第2話

文字数 2,687文字

 雪子は海とも川ともつかない、しかし潮の臭いのする、周囲のビルや観覧車の灯りできらめく魚の鱗のような水面を見ながら考える。
 この年になって、自分には本気で惚れた相手もいない。
 婚活ではそれがプラスに働くと思った。
 大恋愛の経験がない自分は、恋愛に多くを求めない。とことん好きな相手が過去にいたのなら、婚活で出会った相手なんて退屈極まりないだろう。
 しかし、自分はそうではない。
 条件で選んだ男である程度の満足ができるはずだ。
 今の自分の生活を引き上げてくれる、今の地獄でもなければ、でも、いつ底が抜けるかわからない不安たっぷりな生活から私を連れだしてくれる、そんな相手なら三割増し、いや、五割増しにいい男に見えるはずだ。
 いける、絶対にいける。
 婚活を始めたころ、雪子はまだ三十二歳だった。
 十分に大人だし、女としては終わりかけている。
 そう思っていたし、焦りがなかったわけではない。しかし、まだまだ青かったと今になるとわかる。
 年齢や容姿の変化は感じてはいたが、年よりずっと若く見えるということに甘えていたし、会社が潰れ、派遣生活に突入していたが、そんな女はめずらしくもなかったせいで、自分が「持たざる者」という自覚に欠けていた。
 どこか楽観的だった。いったんは堕ちた自分の生活がどこまでリバウンドするか・・・そんなわくわくが胸にあったのだ。
 甘い。甘すぎる。
 自分が恥ずかしくなる。しかし、仕方ないだろう。それまでの雪子の人生は比較的順調だった。
 そこまで必死に勉強しなくても、そこそこ偏差値の高い大学にも入れた(公立大学でお金がかからなかったことが、親孝行をしたという間違った自負につながった)。
 就職もそこそこの会社にできた。
 会社は女ばかりで、そういった村特有の苦労も多かったが、仲のいい同期や先輩などもいて、愚痴の相手には困らなかった。
 とくに努力することなく、とくにひどいめにあうことなく、とくに自信を失ったり劣等感を感じることもなく、やってこれていたのだった。
 平凡だった自分は、実はとても恵まれていたのだ。
 そんなことを最近はよく考える。
 まさか、この年で昔を振り返ろうとは。
 非正規にあふれたこの日本が大好きだといってやってくるたくさんの観光客に言ってやりたい。
 日本人が親切なのは、「お客様」に対してだけですよ、と。
 ぼーっと時間を表示したきらびやかな観覧車が壊れたようにゆっくりと回っている。
 ときどき、後ろの歩道をマラソンの集団が走り去る。 
 ご苦労なこって。
 こんな洒落たランナーが増えただけ、自分の人生がうまくいかなくなった分だけ、雪子はこのあたりが嫌いになった。
「婚活五年、結構長かったな」
 目の前でぽちゃんという音がする。何の魚かわからないが、時々跳ねている。
 音を辿って目を遣るころには、水面はもう静かに揺れている。
 自分は男を釣り上げることも上手くなかったと思う。
 したり、しなかったり、馬鹿らしくなったり、また夢見たり、いまの生活になんとか満足しようとしたり、でも、やっぱり貧乏はもういやだと思ったり、そんな気持ちに振り回されて、婚活をしたりやめたりを繰り返した。
 五年の歳月のうち、きちんと婚活に取り組んでいたのは、その半分の二年半ぐらいだろう。
 やる、ダメージを受けて休む、やる、期待が外れてやめる、やる、変な相手にひっかかって泣かされる、やる、やめる、やる、やめる・・・
 結果、五年(正味、二年半)を無駄にしたのだ。
 婚活をしていて、最も凹む理由は、時間を無駄にしたとつよく思わされることだ。
 しかも、それは自分発信の行動が生んだ結果なのだ。それにまた凹まされる。誰かに指示されたわけでもない、世間に強いられえたわけでもない、自分で選んでやったこと。
 比較的いい子でやってきた自分、結果を出してきた自分にとって、この効率の悪さにはかなり悩まされた。

 婚活パーティーに出れば、これでもかというほど、まともじゃない容姿の男に囲まれた。
 医者や弁護士限定など、条件のいい、もっと平たくいうと年収のいい男たちに限定したパーティーほど、この傾向が強くなる。
 これだけの男がいてまともな容姿の男がいないのか。そして、ある程度それがわかっていながら、こんなにダメージに受けている私・・・
 その両方に傷つけられた。
 雪子は、自分が思った以上に頭の悪い、ちっぽけな人間だと思い知らされた。
 やり方を変えよう。
 婚活パーティーはあまり金がかからないが、効率が悪い。やはりケチってはだめだ。
 ローリスクではハイリターンは狙えない。
 そう思って結婚相談所、というか、お見合い斡旋会社にも登録した。
 安くはない金がかかったが、婚活の空振りを減らしたい一心で、あまり気にならなかった。そのころはまだ貯金の額も今ほど削れてなかったというのもある。
 お見合い会社から打ち出される男たちもひどかった。
 実際に会えば、プロフィールの身長よりかなり小柄な男が出てきたり、奇跡の一枚を提出したの? というぐらい事前に見せられた写真と違う顔をした男が待ち合わせの場所にいたりした(わかっているだろうに、どうしてこんな男たちの嘘を紹介会社は許しているのか。お見合いコンシェルジュに金でも握らせているのだろうか)。
 学校時代なら二十人の男のなかに、並以上の見た目の男が二、三人はいたのに。
 つぶれた会社の同僚に愚痴ると、「確かにそうだったわね」と彼女も首をひねった。
 見た目にこだわるからよ。話があう人とか、いないの?
 大学時代からの彼氏と結婚した彼女はわかっていない。
 話があう人のほうが、見た目が並以上の人より、もっと見つけづらいということを。しかし、そんなことを説いただけで虚しいだけだし、伝わるとも、相手が折れるとも思えないし、実際そうなのだった。
 だから、雪子はちょっと小首をかしげて、口を開く。
 そうねえ。今度は、そっちの方向で頑張ってみる。
 そんなふうに友達にも本音が言えなくなっていった。
 ぽちゃん。
 またどこかで水音がする。
 もう疲れたよ。降参。
 顔をあげると、いくつもの高層ビルがキラキラと輝いていて、うるさいぐらいに色を変える観覧車がとろとろとゆっくり回っている。
 大好きな景色が、嫌いとまではいかなくても、どうでもいいものになる。
 これは見る側の心の問題だ。
 さようなら。
 一か月後、私はここ、ヨコハマを離れていく。
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