水面の中の宇宙
文字数 9,007文字
東雲はその日、電車の中にいた。
何の変哲もない電車は、東京から出て千葉まで向かい、そこからオブリヴィオンが潜伏している鹿島まで移動していた。
ここは都心から遠すぎてバーチャルが存在しえない空間だ。
何もかもが現実、電子的な存在はない。
そしてそれとは逆に、都心のバーチャルを支えるため、電力を生み出す太陽光パネルがあちこちにある。
電車から見渡す田舎の風景は、昔は田園風景だった。
ところが2030年の今は、太陽光パネルへと移り変わってしまったのだ。
それが虚しいことなのか、嬉しいことなのか、東雲には興味がない。
少なくともそれが東雲の生活を支えていて、それは虚構ではなく紛れもない現実だ。
と、電車で隣の席に座るフロムがそういって見せた。
電車の座席は10年は軽く交換されていないので古ぼけている。
ところが、利用者が誰も文句を言わないため、延々と使われ続けていた。
予算がない、ではない。
交換する必要がないのだ。
東雲は無感情に反応してみるが、いいや、フロムが楽しめているならそれはそれでいいのだろうか。
東雲はほとんど田舎に出てきたことはない。
半径5キロメートル以内での生活が当たり前になってしまっている。
生活に必要なものは、都会にいれば簡単に手に入る。
スマホ、マイク、パソコンのディスプレイ、ファーストフード、衣料品、そもそも家を出なくても通販で届く。
しかし、都会の電車は広告が次々と入れ替わり、座り心地が悪ければすぐ交換される。
それこそパソコンのモニターに映る内容も毎日変わり、新鮮ではあるだろうが安心がない。
流行が次々と現れて消え、現れては消え、そういう繰り返しの中での都会生活。
それに比べて、この静かな空間はなんと心地いいことだろう。
一種、過去にタイムスリップしたかのような、そういう気分にさえなった。
東雲はそれを受け入れた。
どういう理由なのかはわからないが。
理由、いや、理由が大切なのだろうか。
東雲にはこの世界が実在するのか、それすらも疑わしいのだ。
オブリが言っていたこの世界が実在するかどうか。
確かに、東雲が今まで見ていたものは嘘だったのかもしれない。
あれだけバーチャルにあふれかえった都会が、田舎に出ると虚構のように思える。
(まあ、都会なんて田舎から食料が送られてこないと成立しないし、それこそ危ういものよねえ)
とリアリストならではの視点で思ってみるが、食料以上にバーチャルの虚構は東雲の心を侵食していた。
(都会の外はこんな感じか。もっと遠くへ行けば、もっと自然に近くなってくるのでしょうね。それこそ太陽光発電もない、森や山しかないところだって存在するのかしらね)
(ところで、フロムってバーチャルのはずよね。どうしてここで存在できるのかしら?)
大切なことのような気もするが、東雲はそれ以上考えなかった。
電車はゆったりと動き、その鈍い速度である駅に止まった。
東雲はフロムを連れて電車を降りる。
電車から降りて最初に感じたのは、異質な香りだった。
都会の無臭、あるいは排気ガスの香りとは違う、透き通った香り、東雲はそれを生まれて初めて感じた。
フロムの言うことに同意したが、この刺激の少なさに東雲は無感動に、あるいは無意識に幸福を感じた。
ノスタルジーか、あるいはサウダージに浸る東雲。
とはいえ、この場所にたどり着いた、ということは彼女に会わなければならない、ということだ。
駅を出て少し歩く。
人通りは少なかった。
人通りどころか、周囲はがらんとしていた。
都会以外の場所に人が少ないのは当然だが、東雲の想像以上に人は少なかった。
現代からしてみれば田舎の人口減少は10年後進み、人通りは当然少なくなるのだが。
駅の通りを少し行ったところに、鹿島神宮の参道が見えた。
(どうして、神社なんかに根城を張っているのかしら。そういう趣味があるのかしら?)
ピロリンッ!
と東雲のスマホの着信が入った。
相手はオブリヴィオンからだった。
『夜にならないと道が開かれないから、夜、境内に来なさい』
(夜にならないと道が開かれないか。随分と不便ねえ)
蓮はフロムと夜までどうやって時間をつぶそうかと悩んだ。
今はお昼の15時ごろ、おやつにはちょうどいいのだが……
「オブリヴィオンさん、夜にならないと会えないって?」
蓮としてはフロムとの終わらない会話を楽しむのも心躍る。
「とはいっても、オブリさんの言ってたことが気になる、くらいの話しかできないけど」
「私、正しい認識を持っていないもの。あの手の話は常に気にしているわ。だって、正しい識がないんですもの」
「そうね、常識的な感じ方のことよ。身内が死んだら悲しい、友達が悲しい思いをしていたら悲しい、仕事で給料もらったら嬉しい、ガチャでいいカードが当たったら嬉しい。そういう普通の感覚のことを言うのよ」
「そうね、悲しくないわ。人間、いずれ死ぬもの。そういう存在が死んだところで、悲しいどころかなるようになった、と私は思うわね」
「そうね、悲しくないわ。それはあくまでも相手の感情であって、私の心ではないでしょう? 悲しくないわ」
「嬉しいわね。でも、はしゃぐことではないと思うわ」
「まあ、そこはおふざけよ。とはいっても、カードが当たっても腹は膨れないからね」
「そういう冷静なところ、憧れちゃうなあ。正しい識はないかもしれないけどさ、人間、人間的な反応をするからこそ苦労してる部分もあるわけで、蓮の冷静なところ、すごいと思うよ」
フロムは東雲のことを褒めてみせた。
別に東雲は嬉しくない。
本来なら嬉しいことだろうが、褒められたからうれしい、という感情を東雲は持ち合わせていない。
持ち合わせていないから嬉しくない、というわけでもないのだが。
「そうだね、私みたいに、楽しいを追い求めても、それで嫌なこともあるし……」
「そうだねー、疲れたり、あと体力尽きてくたばったり、いろいろあるよ」
「体力かあ。都会暮らししてると、あっという間になくなりそうなものよね、それ」
バカの体力は無限、と言われているのはわかるが、フロムは意外と体力がなく、バカではないのだろうか。
まあ、フロムをバカと決めつけるのも問題だが、いいや、フロムはこう見えて案外賢いのかもしれなかった。
合理的に生きることの賢さと、楽しく生きることの賢さ、どちらが人間として正しい賢さだろうか。
迷う、と東雲は感じたが、今まで自分が気付いてきた合理的な選択への生活、人生。
そういった今までの自分を否定して、新しい考え方をするのは容易なことではない。
人間、そう簡単には生まれ変われないのだ。
今まで生きてきた経験に左右されてしまう。
とはいえ、オブリヴィオンの言う認識が全て、という考え方。
「フロム、あなたにはこの世界がどう見えているの?」
「え、いきなりシリアスな質問だね。どう答えればいいかな?」
「思ったことを素直に言ってくれれば平気よ。この世界のことをどう思う?」
「そうだねえ、ここ10年、いろんなものが衰退しいてきたわ。でも、相変わらず皆は元気で、楽しい毎日だよ。悲しいことは当然あるよ、でも、生きていれば悲しいことはあって当然だから。そうだなあ、楽しい、の一言に尽きるかなあ」
「とりあえず、私は蓮と一緒に入れればそれでいいから。って、もう少し贅沢言っていいのかな?」
「冷たい反応だねー。結構頑張って言ったつもりなんだけど」
「別に、言いたいことを言っていいって、言ったじゃない」
「じゃあ、私はこれからもこんな毎日が続いていけばいい、そう思ってるわ」
「無欲……そういういい方もできるけど、そんなもんだよ」
「そう……でも、そんなものかもね。人間が望んでるものなんて」
フロムは人間ではなくAIのはずだが、東雲はフロムアンダーカバーを人間に見立てて語り始めた。
「どれだけ時代が進歩しても、人間のほうが進歩してないじゃない。技術がどれだけ発達しても、人間が原始時代から何も変わってない。そういう人たちを相手にして、進歩進歩唱えても、何も変わらないわよね。あなた、AIでしょう? 今の人間たちを見て、本当にそれでいいと思うの? ええ、思うでしょうね。変わらない毎日を送ることが充実なんて、進歩とは程遠いもの。人間の知恵に生み出されて、それが怠惰な人間たちの何の役に立つのかしら? いいえ、答えなくていいわ」
「うん、答えられないよ。だって私……本当は……いいえ、言わないでおくわ」
ヴァーチャルの及ばない世界において存在しているものは、AIではなくて現実。
空間に投影された映像ではなくて、フロムは現実に存在するのだ。
それをわかっているだろう、とフロムは期待したのだが、東雲は冷たくあしらった。
東雲はあるいは、仮想ではない実体の存在として、本心を悟られたくなかったのか。
本心……この世界が仮想なら、本心というものが果たして存在するのだろうか。
東雲の本心は、仮想なのだろうか。
仮想と現実の間で、葛藤もなく東雲は結論を先送りにした。
AIであるフロムのほうが、はるかに人間的で思いやりにあふれた存在なのに、それなのに東雲は……。
はじめから人間的な存在なんて、人間の認識の中にしか存在しなかった、ということは簡単なのだが。
「そうね。通勤に30分かけたくない性格だと、よっぽどね」
「現実的だねえ。ひょっとして、今受けてる会社も、病院から近いからって選んだの?」
「重要じゃない……か。素直に言ってくれていいよ?」
(田舎でも太陽は西に沈むのか。まあ、当たり前の話だけれどそれが感慨深いわね)
フロムをネットカフェの一室に放置して、東雲は少し歩いて、鹿島神宮の鳥居の前にやってきた。
もう夜の8時だ。薄暗い街灯が秋の長夜を頼りなく照らし、遠くを走る自動車の音が、どこか遠い世界のことのようで。
そう思いながら境内に入り、いいや、神域に入り、東雲はその人物と対面した。
「早かったわね。思ったより。いいえ、私が想っていただけかしら?」
「遅刻すると思ったの? それとも怖気づいて逃げると思ったのかしら?」
「どちらも違うわ。だって人間、臆病者が多いですもの。真夜中なら、なおさらね」
「あなたはこんな夜更け、神域に足を踏み入れても動揺しないし、思うに、感情がマヒしているのね」
「そうね、マヒしているわね。マヒというか、まあ都会は刺激が強いから。マヒするのも当然だけれど」
「それはさておき、ここに来た、ということは、私の話を聞きに来たのね」
「そういえば昔、昔と言っても2000年ほど前だけれど、小さな都市国家で暮らしていた人たちが、自分たちの常識を自分たちで共有していたわ」
「都市国家の人はそれが唯一の真実と信じていたけれど、それを否定する人が現れた」
「実は、私も分からないのよ。そういう、内輪の真実を否定する人なんてたまに現れるし、いちいち名前も覚えていられないわ」
「とはいえ、内側の常識というのは、内輪で信仰されているわけだから、反論にさらされにくい。よって、生き延びてしまうの」
「自分たちの歪んだ常識を信じ、他者を排除し、そうやってとある国は緩やかに衰退したのよ」
「そうねえ、意味というより、まさしく現実って感じのおとぎ話ね。それ、自分自身に当てはまる節がいくつかあるわ」
そう言ってオブリヴィオンは蓮を境内の中、その奥へと案内した。
「少し歩きましょうか。哲人は歩きながら考えるもの、と誰かが言っていたわ」
「落ち着きがないのねえ。まあ、体を動かしていたほうが頭も動くかしら?」
「そうかもしれないわね。脳だって内臓でしょう? 脂肪がたまれば、鈍るわけで」
「あら、じゃあ部屋に閉じこもりっきりの私は頭が悪いわけね。ジムにでもかよって体力をつけなければいけないかしら」
「頭のことはさておき、体力はあったほうがいいわね。生き物なわけで」
東雲とオブリの歩く参道は灯篭によって照らされた空間だった。
目の前の光景が現実のものとにわかには信じられない。
左右から迫ってくる木々が亡霊のような、いいや、やはりただの杉で、とはいえ知らない人が見れば少しの畏怖を感じるだろう。
何もない空間、その中に東雲は存在していた。
穢れのない神域に一滴墨を垂らした、そういうような。
「それで、人は物事をどう認識しているか、という話だけれど、どうやら、人は自分自身の脳に写ったもの、それを現実だと認識しているだけで、どうやら五感が認識したものを直接認識しているわけではないようね」
「そうじゃない。だって、お腹がすいている人が見るオムライスと、満腹の人が見ているオムライス、違いは歴然よねえ?」
「そうそう。例えばそこに杉の木があるわね。あれ、何も知らない小学生が見たらどう見えるかしら?」
「きっと、お化けだと思うでしょうね。まあ、最近の子供はお化けを怖がらないらしいけれど」
「じゃあ、もっと尖って、猫が見たらどう思うかしら?」
「そうねえ、木なんて存在認識していないでしょうし、何にも思わないんじゃない?」
「正解、と言いたいところだけれど、猫は木ぐらいわかるんじゃない? 猫って木に登るでしょう?」
「だったら、コンクリートの壁でも上るわよ。猫にとっては石垣のコンクリートも木も同じじゃない?」
「ふふふ、うまくやり込められたわね。じゃあ、猫には登れるものと登れないもの、の違いしかないんだ?」
「まあ、猫みたいに跳躍できる生き物からしてみれば、登れるものと登れないものの差は大切だと思うから」
「人は物事を直接認識してるわけではない。脳に写った先入観を通して認識している。それっておかしいことかしら?」
「おかしい? うーん、自分の脳を取り払うことはできないし、そうねえ、それが正しくないなら、なんだって正しくないわね」
「そうよねえ。やっぱり、人は自分自身の壁を乗り越えることができないのよねえ」
「言ってしまえば、あなたの認識していることというのは、あなたが作り出しているものなのよ。この世界をどう認識するか、それはあなたの脳がそう思っていることを信じるしかない、そういうことよ」
「唯心論かしら? 自分が想っていることを信じろ、という」
「違うわ。だってあなた、ここを出るときにはあなたでなくなっているもの」
「自分自身が新しい認識を手に入れて、今までの認識が覆されて、それで唯一の、という言葉が付くのかしら?」
「この世界に、定まったものなんて存在しないわ。この世界の全ても、あなた自身の認識も、すべては変わっていくものでしょう?」
「ところが、最近は情報化が始まって、あなたはあなた以外の誰にもなれないじゃない。人の認識は、自分自身の中で形作られる、でも自分自身が変化する、という話を無視しないと、未来が見通しにくいからね」
「未来が見通せない、そうね。自分がどう考えるのか、それが定まらなければ未来なんて見えないわよね」
「でも、東雲さん、あなたは自分自身がいくらでも変化するって、わかるでしょう? そういう曖昧な世界で生きていて、得られるものもあるんじゃないかしら?」
「曖昧? そうねえ、自分自身が定かではなくても、まあ、そんなものじゃない。現実なんて曖昧なものでしょう? 確かなものなんて何一つない、そういう場所だもの。私の認識が特別かしら?」
「それ、特別よ。まごうことなき、ね。俗世の人間たちは自分自身を固定化して、世界をわかりやすく切り取るのが日常になってしまったもの。私が見てきた限りだと、ここ10年でその動きは加速したわね」
二人は光の届かない参道を歩き、まるで深淵に降りていく僧侶のように見えた。
「そうねえ、最近、何もかもが情報化しているでしょう? 現実世界は流動するけれど、情報は流動しない不変なもの。いつの間にか人間というものが流動しない不変のもの、として扱われるようになっているからね、ここ10年は」
「違うわよ。とはいえ、それも流動性があるならありだと思うけれどね」
「人は変わる、人の認識は変わる、世界の見方が変わる、そういう中で、あなたは唯一の真実を見つけられるのかしら?」
「無理ね。それこそ、真理を信じないで刹那的に生きるか、廃人になるしかないわよ」
「廃人は言い過ぎだけれど、そうね、真理を信じない、ということはできるかもね。でも、それって拠り所のない、孤独な人生じゃないかしら?」
自分自身の認識で世界は形作られているが、自分自身の認識も変わってしまう。
この世界に不変のものなんてない、そういうことだろう。
「そこで、現実は存在するかしら? という問いを投げかけてみましょうか」
「またそれ? そうねえ、ここまで言われると、確かなものは存在しない、ただ全ては朧げに、じゃないかしら?」
「朧げ、か。まあ、そうよね。何もかもはっきりしないもの」
「元々現実とは曖昧なものだった、という話に落ち着いていいかしら?」
「いいわよ。そのことに気づいてくれるなら、私としても本望だわ」
「その話をするために私を呼び出したの? それだけ?」
「それだけ、というか、そうねえ、それだけじゃない?」
「まあ、いいわ。都会の外に出られたもの。この辺の平野を見られた時、何となく感動したし」
「そうねえ、都会の中で遠くが見渡せない、全部ビルに遮られての生活だと、遠くを見るということができないのよ」
「ところが、ここへ来る途中、ある森を抜けたところで、どこまでも広がる平野が見られたわ。それで十分じゃない。言葉にはできないけれど、それを見たとき、私は、まあエモかったわ」
「言えないわ。あまり言葉がうまくなくてね。さっきもエモいとしか言わなかったでしょう?」
「あらあら、もったいないことを言うのね。言いたいことを言っていいのよ?」
「言いたいことは言ったわよ。言葉に表せない、それでいいじゃない。あーあ、体力だけじゃなくて語彙力も身に着けなくちゃ」
東雲は境内の池に目をやった。
そこには宇宙があった。
星が夜空に浮かび上がり、お月様が明るく輝く、そんな満点の夜空がそこにはあったのだ。
今までオブリと話した現実について、それこそどうでもよくなるような、そういう美しさだった。
東雲は自分が今眠っているのか、それとも起きているのか、自分自身で理解できない、いいや、自分自身を失ってしまったかのような、そんな感傷に浸った。
真円のようで、ほんの少し欠けるお月様に、そのほんの少しの隙間に東雲のこころは吸い取られてしまった。
あれだけ現実にのっとった生き方をする存在が、そこにあるかどうかわからない、闇の部分にあてられてしまったのだ。
無心、無我、忘我、そういう言葉がふさわしい状態だった。
宵闇の中、見つめ続けたその隙間が東雲の心像の中、心の容量からあふれるほど巨大になり、その時……
雫が水面におちて、それがただの水面でしかなった、ということがわっかってしまった。
ドン!
と、東雲はオブリに池の中へ押し出された。
池は意外と深く溺れそうになる。
それにどういうわけか、もがくことも、抗うこともできない。
自分自身の肉体が、自分の物ではないように重く、動きをとることができない。
水が東雲の肉体に染み込むが、いいや、染みているのか? 冷たくて体温が下がっていくようなのか? ちがう、何かに温められている。
それはまるで、39度の浴槽に浸かっている、そういう気分だった。
いいや、それは気分か?
結論を言えば現実だった。
東雲は目が覚めたら、自分の部屋のお風呂に浸かっていたのだ。
睡魔に浸された肉体が目覚め、自分自身の存在がはっきりとわかる。
そして、当然ながら、お風呂場の、それも湯船の縁に一人の女の子が座っていた。
「おはよう、お風呂で寝ちゃうなんて。昨日は夜更かしだったのかな?」
今まで見ていたのがただの夢だった、ということを言ってしまうことは可能だが、今はあえてこういう書く。
東雲が見つめた、現実の正体でさえ、唯識の向こう側へ消えてしまった。
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