文字数 7,629文字

 毎日をどうにかやり過ごしているうちに、気がつけば二月が終わっていた。
 日中はAFFの業務にひたすら没頭して過ごした。幸いと言うべきか、受験シーズンでもあり、やることはいくらでもあった。ボランティアのローテーションを組み、先生方と打ち合わせをしてプリントを準備し、休みがちな子に電話を入れる。その繰り返し。
 問題は夜だった。
 学習会がある日は、部屋に帰り着くのが十時過ぎになるから、まだいい。区民センターの小会議室に足を踏み入れた瞬間に、鉛筆を手に机に向かっていた長谷さんを思い出して立ち止まってしまうことがあったとしても、自宅にたどり着いた時には疲れ果てていて、どうにか眠ることができる。
 何もない夜は、余計なことを考えないように、テレビをつけっ放しにして、興味もない番組を見続けた。真夜中を過ぎて、眠りが向こうからやってきてくれるまで。
 それでも、夢を見る。それだけは自分ではどうしようもない。でも、時間に任せていれば、きっとこの痛みは薄らいでいくはずだ。それだけを信じて毎日を繰り返している。
 事務局のミーティングテーブルにいつものトートバッグを置き、区民センターに運ぶ用紙や筆記具を準備していると、ドアが開いてスミレ先生が顔を見せた。今日は白衣ではなく、ちゃんとコートを羽織っている。
「理香ちゃん、そろそろ出る頃かなと思って。今日はわたしも参加するから、一緒に行かない?」
「え?」理香は、反射的に時計を見た。まだ五時半だ。「あの、病院は?」
「木曜日だもの」
 言われてようやく気がついた。確かに今日は木曜日で、小児科は午後休診だ。高校入試が目前に迫り、普段はお休みの曜日にも学習会を行っているので、曜日の感覚がおかしくなっているらしい。
「なんか、曜日が分からなくなってました」
 笑って言ったのに、スミレ先生の表情が曇った。
「理香ちゃんさあ──」
 先生が言いかけた時、事務局の机の上で、理香のスマホが振動した。二回震えて止まる。理香は、顔を向けることすらせずに、棚から鉛筆が入った箱を取り出し、トートバッグに入れた。
「スマホ、いいの?」
「ああ、いいんです」ちらっと見ると、ブルーのLEDが点滅していた。「宣伝か何かだと思いますから。──最近、多くって」
 たぶん、自然に言えたんじゃないかと思う。後ろめたいけれど、本当のことを言うわけにはいかない。
 あの日から何度も、長谷さんから連絡があっていた。でも、電話には一度も出ていないし、メールは開封すらしていない。
 最初の電話は、長谷さんが住む街から遠ざかっていくタクシーの中で、ぼんやりと窓の外を眺めている時にかかってきた。
 液晶画面に表示された、大好きな人の名前。突然いなくなって心配しているだろう、こんな風に逃げ出すんじゃなくて、ちゃんと話をするべきだったかもしれない。そう思ったけれど、長谷さんの声を聞いてしまったら最後、二度と離れる勇気なんて持てなくなってしまいそうな気がして、ただ、振動しつづけるスマホを握りしめていた。
 それからもずっと、着信があるたびに必死の思いで無視し続けた。一日、二日と過ぎるにつれて着信の回数は減っていき、ひと月が経った今では、さすがにもうかかってはこない。
 それでも、時々思い出したかのようにメールが届く。何が書かれているのかは知らない。未読のまま、けれど削除することもできないメールが、何通も何通もたまっていく。
 こうやって、連絡が間遠になっていって、やがて途絶え、完全に終わるのだろう。その過程を見続けるのはつらいけれど、これでいい。きっと間違っていない。今は苦しくても、これで誰かのことを傷つけずに済む。
「準備、できました」
 理香は言いながら、コートのボタンを留め、マフラーを首に巻いた。スミレ先生に先に出てもらい、電気を消して戸締りをする。
 スミレ先生は、外階段の下で待っていてくれた。
「お待たせしてすみません」
 トートバッグを肩にかけ急ぎ足で降りてきた理香に、スミレ先生が「あわてなくていいのよ」と、いつもののんきな口調で言った。二人並んで区民センターへの道を歩き出す。
「寒いわねえ。もう三月だなんて、嘘みたい」
 独り言みたいに先生が言う。理香はうなずいた。
「本当ですね」
 風の冷たさは真冬も今も変わらない。春はどこにいるんだろう、ちゃんといつかはやって来るんだろうか。
 理香は、落ち込んでいきそうな気持ちを押さえて、「スミレ先生」と明るく声をかけた。
「そう言えば、一緒に行こうだなんて初めてじゃないですか? どうかしたんですか?」
「別に、どうかしたわけじゃないけど」スミレ先生は柔らかくほほえんだ。「最近、ゆっくり話せてなかったなあって思って。なーんか忙しくて、お昼ごはんも一緒に食べられなかったし」
 そう言えば、最近、先生のコンビニランチを見ていなかった。
「インフルエンザ、流行ってますしね」
「そうそう。ノロウイルスもすごいのよ。ちびっこが大挙してやって来ちゃって、もう大変」先生は軽く笑った。それからしばらく黙って歩いていたかと思うと、ふいに立ち止まった。「ねえ、理香ちゃん、大丈夫?」
 一瞬、何と答えていいのか分からなかった。
「──突然、どうしたんですか」
「この間からずっと、理香ちゃん、身を削るみたいにして仕事してる。もしかして、何かあった? 少し心配してる」
「何もありませんよ」
「本当に?」
「──はい」
 スミレ先生の気持ちが伝わってくる。でも、とても人に話せるようなことじゃない。
──すみません。
 理香は、心の中でスミレ先生に詫びた。
「それなら、いいんだけど」
 先生は真面目な表情で理香を見つめ、それから「行こっか」と軽く言って、再び歩き出した。


 区民センターに到着して、いつものように学習会の会場を準備した。慣れた作業で、何も考えなくても身体が勝手に動いてくれる。そのことが心底ありがたかった。
 学習会が始まって、大会議室の長机の間を歩きながら質問に答えていると、入り口近くで中学生の面倒を見ていた篠崎先生に「理香先生」と呼ばれた。見ると、今日約束をしている相手がドアの脇に立っていた。理香は急ぎ足で廊下に出た。
「お待たせしてすみません」
 頭を下げた理香に、野中さんは「こっちこそ、呼び出しちゃって」と申し訳なさげに口にした。「今日はよろしくお願いします」
 野中さんは、区民センターがある学区を担当するスクールソーシャルワーカーだ。学校を拠点に生徒を支援する社会福祉の専門職で、区の教育委員会に所属している。
 野中さんが扱う問題は多岐にわたっている。いじめや不登校、それに、非行、虐待、学力、進学──。家庭環境や、時には経済状況にまで踏み込んで、いくつもの専門機関と連絡を取り合いながら問題の解決にあたっていく。それが野中さんの仕事だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 男性にしては小柄な野中さんの後ろに隠れるようにして、さらに小柄な女子生徒が立っていた。肩の下まである髪を一つに束ね、眼鏡をかけている。慣れない場所に緊張しているのか、表情が硬い。理香は少しでも安心させたくて「こんばんは」と笑顔をつくってみせた。
 隣の小会議室に移動し、向かい合って座った。女子生徒は勧められるままに椅子に腰を下ろしたものの、膝の上に視線を落としたまま、顔を上げようとしない。
「この人がね、山村さんって言って、この学習会の事務局の方だよ」野中さんは生徒と理香を交互に見ながら、ゆっくり言った。「山村さん、こちらは早瀬さん。中学二年生です。通うかどうかは見学してから決めようっていうことで、まずはのぞきに来ました」
 野中さんの言葉に、早瀬さんはかすかにうなずいた。ちょっとでも反応があったことに少しだけほっとする。
「大丈夫ですよ、ゆっくり決めてもらえたら」
 理香が言ったところに、和希ちゃんが「こんばんはー」と言いながら飛び込んできた。いつもの調子で、隅の長机の上にバッグをぽいっと置く。
「お、新入り?」
 和希ちゃんの目がきらっと光った。理香は苦笑した。
「まだ決めてないって」
「じゃ、見学だ。歓迎、歓迎。あたし、案内しよっか」
 この緊張具合だと、どうかな?
 そう思ったのに、和希ちゃんが「ほら、おいで」と促すと、早瀬さんはつられたように立ち上がった。そのまま和希ちゃんについて廊下に出ていく。
──名前、なんての? ミキちゃん? あ、中二なんだ。あたし、カズキって言うんだけど、あたしの妹もさあ──。
 滑舌のいい和希ちゃんの声が、大会議室に向かって遠ざかっていく。
 二人が出ていったあともドアの方を見ていた野中さんが、理香に視線を戻し、感心したように言った。
「前にも思ったけど、あの子、すごいですよねえ」
「そうなんです」
 まるで自分が褒められたみたいに嬉しくなった。和希ちゃんは単に社交的なだけじゃない。雑に話しているようにみえるけれど、ちゃんと相手を見て、気持ちを考えながら言葉や態度を選んでいる。しかも、計算じゃなくて自然にやっているのがすごいと思う。
「まだ学生なのに、すごいなあって、いつも思ってます」
 勢い込んで言った理香に、野中さんが苦笑いした。
「相変わらずですよねえ、山村さんも」
「わたし、何か変なこと──」
「いや、傍から見れば、山村さんだって十分すごいのにと思って。AFFさんは本当に信頼感があるというか、僕たちも安心して連携できるというか。正直、NPOにもいろんな団体がありますから」
 返事に困っていたら、大会議室のざわめきに交じって足音が廊下を近づいてきて、和希ちゃんと早瀬さんが顔を見せた。
「ミキちゃん、お試しで勉強していくって。ほら、カバン持っておいでよ」
 早瀬さんがぱたぱたと部屋に入ってきて、カバンを手に出て行った。さっきよりも足取りが軽い。
「何やる? 数学? 英語?」
「数学──」
 再び、二人の会話が遠ざかっていく。見ると、野中さんが真面目な顔になっていた。
「いけそうですね。あの子には、ぜひここに通ってほしいと思ってるんです。学力のこともあるし、極端に大人しいのも心配なんですが、まずは、居場所がね、学校以外にもどこかできるといいなと思ってて」
 その言葉で、早瀬さんの現状が推測できた。おそらく家庭の状況が思わしくないのだろう。
「親御さんの同意は大丈夫でしょうか」
 正式に学習会に通ってもらうには、保護者に同意書を書いてもらう必要がある。理解が得られるのかどうか、その点が心配だった。
「大丈夫です。お母さんからは『全部任せる』って言われてますから」
「そうですか──」
 それはそれで複雑な気持ちになった。
 子どもへの愛情がうんぬんというような単純な問題じゃないことは分かっている。生活費を稼ぐのに精一杯で、子どもの面倒を見る時間が十分に取れない親だっているし、親自身が追い詰められていて、子どもと話をする余裕がないケースも山ほどある。
 学習会に来ている子どもたちを見ても、特にお母さん一人の家庭で、昼の仕事が終わったあと、夜も別のパートに出ているという子が何人もいる。朝から晩まで無理をして働いて、お母さん自身は大丈夫だろうかと心配になる。
 日本のひとり親家庭の経済状況は、先進国の中で最悪だ。国が公表しているひとり親家庭の貧困率は五十パーセントを超えている。そうした情報を目にするたびに胸が苦しくなる。自分にも、もっともっとできることがあるんじゃないかと、焦りを覚える。
 そして同時に、父の本当の家庭を想う。
 曽根崎賢一は、浮気相手を選んだあとも、本当の妻と息子に仕送りを続けていた。それが例え罪滅ぼしのためだったとしても、せめてそうでよかったと泣きそうな気持ちで思う。
 半分だけ血がつながった兄から父親を奪った上に、経済的な事情で何もかもを諦めなければならないような状況に追い込んでしまっていたとしたら、理香は、罪悪感に押しつぶされてしまうだろう。
「山村さん? 大丈夫ですか?」
 野中さんの声にはっとして我に返った。いつの間にか考え込んでしまっていた。
「すみません、大丈夫です」
「保護者の同意書は、書式を預からせてもらえれば、僕の方でもらってきます。あと、AFFさんの活動が分かる資料がありますか」
「はい」
 理香は、いつも持ち歩いているクリアフォルダの中から、いくつかの書類を取り出し、長机の上に並べた。活動予定表と、保護者に書いてもらう同意書、それに、パンフレット──。
──長谷さん──。
 作品を目にするだけで、思い出してはいけない名前を思い出してしまう。心が、彼の温もりを求めてしまう。
「あ、新しくつくられたんですね」野中さんがにこやかに言い、パンフレットを手に取った。一瞬、息をのむ気配がした。「いいですね、これ。AFFさんの雰囲気が伝わってくる」
「──デザイナーさんで協力してくださる方があって、実は、ほぼ無償でやってくださったんです」
 胸はこんなに苦しいのに、それでも、彼の作品をほめられると嬉しい。
「そうですか。いいなあ、これ。うん、すごくいい」つぶやきながら、内側のページをめくって、じっくり眺める。それから目を上げた。「すみません、つい」
 理香は無意識にほほえんだ。鉛筆を持つ長谷さんの姿が浮かんだ。心が壊れそうだ。
 そんな理香の心の内側を知るはずもなく、野中さんは書類を机の上で軽くそろえ、「お預かりします」とカバンにしまった。


 “一緒に帰らない?”
 そう声をかけてくれたスミレ先生に、「用事がある」と嘘をついた。ありもしないプリントの整理。「ここで片付けていきたいから」という、言い訳にしか聞こえない言葉をスミレ先生が信じたはずはない。けれど、先生は黙ってうなずき、「無理をしないでね」と言い残して、先に引き上げて行った。理香の気持ちを察してくれたのだろうと思う。
 もう疲れ切っていて、これ以上やさしい言葉をかけられたら、何もかも全部打ち明けてしまいそうだった。口に出したら最後、長谷さんにも迷惑をかけてしまうというのに。
 一人きりで小会議室に残り、用もないプリントを長机の上に広げて、どうでもいい作業で時間をつぶした。この部屋で長谷さんと過ごした時間を思い出さないように、仕事のことだけを懸命に考え続けた。
 十五分が過ぎ、スミレ先生についた嘘も嘘でなくなっただろうと思える頃、トートバッグを肩に廊下に出た。人気のない薄暗い階段を降りて、事務室に立ち寄る。
「ありがとうございました」とカウンターの向こうに声をかけ、大小二つの会議室の鍵を返却した。「おつかれさま」の言葉に頭を下げエントランスに向かう。虚ろなホールに足音が響いた。
 正面の扉から外に出ると、通りを走る車の音が聞こえて、少しだけほっとした。静かすぎる場所にいると、余計なことを考えてしまう。
 ヘッドライトが行き交う通りに向かって歩き出そうとした時、冷たいものが頬に触れて、理香は空を見上げた。小さな白い欠片が、ひとひら、ふたひら落ちてくる。
──雪だ。
 いつかの夜、待っていてくれた人のことを思い出しそうになった。冷たい空気を吸い込んで心を凍らせ、夜の色に塗りつぶす。再び前を向いて歩き出そうとしたところで、理香は立ちすくんだ。
 センターの敷地の右手奥、エントランスから少し距離を置いた場所に、黒っぽいセダンがとまっていた。
──あれは──。
 まさか、という思いが沸き上がってくる。同時に、きっとそうに違いないと確信していた。呆然と見ている前で、あの夜と同じようにヘッドライトがついた。理香の姿に気がついたのだろう。
──間違いない。
 夕方のメールは、この連絡だったのかもしれない。
 長谷さんが、すぐそこにいる。そう思っただけで、ほかのことは何も考えられなくなる。凍らせたはずの心が無理やりに解かれて、全部ひき寄せられてしまう。
 今すぐ顔を見たい。声を聞きたい。あの手に触れたい。抱きしめられたい。
 パニックが押し寄せてくる。もう会わないと決めていたはずなのに、頭も心も混乱して、どうしたらいいのか分からない。理香は、懸命に車から目を引き剥がした。視界の端で車がゆっくりと動き出した。
──会っちゃだめ──。
 正解も不正解も分からない中で、それだけが確かなことのように思えた。理香は、敷地の出口に向かって、覚束ない足取りで歩き出した。
──理香さん。
 大好きな人の声が、確かに耳に届いた。それだけで、これまでどうにか押し込めてきた感情があふれ出しそうになる。
 理香は、心の中で懸命に耳をふさぎ、気がつかなかったふりをして歩き続けた。急いでいるふりをして、靴のつま先だけを見つめ、敷地の外へと急ぐ。
 区民センター前の通りの歩道に出たところで、理香は、駅の方に向かって駆け出した。バッグの中でスマホが震えているのに気がついたけれど、見なかったふりをする。
──本当のことなんて何もない。
 自分でも分かっている。今の理香は、追いかけてくるものから逃げるために、何かのふり(・ ・)をしているに過ぎない。気がつかなかったふり。見なかったふり。急いでいるふり。何もなかったふり。大丈夫なふり。愛していないふり。
 本当は、来てくれたことが嬉しくてたまらない。それでも──。
──顔を見ちゃだめ。声を聞いちゃだめ。
 走りながら、それだけを心の中で繰り返し、自分に言い聞かせた。
 でないと、何もかもが全部くずれて、むき出しになってしまう。優しいあの人にすがってしまう。懇願してしまう。
 そばにいてほしい、自分を選んでほしいと。


 一人ぼっちの部屋に帰り着き、ドアを閉じてようやく息をついた。狭い廊下の壁に手を伸ばし、パチンと音を立てて明かりをつける。
 足下にバッグを置き、靴を脱ごうと屈み込んだところで、お腹の下の方に鈍い痛みがあることに気がついた。間違うはずもない、月に一度の慣れた痛み──。
──来ちゃった──。
 理香は、お腹に軽く手を当てた。妊娠しているはずがないと冷静に考えながらも、ずいぶん遅れていたから、「もしかしたら」と思っていた。
 寂しさが押し寄せてくる。
 妊娠していても構わない。そう思っているつもりだったけれど、本当の気持ちは違っていたらしい。たぶん本当は、妊娠していることを望んでいた。虚無感が沸き上がってきて、溺れそうになる。
 理香の望みどおり、これで長谷さんとの現実的なつながりは全部なくなった。あとに残っているのは、この気持ちと記憶だけだ。
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