第1話 父と娘とベランダと
文字数 4,905文字
◇父
疲れた。とにかく疲れた。今すぐ眠りたい。
瞼が重い。肩もずしりと荷を背負っているかのように重い。足も棒になったように感覚がない。
アパートの階段を一段一段重い足取りで踏みしめ、ただ身体を前に進める。
もうすぐ家だ。眠れる。布団が俺を待っている。ただただ横になりたい。
上司の愚痴も、後輩の尻拭いも、顧客のクレームも、一旦すべて忘れよう。
ドアノブを引き、あたたかな明かりが俺を迎えた。
「ただいまぁ」
力の抜けた声で言うと、
「あ、ぱぱ、おかえりー」
娘の千佳がぱたぱたと駆け寄ってきた。今年で三歳になった娘は、よく喋る。学習能力が高いのか、色んな言葉を覚える。この前は「株価」なんて言葉を舌ったらずに唱えていた。どこで覚えたんだ。ちなみに千佳が最初に喋った言葉は「ぱぱ」だ。その時の感動は今でも忘れられない。お母さんが歯を食いしばって悔しがっていたことを覚えている。へへん、千佳はぱぱっこなのだ。
そんな愛しい我が子の小さい頭を撫でながら、
「お母さんは?」
と訊くと、
「ままはお出かけー」
「まじか」
そういえば、今日はママ友と会食って言ってたな……。ということは、
「ちか、飯は食ったか?」
「ううん。まだ」
「だよな……」
まじかあ……。これから作る気力はない。冷蔵庫の中身と相談して、冷凍食品があったらそれを解凍だな……。
やることが増えて、身体がズシリと重くなった気がした。ああ、今すぐ眠りたいのに……。
「ちょっと待ってな。お父さん、着替えてくるから」
「うん」
千佳は頷きながら、俺の後ろを付いていく。キッチンを出て、ダイニングとつながった和室のドアを開ける。そこが家族三人で寝る部屋になっていた。
しかし、開けた途端、頭が真っ白になった。
畳にごちゃあと広げられた人形。人形服。お人形の家。赤いランドセル。
汚い。布団も敷けない。眠れない。
「……千佳。何度も遊んだら片付けろって言ったよな」
凄惨な状況から目を離さず、後ろにいる千佳に尋ねる。
「え、でもまだ遊んでて、」
「何時だと思ってんだ。九時だぞ。なんで片付けてないんだ」
「……っ」
千佳が押し黙った。何も言わない。いつもはあんなにお喋りなのに。
「なあ、分かってるのか。聞いてんのか」
「……」
俺の顔を見たまま、何もしゃべらない。
「お前には口がないのか。喋れないのか」
何も言わない。黙ったままふるふると震えている。
頭の中で何かが切れた。たまったものが溢れた。
「もういい。喋れるようになるまで外に出てろ」
千佳の腕を掴んで、和室の奥に進み、ベランダのガラス窓をがらがらっと開けた。肌寒い風がびゅうと吹き込んできた。
「やだあっ。ぱぱごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
抵抗する千佳をベランダへ放り投げて、ガラス窓を閉め、鍵をかける。
「そこでちゃんと反省しろ」
ガラス越しにそう言いつけ、俺はカーテンを閉めた。
これで少しは反省するだろう。
俺は無造作に広げられたおもちゃの残骸を眺め、また腹が立った。
何かを口にする気にもなれない。
俺はむしゃくしゃして、とにかく体が限界で、横になりたかった。
広げられたおもちゃを足で部屋の隅に押しやり、布団を広げられるスペースを作って、そこに敷き、寝た。
ただ、今は何もかも忘れたかった。
俺が目を覚ましたのは、日が変わる頃だった。
◇娘
寒い。手がかじかんで震える。
わたしは赤くなった手に、はあと息を吹きかける。白い煙が立ち上って、手の隙間からこぼれていく。
喉がまだひくひくと痙攣している。泣きすぎた。さっきまでずっと泣いていた。寒くて、訳が分からなくて、ただただ混乱していて、どうしたらいいか分からなくて、泣くことしかできなかった。
ぱぱが怒った。
いつも優しいぱぱが。お腹にのっけてトトロごっこをさせてくれるぱぱが。
でも、わたしには何がいけなかったのか分からない。何が悪かったのか分からない。
だけど、ぱぱが怒ったってことはわたしが悪いんだ。わたしが悪いことをしたんだ。それだけは絶対だった。
ぱぱは怒るとよくわたしをベランダに閉め出す。ベランダは反省部屋だ。わたしがちゃんと自分の行いを反省するための空間。
だけど、何を反省していいか分からない。ごめんなさいと言うしかない。
反省したかと聞かれれば、頷くしかない。
ぱぱはそれで許してくれる。頷いたら、じゃあ中に入りなさいと部屋に入れてくれる。
寒い。寒い。でも、絶対ぱぱは部屋の中に入れてくれる。それまで待つんだ。
ぎゅっと膝を抱える。真っ暗な空に浮かぶお月様。
お月様、ぱぱはいつ扉を開けてくれますか?
**
◇父
ぐちゃぐちゃ。どったんっばったん。がちゃがちゃ。
目の前の千佳が鳴らす音だ。千佳は五歳になった。
明日は遠足で海に行くらしく、準備したお菓子を手元に置いて、にこにこと一歳の優香に話しかけている。
「おねえちゃんね、明日海に行くんだよー。おみやげに貝殻拾ってきてあげるねー」
千佳は自分の手元を見ずに、スプーンでごはんをかき交ぜている。またぐちゃぐちゃと音がする。
「貝殻に耳を当てるとね、海の音が聞こえるんだってー」
興奮した千佳が足をばたつかせて椅子が揺れる。どったんばったん。
きょとんとした顔で千佳を見つめる優香は、姉の真似をしたいのか、うーうーと言いながら手をばたばたと動かした。
「優香も楽しみー? 私も楽しみー」
千佳がご飯茶碗を置いて、汁椀を手にした。勢いあまって汁がこぼれる。
「千佳、行儀よく食べなさい」
こみあげてくる苛立ちを抑えながら、注意すると、
「え?」
と千佳がこちらを見た。汁椀とご飯茶碗がぶつかって、米がこぼれた。
我慢の限界だった。何かが切れた。
目の前にあったトレーを掴んで、中身を千佳の頭にぶつけた。
◇娘
何が起こったのか、分からなかった。
お父さんが、目の前にあった納豆パックを掴んで、それで、私の頭の上に手を伸ばして、なにかがべとりと落ちる感触がした。
それは、ずるずると落ちて、私の額をつたった。濡れた豆。ねばねばした、醤油の匂いがきつい豆。
なんで、私の頭の上から?
私は、呆然としてお父さんの顔を見た。
お父さんは、すごい形相で私を睨んでいた。眉間に寄った皺。血走った目。
納豆の感触と、お父さんの怒りに挟まれて、どうしていいか分からなくなった。
体の感覚がなくなった。
ただ、目頭が熱くなって――気づいたら私は声をあげて泣き喚いていた。
**
◇父
千佳は頻繁に学校を休むようになった。高校二年生の夏からだ。
「学校で何かあったのか」
千佳と同じ中高一貫校に通っている優香に尋ねると、優香は分かんないと首を振った。
「でも、なんかね、朝になるとお腹が痛くなるんだって、お姉ちゃん。差し込みみたいな痛みがして動けないって」
そう聞いた瞬間、仮病という文字が頭に浮かんだ。学校で何か嫌なことがあって、行きたくなくて嘘をついているのではないか、と。
夕食の時間、千佳に尋ねてみた。
「千佳、お腹が痛いのか」
「……うん」
千佳は俯きながら頷いた。こちらを見ない。
「今も痛いのか」
「……朝だけ痛くなって、お昼ごろにはおさまってる」
これは、仮病だなという確信があった。もし、いじめられていたり、人間関係で問題があるなら聞き出さなくてはならない。
「千佳、本当は痛くないんじゃないのか」
「お父さん」
隣に座っていたお母さんが声をあげた。無視して続ける。
「学校で嫌なことがあるんだろう。あるなら言いなさい。言わないと何も変わらないぞ」
語気を強くして言うと、千佳はぎゅっと拳を握りしめた。そして、暫く何も言わず、そしてふと席を立った。
「ごちそうさま」
と言い残して部屋を出ていこうとする。
「千佳!」
その背中に叫んだが、千佳は何の反応もせずにドアをばたんと閉めて出ていった。
「お父さん、あんな言い方は良くないよ」
優香がたしなめる。
「なんでだ。言わなきゃ分からないだろう」
「あんな言い方じゃ言いたくても言えないよ」
「じゃあどうしろって言うんだ」
詰めるように言うと、優香は顔を顰めた。
「お父さんにも原因があるんじゃないの」
優香は冷たく言い放った。棘のある口調だった。どういうことだ。
「……まあ、いいけどね」
優香も席を立って、部屋を出っていった。
「お父さん、明日千佳と病院行ってくるから」
お母さんがなだめるように言う。俺は「ああ……」と納得のいかない思いを抱えたまま飯を口に運んだ。味はしなかった。
翌日、千佳は「過敏性胃腸症候群」と診断された。
◇娘
分かってる。私が一番。
お父さんに、言われたこと。
本当は痛くないんじゃないのか。
痛いと思っているのは思い込みで、本当は痛みなんてない。私の学校に行きたくない気持ちが、痛みを引き出してしまっている。
でも、もうしんどいんだよ。
学校にいても、友達やクラスメイトの言葉に敏感になってしまっている自分がいる。心休まるときがない。何気ない一言でさえ、私の存在を揺らがしてしまう。存在価値に打撃を受けてしまう。
そのたびに痛くなる。お腹が悲鳴をあげる。
でも、その痛みは本当にあるのか分からない。
どうして、こんなになってしまったんだろう。
どうして、こんなに誰かの言葉に傷つきやすい人になってしまったんだろう。
そう思うたびに、思い浮かぶ光景がある。
お月様。ベランダで見上げたお月様。寒さに耐えながら見つめたお月様。
でも、違う。違うんだ。首を振って、そのシーンを振り払う。
もし、そうだとしたら私は。
お父さんを恨んでしまう。
認めたくない。
嫌いたくない。
思いたくない。
お父さんが私に「虐待」をしていたなんて。
それが原因で、私は傷つきやすい人間になってしまったなんて。
私は布団をかぶって、夜が更けるのをただじっと待った。
翌日、私は「過敏性胃腸症候群」と診断された。
そして、検索してしまった。
「過敏性胃腸症候群 虐待」と。
**
◇父
優香の言葉が頭から離れなかった。
お父さんにも原因がるんじゃないの。
そして、千佳に先日つけられた「過敏性胃腸症候群」という病名。
仮病ではなかった。少なくとも、千佳の腹痛は本当だった。
……俺は、なんてことを言ってしまったんだろう。
そんな後悔が湧き上がると同時に、自分の親としてのプライドが邪魔をする。俺は父親として心配したんだ。俺なりに心配していたんだ。それが少し間違っていただけだ。
そう正当化しようとする自分。それでも、むなしい。
親ってのは、それでいいのか。親として、俺は正しいのか。
いつの間にか、俺はパソコンの前に座って、「過敏性胃腸症候群 父親」と検索していた。
そして、ある記事に行きついてしまった。
**
◇娘
「ねえ、お父さん」
「どうした」
「あのね、私のお父さんとの思い出を記事にしたいんだけど」
「虐待のことか」
「……うん」
「好きに書いたらいい」
「ありがとう」
「……お前は、俺を憎んでくれていいんだぞ」
「……なんでそんなこと言うの?」
「俺はお前の人生をめちゃくちゃにしてしまったからな。恨まれて当然だ」
お父さんの、寂しげな横顔。もうその頬にはいくつもの皺が刻まれている。お父さんは50歳。私は20歳になった。
「俺が、未熟だったんだ」
私の中から、得体の知れない感情が込み上げてくる。
違う。ほしいのはそんな言葉じゃない。
憎んでもいない。恨んでもいない。
自分でも分からない。
でも。
そうやって、嫌われて当然だって思ってるお父さんが、私は大っ嫌いだよ。
疲れた。とにかく疲れた。今すぐ眠りたい。
瞼が重い。肩もずしりと荷を背負っているかのように重い。足も棒になったように感覚がない。
アパートの階段を一段一段重い足取りで踏みしめ、ただ身体を前に進める。
もうすぐ家だ。眠れる。布団が俺を待っている。ただただ横になりたい。
上司の愚痴も、後輩の尻拭いも、顧客のクレームも、一旦すべて忘れよう。
ドアノブを引き、あたたかな明かりが俺を迎えた。
「ただいまぁ」
力の抜けた声で言うと、
「あ、ぱぱ、おかえりー」
娘の千佳がぱたぱたと駆け寄ってきた。今年で三歳になった娘は、よく喋る。学習能力が高いのか、色んな言葉を覚える。この前は「株価」なんて言葉を舌ったらずに唱えていた。どこで覚えたんだ。ちなみに千佳が最初に喋った言葉は「ぱぱ」だ。その時の感動は今でも忘れられない。お母さんが歯を食いしばって悔しがっていたことを覚えている。へへん、千佳はぱぱっこなのだ。
そんな愛しい我が子の小さい頭を撫でながら、
「お母さんは?」
と訊くと、
「ままはお出かけー」
「まじか」
そういえば、今日はママ友と会食って言ってたな……。ということは、
「ちか、飯は食ったか?」
「ううん。まだ」
「だよな……」
まじかあ……。これから作る気力はない。冷蔵庫の中身と相談して、冷凍食品があったらそれを解凍だな……。
やることが増えて、身体がズシリと重くなった気がした。ああ、今すぐ眠りたいのに……。
「ちょっと待ってな。お父さん、着替えてくるから」
「うん」
千佳は頷きながら、俺の後ろを付いていく。キッチンを出て、ダイニングとつながった和室のドアを開ける。そこが家族三人で寝る部屋になっていた。
しかし、開けた途端、頭が真っ白になった。
畳にごちゃあと広げられた人形。人形服。お人形の家。赤いランドセル。
汚い。布団も敷けない。眠れない。
「……千佳。何度も遊んだら片付けろって言ったよな」
凄惨な状況から目を離さず、後ろにいる千佳に尋ねる。
「え、でもまだ遊んでて、」
「何時だと思ってんだ。九時だぞ。なんで片付けてないんだ」
「……っ」
千佳が押し黙った。何も言わない。いつもはあんなにお喋りなのに。
「なあ、分かってるのか。聞いてんのか」
「……」
俺の顔を見たまま、何もしゃべらない。
「お前には口がないのか。喋れないのか」
何も言わない。黙ったままふるふると震えている。
頭の中で何かが切れた。たまったものが溢れた。
「もういい。喋れるようになるまで外に出てろ」
千佳の腕を掴んで、和室の奥に進み、ベランダのガラス窓をがらがらっと開けた。肌寒い風がびゅうと吹き込んできた。
「やだあっ。ぱぱごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
抵抗する千佳をベランダへ放り投げて、ガラス窓を閉め、鍵をかける。
「そこでちゃんと反省しろ」
ガラス越しにそう言いつけ、俺はカーテンを閉めた。
これで少しは反省するだろう。
俺は無造作に広げられたおもちゃの残骸を眺め、また腹が立った。
何かを口にする気にもなれない。
俺はむしゃくしゃして、とにかく体が限界で、横になりたかった。
広げられたおもちゃを足で部屋の隅に押しやり、布団を広げられるスペースを作って、そこに敷き、寝た。
ただ、今は何もかも忘れたかった。
俺が目を覚ましたのは、日が変わる頃だった。
◇娘
寒い。手がかじかんで震える。
わたしは赤くなった手に、はあと息を吹きかける。白い煙が立ち上って、手の隙間からこぼれていく。
喉がまだひくひくと痙攣している。泣きすぎた。さっきまでずっと泣いていた。寒くて、訳が分からなくて、ただただ混乱していて、どうしたらいいか分からなくて、泣くことしかできなかった。
ぱぱが怒った。
いつも優しいぱぱが。お腹にのっけてトトロごっこをさせてくれるぱぱが。
でも、わたしには何がいけなかったのか分からない。何が悪かったのか分からない。
だけど、ぱぱが怒ったってことはわたしが悪いんだ。わたしが悪いことをしたんだ。それだけは絶対だった。
ぱぱは怒るとよくわたしをベランダに閉め出す。ベランダは反省部屋だ。わたしがちゃんと自分の行いを反省するための空間。
だけど、何を反省していいか分からない。ごめんなさいと言うしかない。
反省したかと聞かれれば、頷くしかない。
ぱぱはそれで許してくれる。頷いたら、じゃあ中に入りなさいと部屋に入れてくれる。
寒い。寒い。でも、絶対ぱぱは部屋の中に入れてくれる。それまで待つんだ。
ぎゅっと膝を抱える。真っ暗な空に浮かぶお月様。
お月様、ぱぱはいつ扉を開けてくれますか?
**
◇父
ぐちゃぐちゃ。どったんっばったん。がちゃがちゃ。
目の前の千佳が鳴らす音だ。千佳は五歳になった。
明日は遠足で海に行くらしく、準備したお菓子を手元に置いて、にこにこと一歳の優香に話しかけている。
「おねえちゃんね、明日海に行くんだよー。おみやげに貝殻拾ってきてあげるねー」
千佳は自分の手元を見ずに、スプーンでごはんをかき交ぜている。またぐちゃぐちゃと音がする。
「貝殻に耳を当てるとね、海の音が聞こえるんだってー」
興奮した千佳が足をばたつかせて椅子が揺れる。どったんばったん。
きょとんとした顔で千佳を見つめる優香は、姉の真似をしたいのか、うーうーと言いながら手をばたばたと動かした。
「優香も楽しみー? 私も楽しみー」
千佳がご飯茶碗を置いて、汁椀を手にした。勢いあまって汁がこぼれる。
「千佳、行儀よく食べなさい」
こみあげてくる苛立ちを抑えながら、注意すると、
「え?」
と千佳がこちらを見た。汁椀とご飯茶碗がぶつかって、米がこぼれた。
我慢の限界だった。何かが切れた。
目の前にあったトレーを掴んで、中身を千佳の頭にぶつけた。
◇娘
何が起こったのか、分からなかった。
お父さんが、目の前にあった納豆パックを掴んで、それで、私の頭の上に手を伸ばして、なにかがべとりと落ちる感触がした。
それは、ずるずると落ちて、私の額をつたった。濡れた豆。ねばねばした、醤油の匂いがきつい豆。
なんで、私の頭の上から?
私は、呆然としてお父さんの顔を見た。
お父さんは、すごい形相で私を睨んでいた。眉間に寄った皺。血走った目。
納豆の感触と、お父さんの怒りに挟まれて、どうしていいか分からなくなった。
体の感覚がなくなった。
ただ、目頭が熱くなって――気づいたら私は声をあげて泣き喚いていた。
**
◇父
千佳は頻繁に学校を休むようになった。高校二年生の夏からだ。
「学校で何かあったのか」
千佳と同じ中高一貫校に通っている優香に尋ねると、優香は分かんないと首を振った。
「でも、なんかね、朝になるとお腹が痛くなるんだって、お姉ちゃん。差し込みみたいな痛みがして動けないって」
そう聞いた瞬間、仮病という文字が頭に浮かんだ。学校で何か嫌なことがあって、行きたくなくて嘘をついているのではないか、と。
夕食の時間、千佳に尋ねてみた。
「千佳、お腹が痛いのか」
「……うん」
千佳は俯きながら頷いた。こちらを見ない。
「今も痛いのか」
「……朝だけ痛くなって、お昼ごろにはおさまってる」
これは、仮病だなという確信があった。もし、いじめられていたり、人間関係で問題があるなら聞き出さなくてはならない。
「千佳、本当は痛くないんじゃないのか」
「お父さん」
隣に座っていたお母さんが声をあげた。無視して続ける。
「学校で嫌なことがあるんだろう。あるなら言いなさい。言わないと何も変わらないぞ」
語気を強くして言うと、千佳はぎゅっと拳を握りしめた。そして、暫く何も言わず、そしてふと席を立った。
「ごちそうさま」
と言い残して部屋を出ていこうとする。
「千佳!」
その背中に叫んだが、千佳は何の反応もせずにドアをばたんと閉めて出ていった。
「お父さん、あんな言い方は良くないよ」
優香がたしなめる。
「なんでだ。言わなきゃ分からないだろう」
「あんな言い方じゃ言いたくても言えないよ」
「じゃあどうしろって言うんだ」
詰めるように言うと、優香は顔を顰めた。
「お父さんにも原因があるんじゃないの」
優香は冷たく言い放った。棘のある口調だった。どういうことだ。
「……まあ、いいけどね」
優香も席を立って、部屋を出っていった。
「お父さん、明日千佳と病院行ってくるから」
お母さんがなだめるように言う。俺は「ああ……」と納得のいかない思いを抱えたまま飯を口に運んだ。味はしなかった。
翌日、千佳は「過敏性胃腸症候群」と診断された。
◇娘
分かってる。私が一番。
お父さんに、言われたこと。
本当は痛くないんじゃないのか。
痛いと思っているのは思い込みで、本当は痛みなんてない。私の学校に行きたくない気持ちが、痛みを引き出してしまっている。
でも、もうしんどいんだよ。
学校にいても、友達やクラスメイトの言葉に敏感になってしまっている自分がいる。心休まるときがない。何気ない一言でさえ、私の存在を揺らがしてしまう。存在価値に打撃を受けてしまう。
そのたびに痛くなる。お腹が悲鳴をあげる。
でも、その痛みは本当にあるのか分からない。
どうして、こんなになってしまったんだろう。
どうして、こんなに誰かの言葉に傷つきやすい人になってしまったんだろう。
そう思うたびに、思い浮かぶ光景がある。
お月様。ベランダで見上げたお月様。寒さに耐えながら見つめたお月様。
でも、違う。違うんだ。首を振って、そのシーンを振り払う。
もし、そうだとしたら私は。
お父さんを恨んでしまう。
認めたくない。
嫌いたくない。
思いたくない。
お父さんが私に「虐待」をしていたなんて。
それが原因で、私は傷つきやすい人間になってしまったなんて。
私は布団をかぶって、夜が更けるのをただじっと待った。
翌日、私は「過敏性胃腸症候群」と診断された。
そして、検索してしまった。
「過敏性胃腸症候群 虐待」と。
**
◇父
優香の言葉が頭から離れなかった。
お父さんにも原因がるんじゃないの。
そして、千佳に先日つけられた「過敏性胃腸症候群」という病名。
仮病ではなかった。少なくとも、千佳の腹痛は本当だった。
……俺は、なんてことを言ってしまったんだろう。
そんな後悔が湧き上がると同時に、自分の親としてのプライドが邪魔をする。俺は父親として心配したんだ。俺なりに心配していたんだ。それが少し間違っていただけだ。
そう正当化しようとする自分。それでも、むなしい。
親ってのは、それでいいのか。親として、俺は正しいのか。
いつの間にか、俺はパソコンの前に座って、「過敏性胃腸症候群 父親」と検索していた。
そして、ある記事に行きついてしまった。
**
◇娘
「ねえ、お父さん」
「どうした」
「あのね、私のお父さんとの思い出を記事にしたいんだけど」
「虐待のことか」
「……うん」
「好きに書いたらいい」
「ありがとう」
「……お前は、俺を憎んでくれていいんだぞ」
「……なんでそんなこと言うの?」
「俺はお前の人生をめちゃくちゃにしてしまったからな。恨まれて当然だ」
お父さんの、寂しげな横顔。もうその頬にはいくつもの皺が刻まれている。お父さんは50歳。私は20歳になった。
「俺が、未熟だったんだ」
私の中から、得体の知れない感情が込み上げてくる。
違う。ほしいのはそんな言葉じゃない。
憎んでもいない。恨んでもいない。
自分でも分からない。
でも。
そうやって、嫌われて当然だって思ってるお父さんが、私は大っ嫌いだよ。