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文字数 3,990文字

BBレイとICEの失踪から十日――。
依然二人の行方は掴めず、いよいよその生死が危ぶまれてきた。
マスコミも目立った進展が無い為、興味が薄れてきたのか、報道の質も量もあからさまにトーンダウンしていた。
そもそも彼らは他人の生死にあまり興味がない。
彼らが興味を示すのは次の生贄は誰か? どうやって血祭りにあげられるか? その二点だけだ。
今日は午前中に龍傑と合流し、車で横浜に向かっていた。俺から同行を頼んだのだ。つまりギャラの発生しないドライブである。
趙佳一(チャオジャイ)も同行した。趙とは久しぶりに顔を合わせた。しばらく出張に出ていたと趙は涼しげな顔で言うが、黒龍會の仕事で出張となると、物騒なことしか想像できない。
龍傑は道中、羅偉から得た『新晃デベロップメント』に関する情報を話してくれた。
龍傑はこの会社の名前に聞き覚えがあると言っており、中国マフィアかヤクザの関連会社である可能性を疑っていたが、実態は違っていた。
新晃デベロップメントは巨大宗教法人『三法生家(さんほうせいか)』のフロント企業だった。三法生家は元々新保玲也の父である新保武夫のパトロンであり、重要な集票機関でもあったが、武夫の引退後を見越して別の代議士に鞍替えしていた。
「だから息子の借金返済が滞ったら、容赦なく担保物件を取り上げたんだよ。もう父親に義理立てする必要もないからな。そんな訳で得るものは得ている訳だから、今さら二人を攫ったり、監禁したりする筈がないんだ。わかるだろ」
これで第二の容疑者も消えた。
横浜に向かう途中、真鍋から何度か着信があった。昨夜から数えれば十回以上電話がかかってきている。けれどタイミングが悪くて結局話せないまま、目的地である磯子に到着してしまった。

生憎、今日は土曜日で近隣には大型ショッピングモールもある為、一般道はしばらく渋滞が続いたが、『横浜ベイマリーナ』はさすがに会員制だけあって、駐車場も敷地内もスムーズに移動できた。
全面ガラス貼りの二階建てクラブハウスにはロビーラウンジやマリンショップの他、レストランやテラスカフェも完備しており、人々は思い思いにゆったりと過ごしているように見える。
考えてみれば今日は好天に恵まれた週末だ。本来ここは生活にも仕事にも何の不安も迷いもない限られた成功者たちだけが集い、その豊かな人生を謳歌する為の場所だ。
そこに来て俺たちはどう見ても場違いだった。
横浜市戸塚区にある『総和土地開発株式会社(そうわとちかいはつかぶしきがいしゃ)』の会長職にある新保康之(にいほやすゆき)も、腰を痛めるまではこのマリーナから自慢のクルーザーを操舵して、よく船釣りに出掛けていたと言う。しかし最近はすっかりご無沙汰で船には乗っていなかった。
そんな中、今から三、四ヶ月ほど前に甥に頼まれて、この船を貸し出す機会があった。その際、何かの撮影だとは聞いていたが、それ以来、甥から連絡はなく、また多忙なこともあって船の存在をすっかり忘れていた。
ましてや現在、失踪中のBBレイなる人物が、船を貸し出した甥・玲也本人だとは夢にも思わなかったらしい。
兄の武夫はそんな話を一度もしたことがなかったし、甥の仕事はレコード会社の経営だとばかり思っていたからだ。その為、真相を知った新保康之は電話の向こうで絶句した。
新保康之が所有する三五フィートのクルーザーはクラブハウスから最も遠い、四番バースの先端に停泊していた。
オーナー直々に連絡を受けた鴇田(ときた)と言う名の、三十代後半の係員の後を、俺と龍傑、趙の三人は緊張しながら付いて行った。
桟橋の両側に無数のプレジャーボートが並んでいた。そのほとんどの船体が白色で、強い陽射しも相まって目に眩しかった。
この横浜ベイアリーナは万全のセキュリティシステムが自慢で、部外者の立ち入りは厳重にチェックしているが、オーナーであることを証明するセキュリティカードを持っていれば話は別だった。
ご自分の船を動かすのも泊まるのも、そりゃあご本人の自由ですから――。緊張感のない鴇田はそう言って笑った。
そのクルーザーは近くに停泊する他の船よりも一回り大きく見えたし、ダークブルーの船体が個性的で一際目立っていた。
鴇田は船尾部分から乗り込む直前に、これ日本じゃ滅多に見られない最高の船ですよ、と空気の読めない発言をした。
その時、龍傑の携帯電話が鳴った。龍傑は液晶を確認して李建斌(リージェンビン)からだと言い、すぐに電話に出た。
話しながらその表情が見る見る曇っていくのがわかった。
隣に立つ趙佳一も何かを察したのか、やはり厳しい表情で龍傑の様子を見守った。
鴇田は我々のことなど気にも留めず、鍵を差し込んでキャビンのドアを開けたが、途端に顔をしかめ、腰にぶら下げていた薄汚れたタオルで鼻を覆った。
「そうか、わかった――」
龍傑はそう言ってから電話を持った手を静かに降ろし、呆けたような表情を浮かべた。
その視線はしばらく方々を彷徨ってから、ようやく船の近くに立つ俺を捉えた。
「阿鐘――。阿健が見つかった。……死体で見つかった。……江戸川の河口で漁師が引き上げたそうだ。……健が死んだ」

ここに来る道中で、今日あたり諸橋から条件交渉の連絡があるかもしれないと話していた。
諸橋は英組との手打ち交渉を仲立ちすると言ってくるだろう。その際、幾らふっかけられるのか――。
また一億とか言い出しそうだな、あの糞ジジイ――。そう言って龍傑は弱々しい笑みを浮かべた。

でも仕方ない。あいつが悪いのはわかっている。趙や尹に迷惑をかけていることも知っている。でも勘弁してくれ。あいつは、健はたった一人の弟みたいなもんだから、すまないが今は俺の我儘を通させてくれ。頼む、健を助けさせてくれ――。

龍傑は放心し、力なく天を仰いだ。
その時、船上の鴇田が俺を見て何か叫んでいた。緩んだ顔は一変し、険しい形相で慌しく腕を振り回している。
俺は龍傑のことを一旦頭から締め出すと、気持ちを切り替えて船尾を駆け上がった。
そして鴇田を押し退けてキャビンの中に入った。
途端に悪臭が鼻をついた。原因は恐らく糞尿だろう。これだけの船なのだから、トイレくらいある筈だが、ラリってそこら中で垂れ流したのかもしれない。
キャビンの手前部分はダイニングで、一般家庭にあってもおかしくはないグレードのシステムキッチンと冷蔵庫があり、壁には大きなテレビモニターまで備え付けられていた。
テーブルの上には注射器や、空になったパケが散らばり、その他に銀紙に包まれた大麻らしき茶色い葉も散乱していた。
そして数人が座れるL字型ソファの上で男がうつ伏せになって寝ていた。
左手が力なく垂れている。真っ青な首もとに、十字架に磔にされたイエス・キリストのタトゥーが覗いていた。
船室の奥は寝室になっており、そこにはスペース全部を占める巨大なキングサイズベッドが鎮座していた。その中央の毛布がこんもりと盛り上がっている。きっとその中に冬子がいるのだろう。
昔、住吉の部屋に帰ると時々、室温が僅かに暖かく、ベッドの毛布が盛り上がっていることがあった。
それが何故だか少しだけ嬉しかった。あの時の感覚が今またじんわりと蘇ってきたのだ。
俺はベッドに近付き、そっと毛布を捲った。
冬子が横を向いて眠っている。
その顔は青く、口元は吐瀉物が乾燥して白く固まっているが、まるで子供のような顔で眠っていた。
俺は冬子を起こさないようにそっと抱き上げた。
冬子は眠っているのに体を硬くした。そのせいで思ったよりも重かった。前に抱き上げた時よりもずっと重かった。俺の腕力が落ちたのだろうか。
俺は冬子を落とさぬよう気を付けながら、キャビンの出口を目指した。

船尾のデッキへ出たところで、バースにいる男たちの数が増えていることに気付いた。
龍傑と趙佳一の他に複数のマリーナ係員職員、そしてその他に見覚えのある男が二人立っていた。
一人は『総映エンタープライズ』の剱持幸彦だった。
何故ここにいるのか、内心ひどく驚いたが、恐らく新保数馬が連絡したのだろう。
剱持は髪が薄くなったようだが、虫の好かない顔付きはまるで変わっていない。
そしてもっと驚くことにその隣に神原がいた。
俺の師であり、戦友でもある神原雅之(かんばらまさゆき)が――。
でも何故だ。俺は混乱した。
神原は少し太ったし、顔の下半分を覆う髭がどうにも馴染んでいない。
けれど何故ここにいるのか、俺は理解に苦しんだ。
神原に聞きたいことや話したいことが山程ある。
でもすまないが神原さん、今はそれどころじゃないんだ。今は話をしている余裕がない。

そして俺は龍傑を見つめた。
弟を失ったばかりの龍傑は人目も憚らず涙を流していた。
「龍傑大丈夫だ。大久保に在日韓国人のモグリの医者がいる。その男に診せれば、きっと冬子は助かる。だからすぐに大久保へ行こう。龍傑――、林健は自業自得だったんだ。そういう運命だったんだよ。龍傑、悪いけど先に大久保へ行こう。なあ、龍傑――」
龍傑はうなだれて首を横に振った。現実から目を逸らすように。
「黒木!」
そこで声を張り上げたのは神原だった。
「黒木、その子を下に降ろすんだ!」
「大丈夫です、俺が助けます」
しかし神原は一歩前に出て、そのまま船尾に上ってきた。
「本当にわからないのか」
「何がですか」
「それは冬子じゃない」
「何言ってんだ、冬子でしょ――。そこにいる剱持が俺たちから奪ったんだ。奪って、顔を変えて、名前も変えて、別人にしちまった。でもこの子は冬子です」
神原は俺の両肩を強く掴み、更に強く揺さぶった。
「違うんだ黒木。しっかりしろ。……冬子は死んだ。二年前にドラッグの過剰摂取で死んだんだ。お前は精一杯助けようとした。でも無理だった。助けられなかった。……いいか、黒木――、冬子はもう死んだんだ」

腕の中の冬子は重たかった。
重すぎてもうこれ以上抱いていられなかった。
だから俺は冬子を下に落としてしまった。
次の瞬間、空が回り視界が真っ黒になった。
覚えているのはそこまでだ。
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