第2話 過去

文字数 2,269文字

「お代わりをお持ちしますか」
 男がたいらげたベーコンエッグの皿を下げながら、アンがもうひとりの女に訊いた。女――いや、化粧を落とした後に表れたのは、まだあどけなさの残る少女の顔だった。
 少女の名は、伽耶というらしい。伽耶は小さく溜息を吐いた。
「作ってやって。この大きな生き物は三日も何も食べてないような顔をしてるから」
「いや、もう十分だ。おかげで人心地ついた」
 男は、伽耶とアンに深々と頭を下げた。「世話になった。この恩は忘れない」
「そんなの忘れていいわ。でも、お腹がくちくなったのなら、はやく出ていって。やっかいごとに巻きこまれるのはごめんよ」
「もちろんだ。これ以上迷惑をかけるつもりはない」
「でも、この方、ひどい傷ですわ」
 アンが冷静に言う。
 伽耶はうんざりしたような顔を男に向けた。
「やさしいでしょう? アンって」
「本当にロボットなのか。とてもそうは……」
「人間だったら、こんなにやさしいわけないじゃない? それに、オジサンの傷の手当だって完璧だったはずよ」
「ブラック・ジャックも顔負けの腕だった」
 伽耶の目にいぶかしげな色が浮かんだ。
「昔そういうマンガがあったんだ。マンガが現実になる世の中になったんだな」
「オジサン、もしかして初めて見たの? アンみたいなAIロボット。認可されてから、もうかなり経つんだけれど」
「長いことムショに入ってたもんでね」
「やっと娑婆(しゃば)に出てこれたってのに、なんでまたこんな……」
 伽耶はゴミ箱の中の、血に染まった脱脂綿を見つめる。
「学習しないやつなんだよ」
 伽耶は何も言わなかった。ちょっと肩を(すく)めただけだった。少女は立ち上がって、大きく伸びをした。
「まあ、いいわ。わたし、もう寝るから。いい? わたしが寝ている間に出ていくのよ。目が覚めた時まだオジサンがいたら、迷わず警察に通報する」
「もう寝るって……。お嬢ちゃん、オレが怖くないのか」
 呆れたように言う男を見て、伽耶は鼻で笑った。
「だってアンがいるもの。そのカボチャ頭を吹っ飛ばされたくなかったら、妙な考えは起こさないことね」
 伽耶はもう男に背を向けていた。やがて、ぱたんと寝室のドアの閉まる音がした。

「コーヒーはいかがですか」
 上着を取ろうと腰を浮かしかけた男の前に、湯気の立つカップが置かれた。
「飲んでから行きたいが、オレを地の果てまで追っかけようっていう熱烈なファンに居所(いどころ)を知られるとまずいんでね」
 アンは食堂(ダイニング)のテーブルを挟んで、男の向かいに腰を下ろした。
「伽耶はあと七時間は目ざめません。悪い夢さえ見なければ」
「親はいないのか」
「わたしには、伽耶の家族に関する情報はインプットされていません。伽耶はほとんど着の身着のまま、この街にやってきました。そして、血を吐くような思いで溜めたお金で、わたしを買ってくれたのです」
「そんな話を、あの子はあんたにしたのか」
「いいえ。伽耶は自分の話はほとんどしません。でも、わたしは人間に触れると、その身体に残存する記憶を見ることができるのです。伽耶はよく悪い夢を見ます。記憶ではないので、夢の中身まではわかりませんが、強い恐怖と悲しみが伝わってきます。そんな時、わたしは伽耶のベッドに入り、伽耶を抱きしめます。心拍数や神経伝達物質等の数値が安定するまで、ずっと。そうするようプログラムされているのです」
「確かに、あんたは人間よりやさしいようだ」
 男が低く笑った。
「ただ、わたしが(さかのぼ)れるのはこの街に来てからの伽耶の記憶だけで、それ以前の過去にはアクセスできません。伽耶の記憶の(はこ)が固くロックされているせいです」
「オレには、わかるような気がするよ」
「人間のあなたに、わたしの知らない伽耶の過去がわかるのですか」
「人間だから、わかるのかもしれない」
 アンは僅かに首を傾げた。
 その時、男が衝動的に腕を伸ばし、アンの手を握った。アンはまったく反応を示さなかった。そんなプログラムは組み込まれていないからだ。
「すまない」
 男はすぐにアンの手を離した。
「この方が、紫苑なのですね」
 男の顔が少しだけ歪んだ。
「昔、一緒に暮らしていた女だ。あんたにちょっと似てるんだ。特に首を傾げるしぐさが……」
「わたしに内蔵されている顔認証システムでは、〝そっくり〟というほどの相似性は認められませんが」
「人間の感覚は、君らとはちょっと違うんだよ。似ていなくても、似てると思うことがある」
「似ていなくても似ているというロジックは、わたしには理解できません」
「だろうな。オレ自身、よくわからない」
「人間の思考プログラムは、奇妙且つ矛盾しています。例えば、伽耶の取る客は皆男性ですが、伽耶は男性を憎んでいます」
「奇妙でも矛盾でもない。家出少女にできる仕事は限られている。それだけさ」
「例外がひとりいます。二年前、一晩だけ伽耶の客になった少年です。その少年のことを思い出すと、伽耶の心拍数は上がり、ドーパミンが大量に分泌されます。〝恋愛〟と呼ばれる症状に該当します。伽耶は時々、寝言で(きょう)というその少年の名を呼ぶことがあります」
「響……」
 男の眉が微かに上がった。アンは淡々と続ける。
「あなたの心理メカニズムも理解不能です。あなたは紫苑を愛していたのに、紫苑と別れました。さっきあなたに手を握られた時、泣いている紫苑の顔と窓を打つ雨が見えました」
 男はもう一度手を伸ばした。そして、おずおずとアンの頬に触れた。アンの表情は動かなかったが、頬は人間と同じような感触がした。刹那(せつな)――
「危ない、伏せろ!」
 声と同時に、食堂の窓ガラスが粉々に砕け散った。
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