第三章・第一話 襲撃

文字数 7,958文字

 翌・文久(ぶんきゅう)二年七月六日〔一八六二年八月一日〕には、一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)が将軍後見職に、七月九日〔一八六二年八月四日〕には、松平(まつだいら)春嶽(しゅんがく)が、政治総裁職に、予定通り着任した。
 これを見届けて、ひとまず安心したのか、勅使として江戸に滞在していた大原(おおはら)重徳(しげとみ)が、やっとその約半月後の七月二十二日〔一八六二年八月十七日〕、江戸を発って帰京の途に就いた。

***

「お聞きにならしゃいましたか、宮様」
 夜になってから、私室をズケズケと訪ねてきた庭田(にわた)嗣子(つぐこ)典侍(ないしのすけ)に、和宮(かずのみや)は、手にしていた書物から、チラリと目を上げる。お錠口へ出入りしている貸本屋から、邦子に借りてもらったものだ。
 上げた目線は、あからさまに迷惑だと含んでいたが、嗣子は気にならないようだ。

 毒キノコ混入事件の、一応の落着から約一月(ひとつき)
 あれから、多少ギクシャクしてはいるが、嗣子や、ほかの女官たちが、京へ帰る気配はない。そして相変わらず、嗣子は都へ定期連絡を欠かしていないらしい。
 それに何と書かれているのか、最早和宮は興味を失っている。仮に、『将軍と所構わずいちゃついている』と書かれていたとしても、前に嗣子に言った通り、後ろ指を指される筋合いはないのだが。
「何の話?」
 書物に目を戻しながら、和宮は気のない返事をした。
 しかし、嗣子がそれに構う様子はない。
「最近、京では攘夷を一向に実行しない幕府への批判と、主上(おかみ)の攘夷親征に期待する声が高まっているそうですよ」
 攘夷を一向に実行しない、幕府への批判――その言葉に、頁をめくる手が、一瞬ピクリと震える。
「……へぇ。どこから聞いたの」
 冷え切った声で問い返しながら、和宮はパラリとその頁をめくる。が、すでに内容は頭に入っていない。
 その冷えた声音に、嗣子の身体がビクリと震えるが、皇女の下問に答えないわけにはいかなかったらしい。
「い、……いえ、その……定期連絡の返信で……」
 定期連絡を欠かさない嗣子に、(向こう)からの情報がもたらされたとしても、不思議はない。
「……そう。どっちにしろ、悪意のある()ね」
「悪意……でございますか」
「ええ。そなたも知っての通り、最早幕府には攘夷をする気がない。でも、それはできることをしないんじゃないの。物理的に、ホントーにできないの。したくてもどうしようもないの。って言っても、あんたには通じないでしょうけど」
 言い募る内に苛立って来て、早々(そうそう)に口調が()に戻ってしまう。
 和宮としても、もう家茂(いえもち)に攘夷をせっつくつもりは微塵もない。
 攘夷など不可能だと彼から説明されたし、その説明で納得したからだ。彼の説明は、決してその場限りの誤魔化しなどではない。やたら具体的だったし、それに彼は和宮に最初から――それこそ、彼自身が、こちらにあまりいい感情を持っていない時でさえ、誠実だった。
 ただ、それを公家(くげ)出身の嗣子や、ほかの女官に説いたところで、時間と労力の無駄である。女官と女中の、御風違いによる衝突は未だ絶えなかったし、歩み寄る気が互いにまったくないのだ。
 思わず、持っていた書物を乱暴に閉じる。パン! という音が、和宮の苛立ちを代弁するように、室内に跳ね返った。
「それに、お兄様に対しても非礼よ。主上の攘夷親征? お兄様に、戦場に立てって言うの?」
「い、いえ……ですから、宮様が予定通り将軍に攘夷させるよう尽力されればそのようなことには」
「あー、そう。あたしが悪いの。そうよね、上様に骨抜きにされて、本来の使命を忘れたんだもの。分かった。死んでお詫びするからって、今度の定期報告に書いておきなさい」
「そ、そのような、」
「ああ、でも主上の命令もないのに、勝手に死ぬのも不敬だわね。分かった。じゃあ、あたしからお兄様にそう言っとく。お許しのご返事が来次第、すぐに死ぬから」
「宮様、どうか気をお鎮め遊ばされて……」
「鎮めて欲しかったら、(ヒト)の神経、上手に逆撫でしに来ないで出てって!」
 借り物にも(かか)わらず、覚えず手にしていた書物を、思う様床へ投げ付ける。ひっ、と小さく悲鳴を上げ、首を竦める嗣子の膝の直前で、叩き付けられた書物が、パシッ、という音を立てた。
「どれだけ暇なのよ! そんなに暇なら、奥女中と衝突をやめるように、皆に徹底したらどうなの!?
 もう何を言っても無駄だ。と彼女が悟ったかどうかは定かではない。
 嗣子は無言で平伏(へいふく)すると、急いで立ち上がってきびすを返した。途中、彼女自身の着ている(うちぎ)と袴を踏んづけ、転けつまろびつしながら、部屋をあとにする背を見送って、幾分すっきりする。
「……ったく、相変わらず鬱陶(うっとー)しいわね、あいつ」
 ふん、と鼻息荒く言って脇息へもたれる(あいだ)に、邦子が投げ付けられた書物を拾って、パンパンと(はた)いている。
「いっそ、本当に京に帰ってもらおうかしら」
「どのようにして、ですか」
 静かに言った邦子が、そっと書物を差し出す。それを惰性で受け取りながら、「もちろん、皇女権限でよ」と当然のように答えた。
「その必殺技(・・・)、おやめになると伺った気がしますが」
「それは大奥に元々いた人間に対してだけよ。女官にはまだ有効。あの人たち、朝廷の権威には滅法(めっぽう)弱いから」
 江戸下向に際して、一方的に負わされた任務は放棄したとしても、和宮が今上(きんじょう)帝の実妹であるという事実に変わりはない。持っている武器は、有効に使わなくては損である。
「……確かに」
 邦子が、珍しく苦笑する。
「ところで宮様」
「うん?」
「典侍様のお話の続きにご興味は?」
 和宮は、眉根を寄せて邦子を見た。
「……要は、姉様が話したいんでしょ?」
「いいえ。ご興味がおありでなければ、お耳汚しにしかなりませんので」
「……言い掛けたなら言ってよ。却って気になるわ」
 邦子は、また微苦笑を浮かべ、口を(ひら)いた。
「宮様ご降嫁に際して尽力された公卿(くぎょう)や、女官への反発も強まっていると、左様に聞き及んでおります」
「そうなの?」
「はい。久我(くが)建通(たてみち)様、岩倉(いわくら)具視(ともみ)様、千種(ちぐさ)有文(ありふみ)様、富小路(とみのこうじ)敬直(ひろなお)様、九条(くじょう)尚忠(ひさただ)様らが、それぞれ蟄居・辞官・落飾を命ぜられたとか。また、女官では堀河(ほりかわ)紀子(もとこ)様、今城(いまき)重子(しげこ)様が同じ処分を(たまわ)ったという話です。もっとも、辞官を命ぜられるより早い時期に、九条様だけは元々退任しておられたということですが」
「ふーん……」
 和宮は頬杖を突いて、相槌を打った。岩倉具視と九条尚忠以外は知らない名前だ。
 ただ、岩倉のこぢんまりとした、どこか狸じみた顔を思い浮かべると、覚えず笑いが漏れる。せっせと無理矢理降嫁を推し進めたくせに、それで自分の首を絞めたのだから、いい気味だ。
 そう思いながら、先刻邦子から手渡された書物を無造作に開く。あまりにも嗣子に腹が立った所為で、迂闊にも読んでいた場所に栞を挟むのを忘れていた。
(……まあ、挟んであったとしても派手にぶん投げちゃったから、どっち道分かんなくなってたかもだけど……)
「……あれっ」
 パラパラと頁をめくっていた和宮は、思わず声を上げた。
「どうかされましたか?」
「これ……」
 細い指先が、偶然開いた頁に挟まっていたものを摘み上げる。紙片だ。
「栞?」
 前に借りた者が、挟んだのを忘れたまま返したのだろうか。しかし、栞にしては、小さく折り畳まれているのが妙だ。
 何だろう、と開くと、そこには今日の日付が書かれている。
 横から覗き込んで来た邦子と、目を見交わした。意味が分からない。
「そう言えば……」
 邦子が何か言い掛けた時、彼女の声を半鐘の音が遮った。
「何!?
「確認して参ります。すぐに戻りますので」
 言いながら邦子は素早く立ち上がって、一度和宮の私室を辞して行く。彼女が姿を消した、直後だった。
御台(みだい)様! ご無事で!?
 駆け込んできたのは、たすき掛けに薙刀(なぎなた)を持った女中たちだ。城内では、昼となく夜となく見回りをしている――確か、“火之番(ひのばん)”と呼ばれる役職の者たちである。
「もしかして、火でも出たの?」
「はい、御台様。皆、避難しておりますので、こちらへ」
「でも、姉様……桃の井が」
「では、わたくしがここへ残ります」
 三人いた内の一人が、そう告げる。
「あとから桃の井様と共に避難しますので、御台様はどうぞお先に」
「……分かった」
 多少、どこか違和感を覚えたものの、和宮は『残る』と告げた者以外の、二人に従って立ち上がった。避難するのに動き(にく)いからという理由で、打ち掛けを脱いで、小袖姿になる。
 こんな時は、袴のほうが動き易いのだが、非常時はこちらの準備など待ってくれないものだ。
「こちらへ」
 内の一人が先導し、残った一人が和宮を抱えるように通路を急ぐ。道を進む内、徐々に人気(ひとけ)がなくなっていく。
 最初は、そんなに避難が速やかに行ったのかと思ったが、それにしては人気がなさ過ぎる。
 和宮は、思わず足を止めた。
「御台様?」
「待って。大御台(おおみだい)様……義母君(ははぎみ)は?」
 大御台は、天璋院(てんしょういん)のことだ。関係性は以前に比べれば良好で、和宮もよく居所を訪ねるようになっている。
 (しゅうとめ)を残して、嫁である自分がさっさと逃げたとあっては、あとでまた女中連中がどう反応するか分からない。何より和宮自身、今は天璋院をもう一人の母と思うようになっていた。
「大御台様も、別の者がお助けしております」
「では、本寿院(ほんじゅいん)様と実成院(じっせいいん)様は」
 本寿院は先代の、実成院は家茂の生母だ。
「大丈夫です。主要な方々のご避難はすべて差配できておりますゆえ、さあ」
「避難場所はどこ?」
「こういった場合、吹上(ふきあげ)へ出るのが定石となっております」
「なら、道が違うんじゃない?」
 問うた途端、火之番二人は、ピタリと口を閉じた。
「非常時なら、御広敷から出るのが一番早いわよね。御鈴廊下に向かうよりは」
 言葉を継ぎながら、和宮は自分の肩先へ手を回していた女中の腕の中から素早く抜け出し、距離を取る。
「でも、この道は、どちらに行く道でもない。何をたくらんでるの」
「……今は非常時ですゆえ、違う経路にてご避難を」
「そんな能面みたいな顔して言われても、もう信用できないんだけど」
「御台様」
「――宮様!」
 背後から鋭い声が掛かる。振り返ると、そこには邦子が薙刀を手に疾走してくるのが見えた。
 彼女も袿を脱ぎ捨て、今は袴の裾をたくし上げている。
「姉様!」
 和宮も、完全に火之番たちに背を向け、邦子に向かって駆け出す。だが、武家の女の正装というのは、ひどく走り辛い。
 小股の摺り足で、素早く動くしかないのだ。これからまた、袴を履いて生活しようと、頭のどこかで思いながら廊下を走る。だが、不意に足下(あしもと)を払われ、あっと思う()もなく床へ叩き付けられた。
「……(いった)……」
 (したた)かに胸から腹部に掛けてを打ち付け、痛みで動きが緩慢になる。
 だが、有無を言わさず、強引に背後から二の腕を掴まれ、立ち上がらされた。
「止まれ!」
 言葉を発したのは、火之番たちの一人だ。
「少しでも動けば、御台様の命はない」
 いつの()にか、喉元と顎先の(あいだ)辺りに、銀色に光る刃が当てられている。
 視線を走らせると、右手に鍔元を握る手が見えた。明らかに、男のものだ。
「……何者?」
「静かにして」
 不意に、背後にいる男が小さく言った。男は、和宮の上腕部を掴んでいた手を、和宮の腰を抱くように腹部へ回す。
「暴れないで。大人しくしてれば、すぐに帰れる」
「……その声……熾仁(たるひと)兄様!?
 聞き覚えのある声に、瞠目する。フワリと(かお)(こう)は、間違いなく熾仁が愛用しているものだ。
「今度こそ、迎えに来た。一緒に京へ戻ろう」
「嫌、放して!」
 どうして彼がここに、という疑問より早く拒否が喉から(ほとばし)る。だが、熾仁は構わなかった。
「安心して。もう放さないから。絶対に」
「や」
 首筋に柔らかいものが押し当てられて、ゾクリとする。
「やだっ!」
 手足をバタ付かせて逃れようとするが、小袖姿では足下(あしもと)に布が絡まってうまく行かない。手だけを振り回しても、背後にいる熾仁には大した痛手にはならないのか、ビクともしない。
「邦子、一緒においで」
「熾仁様!?
 声を発して、初めて気付いたところからすると、熾仁は覆面でもしているのかも知れない。
「熾仁様、正気ですか!? 宮様をお放しください!!
 薙刀を構え直した邦子が叫ぶ。しかし、それでも熾仁は揺るがなかった。
「行こう、邦子。君は和宮の近侍だ。付いてくる権利がある」
「熾仁様! まことに宮様を想われるのなら、宮様のお幸せをお考えに!」
「もちろんだよ。宮の幸せは、私と一緒になることだ。何も問題はないはずさ」
(勝手なことをっ……!)
 和宮は、両手が自由なことを生かし、熾仁の右手に飛び付いた。
「おっと」
 熾仁が無造作にその手を引こうとしたので、刃が目の前に迫る。覚えず、首を縮めるようにして目を閉じた。
 顔を庇うように立てた前腕部を、布越しに何かが擦る。
「宮様!」
「宮!」
 無意識にだろう。熾仁は和宮の腰に回していた手を離した。
「気を付けないとだめじゃないか。見せてごらん」
 グイと無遠慮に引かれた右手に痛みが走る。
「いっ……!」
 身体が強張(こわば)るが、熾仁がそれを気遣う様子もない。
「宮様をお放しに」
 いつの間にか間近に迫った邦子の声に目を開け、顔を巡らせる。凛とした横顔の(ぬし)が、手にした薙刀の刃を容赦なく熾仁の顎先へ突き付けている。
「熾仁様」
 一拍遅れて、邦子の顔に視線を動かした熾仁は、クスッと宥めるような笑いを漏らした。
「邦子、これが最後だ。君も一緒においで。宮の世話係を、今まで通り任せたい」
「あなた様に命じられるまでもなく、わたくしは今までもこれからも、宮様の侍女であり護衛です。よって、わたくしの行動は、宮様のお気持ちに添うたものです」
「つまり?」
「宮様は、上様と生涯添い遂げたいと(おお)せです。ならば、それを貫けるようお助けするのが、わたくしの務め」
「そうか。残念だな」
 すっと熾仁の目から、表情が削げ落ちる。覆面をしているので今は目だけしか見えないが、和宮は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 こんな目ができる(ひと)だったなんて、知らなかった。九年間も一緒にいて、彼だけを見つめて来たのに――
「姉様、逃げて!」
「――()れ」
 和宮が邦子に退去を命じる声と、熾仁が邦子の処分を命じる声が重なる。
 熾仁の脇から、まるで滑るように薙刀が伸びたのと、邦子がその場を飛び退()くのとはほとんど同時だった。離れた地面へ着地した邦子は、右上腕部を押さえている。
 月明かりに照らされた彼女のその場所に、赤く何かが染み出ているのが見えた。
「姉様っ……!」
 駆け寄ろうとするが、熾仁が手首を掴んだ手に力を込める。代わりに邦子に、火之番の一人が飛び掛かり、薙刀を振りかぶった。
「姉様!」
 ガキン、と重い音がして、二人の薙刀が噛み合う。
「やめてっ……やめさせて、兄様!」
「だったら、私と一緒になるかい?」
 優しく微笑む瞳に見据えられ、和宮は息を詰めた。
「邦子の運命は、君次第だ。君が初めの約束通り、私の妻になるなら邦子は助ける。もちろん、今まで通り、君の侍女兼護衛として側に置くことを許すよ」
「……ついでに人質も兼ねるって言うんでしょ」
「よく分かってるね。人質は無事でなきゃ意味がないから、君が私と一緒になるなら、邦子は大切に遇する」
 クスクス、という耳障りな笑いが合間に挟まる。和宮は、憎々しげに相手を()め上げた。
「何でそんなに変わっちゃったのよ」
「変わったのは君だよ。どうしてそんなに将軍に拘るんだい。偶々(たまたま)傍にいた男でいいなら、私だって大して変わらないよ」
「兄様こそ、抜け殻が欲しいの?」
「何だって?」
 和宮は、右手を握った熾仁の手に、空いた左手の爪を立てた。
「いッ!」
 とっさに、熾仁が和宮を振り払う。解放されはしたが、思い切り突き飛ばされた形になって、和宮は身体の均衡を崩した。
(嘘……っ!)
 後ろがどうなっているか、確認する余裕もない。縁側から転げ落ちるか、それとも――
 宮様、と邦子が叫んだ気がしたが、よく分からなかった。襲い来る痛みに身構え、目を固く瞑る。けれど、覚悟した痛みは訪れなかった。代わりに、誰かの腕が和宮の二の腕を掴んで引き寄せる。
 抱き止められるのを感じて目を開けると、視線の先にはすっかり見慣れた美貌が、和宮を見下ろしていた。
「家、」
「間一髪だったな。平気か」
 安堵のあまり、力が抜けそうになるが、彼の胸元にしがみついて、辛うじて(こら)える。出そうになった涙も、どうにか呑み込んだ。
 彼のほうも、ホッと()いた息と共に、和宮の肩に回した手へ力を込める。彼の唇が、額に軽く押し付けられるのが分かった。
「悪かった、遅くなって」
「家茂……何で」
「話はあとだ」
 彼はもう、和宮のほうを見てはいない。その視線は、縁側へ立った熾仁へ向けられ、家茂の左手には柄尻を握った刀がある。
 その時になって初めて、和宮は自分の足裏に地面の感触を認識した。
「……どうしてあんたがまだ江戸にいるのか、とか、どうやって城に(もぐ)り込んだのか、とか、訊きたいことは山程あるんだけど、それはあとでたっぷり聞かせてもらう」
 熾仁は、息を呑むようにして、顎先を引いたように見えた。家茂と遭遇したことで、声を発するのを警戒したのだろう。
「曲者を捕らえろ!」
 家茂が出し抜けに、どこへともなく号令を発する。
 すると、屋根の上から姿を現した女中たち――全員が恐らく火之番だ――が、一斉に庭先と縁側へ向けて、矢をつがえた弓を構えた。
 通路の奥からバラバラと姿を現した女中たちも、熾仁と、彼に従っていた残りの女中一人に群がり、彼らを捕縛する。その頃には、邦子も相手を制圧していた。
「上様」
 相手を無力化した邦子が、薙刀の刃を自身の背後へ隠すようにして地面へ片膝を突き、一礼する。
「申し訳ございません。わたくしが宮様のお傍を離れたばかりに」
「いや。報せに来てくれて助かった。色々確認する手間が省けたからな」
「報せにって……確認て」
 一体、何がどうなって今の事態なのか。
 まだ緊張の残った意識の中、家茂を見上げる。彼は微苦笑して、和宮の頬へ緩く握った拳を這わせた。
「……怪我、してないな?」
「あ、……えっと」
 我知らず、右前腕部に左手を添えた直後、前方から悲鳴が上がる。和宮は(はじ)かれたように顔を上げ、家茂は自身の背後を振り返った。
 いつの間にか、黒装束に覆面をした男が一人増えている。その男は、火之番たちを、(またた)()に容赦なく斬り捨てた。
 女中たちがその場に倒れ伏した中、男はその場に一人だけ立っていた熾仁の手を取り、奥へ駆け出す。
「熾仁様!」
「よせ、桃の井!」
 叫んだ邦子が駆け出すが、家茂がそれを制止した。
「ですが、上様!」
「……深追いしなくていい。少なくとも、犯人の一人は割れてるんだからな」
 その時になって初めて、和宮は家茂の呼吸が乱れているのに気付いた。覚えず目を見開く。普段なら、和宮が小走りになるような歩調で歩いていても、息一つ乱さないのに――。
「……家茂?」
 そっと名を呼ぶと、彼が視線だけで和宮を見る。彼の頬に触れると、その頬は汗ばんでいた。
「家茂、あんたっ……」
「ッ……バレたか」
 自嘲気味に、笑うような吐息を漏らす彼の身体に目を走らせると、左脇腹に何か、染みが滲んでいるのが、月明かりだけでも分かる。
(……まさか、血?)
 無意識に伸ばそうとした手を、制止するように取られる。再度見上げた彼の顔は、やはり自嘲的な微苦笑に歪んでいた。
「斬られたの? 誰に」
「さっき、……有栖川宮(ありすがわのみや)()(さら)ってったアイツ……大したことない。掠り傷だ」
「嘘、こんな」
 言い掛けた時、家茂の手が唐突に力を失った。とっさに彼を支えようとするが、間に合わない。
 飛んで来た邦子と二人掛かりで抱き留めた時には、家茂は持っていた刀と意識を手放していた。

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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