青の城 1
文字数 2,925文字
真昼にすら薄暗いままのその森は、奥に潜むものを包み隠して静謐な気配で満ちていた。本来の森にある様々な生き物の気配はほとんど無かったが、それも奥に住まうものの事を知っているものなら誰も疑問に思わないに違いない。
ここは、魔の森。
今この世界に君臨する魔族の王が住まう場所。
魔族の頂点に立つ吸血鬼の、さらに頂点に立つものが暮らしていた。
周囲に満ちる絶対的にして濃密な魔の気配が、結果的にこの森から真っ当な生を謳歌する生き物たちを遠ざけてしまった。かの王は何も手を下していない。ただ、生き物たちが自ら距離を選択し行動に移したにすぎない。
強大な魔の気配は、それだけで影響が強く、それが邪悪であろうと無かろうと関係なく、その気配は弱いものを蝕んでしまう。故に、それは共存のための選択でもあった。先代の魔王もその森にいたため、森は長い時間生物を知らず、しかし朽ちる事も無かったのは魔王自身が魔力によって森を守っていたからでもある。
そんな魔の森の中心には、広く美しい湖が存在する。
汚れを知らない美しい湖の中央には、唐突に白亜の城があった。まるでそれは湖から生えたかのように、すらりとその姿を見せている。それは、明らかに人のなした造形ではありえなかった。
どんな宮殿にも勝る、その真っ白い城こそ魔王の住まう場所。朝日に対しては負けず輝き月光にその姿を青に染めるその城は所有者の一族の呼称から『青の城』と言われていた。
魔族は恐れて近寄らないかの城を、湖岸でじっと見つめる娘が一人。
長い青の髪を三つ編みにして垂らし、丸い眼鏡の奥には青の瞳が輝いていた。幸せそうに城を見るその人間の娘の目には、魔王の城を見ているという陰りは無い。まるで一枚の絵画を見ているような惚けた表情で、彼女はその景色を楽しんでいる。
魔の森の、その場所まで入り込む事は普通の人間には至難の業であるが、彼女、ベータ=マキーナはそこに来る事に困った経験は無かった。ここまでやってきたのは一度ではない。その森は、彼女を素直に受け入れ返してくれるようだったので、ベータは何度もそこにやってきていた。何故自分が拒絶されないのかも知らないまま。
その日も、頼まれた使いの帰りに時間が空いたので彼女は訪れた。
美しい湖に浮かぶ、白亜の巨城。
この世ならぬ美しいその城は、いつも変わらずそこにある。
まるで一枚の絵画のようなその風景は、見るたびにベータの心を癒してくれた。
裕福とは真逆の家庭に生まれ、心優しい両親に育てられたが、毎年のように家族が増えてしまい家はどんどん貧困に追い込まれてしまった。少しでも家計を助けようと彼女は住み込みの奉公に出ているが、健気な思いとは裏腹に手酷い扱いを受ける日々。
そうでなくても、人として異端な青の髪を持って生まれてしまった彼女は幼い頃から迫害の対象になりやすかった。加えて、彼女の周囲で度々起こる不可解な出来事が、さらに立場を悪くしていく。
だけど、両親はそんな彼女にも分け隔てない愛情を注いでくれた。だからベータはくじける事無く、常に笑顔を絶やさぬようにする。
何を言われても、何をされても微笑む事が出来る。
それでも。
時々、どうしても耐えられなくなったとき、ベータはこの場所に来た。
見つけたのは偶然。
使いを頼まれたときに、この森を通らなければいけなくなった(後で、それは嫌がらせの一環であったと知る)。常々恐ろしいと言われている事を知っていたから、オドオドと森に入ったベータは、まるで導かれるように恐ろしい目に遭う事も無く此処に来てしまったのだ。
そのときに見た、この城の美しさに息をのんだ。まるで一枚の絵画のような、この世のものならぬ城は、少しだけ荒んでいた彼女の心を癒してくれた。
帰りも、何故かこの森は行きたい場所に彼女を導いてくれた。
そして森はベータの秘密の宝物になった。どんなに辛くても、此処に来てこの景色を見るだけで癒されていくのを感じた。
今日も、許された短い時間彼女は城を眺めた。
そうして、いつものように帰路につくはず、だった。
「おい、女がいるぜ!」
突然聞こえてきた野太い声に、びくりと身を震わせて振り返れば、明らかに真っ当な生き方はしていないだろう三人の男がいた。この森にはハンターや盗賊の類も潜むのに使っているようだと言う話は聞いた事があったが、実際にそんな輩に遭遇するのは初めてでベータは全身を緊張させる。
前者ならまだしも、明らかに目の前の男たちは後者だ。
魔族は恐れて寄り付かない魔王の居城も、愚かな人間には関係ないということだろう。
「青い髪じゃねーか。こいつ、人間か?」
「どっちだっていいさ。ちょうど溜まってた所だからな」
「おいおい、てめぇも物好きだなぁ」
「そういうお前こそ同じ事を考えてんだろう?」
「はは、違いねぇ」
下卑た笑いを浮かべながらゆっくりと距離をつめてくる男たちに、ベータは不穏な気配を感じて後ずさる。しかし、後ろは湖。すぐに行き詰まってしまう。
伸びてくる小汚い腕に、身が竦む。
逃げたいのに、体は動かない。仮に動けたとしても三方を塞がれた状態で逃げ切れるかは定かでなかったが。あっさりと捕まって、地面に引き倒された。男の一人がのしかかってきて、服の一部が破られる。
「い、いやぁ!」
「へへへ。いいねぇ。女の悲鳴が一番クるねぇ」
そうして響く、男たちの笑い。
ベータの目に涙が滲み、頬に一筋の雫が伝った。
その時。
「おいおい。女の子は喜ばせるのが男の甲斐性。笑わせるんならともかく泣かせるなんてもっての他だぜ?」
「いじめちゃめーなのよ!!」
場違いなくらいの明るい男の声と、少女の声。
顔だけそちらに向けたベータが見たのは、茶髪に紫の瞳をした背の高い男と、彼に手を引かれている同じ茶髪に大きな緑の瞳をした幼い少女だった。呆れたようにベータの方を、正確には彼女に群がる男たちの方を見ている彼らは、買い物帰りのような軽装で男の方は手に荷物を提げていた。
まるで通りすがりのようなその様子は魔の森には場違いで。
「何だ、てめぇは!!」
数で勝っているからか、それとも男が優男という風体だからか。
男たちはベータから離れて、現れた方の男に詰め寄っていく。
「ノンノ、先にあのおねーちゃんを連れて帰っててくれるか?」
「はい、なのよ」
男に荷物を渡されて、少女は殺気立つ男たちを避けるように大きく回り込んで、呆然と事態を見ていたベータの方に近づいてくる。
「だいじょうぶですか?」
「はい、あの、あの方、大丈夫でしょうか」
にっこりと微笑む少女に、ベータはそれでも男を心配した。
嬉しそうに少女が頷く。
「たかちゃんなら、だいじょうぶなのよ!!」
「あー、ノンノ、真っ直ぐアッシュの所に行けよー?」
「はぁい」
付け足すような男の言葉に、元気に返事をして少女はベータの肩に手を置いた。
遠くにそびえる城を見て、言う。
「たかちゃんのしんたくにおいてここにいにしえのまほうよきどうせよ! あっちゃんのところにノンノたちをはこんでください!!」
可愛らしい声が響くと共に、二人の姿は眩い青の光に包まれて、その場所から掻き消えた。
ここは、魔の森。
今この世界に君臨する魔族の王が住まう場所。
魔族の頂点に立つ吸血鬼の、さらに頂点に立つものが暮らしていた。
周囲に満ちる絶対的にして濃密な魔の気配が、結果的にこの森から真っ当な生を謳歌する生き物たちを遠ざけてしまった。かの王は何も手を下していない。ただ、生き物たちが自ら距離を選択し行動に移したにすぎない。
強大な魔の気配は、それだけで影響が強く、それが邪悪であろうと無かろうと関係なく、その気配は弱いものを蝕んでしまう。故に、それは共存のための選択でもあった。先代の魔王もその森にいたため、森は長い時間生物を知らず、しかし朽ちる事も無かったのは魔王自身が魔力によって森を守っていたからでもある。
そんな魔の森の中心には、広く美しい湖が存在する。
汚れを知らない美しい湖の中央には、唐突に白亜の城があった。まるでそれは湖から生えたかのように、すらりとその姿を見せている。それは、明らかに人のなした造形ではありえなかった。
どんな宮殿にも勝る、その真っ白い城こそ魔王の住まう場所。朝日に対しては負けず輝き月光にその姿を青に染めるその城は所有者の一族の呼称から『青の城』と言われていた。
魔族は恐れて近寄らないかの城を、湖岸でじっと見つめる娘が一人。
長い青の髪を三つ編みにして垂らし、丸い眼鏡の奥には青の瞳が輝いていた。幸せそうに城を見るその人間の娘の目には、魔王の城を見ているという陰りは無い。まるで一枚の絵画を見ているような惚けた表情で、彼女はその景色を楽しんでいる。
魔の森の、その場所まで入り込む事は普通の人間には至難の業であるが、彼女、ベータ=マキーナはそこに来る事に困った経験は無かった。ここまでやってきたのは一度ではない。その森は、彼女を素直に受け入れ返してくれるようだったので、ベータは何度もそこにやってきていた。何故自分が拒絶されないのかも知らないまま。
その日も、頼まれた使いの帰りに時間が空いたので彼女は訪れた。
美しい湖に浮かぶ、白亜の巨城。
この世ならぬ美しいその城は、いつも変わらずそこにある。
まるで一枚の絵画のようなその風景は、見るたびにベータの心を癒してくれた。
裕福とは真逆の家庭に生まれ、心優しい両親に育てられたが、毎年のように家族が増えてしまい家はどんどん貧困に追い込まれてしまった。少しでも家計を助けようと彼女は住み込みの奉公に出ているが、健気な思いとは裏腹に手酷い扱いを受ける日々。
そうでなくても、人として異端な青の髪を持って生まれてしまった彼女は幼い頃から迫害の対象になりやすかった。加えて、彼女の周囲で度々起こる不可解な出来事が、さらに立場を悪くしていく。
だけど、両親はそんな彼女にも分け隔てない愛情を注いでくれた。だからベータはくじける事無く、常に笑顔を絶やさぬようにする。
何を言われても、何をされても微笑む事が出来る。
それでも。
時々、どうしても耐えられなくなったとき、ベータはこの場所に来た。
見つけたのは偶然。
使いを頼まれたときに、この森を通らなければいけなくなった(後で、それは嫌がらせの一環であったと知る)。常々恐ろしいと言われている事を知っていたから、オドオドと森に入ったベータは、まるで導かれるように恐ろしい目に遭う事も無く此処に来てしまったのだ。
そのときに見た、この城の美しさに息をのんだ。まるで一枚の絵画のような、この世のものならぬ城は、少しだけ荒んでいた彼女の心を癒してくれた。
帰りも、何故かこの森は行きたい場所に彼女を導いてくれた。
そして森はベータの秘密の宝物になった。どんなに辛くても、此処に来てこの景色を見るだけで癒されていくのを感じた。
今日も、許された短い時間彼女は城を眺めた。
そうして、いつものように帰路につくはず、だった。
「おい、女がいるぜ!」
突然聞こえてきた野太い声に、びくりと身を震わせて振り返れば、明らかに真っ当な生き方はしていないだろう三人の男がいた。この森にはハンターや盗賊の類も潜むのに使っているようだと言う話は聞いた事があったが、実際にそんな輩に遭遇するのは初めてでベータは全身を緊張させる。
前者ならまだしも、明らかに目の前の男たちは後者だ。
魔族は恐れて寄り付かない魔王の居城も、愚かな人間には関係ないということだろう。
「青い髪じゃねーか。こいつ、人間か?」
「どっちだっていいさ。ちょうど溜まってた所だからな」
「おいおい、てめぇも物好きだなぁ」
「そういうお前こそ同じ事を考えてんだろう?」
「はは、違いねぇ」
下卑た笑いを浮かべながらゆっくりと距離をつめてくる男たちに、ベータは不穏な気配を感じて後ずさる。しかし、後ろは湖。すぐに行き詰まってしまう。
伸びてくる小汚い腕に、身が竦む。
逃げたいのに、体は動かない。仮に動けたとしても三方を塞がれた状態で逃げ切れるかは定かでなかったが。あっさりと捕まって、地面に引き倒された。男の一人がのしかかってきて、服の一部が破られる。
「い、いやぁ!」
「へへへ。いいねぇ。女の悲鳴が一番クるねぇ」
そうして響く、男たちの笑い。
ベータの目に涙が滲み、頬に一筋の雫が伝った。
その時。
「おいおい。女の子は喜ばせるのが男の甲斐性。笑わせるんならともかく泣かせるなんてもっての他だぜ?」
「いじめちゃめーなのよ!!」
場違いなくらいの明るい男の声と、少女の声。
顔だけそちらに向けたベータが見たのは、茶髪に紫の瞳をした背の高い男と、彼に手を引かれている同じ茶髪に大きな緑の瞳をした幼い少女だった。呆れたようにベータの方を、正確には彼女に群がる男たちの方を見ている彼らは、買い物帰りのような軽装で男の方は手に荷物を提げていた。
まるで通りすがりのようなその様子は魔の森には場違いで。
「何だ、てめぇは!!」
数で勝っているからか、それとも男が優男という風体だからか。
男たちはベータから離れて、現れた方の男に詰め寄っていく。
「ノンノ、先にあのおねーちゃんを連れて帰っててくれるか?」
「はい、なのよ」
男に荷物を渡されて、少女は殺気立つ男たちを避けるように大きく回り込んで、呆然と事態を見ていたベータの方に近づいてくる。
「だいじょうぶですか?」
「はい、あの、あの方、大丈夫でしょうか」
にっこりと微笑む少女に、ベータはそれでも男を心配した。
嬉しそうに少女が頷く。
「たかちゃんなら、だいじょうぶなのよ!!」
「あー、ノンノ、真っ直ぐアッシュの所に行けよー?」
「はぁい」
付け足すような男の言葉に、元気に返事をして少女はベータの肩に手を置いた。
遠くにそびえる城を見て、言う。
「たかちゃんのしんたくにおいてここにいにしえのまほうよきどうせよ! あっちゃんのところにノンノたちをはこんでください!!」
可愛らしい声が響くと共に、二人の姿は眩い青の光に包まれて、その場所から掻き消えた。