或る文化人の顧み

文字数 5,296文字

私は日本の少子高齢化を憂い、来る日本の未来を明るいものとすべく、男女の健全な交際をテーマとした高尚な書物を執筆することを生業としている。それは連日連夜レポートに勤しむ大学生のためだったり、日々忙しなく頭を下げ続けるサラリーマンのためだったり、ちっぽけな悩みを抱える思春期高校生のためだったり、私のような書き物を生業としている蟄居人だったり、とかく幅広い世代な孤独な男性諸君のため、私は納期に追われ、しわのない頭を捻り、服役囚さながらの缶詰生活を送って、桃色秀麗な作品群を世に送り出して来たのである。一部の人間はそんな私に罵詈を浴びせ、その目を細くして雑言を並べるかもしれない。確かにマイノリティではあるかもしれないが、私は自分の仕事に誇りと信念を持っている。そんな社会の抑圧には屈しない。孤独に戦う私を応援してくれる男性諸君がある限り、私はさらなる喝采と名誉のため、己の宿命をより明々白々なものとしていくだろう。
 私の仕事は、俗な物言いをするならば所謂「エロ漫画家」であった。

       〇

 一年の浪人を果たし、その忌々しい受験期間を終え、人生の新たなスタートラインイン足を乗せた私であったが、それは酷く不格好な着地であった。
 古本屋で見つけた100円セールの中に入っていた『後悔しないための大学生手引』。そこには初対面の人間への声のかけ方や話の広げ方、スタイリッシュな会話術が幾つも載っていた。「大学生活では、とかく友人が大切」。本書、もとい私がバイブルとした岩波新書はこう締めくくられていた。その本は私に技術だけでなく勇気をもたらす。やるぞ、やってやるぞ、と私は一人するすると空回りの準備を進めていた。そして入学してから一週間ほどが経ち、同じ学科のすべての人間に話しかける頃には、私はもはや第一印象のプロフェッサーであると自負していた。道行く人間に声を掛け、学科の枠を超えて知人を作る。素晴らしいことだと己を讃えていた。ただ、そんな私に友人と呼べるものはできなかった。妙なことに、二回目、三回目、と声を掛けるごとに相手の態度がよそよそしくなっていくのである。その後人づてに聞いた話だが、あまりに節操のない私の懸命な声掛けは宗教勧誘の類の何かだと思われていたらしい。たしかに、私はそれに必須の技術を身につけていた。百円セールで身につけた模範的でつまらないコミュニケーションだったと言えよう。ただ、ならば私はどうすればよかったのだ? 後悔先に立たずと言うが、『後悔しないための』と謳っているくらいならば注意すべき落とし穴も載せておくべきではなかったのか? 後悔が先導するべくという題材の自己啓発本ではなかったのか? 私はその岩波新書を破り捨てようかと思ったが思いとどまり、表紙に大きくバツ印をつけた。そして、孤独で克己的な大学生活を送って行こうと決心したのである。
 ところで、私は昔から絵を描くことが好きだった。「坊が描く絵は本物みたいだナァ」というなまりの強い祖父の言葉が頭にこびりついている。幼少のころには祖父の家の縁側で日がな一日魚図鑑を模写していたものだ。今では考えられないほどに才気あふれる少年である。ただ、そのぴかぴかに輝いていた才能の塊も歳を重ねるごとに埃を被り、色あせ、萎み、そこら中に蜘蛛の巣が張って目も当てられぬ有様となり果てた。
 さて、大学に入ってからというもの、友人がいないことにはどうにも時間を持て余す。この空虚な時間を何か有意義なものに変える術はないものかと考え、過去の記憶をこねくり回していた時に思い巡ったのがかつての栄光の日々だった。小学校低学年の時にとった金賞だか銀賞だか、何の金属賞かは思いだせないが、それは今でも祖父の家の和室に飾ってあるはずだ。そうだ、私は才気あふれる少年であったではないか! 何が私をこれだけ鬱屈さしめることとなったのだろう。それはきっと、自分でも気がつかないような小さなズレみたいなものが、無造作に積み上げられた時間の残骸だ。私はその真っ黒な切炭に、大きな亀裂を入れて燃やし上げなければならない。
 そんな覚悟を抱えて己を鼓舞したわけだが、どうにもこうにも、人間そう割り切って何かを変えられるはずがない。私はどうしようもなく怠惰な男であるのだと痛感せざるを得なかった。通い始めた絵心教室にも行かなくなり、一式そろえた画材道具もどこにあるのか分からない。唯一潜り込んだ漫画研究会にも顔を出さなくなっていた。これはもう、何か私の宿命がそういうものであったと言うほかない。
 何もしなくなってから二か月ほどが経った頃であろうか。大学一回生の冬である。何のわけもなく、ただ気まぐれに普段買うことのない成人向け雑誌を手にした。包み隠さず申し上げると、快く楽しい気持ちになれる少し卑猥な漫画雑誌である。そしてそれが、私の転機であった。そこには、新たな世界が広がっていた。人の性と向き合った複雑怪奇な人間模様や、趣のあるシュールなギャグなど、それでしか表現できない特性を持った桃色秀麗な作品群。さらに言えば、官能的かつ実用的だ。度肝を抜かれるとはこういうことである。そうして、私のボロボロのモチベーションは天高く屹立し、かつて失ったはずの目を見張るような集中力は、いつの間にか私の手の元にあった。
 私はその後二年間、一心不乱にペンを走らせ続けた。
 その結果、勉学、恋愛、友好関係、大学生としての本分すべてを失い、私は青春を謳歌する権利を剥奪された。白旗を振ったと言い換えてもいいかもしれない。後悔をしていないと言ったら嘘になるが、今を後悔するかと言ったらそれも嘘である。最初の数か月はまだしも、私は私の大学生活をある程度肯定していた。華やかな大学生活が送れなかったから絵を描くのか、絵を描くから華やかな大学生活を送って来られなかったのか、無論、私にそんなことを考える資格は無いし、そのような些細なことはどうだってよい。
 結果論、バンザイ。

       〇

 漫画研究会「ポジティブ」。私が唯一籍を置いたサークルである。構成員の顔ぶれや身なりを見るに、どこからどう、まるで似つかわしくない分不相応なサークル名であったことだけ述べておく。活動内容はいたってシンプルであり、部室に置いてある交換用ノートに自分の漫画を載せたり、感想を書いたりするというものである。このような不透明な活動内容では顔とペンネームが一致しないことがほとんどで、もはや本当に作者が大学生で実在しているのかすらも分からない。一応、時たま小さな催しごとがあるらしかったが、私は活動にとても消極的だったのでその大部分は知らない。私がそのサークルに携わっていたのは、先ほど述べたノートのみだった。そのノートの中身は玉石混合、と言いたいもののそのほとんどが石を占める。見ていて恥ずかしくなるような汚点ものばかりだ。しかし、自分より下を見て自身の安寧を計っていた私にとって、そのノートは確かに私の原動力の一つとして息づいていた。言うなれば私の師である。感謝しなければらならない、ありがとうポジティブノート。
 大学四回生の春ごろ、成年誌の漫画賞へ応募した。結果は奨励賞であったが、一心不乱に磨き続けた私の画力が評価され、編集者とじかに対談する場が設けられた。それはその会社の専属のイラストレーターとしてやっていかないかという話だ。さらなる画力の発展、SNSの上手な扱い方、その他私のためになることだったら幾らでも助言を講ずるとのことだった。ただ、私が目指し憧れたのは漫画作家だ。その旨を編集者に伝えると、心無い批評があっさりと私の漫画へ向けられた。酷評も酷評。唯一評価したのは絵柄と画力だけで、他はテンで駄目。漫画としての体裁を為していない、漫画を読んだことがあるのか、構成があまりにも酷すぎる。その言葉の切っ先は淡々と私の柔らかな蚤の心臓を抉っていく。しかし、私は諦めきれなかった。諦めきれなかったのだ。
 編集者の招待を断って、私はまた一から漫画の勉強を始めた。ただ、その編集者もまぎれもないプロフェッショナルであった。どれだけ作品を書いても、彼に言われた数々の批評が頭をよぎる。それは的確に、正鵠に私の短所を射ていた。そこが欠点だと分かっているのに、改善策を思い浮かばない自分のどうしよもなさ、やりきれなさに「才能がないのだ」と途方に暮れた。
 暗雲低迷の私が足を向けたのは長い間疎遠にしていた漫画研究会の部室だった。久しぶりに開いたノートは相も変わらずで、私はありあまる向上心を燃やしていたころを思い出した。しかし、ページをめくっても、めくっても、あの頃に感じた充足感や快楽はさほど感じない。時たまにゅるりとその感情の鱗片が顔を見せるが、うまくそいつを引っ張り出すことが出来ない。油でぬるっとしている。そうして、ノートを流し見していると、ある一作が私の目に留まった。絵はお世辞にも上手とは言えないが、ストーリーの構成や演出は私が理想とするまさにそれだった。成年向けの話で、「しらたま」というペンネームで活動しているらしい。
 参考、見本、リファレンス、もっともらしい言葉を並べたところで、結局私が行ったことは盗作に他ならない。私はその漫画を私の絵でリメイクして新人賞に応募したのだ。結果は入選。切ない愛の物語が成年向けらしからぬ妙で描かれている、という審査員の絶賛。自身の作品が雑誌に掲載されたという嬉しさの反面、無視できない翳りが日々私の内面を侵食していった。
 夏が終わろうとしていた。

       〇

 私はいつもの通り昼食を済ませ、講堂の窓際で珈琲を飲んでいた。道行く人々を眺めながら虎視眈々と妄想を膨らませるのが日課である。我ながら少し気持ちが悪いと思いつつも、これも良い構想を練るための訓練だと割り切った。決して美女を探しているわけではないが、美女が歩いているのなら悪い気はしない。
「前、よろしいですか」
 視界の外から声を掛けられる。ふりむくと、そこには髪の短い女性が立っていた。
「あ、どうぞ」と私はたどたどしく返事をする。女性に話しかけられる機会なぞ滅多にないため声がうわずった。紳士たるべき態度の風上におけない。
 正面に座った女性は私を無視し、ただ窓の外を眺めながらアイスコーヒーを飲んでいた。中身はもう半分もない。なんのため彼女はここに来たのか、私に用がある相手なんて思いつきもしなかったが意外とそういうこともあるのかもしれない。私から話しかけるべきなのだろうかと思案していると彼女は口を開いた。
「滑稽ですか」
 その言葉の意味が理解できず、私は頭の中で何度もその言葉を反芻する。こっけい? 自身の視線が落ち込んで行くのが分かる。滑稽。それは私が想像する言葉で合っているのだろうか、その意味は分かるのだが、状況と用途の意味が分からない。私が何か彼女の気に障ることでもしたのか、それとも私は今虚仮にされているのだろうか。
 彼女の方を見ると、右手で頬杖をつきながら空になったミルクカップを器用に膨らませたり、ペシャンコにしたりしている。目線は先ほどと同じまま窓の外の一点を見つめている。
 私の返事が帰って来ないと判断するや否や、彼女は小さく溜息を洩らし私の方を見た。その冷たい目つきからどんな非難を浴びせられるのかと小さく身構えたが、彼女はおもむろに席を立ち、振り返ることもなく去っていった。
 今の出来事は私の持つ溢れんばかりの想像力への渇望が見せた一種の幻のようなものではないかと私の脳を疑った。しかし痛ましい姿で取り残されたミルクカップがそれを否定する。
 彼女に何も言えず、ただ茫然と目の前の事態を受け入れてしまったのは、その言葉の意味が理解できないためだけではなかった。
 私は彼女の横顔に見惚れていたのである。

       〇

「……え、それで終わりですか」
「だから言ったろう、大して面白い話でもないと」
 私は目の前に座る友人の器に乗ったメンマを奪い取る。「オチはない」
「だからって、そんな。その女の人、絶対しらたま先生ですよ。どうして追わなかったんですか、どうしてその後何もなかったんですか」
「何もなかったのだから仕方ない。実際に、俺だってあの後幾らか彼女を探したが、どだい無理だ。俺の交友関係なんてたかが知れてるし、手掛かりだって何もない」
「あーあ、なんだかやるせないな。あんな壮大な出だしから、こんな意気地のないくよくよした顛末になるなんて、竜頭蛇尾もいいところですね」
「ほっとけ」
「というか、どうして先生はそのままエロ漫画家になれたんですか? 話造りができないんじゃありませんでしたっけ?」
「成年向け漫画作家と言え」
「どっちも同じでしょ」
「まあ、そう、継続は力なり、だな。俺には話造りをする才能もきちんと備わっていたわけだ。力もまた継続に繋がるのだよ」
「胡散臭え、もう端々が胡散臭え」
「事実は小説よりも奇なり、と言うがまあ、奇怪なことはそうそう起こらないのもまた現実だな」


 

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