[1-27] 毒を食らわばカモ鍋
文字数 2,846文字
そこは窓の無い部屋だった。
魔力灯で煌々と照らされた部屋は『執務室』という呼び名がふさわしい。
帳簿や資料を詰め込んだ本棚。筆記具と資料が並ぶ机。ほどよく豪華な革張りの椅子。どれもこれも真新しい。
調度品のひとつも無いのは、部屋の主の趣味でなく、単にまだ荷物をほどき終えていないからだ。
「チーフ! 通信です。援軍は送れねえって……!」
「そうか。なら、この拠点は放棄して脱出する」
部屋に駆け込んできた手下の報告を聞いて、ナイトパイソン・キーリー伯爵領統括 のデリクは気だるげに頷いた。
デリクは一見すると神経質そうな四十がらみの小男だ。
だがその実、豪快かつ豪放な性格であり、敵対する者に対しては冷酷だ。デリクについて知る者は決して彼を見くびらない。
そして何より、数字に強く頭が切れることから領ひとつを任される幹部にまで成り上がったのだ。
ここはヴォネの街の高級住宅街にある屋敷のひとつだ。
交易商人が買ったように偽装して、ナイトパイソンの領内本部とでも言うべき拠点が築かれていた。
とはいえ、実は彼らはここに移ってきたばかりだ。だというのにチーフであるデリクは拠点を放棄して出て行くという。
報告を持ってきた手下はデリクの答えを聞いて狼狽えていた。
「い、いいんですか? 引っ越したばっかなのに……」
「そりゃ『戦う』ってのは、あくまで援軍が来る前提だ。でなきゃ勝てるはずがねえ」
デリクは淡々と語る。彼にとって戦いは精神論でなく計算だ。
ナイトパイソンが抱える最高戦力は3人の用心棒だ。
ミスリルをも切り裂くカタナ使いウダノスケ。変装と暗器の扱いに長ける女暗殺者エスト。虎を殴り殺したこともあるというドワーフの格闘家ゴド。3人ともが一騎当千の猛者であり、冒険者に例えるなら第六等級 以上と言われる。このうちひとりでも借りられたなら、小領主がやっと捻出したような精鋭部隊など蹴散らせただろう。
極限まで身体を鍛えた人族は、生体魔力の循環を介して力を引き出せるようになり、生身の限界を超越した力を持つようになる。身体が自分自身に強化 魔法を掛けているような状態になるのだ。時に肉体だけでドラゴンのブレスに耐え、アイアンゴーレムすら叩き割ると言われる。用心棒たちは皆、その域に至った者であった。
対してキーリー伯爵の手勢にそこまでの者は居ない。第四等級 のパーティーである“竜の喉笛”が出張ってくるなら厄介なことになったかも知れないが、デリクは既に罠を張って“竜の喉笛”の魔術師 イリスを捕らえている。
“竜の喉笛”は大幅に戦力ダウン、さらに人質で動きを制限できる可能性もある。後は用心棒が援軍に来るなら勝てたはずだが、その要請は却下された。
局地戦で勝つよりも消耗を抑える方が得策だと上層部は判断したのだ。
「実を言うと、キーリー伯爵領からは一時撤退してもいいとまで言われてんだ。だから援軍が来ねえのは逃げろって事だよ」
「……本当すか。信じらんねえですが」
「いいんだよ。どうせキーリー伯爵領はもうすぐ領地改易で無くなるからな」
驚いた顔の部下を見てデリクは笑う。
これは今のところ内々に流れているだけの情報だ。ナイトパイソンの幹部であるデリクだから知り得たことだ。
「そもそも拠点をこの街 に移したのも、じきキーリー伯爵領が無くなってエルタレフの重要性が薄れるからだ。あそこは伯爵の居城があるって以外に大して意味が無い街だ。新しく出来る領は多分ここが中心になる。
まあ、隣領に吸収合併される可能性もあんだがな。そしたら俺は領から都市の元締めに降格だ」
「降格だなんて、そんな!」
「いいんだよ。あの石頭伯爵が消えりゃ、また成り上がる目はある。旧伯爵領は俺の庭だからな」
実際デリクは降格の可能性があることを全く気にしていなかった。
自分が担当した地域については表も裏もよく知っているし、ナイトパイソンではなくデリク自身の人脈もある。組織の中に居る限りデリクの存在は無視できないはずなのだ。
同じ理由で、今ここで伯爵領から引き上げても失地回復は十分可能だと考えていた。
「コルガに居た伯爵の手勢 がこっちへ向かったって話は来てる。明日には伯爵の手勢 がヴォネに入るだろう。
残ってる連中を掻き集めろ。今夜中にケツまくって逃げるぞ。間に合わねー奴には自力で逃げるよう伝えろ」
「了解しやした。……ところで、チーフ。捕まえた冒険者のガキはどうしますか」
「んあ? そうだな……」
持って逃げるべき物、子飼いの商人に預ける物、処分する物、このまま押収されてもいい物……を頭の中で分類し始めていたデリクは、手下に聞かれてイリスのことを思い出す。
戦いに備えて用意した捕 れ た て の人質だが、戦わずに逃げるとなるとどうするか。
「せっかく作戦がハマって捕まえられたのに、戦わねえ事になったから無意味になっちまったんだよな……
そうだな、持ってくか。もし冒険者どもが追ってきた時は人質になるかも知れんし、『女 』の『ガキ』で『魔術師』だ。顔もなかなか悪くない。不要になったとしても、売るとこに売りゃ結構な金になるぜ」
「分かりやした」
* * *
その晩は雪だった。
黒々とした闇の奥から不気味に白い雪が吹き付けてくるというのは見ているだけで心細くなるような不気味な眺めだ。まるで永遠にこの闇を抜けられないような気がして。
遠くからでは光が見えないよう術式に細工した魔力灯を掲げ、馬車のように箱状の客車を付けた数台の馬ソリが隊列を組んでいる。人が滅多に通らない旧道を通り、30人余りのナイトパイソン構成員たちが逃亡する。
馬ソリに積まれているのは現金の他、多少のマジックアイテム、帳面や借金の証文、高価な薬物類(全て違法)などだ。そんな大荷物の隙間に構成員たちが乗り込み、ついでに人質一名が転がされている。
「この先は安全を確認してます。魔物も旅人も居ません」
「ご苦労」
斥候を務めている隣領の構成員が馬ソリの小窓から報告し、中に乗っているデリクが応えた。
防寒装備の斥候は、再び雪の中へ消えて行く。
皆が順番に御者を務めているが、荷物に足を乗せて行儀悪く座るデリクは当然それに参加しない。
客車の中の闇を見つめ、今後するべき事を計算していた。
「どこまで行くんすか」
「ひとまず伯爵が動けなくなるまでは近場のティースに潜伏する。窮屈かも知れんが、長くても三ヶ月ほどの辛抱だ」
デリクがそう言った時だった。
「それじゃ困るな。大ボスの所へ連れてってもらわなきゃ」
荷物の中から声がして、直後、デリクの乗っていた馬ソリは内側から弾け飛んだ。
魔力灯で煌々と照らされた部屋は『執務室』という呼び名がふさわしい。
帳簿や資料を詰め込んだ本棚。筆記具と資料が並ぶ机。ほどよく豪華な革張りの椅子。どれもこれも真新しい。
調度品のひとつも無いのは、部屋の主の趣味でなく、単にまだ荷物をほどき終えていないからだ。
「チーフ! 通信です。援軍は送れねえって……!」
「そうか。なら、この拠点は放棄して脱出する」
部屋に駆け込んできた手下の報告を聞いて、ナイトパイソン・キーリー伯爵領
デリクは一見すると神経質そうな四十がらみの小男だ。
だがその実、豪快かつ豪放な性格であり、敵対する者に対しては冷酷だ。デリクについて知る者は決して彼を見くびらない。
そして何より、数字に強く頭が切れることから領ひとつを任される幹部にまで成り上がったのだ。
ここはヴォネの街の高級住宅街にある屋敷のひとつだ。
交易商人が買ったように偽装して、ナイトパイソンの領内本部とでも言うべき拠点が築かれていた。
とはいえ、実は彼らはここに移ってきたばかりだ。だというのにチーフであるデリクは拠点を放棄して出て行くという。
報告を持ってきた手下はデリクの答えを聞いて狼狽えていた。
「い、いいんですか? 引っ越したばっかなのに……」
「そりゃ『戦う』ってのは、あくまで援軍が来る前提だ。でなきゃ勝てるはずがねえ」
デリクは淡々と語る。彼にとって戦いは精神論でなく計算だ。
ナイトパイソンが抱える最高戦力は3人の用心棒だ。
ミスリルをも切り裂くカタナ使いウダノスケ。変装と暗器の扱いに長ける女暗殺者エスト。虎を殴り殺したこともあるというドワーフの格闘家ゴド。3人ともが一騎当千の猛者であり、冒険者に例えるなら
極限まで身体を鍛えた人族は、生体魔力の循環を介して力を引き出せるようになり、生身の限界を超越した力を持つようになる。身体が自分自身に
対してキーリー伯爵の手勢にそこまでの者は居ない。
“竜の喉笛”は大幅に戦力ダウン、さらに人質で動きを制限できる可能性もある。後は用心棒が援軍に来るなら勝てたはずだが、その要請は却下された。
局地戦で勝つよりも消耗を抑える方が得策だと上層部は判断したのだ。
「実を言うと、キーリー伯爵領からは一時撤退してもいいとまで言われてんだ。だから援軍が来ねえのは逃げろって事だよ」
「……本当すか。信じらんねえですが」
「いいんだよ。どうせキーリー伯爵領はもうすぐ領地改易で無くなるからな」
驚いた顔の部下を見てデリクは笑う。
これは今のところ内々に流れているだけの情報だ。ナイトパイソンの幹部であるデリクだから知り得たことだ。
「そもそも拠点を
まあ、隣領に吸収合併される可能性もあんだがな。そしたら俺は領から都市の元締めに降格だ」
「降格だなんて、そんな!」
「いいんだよ。あの石頭伯爵が消えりゃ、また成り上がる目はある。旧伯爵領は俺の庭だからな」
実際デリクは降格の可能性があることを全く気にしていなかった。
自分が担当した地域については表も裏もよく知っているし、ナイトパイソンではなくデリク自身の人脈もある。組織の中に居る限りデリクの存在は無視できないはずなのだ。
同じ理由で、今ここで伯爵領から引き上げても失地回復は十分可能だと考えていた。
「コルガに居た
残ってる連中を掻き集めろ。今夜中にケツまくって逃げるぞ。間に合わねー奴には自力で逃げるよう伝えろ」
「了解しやした。……ところで、チーフ。捕まえた冒険者のガキはどうしますか」
「んあ? そうだな……」
持って逃げるべき物、子飼いの商人に預ける物、処分する物、このまま押収されてもいい物……を頭の中で分類し始めていたデリクは、手下に聞かれてイリスのことを思い出す。
戦いに備えて用意した
「せっかく作戦がハマって捕まえられたのに、戦わねえ事になったから無意味になっちまったんだよな……
そうだな、持ってくか。もし冒険者どもが追ってきた時は人質になるかも知れんし、『
「分かりやした」
* * *
その晩は雪だった。
黒々とした闇の奥から不気味に白い雪が吹き付けてくるというのは見ているだけで心細くなるような不気味な眺めだ。まるで永遠にこの闇を抜けられないような気がして。
遠くからでは光が見えないよう術式に細工した魔力灯を掲げ、馬車のように箱状の客車を付けた数台の馬ソリが隊列を組んでいる。人が滅多に通らない旧道を通り、30人余りのナイトパイソン構成員たちが逃亡する。
馬ソリに積まれているのは現金の他、多少のマジックアイテム、帳面や借金の証文、高価な薬物類(全て違法)などだ。そんな大荷物の隙間に構成員たちが乗り込み、ついでに人質一名が転がされている。
「この先は安全を確認してます。魔物も旅人も居ません」
「ご苦労」
斥候を務めている隣領の構成員が馬ソリの小窓から報告し、中に乗っているデリクが応えた。
防寒装備の斥候は、再び雪の中へ消えて行く。
皆が順番に御者を務めているが、荷物に足を乗せて行儀悪く座るデリクは当然それに参加しない。
客車の中の闇を見つめ、今後するべき事を計算していた。
「どこまで行くんすか」
「ひとまず伯爵が動けなくなるまでは近場のティースに潜伏する。窮屈かも知れんが、長くても三ヶ月ほどの辛抱だ」
デリクがそう言った時だった。
「それじゃ困るな。大ボスの所へ連れてってもらわなきゃ」
荷物の中から声がして、直後、デリクの乗っていた馬ソリは内側から弾け飛んだ。