居づらくなるかな。お母さんだって働きにくくなるかも。あんなに頑張っていたのに悪いことしちゃったな。引っ越し、しなきゃいけないんだろうか。その前に私は刑務所行きかな。
 ブラインドの隙間から入る光が眩しく、顔を反対方向へ向ける。
 ――……そういえば、赤ちゃんはどうなったんだろう。
 床の上に生まれ落ちた赤子はとても小さく、肌が黒く変色していた。産声一つ上げず、動きもせず、固く目を閉じていた。
 生きてほしい。
 勝手だけど、そう思った。
 皆に知られてしまったなら生きている方が私の罪は軽くなるような気がした。
 産んだ時の痛みが蘇り、頭が痛くなる。
 陣痛があんなに痛いなんて……。出産で死ぬなんて話は聞かないから、大抵の人は二人、三人産んで平然としているから軽く見ていた。今まで経験した中で一番酷い痛みだった。
 思い出したらトラウマになりそう。お母さんはあの痛みを我慢して私を産んだんだろうか。心からすごいと思う。
 うなじに当たるシーツがさらさらして気持ちいい。お腹は痛くない。寒くもない。気分はすっきりしている。
 私は助かった。
 あのままほっといてくれればこれから起こる非難や制裁を受けずにすんだのに、現実は甘くない、私は生き返ってしまった。

「……唯、目が覚めたのね」
 病室に入ってきたのはお母さんだった。
 私はなんて言えばいいのか分からず、黙っていた。
「おはよう」なんてふざけているみたいだし、「もう大丈夫」なんていうのも変だ。
 お母さんはベッドから離れた位置で立ち止まり、問い詰めるでも怒るでもなく、冷えるのか、手の甲をしきりにさする。
 病室の空気が薄くなった気がした。
 お母さんはずるい。お母さんが黙ったら私が話さなきゃいけなくなる。言いたくなくても、責められると分かっていても、黙られたら沈黙に耐えられない私は自分から罪を告げなければいけなくなる。
 お母さんはずるい、卑怯だ。黙ることで私を責めているんだ。私が謝ると思っているんだ。
「ごめんなさい、私が悪かったの」、「黙っていてごめん」、「お母さんの言う通り、勉強だけしておけばよかった」
 そんな言葉を期待しているんだ。
 私だけが悪いんじゃない。私も苦しんだ。ずっと苦しんで、一人でずっと抱え込んで狂いそうだった。産んで、死にかけた。それでも謝らなければいけないの? 謝ったら気がすむの? 許してくれる?
 沈黙が目覚めたばかりの体に重くのしかかる。肺が縮んだように息ができず、抗う気力もない。
 沈黙という重圧に先に負けたのはお母さんだった。
「先生から説明を受けていたの。お父さんは一度職場に戻って仕事を片付けてくるって。……赤ちゃん、見てきたわ。小さくてね、一二〇〇グラムしかないの。女の子よ。NICUっていう乳児集中治療室に入っている。生きられるかどうか、分からないって。助かっても障害が残るかもしれないそうよ」
 ――……どうでもいいよ。
 他に聞きたいことがあるんじゃないの? 
「どうして黙っていたの?」、「誰の子ども?」、「学校、どうするの?」そういうことが聞きたいんじゃないの?
 娘が妊娠して出産したんだよ。親の知らないところで男とセックスして身ごもって、中絶もせず、親にも打ち明けず、勝手に自宅で出産したんだよ。それで言うことはそれだけ? 
 赤ちゃんのことよりまず自分の、お母さんの気持ちを話してよ。
 娘の妊娠に気づけなくて母親としてどう思っているのか。
 娘の出産を目の当たりにして親としてどうするつもりなのか。娘に愛想が尽きたのか、それともどうにかしてやりたいと思っているのか。お父さんはなんて言っているのか。
 そういうところをありのまま話してよ。赤ちゃんなんて今はどうだっていいよ。
 死の瀬戸際にいる赤子を少しでも可哀そうと思えたなら助かってほしいと思うかもしれない。生まれ出た子の髪がさらさらで、頬はふっくらすべすべでピンク色をしていたら、大きな黒い瞳でにこりと笑いでもしたら、「産まれてくれて良かった」、「赤ちゃんが助かることを祈るよ」とでも言えたかもしれない。
 でも、私が産んだ子は黒く変色した体、腫れぼったい瞼、しわくちゃの皮膚、濡れてはりついた髪、固く握りしめた拳は怒りをたぎらせているようで、恨みごとを溜め込んでいるように黒い唇を固く閉じていた。
 あれを可愛いだなんて、愛しいなんて、絶対に思えない。
 私は苦しかった。打ち明けられなくて、誰にも相談できなくて、助けてと言えなくて。いつばれやしないかと大きくなり続けるお腹が怖かった。変わり続ける自分の体が恐ろしかった。一人で産まなきゃいけないと思ったら不安と絶望に押し潰されそうだった。
 泣きたくてもずっと耐えてきたんだよ。死にかけたんだよ、死んだと思ったんだよ。
 病院に搬送された今、近所にも学校にも知れ渡る。学校をやめなきゃいけない。高校中退なんて学歴じゃ、就職だって進学だってままならない。もしかしたら刑務所に入れられるかもしれない。人生の落伍者になるんだよ、私が。なのに、赤ちゃんの心配なんかしないでよ。
 私の気持ちを聞いてよ。私のことを話してよ。お母さんの気持ちを話してよ。赤ちゃんのことより、お母さんと私のこれからのことを話そうよ。
 涙が頬を伝い、シーツを濡らした。
 押し殺していた感情が沸騰して涙となって出てきたみたいに熱かった。泣いたら立ち上がれなくなる。自分が悪いんだから泣いちゃいけない。泣いたって何も変わらないとずっと堪えていた。
 私の意志に反し、涙は溢れ続ける。私は嗚咽し、しゃくりあげた。
「……なんで……泣くのよ……。泣きたいのはこっちよ」
 はっと、顔を上げた。
 お母さんは頬を引きつらせ、口元を歪めていた。
「お父さんに、責められたわ。『なぜ気づかなかったんだ』って」
 お母さんの声が震えていた。
「知らないわよ。娘が妊娠しているなんて、思わないわよ。それも高校生よ。高校生でセックスしてどうするの。育てられないでしょう。勉強もせず、男と会っていたなんて、情けないわ。私はローン返済のため、学費のためにって一生懸命働いていたのよ。そのうえ監視までしなきゃいけないの? 家事や仕事で手一杯なのに娘が男とセックスしていないか見張ってなきゃいけないの? 娘のお腹が膨らんでないか毎日チェックしなきゃいけないわけ? 
 ……信じていたのに。なんだかんだ言っても真面目な子だって、信じていたのに。私が必死に働いている間、娘はどこの誰とも分からない男と遊びほうけていたなんて。……あんたが分からなくなった」
 お母さんは俯きハンカチを目に当てる。
 お母さんの一言一言が突き刺さる。痛くて、胸が痛くてシーツを握りしめた。
 心のどこかで見つかってほっとしていた。
 お母さんに知られてしまった今、ありのままを話してこれから先どうすればいいか相談できるって、肩の荷が下りた気でいた。
 生死の境をさまよった私を助けてくれたお母さんなら私と赤ちゃんを受け入れてくれると密かな望みを抱いていた。
 お母さんが私を見つけてくれたんでしょう? お母さんが救急車を呼んでくれたんでしょう? お母さんが私の名前を呼び続けてくれたんでしょう? お母さんが……。
 私は流れる涙を拭うこともできず、うなだれた。
「なんで言わなかったの? こんなになるまで、どうして黙っていたの? なんで、こんなになるまで……」
 お母さんの声は激しく震え、途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「……お母さんのこと……、信じられなかったの?」
 涙で濡れた顔を小さなハンカチで押さえ、幼子のように声をあげて泣く。
 言葉が出なかった。
 いつも毅然とし、弱音一つ吐かなかったお母さんが泣きじゃくっている。
 私のせいだ。私が人任せの考えなしだったから。
 嫌われるのが怖くて明人君に「避妊して」と言えなかった。
 怒られるのが怖くてお母さんやお父さんに黙っていた。
 見放されるのが怖くて、居場所がなくなるのが怖くて、自分の未来全てがなくなってしまうような気がして一人でなんとかしようとした。
 もっと早く、「助けて」と打ち明けていれば、妊娠したと苦しむことも、赤ちゃんを命の危険にさらすこともなかった。
「……わたし……、……わたしが……」
 シーツをつかむ手にぼたぼたと涙が落ちる。私は手の甲に額がつくぐらい深く頭を下げた。

「失礼します」
 女性医師と看護師が入ってきた。女性医師は私に微笑みかける。
「白木唯さん、だいぶ顔色が良くなりましたね」
 張りのある声だ。年は五十代くらい。白髪混じりの髪を低い位置でふんわりまとめ、笑うと目尻の皺が強調され、いかにも優しげに見える。目は油断なく私の全身を観察しているようだった。左胸に付けた名札に「榊珠江」とある。
 ハンカチで目元を押さえるお母さんと泣き顔の私を前に榊先生は表情を崩さず、突っ立っている看護師に指示を出す。
「バイタルを測って」
「は、はいっ」
 看護師は器具を手にベッドに駆け寄り、私の顔をさっと窺い、慌てた様子で私の腕に灰色の測定バンドを巻き付ける。看護師は刻々と変わる数値に注視し、意識的に私の方を見ないようにしているふうだった。
 榊先生は淡々と説明する。
「分娩後、子宮の収縮が悪く、胎盤が剥がれた箇所から血が流れ続けることがあります。弛緩出血と言います。白木唯さんは出血多量によるショック症状を起こしていました。子宮収縮剤を投与し、輸血をしました。後、会陰が裂けていたので縫っておきました」
 榊先生はお母さんに「今から診察をしますので外でお待ちいただけますか」と告げた。
 お母さんはこくりと頷き、「……お願い、します……」と出て行った。
「失礼します」
 看護師が布団をめくり「膝を立てて両足を広げて下さい」と私の両足首を持ち、足を広げる。私は下着を着けておらずオムツをはかされていたことに気づいた。私はされるがままにした。
 榊先生は真剣な表情で広げた両足の間を診ている。
 カチャカチャと器具の音がし、「出血はありますが量から言って問題はありません。消毒しておきます」と冷たい液をシュッ、シュッと陰部にかけられた。お腹全体に水色のゼリーを塗られ、器械を押し当てられる。ゼリーが冷たく、ぬるぬるして気持ち悪い。
 モニターに映るお腹の内部を見ながら、こんな粗い白黒の映像で分かるのかと不思議だった。
 ――検診を受けていたらこういうことをされていたんだ。
「子宮内には何も残っていません。問題なし」
 看護師がお腹についたゼリーを拭き取り、足を直し布団をかける。
 榊先生は私の傍らに立ち説明する。
「大事をとり明日の夜までは安静にして下さい。順調に回復すれば十日か二週間で退院できます。……赤ちゃんは予断を許さない状態です」
 榊先生の表情が曇る。
 ……ああ、やっぱり先生も私のこと心よく思ってないんだ。高校生が自宅で出産して、何の罪もない赤ちゃんを危険にさらしたと軽蔑しているんだ。
 腹の奥から黒い煙が噴き出す。瞬く間に充満し、胸を、頭の中を覆い尽くす。どす黒い煙は私の唇や鼻から漏れ、目の縁や耳からも流れ出る。息を止めても煙は漏れ続け、私の周りを黒く変えていく。
 白衣の医師と看護師に気づかれないよう、私は体を丸め、息を殺した。

 夕方、お母さんとお父さん、私の三人は榊先生から説明を受けた。
 病院に搬送された時は母子ともに危険な状態であったこと。
 母親である私は快方に向かい、新生児は依然として予断を許さない状態であること。また、一二〇〇グラムの極低出生体重でもあるためNICU(新生児集中治療室)に入院していること。
 無事回復したとしても障害が残る可能性がある……等々、嫌味かと思うほど懇切丁寧に説明してくれた。
 お父さんとお母さんはまるで自分たちが悪事を働いたとでもいうように青ざめていた。私は反論せず、する資格もない、黙って聞いていた。
 榊先生は裁判官、手に持つカルテは判決文で、淀みなく続く説明には罪人に対する慈悲はなく、穢れなき命を危険にさらした怒りだけが込められているようだった。
 だから榊先生に、
「母乳は赤ちゃんの生存を高め成長を促すためにも必要です。白木唯さん。母乳が出たら少量でも構いませんので看護師に言って下さい。NICUに届けさせます」と言われた時、「嫌です」とは言えなかった。

 榊先生が退室し、お母さんとお父さん、そして私が残された。
 お母さんは一言も話さない。お父さんも押し黙り、私も口をつぐんだ。
 同じ部屋にいながら私とお母さん達の間に大きな裂け目が横たわっていた。決して埋まることのない溝は深く、光さえ届かない。
 自業自得だ。
 私は甘んじて沈黙という責め苦を受けた。
 お父さんは私ではなく、お母さんを二度、三度窺う。
「赤ん坊の父親に、連絡しないとな。これからどうするか、相手と話し合った方がいい」
「いらないわよ」
 ぴしゃりとお母さんがはねつける。
「唯と子どもが死にかけたことも知らないんでしょう? こうなるまでほっておいたってことじゃない。償いはしてもらうけれど今は会いたくない。会ったら、私、何するか……」
 お母さんは言葉を切り、思いつめた表情で一点を睨む。
 私も首を横に振った。
「知らせても、来ないと思う。別れたの、随分前だし……」
「……名前と年くらいは教えてくれ。無断で連絡はしない。約束する」
「…………」
 お父さんが差し出した手帳に別れた人の名前と年齢を書いた。電話番号は書かなかった、もう使えないから。
「……岸本、明人。○○大学三年生か……」
「……今は、四年生になっていると思う」
「……わかった……」
 少しの沈黙の後、お父さんは静かな声で言った。
「学校には『遠くの親戚で不幸があったので十日ほど休みます』と言ってある。唯は何も心配せず、ゆっくり休みなさい」
 労わりの言葉に、不意に目が潤んだ。
 ありがとう。
 声に出すと涙がこぼれそうで、私は小さく頷いた。

 ※

 胸の痛みで目が覚めた。時間は深夜二時。
 服の上から胸を押すと左右の乳房が石を詰めた袋みたいに固く、熱をもっていた。胸全体が腫れあがり皮膚一枚が限界ぎりぎりまで引っ張られているようだった。
 左右の乳房を両手で寄せてみる。痛みが強くなった。乳首を指でつまんだりねじったりしても母乳は出ず、触る度に張りと痛みが後を引いた。
 こんな夜遅くに看護師を呼んだら、問題ばかり起こす子って嫌がられそう。ただでさえ軽蔑されているのに。
 痛みは治まる様子がなく我慢できそうにない。仕方なく、ナースコールを押す。
 訪れた看護師に症状を訴えると、
「乳腺が母乳で詰まっているんでしょう。冷やすと楽になりますよ」と冷たいジェルパックを四個置いて行った。
 ――……それだけ? 
 痛み止めとか、乳房の張りをなくす薬とかないの? 痛くて眠れないのに一晩中冷やせって? 高校生だから適当にすませておけとか思っている? 子どもを育てる能力も金もないのに妊娠して勝手に産んだ罰が当たったんだ、ザマァミロとか思っている?
 ジェルパックを左右の乳房の上に一個ずつ載せ、両脇に一個ずつ挟む。悔しいけれど、冷やすと痛みが和らいだ。
 母乳って母性の象徴みたいに思っていた。赤ちゃんが嫌いでも、育てるつもりがなくても出るんだ。
 ああ、そっか。母性が足りないから母乳が詰まるんだ。自分のことばかり考えて赤ちゃんを捨てようとした天罰なんだ、これは。
 空にいる偉い人が、世界の理みたいなものが、「お前に子どもを育てる資格はない」と母性の象徴である母乳を詰まらせて私の体を痛めつけているんだ。
 座るだけで眩暈がするのも、立ち上がるだけで胸が苦しくなるのも、会陰が痛いのも、全部私が母親失格だから。
 スタンドの照明が私の影を壁に大きく映す。影が私を見下ろしていた。
 ……みんな、死んでしまえばいい。
 赤ちゃんも、看護師も先生も患者もこの病院にいる人達全員死んでしまえ。お父さんもお母さんも千穂も友達も学校の先生も近所の人も、私を知っている人間はこの世からいなくなってしまえ。この胸も子宮も卵巣も性器も、女と主張する物全て、私の体から消えてなくなれ。頭と胴体と手足、人として最低限の物だけあればいい。それ以外は全て消えろ。
 二つのふくらみに刃をくいこませ、腿の付け根までそぎ落としたい。女を主張する柔らかな曲線を全て切り離し、余分な肉と臓器をゴミ袋に突っ込んで窓から投げ捨てたい。
 固く張った二つの乳房を両手でわしづかみ、両手指に力を入れる。もげるならもぎ取りたい。むしり取りたい。
 乳房が変形し指と指の間からはみ出す。痛みに逆らい指先に力を入れる、――潰れてしまえ、と。
 熱いものが頬を伝い、胸を濡らす。母乳じゃない。母乳は一滴も出ない。
 ――……私だけが悪いんじゃない。

 誰もが病室の前を足早に通り過ぎる。
 扉が閉まっていても足音で分かる。私の病室に近づいてくると歩く速度が上がるもの。
 ほら、今も! ゆっくり歩いていたのに急に速くなった。
 廊下から聞こえる笑い声は私の悪口、ひそひそ話は私の噂。
「あの病室には高校生が入院しているんですって」
「自宅で赤ちゃんを産んで死にかけて救急車で搬送されたそうよ」
 そんなことを話しているんだ。
 あんたたちの考えは全てお見通し。私を知らないふりをしても、私とすれ違うと口を閉ざす。検温に訪れる看護師は視線すら合わせず、医師は事務的に診察をするだけ。
 お父さんとお母さんですら私の身の回りを片づけたら、一秒たりとも長くここにはいたくないとさっさと帰っていく。
 病院にいる人だけでなく、家族を含めたこの日本という社会全体が私を拒絶していた。
 どこにも留まれず、誰からも顧みられず、皆が往来する社会の下層の更に底辺を無限に漂うんだ、私は。
 涙は出なかった。
 のしかかる孤独と絶望に己を支える気力もなく、背骨がぐにゃぐにゃと曲がり、ベッドに横たわった。

 外来の診察室で榊先生の診察を受けた。
「子宮の回復は順調です。これからは体をどんどん動かしていきましょう。その方が子宮の回復も早くなります。体の方はいいとして……」
 榊先生はカルテを書き込む手を止め、質問する。
「白木さんはすごく落ち込むとか、泣きたくなるとか、ありますか? 出産後はホルモンバランスの急激な変化により心身に不調を訴える人が多いの。こじらせると産後うつになる人もいるから心当たりがあるなら言って下さい。……どう?」
 榊先生が私の目を覗き込む。私は目を逸らした。
「……特に、ありません」
 落ち込みや悲観的な感情はホルモンバランスが崩れているせい? もう少し我慢すれば治まるんだろうか、この虚しさは。
 榊先生は椅子を回転させ、机に向かいカルテを書く。
「何かあれば遠慮なく看護師に相談して下さい。それと小児科の医師から『赤ちゃんは呼吸器系、消化器系ともに安定しています』と報告がありました。……母乳はまだ一度も届けていないそうね」
 榊先生は私に向き直る。
「赤ちゃんが退院した後のことをご家族で話し合われましたか?」
 私は『お説教』が始まるのかと身構えた。
 榊先生は続ける。
「『お子さんが退院後、ご家庭で育てるのか、乳児院や里親に預けるのか、もしくは特別養子縁組をし第三者の手に委ねるのか、娘さんと話し合って下さい』と私からご両親にお願いしてありました。……結論は出ましたか?」
 ――今初めて聞いたよ。お父さんもお母さんも私を避けているんだよ。話し合うどころじゃないよ。
「ご両親は一度、児童福祉司とお話をされています」
 榊先生の一言に私は顔を上げた。
 ――そんな話、聞いてない。
 榊先生はカルテに目を戻す。
「結論は、まだ出ていないようですね」
 榊先生が小さく息を吐いたのを私は聞き逃さなかった。
「警察は来なかったんですか」
 言った後で、しまった、と思った。これじゃあ罪を償いたいみたいじゃない。刑務所に入れてと言っているみたいじゃない。
 榊先生は意外なことを口にした。
「私が白木さんを治療中に警察官が二人尋ねてきたそうですが、ご両親が『娘は生きるか死ぬかの瀬戸際なんだ。日を改めてくれ』と追い返したそうですよ。看護師から聞きました。優しいご両親ですね」
 最後の一言は嫌味に聞こえた。
 榊先生は私の知らないことばかり話す。
 お母さんとお父さん、それと榊先生で話し合えば問題は解決するんじゃないの。私は気にしないであなたたちで決めてよ。
 なおも榊先生は私に聞く。
「白木さんは赤ちゃんを育てるつもりはある? それとも学業が落ち着くまで施設に預ける? もしくは完全に親権を放棄し第三者に子どもを託す? 残念ながら時間はありません。乳児院を確保するにも里親を探すにも時間がかかります。
 白木唯さん、ご家族と話しづらいのであれば、あなた一人でも児童福祉司の方に相談してはいかがですか」
 赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん赤ちゃん。どうでもいいよ、好きにしてよ。煮るなり焼くなり炒めるなり揚げるなり好きにして。私に聞かないでよ。
 私は険しい顔をしていたのか、榊先生の表情が硬くなる。榊先生は思い巡らすように宙を見つめ、静かに語った。
「白木さんのように望まない妊娠で病院を訪れる女性は少なくありません。特に十代を取り上げると中絶率は約六十パーセント、中絶手術は一日に約五十三件行われています。
 『好きと言われたから』、『断れなかったから』、『優しくしてくれたから』、『寂しかったから』と中学生や小学生までがセックスの仕方も知らないまま性交渉をする。妊娠して『彼と連絡が取れない』、『お金がない』、『親には言えない』、『妊娠するとは思わなかった』と途方に暮れる女性達を何人も見てきました」
 榊先生は静かに息を吐いた。
「スマホを無造作に買い与える親、性の話を避ける家庭、性教育をしない学校、誤った性情報を垂れ流すメディア、未成年と知りながら関係を持つ大人、倫理観ばかり押しつけなんら対策を立てない政府。妊娠と出産の時しか頼られない私達産婦人科医にも責任はあります。……けれど、結局苦しみ追いつめられるのは彼女達。
 一人で手術室に入り、一人で帰っていく彼女達を見送る度に思う。もっと自分の体を知ってほしい。正しい性の知識を身に着けてほしい。もっとパートナーとセックスについて話し合ってほしい。そして、人を頼る勇気を持ってほしい」
 榊先生の言葉に熱がこもる。
「生まれたばかりの赤子でも泣いて自分の存在を知らせる。手に触れた物をつかもうとする。人間は一人では生きられないと本能的に知っているから。あなた達も見習ってほしい。苦しければ『助けて』と言ってほしい。他人を頼る強さを持ってほしい。
 白木唯さん、あなたを助けたいと思っている人はたくさんいるの。病院は妊娠や出産に悩む人達を助ける窓口でもある。保健所でも、ネットの相談窓口でもいい。相談してくれれば医師も助産師も保健師も力になってくれる。あなたも赤ちゃんも幸せになれるよう、精いっぱい動いてくれる。だから恐れずに相談してほしい」
 榊先生は私を見つめる。
 今、気づいた。
 榊先生は私を通し「彼女達」に言っているんだ。榊先生は私みたいな望まない妊娠をした女性を数えきれないくらい診てきたんだ。彼女達の苦しみや悲しみを目の当たりにする度にこうやって語りかけてきたんだ。きっと、ずっと長い間。
 私は榊先生の気持ちに気づきながらも答えなかった。応えられなかった、――どうしても。
 榊先生は椅子に深く腰かけ、疲れたように目を伏せた。

 病室には戻らず小児科病棟へ向かう。
 縫ったところが痛くてちょこちょこと小股で歩く姿がガラス窓に映る。ペンギンみたいだった。
「すみません。赤ちゃんと面会したいんですが……」
 受付窓口の人に声をかける。不思議と他人の目は気にならなかった。
 出された書類に氏名、住所、電話番号、……必要事項を記入する。ふと、窓口に置かれた面会者リストに目がいく。
 『白木幸絵』お母さんの名前があった。面会は終わっていた。
 ――……来ていたんだ。
 私の病室には寄らず、赤ちゃんの面会だけすませて帰ったんだ。
 私が診察中だったから会えなかったんだよ。今病室に戻ったらいるかもしれないよ。
 どんな理由をつけても気休めにならない。私より赤ちゃんを優先したのは事実だ。
 胸がどす黒いもので塞がっていく。煙は出ない。糊のように固まり体中にこびりついているから。
 渡された面会バッジを手にNICUへ向かった。

 NICUは薄暗かった。
「光や音は小さな赤ちゃんには負担になるため、わざと暗くしてあります」と看護師が説明してくれた。
 フロアには衝立一つなく、透明のケースがついた装置が、保育器というそうだ、十台くらい置かれていた。ケースの中にはオムツ姿の赤ちゃんが寝かされている。
 ゆうすけ君と変わらないくらい大きな赤ちゃんもいれば、両手の平に乗りそうなほど小さな赤ちゃんもいる。足を突っ張ったり、指をしゃぶったり……、動いているのが不思議だった。
 装置の脇に備え付けられたモニターに心電図や血圧が刻々と表示される。
「小さく生まれた赤ちゃんは標準体重になるまで保育器の中で過ごします」と看護師が教えてくれた。
 白髪の目立つ老婦人がNICUの外から大きな窓ごしにじっと中を窺っている。窓際に置かれた保育器の傍に立つ両親と思わしき男女が白髪の老婦人に向かって軽く手を上げていた。
「こんにちは。私、白木さんの赤ちゃんを担当している宮崎茜と言います。お待ちしていました」
 若い看護師がにこやかに声をかけてくれた。色白で、目が大きく、マスクと帽子をつけていても美人と分かる。
「赤ちゃん、こちらです」
 宮崎さんは壁際にある保育器の前で立ち止まり、にこりと笑った。
 腰から下が凍りついたように動けなくなる。
 自宅で産み落として以来、赤ちゃんに会うのは初めてだ。
 濡れてはりついた髪、腫れぼったい瞼、皺くちゃの皮膚、引き結んだ唇、固く握りしめた手。黒く変色した体は血管が張り巡らされた胎盤と青白く光る臍帯で繋がっていた。
 宮崎さんは知っているんだろうか。私が赤ちゃんを捨てようとしたこと、見殺しにしようとしたことを。
 気づいているだろうか。私が赤ちゃんを怖がっていること、赤ちゃんは私を憎んでいることを。
 黒い唇を固く閉じ、小さな手を握りしめていた、――憎悪にうち震えるように。
 ぞくりと背筋が寒くなる。
「白木さん、赤ちゃんこちらです」
 宮崎さんはにこやかに私を呼ぶ。
 この人は知っているんだ。知っていてわざと赤ちゃんと私を引き合わせようとしているんだ、――「お前の罪の証がここにいるぞ」と。
 頭がずきずきと痛む。
 なぜここにいるのか分からない。自分の意思で来たはずなのに全てが仕組まれたことのように思えた。
 ケース越しにオムツ姿の赤ちゃんが見え、ドクンと心臓が跳ねた。 
 赤ちゃんは丸めたタオルを抱き、手足を折り曲げた格好で横向きに寝かされていた。姿勢が崩れないようにか、赤ちゃんの周りを棒状に丸めたシーツで囲ってある。
 丸めたタオルを大事そうに抱える姿が、我が子を慈しむ母親の姿と重なり、心臓を殴られたような衝撃を受けた。
 赤ちゃんは眠っていた。
 鼻にチューブを入れられ、腕と足にバンドが巻かれ、抱きかかえたタオルと胸の隙間から伸びた管がモニターに繋がっていた。
「体に取り付けたセンサーによって常に血圧や脈拍、体温などがモニターに表示されます」と宮崎さんが教えてくれた。
 体が小さすぎてオムツがぶかぶかだった。
 初めて見た時と違い、肌は強い黄みを帯び、宮崎さんが「新生児黄疸です。心配ありません」と教えてくれた、全体的に皮膚の皺が薄くなった気がした。長いまつ毛、皺が伸びた頬、小さな唇は赤く、指に米粒より小さな爪が生える。
 あの夜目にした黒い体、額に張りついた髪、腫れぼったい瞼、皺しわの皮膚、黒い唇はどこにもない。
 小さな鼻に差し込まれたチューブが痛々しかった。透明のケースに入れられ、たくさんの管に繋がれ、それでも呼吸の度に上下する小さなお腹に生きようとする強い意志を感じた。
「体重は一三〇〇グラムを超えました。母乳が取れたら少量でもいいので持ってきて下さいね。赤ちゃんも楽しみにしています」
 笑顔で言ってのける宮崎さんが白々しかった。
 いい加減なこと言わないで。あんたに赤ちゃんの気持ちが分かるの。この子は私を恨んでいる。私の母乳なんか飲まないよ。
「赤ちゃんに触れてあげて下さい」
 宮崎さんが笑顔で勧める。私は躊躇した。あの夜のおぞましい物体とは違い随分人間らしくなっているけれど……。
 触れただけで潰れそう。手は消毒したけれど、それでも、空気中に漂う埃とか手の垢とか、爪の中に潜んだ雑菌とかそういうもので赤ちゃんが病気になったりしないだろうか。
 赤ちゃんを心配してではなく、捨てようとしたうえせっかく助かった命を再び危険にさらすようなことをして責められたくなかった。
 宮崎さんは手本を示すようにケースに付いた穴に手を入れ、赤ちゃんの手に手を重ね、小さな体を労わるように両手で優しく包む。
「お母さん来てくれましたよー。代わりますねー」
 宮崎さんは手を抜き、次は私の番というように場所を空ける。
 私はおそるおそる五本の指をすぼめ、穴の中に手を入れた。
 ケースの中はぬるま湯に手を浸したみたいにしっとりと暖かかった。
 赤ちゃんに触れる寸前で一度手を止め、できるだけ弱い力で小さな手に触れる。頼りないほど柔らかく、私に触れられても反応しない。どこまでも無防備だった。
 指の腹で小さな指をさすり、小さな手の平に軽く触れる。ふわふわと柔らかく、温かかった。
 不意に、ぎゅっと指を握られた。小さな手が私の人さし指を強く握り離さない。
 私は息を呑んだ。
「原始反射の一つです。手の平に触れたものを握ろうとします。生まれたばかりの赤ちゃんにはあるんです。こんなに小さくてもすごい手の力でしょう。この子は大きくなったら力持ちになりますよ。……あっ、女の子だから誉め言葉になりませんね」
 宮崎さんは明るく謝る。
 私は平静を装い、ゆっくりと指を抜いた。動悸が治まらない。
 多分、「ありがとうございました」とか言ったんだと思う、私は何ごとかを呟き、NICUを出た。
 鼓動が耳の中で反響する。ふらふらと病室に戻った。

 肉じゃがは嫌い。
 おかずのくせに妙に甘いところが嫌。人参と玉ねぎはまだ許せるとしてジャガイモは炭水化物でしょう。ご飯を食べるのにおかずで炭水化物を摂る必要がある? 同じ材料でもカレーと肉じゃがでは天と地ほども違う。
 ご飯とみそ汁を先に食べてから肉じゃがの人参を小さく割り、口に運ぶ。
 窓際に置いてある搾乳器が目に入る。
「母乳が取れたら少量でもいいので持って来て下さいね」
 宮崎さんの言葉だ。
 母乳なんて出ないよ。眠れないほど固く張っていた二つの乳房は柔らかさを取り戻し、今は痛くもなんともない。
 冷やしまくったもの。母乳マッサージなんてせず、ひたすらジェルパックで冷やしまくったから乳房は母乳を作るのを止めてしまった。それでいい。三時間おきに母乳を絞って持って行くなんてめんどくさい。
「赤ちゃんが退院する前に沐浴や調乳の指導があります」
 搾乳器を置いて行った別の看護師がわざわざ教えてくれた。指導を受けるのは当たり前みたいな口調で言われ、「したくありません」とは言えなかった。
「育てる」と言えば解決するんだろうか。
 皆、冷たい目で見なくなる? お父さんとお母さんは私を世間から守ってくれる? 以前のように接してくれる?
 一言「育てる」と言えば私は「高校生の分際で赤ちゃんを産んだ」最低の人間から「未成年でも子どもを育てる」健気な人間へと昇格できるんだろうか。
 私の服は親の金で買っている、オムツやベビー服を買うお金なんてない。赤ちゃんが突然高熱を出しても病院へ連れて行く車はない。赤ちゃんが泣き止まなくてもあやし方を知らない。料理は満足にできない。掃除はこまめにしない。洗濯も、ゴミ出しだって充分にできない。お乳の飲ませ方やお風呂の入れ方を教えられても、
「それじゃあ後はよろしく」って放り出されたら途方に暮れるだけなんだよ。
 お父さんが支えてくれなきゃ、お母さんが手伝ってくれなきゃ、私一人では育てられない。
 ジャガイモの塊を箸で刺す。二つに割き、半分になったジャガイモを更に二つに割いた。
 ――どうして何も言ってくれないの。
 警察を追い返したことも、児童福祉司に相談したことも、榊先生に「家族で話し合って下さい」と言われていたこともどうして言ってくれなかったの? 
 どうして私とは話さず赤ちゃんの所ばかり行くんだよ!
 ジャガイモに箸を突き立てる。
 ――こんな物いらない。
 ジャガイモの欠片を寄せ集め、箸で潰しこね回す。粉状になったイモが茶色い汁を吸いドロドロになる。
 元は食べ物、今は残飯。生ごみ。
 ……生ごみ……。私のことだ。生ごみにしては大きすぎるな。じゃあ、粗大ごみ? 
 笑ってしまった。
 私がごみならあの子だってごみだよ。私が産んだんだから。私のお腹から出てきたんだから。同じ要らないものなのにあの子は助けて私はどうでもいいの? 
 あの子は小さくてか弱いから、無防備できれいだから守るの?
 私は汚くて反抗的だから、自分勝手で罪を犯したからほっとかれるの?
 私はいつからこんなに独りだったんだろう。
 自分の気持ちを伝えられない。苦しくても相談できない。「助けて」と言えない。
 誰も私の気持ちを聞いてくれない。本当のことを話してくれない。助けてくれない。
 家という同じ空間に居て同じ時間を過ごしていたから家族のつもりでいた。他愛ない会話ばかりして仲のいい家族のつもりでいた、悩み事一つ打ち明けられないくせに。
 私もお母さんもお父さんも自分のことで精いっぱいでお互いのことを知ろうともしなかった。
 本当はいろんなことを語り合いたかった。いろんなことを聞きたかった。お母さんやお父さんの昔のこと、嫌だったこと、嬉しかったこと、恥ずかしかったこと。学校では習わない恋愛やセックスのこと、仕事のことでもいい。
 真剣なところをごまかさず、はぐらかさず、話してほしかった。
「あなた一人でも児童福祉司の方に相談してはいかがですか」
 榊先生の言葉だ。
 ――……相談、してみようか。
 私と赤ちゃんが幸せになれる方法を見つけてくれるかもしれない。一緒に解決法を探してくれるかもしれない。
 お母さんとお父さんはどう思うだろう。
 他人に相談するよりまず家族で話し合って、と思うんじゃないかな。勝手に赤ちゃんのことを他人に相談したら怒らないかな。
 そこで思考は中断してしまう。
 この期に及んでも親の顔色を窺ってしまう。親の反応が気になってしまう。
 嫌われたくない。軽蔑されたくない。否定されたくない。お母さんとお父さんに見捨てられたら私は存在することさえできない。
 私の心はパンパンに膨らんだ風船みたいで、小さな針の一刺しで簡単に弾けてしまう。
 痛くて、うまく息ができなくて、胸を押さえる。
 箸が落ち、ペースト状になったジャガイモがシーツに散らばる。
 嗚咽が漏れ、とっさに手で口を塞ぐ。小刻みに震える吐息が鼻を抜け、涙が溢れた。
 堂々巡りだった。

「まだ昼飯の時間だったか」
 お父さんは扉の近くで立ち止まり、すまなそうな顔をする。
「いいよ、もう終わってるから」
 鼻をすすり、残飯と化したお皿をお父さんに見えないように窓際にどける。
「……珍しいね。いつもは夜来るのに……」
「今日は仕事で遅くなるから昼の休憩時間に顔を出しておこうと思ってな。食べないのか?」
「おいしくない」
 お父さんは妙に納得した顔で「病院の食事はまずいって言うからな。サンドイッチでも買ってきてやろうか」と言う。
「……いらない……」
 お父さんは私が肉じゃがを嫌いなことも知らないの? それとも娘がお皿をぐちゃぐちゃにして残していることをおかしいと思いながら指摘するのも面倒くさくてとぼけているの? 私の目、赤いと思わない? 泣いていたんだよ。
 自分でも手に負えないほど精神状態は最悪だった。
 ベッドに寄りかかり、言ってみる。
「……お母さん。私のこと、避けているよね」
 口にしたら泣きそうになった。
「病院に来ても私の顔見ないし、ほとんど話さないし……。今日だって赤ちゃんのところには行って私の病室には来なかった……」
 これ以上しゃべったら泣いてしまう。そう思っても止まらなかった。
「嫌われても、仕方ないね。それだけのことをしたんだから。お父さんだって私の顔、見たくないでしょう。無理に来なくてもいいんだよ。仕事だけしていれば……」
「勝手なことばかり言うなっ。お父さんもお母さんもどれだけお前のことを心配しているか考えたらどうだっ」
 お父さんは真っ赤になって怒鳴った。私は逆ギレした。
「嘘っ! だったらなんで黙ってたの? 警察が来たんでしょう。児童福祉司と会っていたんでしょう。榊先生に相談するように言われていたんでしょう。そんなこと一言も言わなかったじゃない。どうでもいいんでしょう、私のことも赤ちゃんのことも。だから何も言わないんだ」
 泣いていた、泣き叫んでいた。
 みっともない、止めておきなよ。たしなめる自分がいた。でも止まらない。涙が、頬を流れる涙が熱くて、押し込めていた感情が一気に昂る。
 シーツを握り、顔をぎゅっとしかめ、涙を絞り出した。鼻水を垂らし、しゃくりあげる。
 今時幼児でもそんな泣き方しないよ、と冷静な自分が馬鹿にする。
 止まらなかった、涙も、鼻水も。私は声をあげ泣いた。
 お父さんは折りたたみ椅子をベッドのそばに置き、腰かける。両手で顔を覆い、深く息を吐く。両手を下ろしたお父さんの目は赤くなっていた。
「……お母さん、今、精神的に不安定でな。薬を飲んでいるんだ」
 私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でお父さんを見た。
 お父さんは苦渋に満ちた表情で口角を上げる。無理やり作った笑みは歪んでいた。
「お父さんが悪いんだ。お母さんが動転している時に責めてしまった。『なぜこんなになるまで気づかなかったんだ。母親だろ、お前は』って……。お父さんも気づいてやれなかったのにな。……怒りのやり場がなくて……、後悔している。
 お母さん、一人で家に居られないんだ。お父さんが帰ってくるまで車の中で待っている。『家に一人で居るのは怖い』そうだ。仕事は休んでいる。二人でいる時も少しの物音で家中を確認するんだ。お母さんはあの夜から一度もお前の部屋に入っていない。着替えを取りに入ろうとして部屋の前で突っ立っていた。どうしても入れないんだそうだ。思い出すんだろうな。……お前の着替えはお父さんが準備している」
 知らないことばかりで、どこかよその家庭事情を聞いているみたいだった。
「あの夜、お母さんすごかったんだぞ。唯の名前を呼びながら血が流れ続けるお前の下半身を押さえ続けていた、血が止まるようにと。……血だまりで、内臓みたいなものが落ちて、お前は身動き一つしなくて、首まで青黒くなって……。もう、駄目だと思った。お父さんはどうすればいいか分からなくておろおろするだけだった。『救急車が来るから見てくる』とか調子いいことを言って家の外で放心していた。……情けないよなあ、お父さんは。逃げたうえ責めてしまったんだ、お母さんを。『全然気づかなかったのか』って。
 お母さんは今でも自分を責めているよ。『私の育て方が悪かった』、『こんなになるまで気づかなかった』、『唯に信頼されていなかった』って」
 私は首を振った。
「……嘘だ。お母さん、私のことなんてどうでもいい感じで着替えを持ってきたらすぐ帰る。赤ちゃんの方にばかりお見舞いに行ってる」
「お母さんは今、自分でも平静を取り戻そうと頑張っているんだ。あの夜何が起こって、これからどうしなければいけないのか。自分の中で精いっぱい理解しようとしているんだ。赤ちゃんを見舞いに行くのも、お母さんなりにあの夜のことを消化しようとしているんだと思う。病院に来るのは唯が生きているか確認しに来ているんだよ。お母さん、泣いていたぞ。『唯、元気そうだった』って」
「……嘘だ、だって、……だって……」
 お父さんはきれいごとばかり言っている。私が目覚めた時お母さんは私を責めた。私をなじったんだよ。
「高校生でセックスしてどうするの」って。「私が必死に働いている間、娘は男といちゃついていたなんて情けない」って。情けない娘だって。「あんたが分からなくなった」って責めたんだよ。「なんで、言ってくれなかったの? お母さんのこと、信じられなかったの?」って……。
 そうだ、お母さんは泣いていた。
「なんで言ってくれなかったの」って泣いていたんだ。
 私が打ち明けたかったのと同じくらい、お母さんも私に相談してほしかったんだろうか。
 私は言葉を失った。
 お父さんは静かな表情で続けた。
「病院は医師や看護師が出入りしているから家に帰ってから順序立てて、唯と話そうと思っていた。警察は『娘さんが退院するまで事情を聴くのは待ちます』と言ってくれた。『遺棄しようとした痕跡はあるものの、手にかけたわけでも放置したわけでもありませんから保護責任者遺棄罪に問われる可能性は低いでしょう。実際、母子ともに危険な状態であったわけですから。児童相談所には通告します』と。
 児童福祉司とはお父さんが一人で話を聞いた。お母さんは途中で具合が悪くなって退席したんだ。『家で育てながら学校に通う方法、生活の基盤ができるまで乳児院か里親に預ける方法、親権を放棄し特別養子縁組で子どもを託す方法、選択肢はいくつかあります』と言ってくれた。ただ、『障害がある子は里親や養親を見つけるのが難しい』そうだ。
 唯はどうしたい? 子どもを育てたいのか? 多分、お母さんはあてにできないぞ。精神的に不安定なうえ、『孫を愛せる自信がない』と言っている。お父さんも手伝ってやりたいが、仕事で帰りが遅い」
 お父さんは黙り、私も答えられなかった。
 どれくらい時間が経っただろう。途方もなく長く感じられたし、ごく短い時間のようにも思えた。
 私は聞いた。
「仕事を辞めないといけないの?」
 お父さんは首を横に振った。
「お父さんは周りに何を言われても仕事を続けるつもりだ。唯とお母さんを養わないといけないからな。会社に辞めてほしいと言われたら、……断れない」
 お父さんは弱々しく微笑んだ。
「今はゆっくり休みなさい。退院してからだ。一つ一つ、問題を解決していこう」
 お父さんは私を寝かせ、布団をかけてくれた。
 気づかなかった。
 お父さんの肌はくすみ、目の下にはくまができている。剃り残したひげは白く、落ちた肩、シワになったスーツ、疲労が全身に色濃く滲んでいた。
 お母さんの精神が安定せず、きっと家事はお父さんがしているんだろう。娘は親に黙って妊娠、自宅で出産し、意識不明で病院に搬送された。生まれた子どもは障害が残るかもしれず、保育器に入れられ管理中。
 これから先どうなるか、お父さんも不安なんだ。会社を辞めないといけないかもしれない、引っ越ししなきゃいけないかもしれない、お母さんだっていつ良くなるか分からない。子どもを引き取ったらもっと大変になる。
「……ごめんなさい……」
 目の端から一筋、涙が伝った。
「……ごめんね、お父さん……」
 馬鹿な娘で、ごめん。私のせいで皆を不幸にしてしまった。何度謝っても足りないくらい、私はとんでもない過ちを犯した。お父さんにも、お母さんにも、赤ちゃんにも、一生償いきれない罪を犯してしまった。
 一つ、また一つと、目の端からこぼれる。
 お父さんは小さく頷いた。
「いいから、今はゆっくり休みなさい」

 ※

 諦めていた母乳は助産師が教えてくれた母乳マッサージを見よう見まねでやってみた成果か、数十ミリリットルだけれど出るようになった。
 毎日三時間おきにNICUに採れた母乳を持って行く。届けた後窓から赤ちゃんの様子を窺うこともあれば、中に入って赤ちゃんと面会することもある。
 担当の宮崎さんはいつも笑顔で迎えてくれた。
 私に看護日記を見せながら「今日は機嫌がいい」、「足をよく動かす」、「手を口に持っていった」と詳しく報告してくれる。
 体重は一五〇〇グラムを超えた。まだまだ標準体重には届かないけれど生まれた時よりずいぶん大きくなった。
 髪が増え、ふっくらして、何よりよく動く。
 顔が昨日来た時とまた違って見えた。会う度に変わっていく。
 この子は私の子でも明人君の子でもないのかもしれない。産んだのは私だけれど、この子はこの子という一人の人間として生まれてきたんだ。
 毎日のように会っていると罪悪感や恐れといった感情の他に愛しさみたいなものが芽生えてきた。
 ――この子と一緒に暮らしたい。
 けれど、この感情は今だけかもしれない。
 周囲の人に見守られ、支えられ、衣食住に困らないから愛情を感じているつもりになっているだけで、一人で赤ちゃんと向き合うことになったら愛し続ける自信がない。
 私は今日、退院する。
 宮崎さんが口から胃へつながるチューブに持ってきたばかりの母乳を注入する。白い液体が細い管を通り赤ちゃんの口へ入って行く。
「赤ちゃん、美味しそうに飲んでいますね」
 飲んでいない。勝手に注がれているだけ。
「状態は安定していますし表情もしっかりしてきました。さすが母乳の力ですね」
 本気で言っているの? 私は宮崎さんの横顔を盗み見た。
 宮崎さんの目は穏やかで、愛しくて仕方がないというふうに目を細めていた。
 私なんかよりよっぽど母親らしく見えた。
 白い液体は全部赤ちゃんの中へ入っていった。赤ちゃんが満足そうに口を動かす。
 こんな私の母乳でも役に立っているんだろうか。
「あっ、赤ちゃんが見ていますよ」
 宮崎さんに腕を引っ張られた。
 黒々とした目がぱっちりと開き、私を見る。
 いつも半開きで生気の欠片もなかった目が、今は大きく開き、真っ直ぐに私の目を見つめていた。
 白目の縁が濡れてうっすらと緑色に透き通り、瞳と虹彩の区別がつかないほど黒い。まだ発達しきっていないからか、濁りも淀みもない、きれいな目だった。
 不思議そうに私をじっと見ている。
「……また、来るね……」
 初めて、この子に語りかけた。

 入院最後の診察を受ける。
「産後一か月は無理をせず体を休めて下さい。不調や気になることがあればすぐに受診して下さい。それと、『退院後も母乳は毎日届けて下さい』と小児科医から言づかっています」
 私は返答に詰まった。
 お母さんは服薬中で車を運転できない。お父さんは仕事だ。片道二十キロの道のりを産後すぐの体でバスを乗り継ぎ毎日母乳を届ける自信はなかった。
「……病院に赤ちゃんを残したまま面会に来なくなる人はいます。私には白木さんに無理やり母乳を届けさせる権限はありません、残念ながら。赤ちゃんが退院できるまで一か月以上かかります。赤ちゃんが退院した後のことをご両親とじっくり話し合って下さい。もし、白木さんに赤ちゃんを育てる意志があるなら私が知る限りの情報をお伝えします。女性が一人で子どもを育てるのは大変ですが不可能ではありません」
 そして柔らかな笑みを浮かべた。
「唯さんと赤ちゃん、二人が幸せになる方法を見つけて下さいね。退院おめでとうございます」

「忘れ物はないか」
「……うん……」
 お父さんが後部座席のドアを開けてくれた。ドーナツ型のクッションが置いてあった。
「お母さんが『痛くて座れないだろうから』と買ってきた」
 私はそっと腰を下ろした。大丈夫、痛くない。
 ありがとう。
 心の中でお母さんにお礼を言う。
 車が動き出す。
 久しぶりに見る景色は眩しく、目にしみた。窓を三分の二閉める。吹き込む風が髪を弄んだ。
 お父さんが持ってきてくれたスマホにメールが一件入っていた。千穂からだった。
 『大丈夫? 落ち着いたら連絡下さい。待ってるね』
 千穂は私が自宅で出産して入院したことを知っているんだろうか。それとも単に学校を休んでいることを心配してメールをくれたんだろうか。
 お父さんが口を開く。
「お母さんは家の片付けをしている。『掃除なんてしなくていい』と言ったんだが『唯が帰ってくるんだもの、いい加減片付けないと散らかりっぱなしだわ。ゆっくり休みながらするから心配しないで』と言っていた」
「…………」
 私は窓の外を眺める。
 明日、お父さんと一緒に警察署に事情を話しに行く。夕方、児童福祉司の人が家に来る。赤ちゃんの出生届を出さないといけない。まだ名前を決めていない。
 退院した途端、止まっていた時間が動きだす。
 ずっと、眠っていたのかもしれない。赤ちゃんを産んだあの夜から。ううん、違う。妊娠が分かってから退院した今この瞬間までずっと私はもがいていた。沼魚のように水底で泥をかいていた、小さな灯りを探して。
 榊先生の言っていたようにホルモンバランスの急激な変化によるものだったのか、精神を蝕んでいた孤独や虚しさは嘘のように消えていた。
 育てるか、手放すか、まだ決められない。
 私一人の力ではあの子を育てられないと分かっている。無理に引き取っても共倒れになるのが目に見えている。
 あの子を大切に育ててくれる人に託した方があの子は幸せになれるんじゃないのかな。子を産み育てるのが母親なら、子の幸せのために手放すのも母親じゃないのかな。
 それとも、私に母性がないから手放すなんてことを考えるんだろうか。私に一握りの母性があったなら無理を押してでも母乳を届けようとするだろうか。自分の人生を犠牲にしてでもあの子を引き取りたいと思うだろうか。私に母性があったら……。
 母性はいつ生まれるのだろう。一か月後? 二か月後? 赤ちゃんを捨てようとした私には一生縁がないものなのかもしれない。
 指先が疼く。
 あの子の手の感触が残っている。私の指を握った小さすぎる手は驚くほど力強かった。黒く濡れた目が強く輝いていた。
 不思議だ。
 二つの瞳が私をとらえた時、全身にまとわりついていた泥のような想念が溶け、白く柔らかな光に包まれた。
 今もその名残が私の体を包んでいる。

 (了)

 〈参考著書〉
 『産婦人科の窓口から 今だからこそ伝えたい!』 著 河野美代子(二〇〇五)十月舎
 『たまひよ新・基本シリーズ 初めての妊娠・出産』 編者 たまごクラブ編 監修笹森 幸文先生(瀬戸病院付属西所沢クリニック院長)(二〇〇四)株式会社ベネッセコーポレーション
 『なぜ? どうして? ⑭ 専門Ⅱ 母性看護②』 編集 医療情報科学研究所(二〇〇五)メディックメディア

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