五、天青御邇伽偈(テンセイオニカゲ)

文字数 3,501文字

 世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。
「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」
 無論だ。あの判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がふさわしいが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だったとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。
 ある秋の午睡時、今やユウヅツとの平穏な暮らしの場となった隷長屋の局室に感じのいい御前の衛士が訪れて言った。
「判官様が御馬を引けと仰せだ」
 それは御厩(おうまや)の役まわりだ。走り隷のではない。判官様の御馬ならなおさら自分のような下人に引かせて良いものではあるまいが。しかしそれが仰せとあらば、クサビごときが否応するべきことではないのだった。
 判官様の御馬は鬼鹿毛(おにかげ)という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いているが、判官様はめったに御出ましにならないので、鬼鹿毛も人の目に触れることはなく、まして牧へ来るのさえ初めてのクサビは、どのような御馬かは分からなかった。
 クサビの背丈をゆうに超える茅の草むらの中に一本の道があった。クサビと衛士はそこを連れ立って歩いてゆく。道は奥に行くほど鼻を抑えねばならないほどの異臭が漂っている。ぬかるんだ道に目を落とすとそこかしこに人骨が転がっていた。苔生したものがほとんどだが、中にはまだ腐肉がこびりついたような新しいのもあった。背後で衛士がクサビに言う。
「ヒトマグサだ」
 くぐもった声で聴き取りにくかったが、続けて
「人馬草。判官様の御馬は馬草の代わりに人を喰らう」
 と言ったので理解した。クサビはぬかるんだ地面に半分沈んだ人骨を見ながら、罪人の骸は弔わず牧に捨てる取り決めだったことを思い出した。
「すまぬがここで帰らせてもらう。あとは一人で行ってくれ」
 と言うなり衛士は踵を返し今来た道を足早に戻って行った。
 クサビは少し歩いて足を止める。とりあえず御前に曳いてゆかねばならないのだが、一人でなんとかなる相手なのか。
 茅野の道をさらに進むと、広い場所に着いた。その中央に梢が見えぬほどのヒノキが生い茂った森があって、その中だけ陽が当たらぬようだった。森の中から時折、雷のような音が響いてくる。クサビが森に近づくごとに、その間隔が短くなっていく。まるで森の中の何者かがこちらの様子をうかがって威嚇しているようだ。
 クサビがさらに一歩踏み出した時、あたりに雷鳴が響き、次いで地鳴りが起こった。身構えると、梢を超えるほどの巨大な馬が森の木をなぎ倒して躍り出て、こちらに向かって突進してきた。それは地面に届くたてがみを振り乱し、口から泡を吹き、両眼から炎のような土気をこちらに向けて放ってくる。それは馬の形をしているが紛れもなく嬰天の一、天青御邇伽偈だった。
 嬰天とはいえこれは御馬である。御馬である以上縄でくくって御前に曳かねばならない。だが、この嬰天を制御するなどできそうもなかった。こちらが喰われるか、解除するかのどちらか。その解除すら困難を極めそうな勢いだった。本来嬰天とは、心魂を種に結晶化すると言われている。心魂なき鳥獣虫にあっては、その劈開を探ることはない。以前に野犬の嬰天を解除したことがあったが、その時は劈開を探すまでもなく嬰喰が丸飲みしてしまった。だがこの天青御邇伽偈は巨大すぎる。クサビの嬰喰がそれを飲み込めるとは思えなかった。
 クサビは天青御邇伽偈の猛攻をかわしつつ方途を探した。鳥獣虫であれ心魂に変わるものがあるはず。それが分かればクサビにも勝機はある。そしてクサビは聞いたのだった。雷のごとき咆哮とは違う声を。
「など我が身を背負いたる」
 女の声だった。それは森のほうから聞こえて来る。あの森の中に何かがありそうだった。
 クサビは、天青御邇伽偈が嘶きとともに放つ鋼鉄の蹄をいなし、人馬草を喰らわんと突き出す銀盤の歯牙をよけながら弧を描きつつ横へと飛びし去り、ゆっくりとその円を狭めながら森へと近づいて行った。
 何周か繰り返すうちにも、嬰天が森を気にして必ずクサビと森との間に巨躯を置こうとしていることが分かった。やはり森には何かがある。
 威嚇するのに気を取られた天青御邇伽偈が常に森に向けていた尻を少しだけずらした。クサビは間髪を入れず森に嬰喰を放つ。
 森の中は透明な木々が折り重なっていて静寂が支配していた。そこはクサビがいつも見ているものと同じだった。人が心魂をあらわにしたとき見せる空間そのものだ。
 天青御邇伽偈の心魂。倒木の中で震えていたのは仔馬だった。クサビはその仔馬の傍に佇んでみる。仔馬の過去が今にむかってゆっくりと時を刻み始める。
 仔馬に最初に乗ったのは、小さな姫様だった。それはクサビの娘であるユウヅツだ。ユウヅツとともに仔馬は成長してゆく。ユウヅツを背に乗せて牧を駆け回る日々。裳着の晴れの日に姫様の御馬となって御前に伺候もした。ユウヅツが嫁ぐとき、引き出物として貴公子の御厩に入った。ある時、貴公子が罪を着せられ誅戮されると、ユウヅツもまた罪を負って水刑となる。その牢輿を曳いたのは仔馬だった。相模(さがみ)川に牢輿を曳いて浸りユウヅツが息絶えるのを待つ仔馬。川から上がり牢輿から引き出されるユウヅツの骸。そこで先ほど来の声が差しはさまれる。
「など我が身を背負いたる」
 嘶けど、首を振れど、蹄をならせど消えないその声に、仔馬はついに天青御邇伽偈となって、ユウヅツの骸を喰らいつくしたのだった。
 天青御邇伽偈が劈開を示した瞬間だ。クサビは己への打槌を想ったが躊躇しなかった。判官様が後ろ盾になればユウヅツはあの局室以上のものを手に入れるだろう。そう確信してクサビは劈開に向け一気に嬰喰を捻じ込んだ。
 暗闇の中で打槌の音がする。臍の緒を断ち切るがごとき苦悶とともに目が覚める。見上げるとそこに立ってクサビを見下ろしていたのはスハエだった。冷ややかに言う。
「御馬を解除したか。ならば、罪は上等、獄門に掛く」
 御馬を曳かねば断罪されることは想定内だった。その御馬が嬰天だと知った時、この役が我が身の死地と悟った。もし首尾よく御前に曳けたとしてもそれは嬰天、御前を穢すことになる。一度御前に嬰喰をはなった身、次があれば死罪であると分かっていた。
「判官様は、何故にこのクサビを処罰なさろうとする」
 スハエは手を伸ばし側の茅をむしり取ると、
「聞きたいか。ならば教えてやろう」
 茅の皮をむきながら、
「糞の娘が欲しいんだとよ」
 と言った。
 ユウヅツを? 裳着の後見でなく、嫁にということか?
「判官様が糞に興味を持っておいでだったのは知ってるか」
 クサビが首を横に振る。
「御前に糞を巻き散らかしたは本来ならば死罪のはず。ところが幽閉にとどまり、さらに放免あって復帰ときた。おかしかろう」
 それはクサビ自身も不可解に思っていた。
「糞のことを『わがてるて』と思っておられたからだ」
「わがてるて」
「知らぬ。意味など問うたこともない」
 スハエが吐き捨てるように言った。
「ところがだ、糞が娘を庁に連れてきてから判官様は変わられた。『わがてるて』は糞の娘になった。そして糞は厠へということだ。まあ、こっちも捨てられたがな」
 クサビは嫌な予感がした。
「娘はどうした」
「知らぬ」
 とスハエはそっけない様子で言うとクサビに背を向け中空に舞い上がった。
「捕えぬのか」
「これより逃亡する。戻ればいずれ糞と同じ目にあうは必定ゆえ」
 スハエはそう言うと、茅野の穂先に光彩をかすめながら飛び去った。
 クサビは泥だらけの装束を拾って羽織り、茅の道を駆けだした。茅野を抜けて牧に出ると、木柵の向こうで長槍を手にした衛士が手招きしているのが見えた。近づくとザワだった。クサビが口を開くより先にザワは言った。
「ユウヅツが判官様に連れて行かれた」
 ザワが指さした方を振り仰ぐと、不死の山の噴煙の向こうに茜色の空が広がり、さらに高い紺青の中に一つ星が瞬いているのが見えた。
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