第2話 月曜日、仕事を休む。

文字数 3,295文字

 カタカタと、ものすごい速さで、それでいて規則的なリズムを刻む音が聞こえる。これ、なんの音だっけ。ぼんやりと考えながら、うとうととまどろむ。そのリズムに混じってノイズのような雨音が聞こえてくる。ああ、まだ降っているのか。出かけるの面倒だな。それにやけにお腹が痛い。これって。

 一気に目が覚めた。馴染みのある下腹部の鈍痛。のろのろと身体を起こすと、食卓兼作業机にしているテーブルに向かってパソコンを開いている彼と目が合う。一瞬、固まってから、そうか、わたしが連れてきたんだっけ、と思い出す。
「パソコン借りてる」
 なんでもないことのように彼がいう。そのようですね。ものすごい速さでキーボード叩いていましたよね。
「あんまりへんなとこ開かないでよ」
 そう釘を刺して、よろよろとベッドから降りるとトイレに向かう。勝手にパソコンを触られるのはもちろんいやだけど、いまはそれよりはるかに切実な状況だった。手当てをすませて部屋に戻ると、時計を確認してから、彼のそばを素通りしてベッドにもぐり込む。

「そういえば、具合はどう?」
 彼を連れてきたのが、たしか、おとといの夕方。そのまま昨日まる一日、彼はずっと目を覚まさなかった。
「おかげさまで」
「よかった」
 顔色を見るに、うちに来たときより、だいぶ調子はよさそうだ。
「あ、お腹すいてるよね。ちょっと、作る元気ないから、冷蔵庫のもの適当に食べていいよ」
 今日は月曜日。仕事に出るまで、あと一時間は寝られる。すこしでも休みたい。
「委員長、仕事に行くのか」
 まるで心のなかを読んだように彼がいう。
「行くよ、そりゃ。行かないと」
「休めばいい。顔色がよくない」
 いつのまにか立場が逆転している。
「いや、べつに病気じゃないから、休めないよ」
「病気じゃなくても、つらいものはつらいだろう。無理してまで行く必要はない」
 不覚にも、ちょっと泣きそうになる。無理しなくていい、ひとからそんなふうにいわれたのははじめてかもしれない。
「相変わらず、まじめなんだな」
「そうだよ。まじめだよ」
 だてに小学生のころから委員長を歴任してきたわけじゃない。いつのまにかついたあだ名が委員長、というくらいにはまじめだった。
「委員長ひとり休んだくらいで潰れるような会社なら、その程度のものだ。こっちから見切りをつけてやれ」
「いや、いくらなんでも、一日休んだくらいで潰れたりしない」
「それなら問題ない。堂々と休めばいい」
 なんでもないことのようにいわれると、なんだかほんとうにそんな気がしてくるからこわい。

「ねえ、さっきからパソコンでなにしてるの」
「買いもの」
「えっ」
「委員長のアカウント借りた」
「ちょっと、うそでしょ」
「金は委員長の口座に振り込んでおく」
「本気でいってるの?」
「もちろん」
 そういうと、彼はものすごく悪そうな顔でにやりと笑う。
「見張ってないと心配だろ?」
 なにがなんでも仕事を休ませるつもりらしい。

 結局、ほんとうに欠勤する羽目になった。まんまと彼に乗せられた形になったが、実際、かなり体調が悪かったのだ。今まで毎月なんとか薬でごまかしてきたけれど、今回はとくにひどい。職場に連絡を入れたあと、彼の動向を見張る気力もないまま、泥のように眠りに落ちた。

 それからどのくらい眠っていたのか。玄関のインターホンの音で目が覚めた。熱っぽくて身体がだるい。頭がぼうっとする。指一本ですら動かすのが億劫(おっくう)だ。でもだれか来たみたいだし起きないと。そう思いながらもぐだぐだしているうちに、玄関のドアが開く音がして、なにやら話し声が聞こえた。
 え、なんで。とっさに飛び起るが、めまいがしてそのままうずくまる。
「委員長、起きたのか」
 あ、そうか。彼がいたんだ。ベッドのうえでぐったりしていると、玄関から戻ってきたのだろう彼の声が聞こえた。ゆるゆると顔をあげると、見覚えのない段ボール箱や梱包材などがあたりに散乱している。
「なにこれ」
 どういうこと、と彼に目を向けて、思わずまばたきをする。服装が変わっている。わたしが発掘した(いわ)くつきの服ではない。シンプルな白いシャツにジーンズ。
「買いものって、それのこと?」
「そう」
 そんなにいやだったのか。そりゃまあ、赤の他人のお下がりなんてうれしくはないだろうけど。
「腹減ってないか。なにか食べて薬を飲んだほうがいい」
 そういいながら彼はテーブルに置いてあった紙袋を開ける。
「ちょうどいま、熱いスープが届いたところだ。食べられそうならハンバーガーとサラダもある」
 デリバリーを頼んだのか。なるほど。食欲はないけど、温かいスープはありがたい。
「スープは欲しい」
「了解」

 ひとまずトイレに行って戻ってくると、デリバリーしたのだろうジャンクフードがテーブルのうえに広げられていた。時計を見ると、もう夕暮れ時だ。半日近く眠っていたことになる。カーテンの向こうから相変わらず雨の気配がする。向かいでは、彼がパソコンの画面を眺めながらハンバーガーを食べている。この部屋でだれかと食事をとるのはいつぶりだろう。スープはとてもおいしかった。クラムチャウダーだ。冷房で冷えた身体がみるみるうちに温まっていく。
「おいしい」
 カップを手にしたまま思わずつぶやくと、彼がこちらを見る。
「それはよかった」
 ハンバーガー片手に、彼はふたたびパソコンに視線を戻す。もうすっかりわがもの顔でいじくっているが、正真正銘、わたしのものだ。
「まさか、また買いものしてるの」
「いや、それはもうすんだ」
「じゃあ、今度はなにしてるの」
「悪者を成敗してる」
「へ?」
 そういうゲームでもやっているのだろうか。わたしが首をひねっていると、ハンバーガーを食べ終えた彼はおもむろに立ちあがり、キッチンへと向かう。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出し、こちらを振り返る。
「薬はどこに?」
「え、やっぱり具合悪いの?」
「違う、おれじゃない。委員長の」
 予想外の言葉に思わずポカンとしてしまう。わたしのために水と薬を用意してくれるつもりなのか。
「薬はバッグに入ってる。いつも持ち歩いているから」
「どの鞄?」
「あそこの黒いトートバッグ」
 いうや否や、彼はそのバッグを手に戻ってくると、そのままわたしに差し出した。
「ありがとう」
 テーブルのうえにペットボトルが置かれる。そしてもはやそこが定位置かのようにパソコンのまえに陣取る彼に、わたしはいった。
「やさしいね」
 すると彼はなんだか呆れたように笑ってこちらを見た。
「どっちがだよ。ずいぶんお人好しだな」
「え」
「やさしいのは委員長のほうだろ」
「わたし?」
「十年ぶりに会った、たいして親しくもない元クラスメイトの男を、ひとり暮らしの部屋に招き入れて好き勝手にパソコン触らせる人間なんて、ふつうはいない」
 ずいぶんないわれようだ。
「悪かったわね、ふつうじゃなくて」
「誉めたつもりだが」
「どこがよ」
 スープを飲み干してカップをテーブルに戻す。薬を取り出して、水と一緒に飲み下す。ふう、と息を吐いて顔をあげると、彼はまだわたしを見ていた。
「なに?」
「いや、変わらないなと思って」
 そうつぶやくと彼は自分のカップを手に取る。中身はコーヒーらしい。香ばしい香りが漂ってくる。

「そんなに話したことなかったよね?」
「ん?」
「香坂くんとわたし」
「ああ」
「よく、わたしのこと覚えていたよね」
「委員長だからな」
「なにそれ」
「そっちこそ、あの状況でよくおれだってわかったな」
「委員長って呼ばれたから思い出したの」
「なるほど」

 意味のない、のらりくらりとした会話が妙に心地好い。本来なら、いまなにをして生計を立てているのか、どうしてあんな路地裏で行き倒れていたのか、そういうことを尋ねるものなのだろう。だけど、身体が本調子でないせいか、そこまで立ち入る気にならない。
「ごちそうさま。もうすこし寝るね」
 もそもそとベッドにもぐり込むと、すぐに眠気が襲ってきた。
「おやすみ」
 彼の声が聞こえた気がした。なんとなく、次に目を覚ましたときには彼はもういなくなっているのではないか、そう思いながら眠りに身をゆだねた。
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