第四話 精神科~裏切り

文字数 3,827文字

「その後、調子はいかがですか?」

 メガネをかけた女医は相変わらずスレンダーで美人だった。最近は頭が良くて美人な女医が多い。
 カルテに目を通しながら女医はいつものルーティーンである血圧と脈拍の計測、そして腕をL時にさせたり、まっすぐ伸ばさせたりをルビにさせた。

 パステルカラーで統一された診察室は、心療内科ではありがちなデザインだ。使われている芳香剤は本当のアロマでラベンダーの香りには高級感がある。ただ、同じような雰囲気のある産婦人科に比べると、どこか事務的で意図的なものを感じる。

 ルビは三浦以外にも何人かの出版関係者と知り合ったことがある。
 デビュー作は小さな話題となったので、パーティー的なものにも誘われ参加したことで知り合いが増えたのだった。どちらかというと苦手なタイプが多い業界だが、小説で社会に接点を持つことができたので、少しは自分も変われるんじゃないかという期待感もあり若干無理してでも人の誘いにはのるようにしていた。


 いく人か知り合った女性の中に、プライベートで食事をするまでになった者がいた。

「ルビちゃんは私と同じ匂いがするの……自分の精神的な部分で他の人と”異質”に感じることはない?」

 ルビはその女性「山本」に言われてドキッとした。そんな風に自分を見てくれた人間はこれまでいなかったからだ。

「子供のADHDってあるでしょ?注意欠陥多動性障害ってやつ。あれ結構大人でかかっている人が多くてね。ビル・ゲイツとかジョブズとかエジソン、坂本龍馬なんかもそうだったんじゃないかって言われているの。私も同じような症状を感じていてね……。精神科にかかっているの」

 山本の言葉に長年歩き続けてきた暗いトンネルの中に、小さな光のようなものを見つけたようにルビは感じた。これまで味わい続けた言葉にできない感覚……他者との距離感・違和感・疎外感、そして孤独感の原因が、「病気」という論理的な意味付けがされた瞬間だった。
ルビは解決の糸口が見つかるのではないか?と期待したのだった。

「でも大丈夫!きちんと治療すれば、問題なく社会生活を送れるわ!」

一時期この山本の信奉者となり、ルビの方から食事に誘ったりもした。ルビは精神病院にかかることが将来を開くために不可欠だと感じ、またこれまで知らなかった「精神病の世界観」に強い興味を持った。
 そして、インターネットでクリニックを探した挙句、この心療内科に行き着いたのだった。

 ルビの心はなぜかワクワクしていた。そこには自分が引きずっていた、言葉にもできないような複雑な重荷を開放し、新しい自分を生まれ変わらせてくれる救世主がいると思い込んだ。またこれまで出会ったことがない精神疾患の患者達に対し、同じDNAを持った腹心の友を期待した。

しかし、その淡い夢は初診の日の待合室で消え失せた。

 初診の日、待たされた待合室では10人ほどの患者がいた。しかしその人達と自分もまた「異世界の住人」であることを感覚的に察知したのだった。そして、診察した美人の担当医は事務的な印象で、ルビの心の中に興味もないといった雰囲気だった。もっというと俗的な印象をさえ感じる人物だった。

 この病院に通うようになって良かったことと言えば、効き目の凄い抗不安薬と睡眠導入剤が処方されることくらいだろう。
 薬の効き目は裸で寒空の下で凍えているときに、温かい毛布をかけられたような感覚だ。薬の酔いはルビの意識にぼんやりとしたフィルターをかけ、天国を表現した映画のワンシーンを彷彿とさせた。

 3年の通院で薬の量も増え、今では手放せなくなっている。何も解決しないまま”薬”だけが付け加えられた感じだった。


「そうですね…変わらない感じです…」

「夜は眠れていますか?」

「はい、お薬も効いています」


 ルビは初診のとき、もっと精神的なこととか、過去のトラウマのこととか、幻覚を見ないかとか、脳科学のこととか、そういった質問がたくさん飛んできて、それを解答していくうちに自分自身の何かが見えて……。 といったことを期待していた。
 またもしかすると、ごつい金属の棒を頭にくっつけられて、そこに電気を流して一瞬にして人格が変わるといったSF的な想像もしていた。しかし、実際にそういったものは全く無く、完全に肩透かしを食らってしまったのだった。

 この美人精神科医は内科の医師のように、肉体の不調についてしか質問しなかった。初診の際に診断書のようなものを見せてもらったが「抑うつ症状」「睡眠障害」とハンコが押してあり、なんともやっつけ仕事的で殺風景な印象を受けた。


 今時院内でタバコを吸えるところは珍しい。
 お茶とお水が無料で飲めるサーバーが置いてあり、診察待ちをしている患者たちは代わる代わる紙コップで取りに来る。太っている人が多いのは、抗不安薬や抗うつ剤に満腹神経を麻痺させる副作用があるからだろう。

 みな鼻が詰まり息をしづらそうにしているのも、共通した特徴だった。
 ルビは初診のときに、この病院に第二の故郷を求めたが、結局誰からも話しかけられないし、話しかけたこともない。


   ***

 ルビに精神科を勧めた山本とはもう交流がない。
 一時期は自分自身のすべてを理解してくれる人のように感じたが、後にそれが大きな勘違いであったことをルビは知った。

 彼女はルビにしたように、多くの作家や出版関係者、広告代理店の人などに近づき、多額の借金をしていた。デタラメな投資話を持ちかられ、数百万円を騙し取られた人もいることが発覚し、彼女は行方が分からなくなった。
 そうして集めたお金はすべて「ホスト」につぎ込んでいたことを、ルビは違う出版業界の人から知らされた。

「ルビちゃん山本にお金貸してない?」

 ルビの場合、金銭的な被害はなかった……しかし全く被害がなかったわけではない。金銭の被害はなかったが、人生の一部を汚されたような虚しい気持ちが数ヶ月続いたのだった。

 ただ、ルビは山本を軽蔑することはなかった。
 自分の欲望に正直で、そのために周囲を巻き込んで大騒動を起こし、挙句に疾走してしまうような人間の持つ”生命力”を羨ましく思うほどだった。
 
 自分の中にそのたくましさは見つけることはできない。


 山本のことを聞いてからでも精神科への通院は続けた。
 病院では飲酒を禁じられていて、ときどき抜き打ちで尿検査と血液検査をされ、肝臓の数値を測られるので、月に2度通院する3日前から酒を抜くようにしている。3日間は辛いが、病院帰りに近くの昼間からやってる居酒屋に行き、そこで飲む酒のうまさを楽しみにするようになった。


   ***

 ルビが病院帰りに行く居酒屋の店主とは、少し特別な関係がある。
店主はびっくりするくらい大柄でスキンヘッドで口ひげを生やし、恐ろしくいかつい顔をした昭和のプロレスラーみたいだった。
 声もごっつくて、まるで客を威嚇するかのように見えるが、これだけ客が来ているのだから、暴君みたいな人ではないのだろう。

 いつも店の奥のキッチンに”鎮座”し、ときおり恐ろしい形相で店内を見回すが、酒に神経を犯された常連たちは気にすることなく、自分のテーブルにある酒と料理をおいしそうに消化している。

 その店はおでんから焼き鳥からお造りから丼もの、一品までなんでも置いてある個人店で、海の家のように殺風景でパイプの机で立って飲むタイプだった。


 近くにパチンコ屋があり、そこで打っている人が入れ代わり立ち代わりやって来る。夫婦で来ている老夫婦、芸術家っぽく小説を読みながらアタリメで生ビールを飲む中年男性、なんの仕事をしているかわからないおじさん、頭から足先まで高級ブランドでキメた男性とか……。


 ルビが病院に通い始めたその日にこの店を見つけ、そして何回目かのときに、酒の回ったおじさんに店内でナンパされた。
 ナンパというより、酒をおごるとしつこくしてきたのだ。その時に店主が奥の調理場から出てきてこういった。

「ぶっ殺すぞ、オヤジ!おとなしく飲め!」

 その怒られたナンパおじさんよりも、むしろルビの方が驚き、体をビクッとさせた。

 ルビの周辺には大声を出すタイプの人間はいない。
あの粗野な印象の父でさえ「暴力」とはかけ離れた性格だった。 


 怒られたおじさんは、少しすねたような表情をしながら自分の席に戻り、周囲の客たちは店主の恫喝に一瞬こちら注目したが2秒で興味を失い、自分のグラスをまた傾けている。

 ルビは一瞬恐怖を感じたが、店主は「出て行け」とは言わず「おとなしく飲め」という”指導”をしただけであることに気づいた。彼の根底に愛情のようなものが含まれていることを感じたのだ。
 だからルビもそのまま1時間近く酒とつまみを追加注文し、飲み続けた。

その日のルビが勘定を済ませて店の外に出たとき、店主が後を追うように外に出て来た。

「どっちだ?」

とルビに聞くと、30メートルくらい歩いたところまでボディーガードのように送迎してくれた。

「さっきはありがとうございます」

 ルビが店主に礼をいうと、彼は表情ひとつ変えず、またなんの答えも返さなかった。

「じゃあ、ここまでだ」

 と店主はくるりと向きを変えて店に戻っていった。その日から、ルビが行くたびに同じことをするようになった。”特別待遇”付きである。
ただ何ヶ月通っても親交が深まることはなく、ほとんど会話もなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み