故郷への帰還(2)

文字数 2,063文字

 朔太郎の姿はあっという間に見えなくなった。
 普段は子どもや老人に合わせてゆっくりと歩く彼だったが、あの長身である、もともとはとても歩くのが速いのであろう。
 神学校をトップの成績で卒業し、助祭から司祭へと、瞬く間に駆け上がっていった。

「寂しくなりますね……」
 シスターは、新しい任地に向かって旅立った青年の後ろ姿を、名残惜しくいつまでも見守っていた。朔太郎の後を追って駆け出しそうな子どもたちをしっかりと腕に抱き留めている。
「ずっとうちの教会にいてほしかったのに」
「これも神の思し召しでしょう」朔太郎に按手を授けた司教が答える。「それに彼のような若者は、どんどん外の世界へ出ていって人々と交わるべきなのです」
「それはもっともですけれど」シスターはふと司教の顔を見上げた。「そういえば、朔太郎さんの赴任先ってどんなところなんです? なぜかずっと内緒にされていましたよね」
 司教は意味ありげな微笑を浮かべた。
「川崎特区です」
「ああ、川崎特区へ……」
 司教があまりにもさらりと口にしたので、シスターは何事もなく受け入れそうになった。
 一瞬後、彼女は目を剥いて司教を振り返った。

「川崎特区!!!!????」

 川崎特区。正式には、川崎区在留外国人自治特別区。
 川崎市南部の工業地帯に隣接する居住区である。
「日本のデトロイトとか、ゴッサム・シティとか、ソドムとゴモラとか、悪名高いあの川崎特区ですか!!??」
 曰く、外国人マフィアと地元警察が癒着し、放置国家とは名ばかり。
 曰く、特区育ちの少年たちは、そのほとんどが暴力団か半グレ組織に吸収される。
 丸腰で踏み入れるなかれ、ものの数十秒で見ぐるみ剥がれるから––
 などなど、90年代のニューヨークみたいな噂がはびこる地域である。どこまでがメディアの作り上げた虚構かわからぬが、真偽を確かめに向かったあるYouTuberは、その後消息が途絶えたらしい。

「あの小羊のような朔太郎さんをそんな場所へ……!?」
「小羊……ねえ?」
「将来有望な方をサタンが支配する地へ送るなんて、中央協議会は何を考えているのですか!?」 
 司教の意味深なつぶやきには気づかないシスターである。
 シスターのただならぬ様子に、教会学校の子どもたちが不安そうに顔を見合わせる。
「朔ちゃん先生、危ないところに行くの?」
 年長の少女は、心配そうに眉根を寄せる。つい先ほど、教会学校の子どもたちで作ったお祈りのビーズを朔太郎に手渡したばかりだった。
「こらこらシスター、あなたが大きな声を出すから子どもたちまで不安がっていますよ」
「す、すみません。でも……」
 シスターは狼狽を隠せない。
「彼なら大丈夫ですよ」
「…………」
 司教はとっくに見えなくなった朔太郎の後ろ姿を追いかけるように、遠くを見やる。教会は小高い丘の上に立っており、横浜の街を一望することができた。
「それに、特区への派遣は彼が強く希望していたことでもあるのです」
「……そうなんですか?」
「彼を少年の頃から知っていますが、ずっと強い召命感を持って生きていましたよ。聖職者になって、生まれ故郷の少年たちを救うのが自分の使命だと」
「生まれ故郷?」新たな驚きがシスターを襲った。「朔太郎さんは特区生まれなんですか!?」
「ああ、あなたはご存知なかったですか。彼は10代の頃から地元の不良少年の間では名の知れた存在でしたよ。少年院を出所した後、私たちの教会が経営する養護施設にやってきたのです」
 司教はニヤリと笑った。「ここに来たばかりの頃は、それは手がつけられない悪ガキでしたよ。彼が割って回ったステンドグラスの修繕費で、教会の財政が赤字になったものでした」
「ええ……?」
 いつも穏やかで朗らかな朔太郎からは想像がつかない。シスターは目を白黒させる。
 司教は感慨深げに言った。
「宣教不可能と言われるあの地に、彼なら奇跡を起こすかもしれない」

    *

 一同の期待を一身に負っていることを知ってか知らずか、若き司祭は軽やかな足取りでかの地を目指す。その様子は今にも踊り出さんばかり。というか踊り出した。
 もしやローマ育ちでは、と疑われてもおかしくない享楽的な気質を持つ朔太郎は、ここに来てついに喜びを抑えきれなくなったという様子で、くるくると回り出した。ロングコートの裾をひらひらとなびかせながら、詩編からなる聖歌を歌い出す。

「♪神よ すべてを越えるあなたの名をたたえ あなたに感謝をささげることはすばらしい〜」

 朔太郎はフィギュアスケーターのようにぴたっとスピンをやめると、天を仰いで両腕を広げた。
「ハレルヤ!! 主よ感謝します! ついに使命を果たす時が来たのですね!!」
 そして川崎特区の方向に向かって真っ直ぐに指をさす。
「川崎よ! 私が世直ししてみせましょう! 我が主イエス・キリストの御名によって!」

 彼が指し示した方向のずっと先には聖地エルサレムがある。
 エルサレムの方向を向いた川崎特区教会の十字架は、街を見下ろすように立っていた。あたかもその退廃を憐むかのように。
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登場人物紹介

木城朔太郎(きじょう・さくたろう)

新任司祭。川崎特区の教会に赴任する。

久我山蒼生(くがやま・あおい)

川崎特区生まれ育ちの少年。

恭平
蒼生の仲間。蒼生を慕っている。

マサ

蒼生の仲間。

ユウキ

蒼生の仲間。

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