第71話 そのとき

文字数 672文字

 昨日は一日、ほとんど食べていなかったし、その上、夜も朝も、基樹と淫らな行為にふけっていたので、ひどく疲れていたが、その分、空腹でもあった。それで、朝食は、完食とはいかなかったものの、八割がた食べることが出来た。
 基樹も藍も、ほとんど口を聞くことなく、神妙な顔をして、食べ物を口に運んでいた。翔と藍の荷物は、増永によって、すでに運び出されている。
 
 
 朝食が終わり、ついに、そのときが来た。身支度を整えた翔と藍に、増永が言う。
「お時間です。参りましょう」
 基樹とは、ここでお別れだ。増永が、基樹に向かって言う。
「この後、迎えの者が参りますので、彼の指示に従ってください」
「わかりました」

「基樹……」
 何か言いたいが、言葉が見つからない。それに、口を開いたら、きっと泣いてしまう。
 ただ、じっと見つめていると、基樹が口を開いた。
「体に気をつけて。ちゃんと食べるんだぞ」
「うん……」
「俺も、すぐに行くから」
「うん……」

 黙って見つめ合っていると、増永の非情な声がした。
「そろそろ参りませんと」
 藍が言う。
「基樹くん、頑張ってね。応援しているわ。翔と二人で待っているから」
「ありがとう。藍も、体に気をつけて」
「ありがとう」

 増永と久美は、ドアを開けて、部屋の外に出て行く。藍が、翔の肩に手をかけて言った。
「さぁ、行きましょう」
 涙をこらえながら、基樹の顔を見る。基樹が、いつものように、にっと笑った。
 ドアを出て、もう一度振り返って基樹を見る。基樹の口が、「翔」と動いたように見えた。
 目の前で、ドアが閉まった。そのとたん、翔の目から涙があふれ出す。
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