第3話
文字数 15,407文字
SHAM
前しか向けない
もしも、この世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。
ヘレン・ケラー
おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。
坂本 龍馬
第三我【前しか向けない】
「準備は出来てるか?」
「おうよ」
「俺は眠い」
「俺の方が眠いんだよ、まったく」
ぐっすりと寝られたのは耶納華1人らしく、黄生は寝ていたように思うのだが、本人はまだ寝足りないらしい。
咲明は夜中に耶納華が寝惚けて何やら1人で文句を言っていたのを聞いてしまい、それからあまりよく寝られなかったようだ。
それは良いとして、3人は研究所の前まで訪れていた。
「まあ、顔は3人ともわれてるし、コソコソと隠れてもしょうがねえからな。正面突破と行こうか」
咲明はそう言って、パシッと、開いた状態の右手に拳を作った左手を当てた。
大きな欠伸をしながらも、黄生はやる気なさそうに「おー」と小さく返事をしていた。
誰が合図したわけでもないが、一気に入口から入ると、そこにはすでに男たちが待ちかまえていた。
研究所の護衛とでも言うのか、護衛の男たちはそれほど数が多くなかったが、それなりに強かったため多少時間はかかってしまったが、問題なかった。
「なあ咲明」
「どうした黄生」
「チョコマシュマロ喰いたくなった。それからシチュー」
「急になんだよ。終わったら喰いに行けばいいだけの話だろ」
とても戦闘中の会話には聞こえないが、黄生は可愛い単語を並べながらも、男の首を後ろから強く腕で絞め上げていた。
男は苦しそうに何度も何度も、自分の首を絞めている黄生の腕をバンバン叩くが、ビクともしない。
咲明もそんな黄生に返事をしながら、男の弱点ともいえる場所を思い切り蹴りあげていた。
それを見ていた耶納華は、思わず自分のそこを両手でサッと隠していた。
「もやしっこと同じだな」
「強ぇ・・・」
あっという間に倒してしまった2人に感心していると、2人はそんなこといつものことだからか、特に気にする様子もなく先へと歩いて行く。
「で、何処に行くんだ?」
「そうだな。耶納華の本体とやらに会いに来たんだし、そこを目指すとするか。おい、お前の本体が何処にいるのか分かるのか?」
「いや、知らない」
「またか」
「どうしますか、炎涼様」
その頃、すでに黄生たちが建物内に潜入したことは知れ渡っていた。
耶納華も一緒に来たとあって、耶納華共々捕まえてしまおうという者もいたが、炎涼はひとまず様子を見るようにと伝えた。
しかし、思ったよりも黄生たちは早く進み、それに何より、研究所内の人間ではまともに太刀打ち出来ないことを知った。
以前来たときには手を抜いていたのか、それとも耶納華がこちらの手にあったから本気を出さなかったのか、それは分からないが、とにかく早く手を打たないと不味い状況だった。
最も不味いのは、研究所のことを世間に知られてしまうことだ。
モニターをちらっと見た炎涼は、研究所内の各部屋に設置されているマイクを通してこう言った。
「緊急事態発生だ。みんなすぐ避難するように」
この放送を聞いた研究所内の人間は、研究者たちだけでなく被検体も、みな一斉に同じ方向に向かって走り出した。
炎涼はモニターを見て黄生たちの動きを見ていると、そこへ波幸がやってきた。
「炎涼様、みな避難を始めました」
重要な書類やファイル、情報といったものは、各部屋に準備してある隠し扉を開いてそこに入れると、自動的に地下に運ばれるという仕組みになっている。
火災が起こった際、地震などの自然災害から守るための手段でもある。
人間もまた別の地下へと避難し、そこでただじっと待つのだ。
コンコン、とノックをしておきながら返事を待たずに入ってきた男は、いつものにこやかな表情ではなく、少し真面目な顔をしていた。
「陸、どうした」
「緊急事態って耶納華が帰ってきたってこと?なら早く捕まえないと」
「そう慌てるな。そう簡単には捕まえられなさそうなんだ」
最初は首を傾げていた陸だが、モニターに映る耶納華と、耶納華の前を走りながら、次々と男たちを投げ倒していく男、黄生と咲明を見て事情が呑み込めたらしい。
「護衛たちは何してるんです?」
「やられたよ、あっさりとな。見るか?」
「いえ、興味ありませんから。けど、そんじょそこらの護衛たちとは違う者達を雇ったはずです。どうしてこんなことに?」
黄生たちにあっさりとやられてしまってはいたが、あの護衛の男たちとて、相当の手練であるのに違いはなかった。
この研究所が出来てからすぐの頃、研究所のことを調べようとしていた者達がいて、その者達を建物に入れないように、入ってしまったとしてもすぐに捕まえられるようにと、そう簡単にはやられない男たちが揃っていたはずだった。
それなのにすぐにやられてしまったとなると、体調が余程すぐれなかったのか、それとも黄生たちが強いのか、どちらかだろう。
まあ、少なくとも前者の方はないだろうが。
「あいつらの方が強かった。ただそれだけの話だろうな」
「さすがは賞金稼ぎってとこですね。けど、おたずねものって言ってましたけど、どういうことですかね?賞金稼ぎがおたずねもの?おかしな話ですね」
賞金首になるのがおたずねものであって、賞金稼ぎとは真逆とも言える存在だ。
それなのに黄生と咲明はおたずねものとも言われている。
おかしな話ではあるが、これにはちゃんとした理由があったのだ。
「あいつら自身もまた、賞金首になってるんだ」
「え?」
そう言って炎涼がデスクの引き出しから紙を取り出し、デスクの上に投げた。
陸と波幸がそれを見て驚いてはいたが、驚いたのはそれだけではない。
2人にかけられた賞金の大きさだ。
「なんですコレ。ケタ違いじゃないですか」
手配書を手に取ってそう呟いた波幸に対し、炎涼は椅子にかけてあった上着を手に持ち、バサッと羽織った。
「そいつらが過去に何をしたのか、それは今問題じゃない。賞金首になってることもな。ただ言えるのは、舐めてかかるとこっちが痛い目を見るってことだ」
「俺は逃げるしかないってことですね」
冗談ぽく陸が言うが、きっと本心だろう。
これまで、喧嘩という喧嘩さえまともにしたことがない陸にとっては、目線を合わせるのも躊躇うだろう。
クローン達もオリジナルも無事に避難したのか、いや、無事に避難していようといなかろうと、きっと関係ないだろう。
もしもダメになってしまったなら、また別の被検体を見つけ、作ればいいのだから。
陸は今後の研究にも必要だと思われる研究データを手に、大地をともに避難をしに部屋を出て行った。
残された波幸も部屋を出て行こうとしたとき、炎涼に呼びとめられる。
「波幸、お前に頼みたい事がある」
「人がいねーーーーー!!!」
「さっき避難とか何とかの放送があったからな。どっかに隠れてんのかもな。まあ、これで見つけやすくなったんじゃねえか?」
「おいおいおいおい!!!俺の本体も隠れてたら意味ねえだろうが!!!探しにくいだろうが!!!!」
「・・・あ」
「あ、って・・・」
がらん、とした研究所で3人だけがポツンとそこに立っていた。
あたりを見渡してみても人っ子一人おらず、耶納華の本体を探そうにも探せないような状況だった。
とにかく部屋に入ってみようと入ってみた部屋では、研究の途中だったのか、手錠に繋がれたままの片腕だけがあったり、実験のためなのか単に飼っているのか、犬や猫がこちらを怯えた様子で見ていたり。
そのまま歩き続けていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「あら、耶納華じゃない」
「あ!!!宥海と結羽実!!!」
「・・・?」
どこからともなく、ではなく背後から聞こえてきた声に、黄生と咲明は思わず身構えてしまったが、耶納華は知った顔だからか、特に警戒心もなく声を張り上げた。
黄生たちは誰だと思っていると、耶納華が頼んでもいないのに紹介をしてくれた。
「こっちは宥海でこっちが結羽実」
「・・・いや、同じだよな?」
「いやいや、読み方は同じなんだけど、一応字が違うから。宥海が本体で、結羽実がクローンだったっけ?」
「そうよ」
同じ顔が2つそこにあるだけで、単に双子のようにも思える。
ホクロの位置が左右逆なのは分かったが、それ以外は性格が違う感じがする、というぐらいだろうか。
いや、そもそもクローンなのに性格が違うなんてことがあるのだろうか。
今はそんなこと聞いている時間もないはずなのだが。
「宥海、なんでお前等は避難してないんだ?」
「ああ、避難ね。するわよ?」
「みんなもうとっくに避難してるじゃねえか。なんでそんなにのんびりしてるんだよ」
「いいじゃない、別に。緊急事態って言ったって、耶納華たちが来たってことは知ってたから、平気かなーって思って」
「なんだそりゃ」
呑気にそう答えてから、宥海は結羽実と手を繋いで避難しようとする。
その背中を見ながら、黄生が耶納華の頭をペシッと叩いた。
「いて!!なんだよ!!」
「お前の本体がどこにいるか聞けよ」
「・・・ああ!!」
成程な!と納得した耶納華は、まだそれほど遠くへ行っていない宥海たちを呼びとめると、尋ねてみた。
「なあ!俺、クローンだったんだよ!!俺のオリジナルって、何処にいるか知らねえか!?そいつに会いに来たんだ!!!」
「さあ?知らないわ。会ったことないもの」
「・・・・・・」
耶納華がクローンだったことを言っても驚かなかったあたりを見ると、きっと元からクローンだと知っていたのだろう。
宥海は知らないとはっきり答えると、足早に去って行こうとする。
宥海に腕を引っ張られながら早歩きになった結羽実が、耶納華の方に顔を向くと、宥海に掴まれていない方の腕をある方向に持っていき、指を指した。
すぐに背中を向けて走って行ってしまったが、黄生と咲明は結羽実が指さした方向に足を向ける。
「おい、何処行くんだお前等。迷子になるぞ」
「お前は馬鹿か」
「ああ!?なんだと!?」
先程の結羽実の行動を見ていなかったのか、それとも見ていたけれども気付かなかったのか、どちらにせよ、耶納華に説明をして連れて行く。
そちらにも同じような部屋が幾つもあって、一つ一つドアを開けて行くしかなかった。
「果てしない作業だな」
「あれ、どこまで見たっけ?ここは見たか?あれ?こっちまで見たか?」
「馬鹿か。次はこっちだ」
「いや黄生、そっちはもう見た部屋だからな。こっち戻って来い」
全部で幾つの部屋があるか知らないが、結羽実が指さした方向にある部屋は全部で60ほどあった。
しかし、そのどの部屋にも、耶納華の本体と思われる男、というか人影は見つからなかった。
「なんだよ、無駄骨か」
「・・・・・・」
「黄生どうした、ぼーっとして」
「あれ」
「ん?」
最後の部屋の隅に、何かネズミが通るような小さな穴があった。
「何してんだよ!!別んとこ探しに行こうぜ!!!」
耶納華は部屋の外からこちらをじーっと見てそう言っているが、黄生と咲明は部屋の中でその穴が何なのかと考えていた。
痺れを切らした耶納華が部屋の中に入って来て、2人を連れて行こうと腕を伸ばした瞬間、黄生と咲明が同時に避けてしまったため、耶納華は誰にも支えられることなく、前へと倒れてしまった。
「「あ」」
ゴツン、と思いっきり壁に額をぶつけてしまった耶納華は2人を睨みつけようとした時、ゴゴゴ、と何か重たい音がした。
よく見てみると、小さな穴の部分に耶納華の足のつま先が引っ掛かっていた。
きっとそれがスイッチになったのだろう、そこには隠し扉があった。
ボコ、と少し引っ込んだ壁を更に手を押しあててみると、扉が開いてそこから更に地下へと続く階段があった。
暗闇の中を歩くには少し戸惑われたが、一歩踏み出してみると、パッと明るくなった。
「地下に造った研究所にはさらに地下があったってか」
3人は並んで階段を下りて行くと、5分も歩かないうちにまた扉が現れた。
先頭を歩いていた黄生が扉を開けると、そこは白と黒の正方形が交互に並んでいる壁が一面にある部屋があった。
「なんだここ、すげぇな」
「目が回りそう」
「ほー、こりゃまた滑稽な」
その時、コツン、と3人の誰のものとも違う足音が聞こえてきた。
黄生と咲明はそちらに身体を向け、耶納華はそんな2人の後ろに隠れた。
「もうこんなところまで来たのか。やっぱりお前等、早めに潰しておけば良かったな」
口に白い手袋を咥えながら、右手で左手に白い手袋をつけている男がいた。
両手に手袋をつけ終えると、腕時計を見てからまたこちらを向いた。
「確か、炎涼とか言ったか」
「ああ、そうだ。・・・耶納華、お前ここに何をしに来たんだ?」
炎涼は黄生たちの後ろに隠れている耶納華に声をかけると、耶納華はそーっと顔を覗かせながら、答えた。
「俺は俺の本体に会いに来たんだ!ここにいるだろ!結羽実が教えてくれたんだ!」
「・・・ほう」
まあ会わせてやらないこともないが、と言って、炎涼はその白と黒の奇怪な部屋の住人を呼ぶと、男はやってきた。
「・・・え」
真っ白な上下の服を来て裸足で現れた1人の男は、黄土の目をして銀の長い髪をしていた。
それを見て、耶納華は目を丸くしながらも男の前に歩いて行く。
「耶納華・・・?」
咲明に名前を呼ばれても、耶納華はそのまま足を止めることなく進め、男の前に着くとずっと被っていた帽子を取った。
「なっ・・・!!」
帽子を被っていたから気付かなかったが、耶納華の髪もまた、同じように長い銀色の髪をしていたのだ。
それも同じくらいの長さで、同じような輝きをしていた。
この男が耶納華のオリジナルであることは明白であった。
「ああ、ああ、わかった。俺も直そっちに行く」
誰かと連絡を取っていた炎涼は、そこから立ち去ろうとしたのだが、黄生に呼びとめられてしまった。
「あの男は一体誰だ。なぜこんな研究をしている?お前は、何を企んでるんだ?」
「・・・・・・」
ピリピリとした空気が流れる中、炎涼はちらっと耶納華の方を見てから、なんともなしに答えた。
「分かってるだろう。あの男は耶納華の本体、八央だ」
「八央・・・?」
「ああ。ここでは、オリジナルとクローンには同じ名をつけている。字は違うがな。宥海と結羽実にも会ったんなら分かるだろ?」
耶納華の本体の名は、八央。
八央から派生したというのか、八央のDNAを使って生まれたのが耶納華であるが、まるで性格が違う様に見える。
八央はまるで、抜け殻のようだ。
「そもそも、なんでこんな実験が始まったのか、お前等知ってるのか?」
「え?」
何も知らない黄生と咲明に対し、炎涼はやれやれと首を横に振りながらも、話しをする。
「もともとは、弾圧された連中が作った団体なんだよ」
人間とは何か、生まれてくるとは何か、死んでいくとは何か、そういったことを調べようとした者達によって作られた場所。
最初は話しあいの場であった。
徐々に進行していって、動物実験が始まった。
動物で上手くいくようになると、満足いかなかったのか、今度は人間を使って実験を試みるようになった。
しかし当然上手くいくはずもなく、奇形が生まれるなんて当たり前で、生まれる前に死んでしまうことも多々あった。
それから興味を持ち始めたのは、生殖に関する実験であった。
同じ人間を何人も作り出し、環境によって性格に変化は訪れるのか、見た目には変化は現れるのかなどを実験していた。
その為に、英語が苦手な者には生まれてすぐから英語を聞かせたり、甘いものが大好きな者には甘いものを摂取しない生活を送らせたりと、とにかく色々だ。
その成果とも言えるのか、クローンと言っても、オリジナルと同じ性格になるわけではないと分かった。
双子ともまた違うクローンは、生まれてきた環境や育っていく環境によって性格や能力は変わり、同じ人間のクローンであっても、他人を見下す側になったり、見下される側になったりと、そういったことがあった。
脳波を調べ、血液を調べ、骨や筋肉なども調べていく中、ついには解剖によって研究をする分野まで出てきた。
それに対して反論が出なかったのは、それほどまでに人間とクローンという魔力にとりつかれていたからだろう。
「なんで・・・なんでこいつから俺を作ったりしたんだ!!」
「・・・八央は、ここの研究に疑問と疑念を抱いてしまったからだろうな」
死人のように口もきかない八央を前に、耶納華は愕然と膝をついて叫んだ。
耶納華の叫びに対し、炎涼は特に悪びれた様子もなくそう答えると、黄生が口を開く。
「疑問と疑念?」
また腕時計を確認すると、炎涼は黄生たちがいる方向とは別の方向にある出口に向かって歩きながら話した。
「果たして、この研究が次世代の為になるのか。世界を救う手立てとなるのか。自分が今やっていることが正しいのか否か。といった具合にな」
「もしかして、八央は・・・」
「ああ。八央は、ここの研究員だった」
「・・・!!!」
八央はもともとクローンの研究に勤しんでいた。
頭脳も明晰で研究も真面目であったのだが、ふとある日、自分が行っている実験に対して考えてしまった。
これから先の未来のために研究をしているのだと、それまでは自分にずっと言い聞かせていたのだが、日々研究によって犠牲になる人間もいることに気付いた。
単に傷ついているわけではなく、一生をここで過ごさなくてはならない環境であること、一生ここから逃げられないという束縛。
自由に生きるとは何だろうか。
人間らしく生きるとは何だろうか。
迷って悩んで悔やんで泣いて怒って悲しんで落ち込んで探して笑って。
色んな感情が渦巻く中、苦しみながらも生きて行く価値を見出していくのが人間の本来の姿なのではないか。
しかし自分がしていることはなんだろう。
人間という、いや、それ以前に生き物全てに対しての愚弄なのではないか。
この世に一つとして存在したはずのこの命は、そう簡単に代わりが作れるものなのだろうか。
玩具の製造をしているわけではないのだ。
淡々とこなしている日常にだって、自分でなければいけない理由がどこかしらにあるのだと、八央は気付いた。
いや、気付いてしまった。
「もう研究は出来ない」
「八央、どういうことだ?研究は出来ない?そんなわけないだろう?お前には研究に必要な知識や頭脳があるんだ」
「陸、俺は気付いたんだ。こんなこといつまでもしてちゃいけないんだ。人間は人間として、他の動物も個々が各々として確立して生きて行くことは、とても大切なことなんだ。クローンじゃ意味がないんだ」
「落ち着け。わかった。お前がそういうなら、俺は止めない。けど、もう一度よく考えてからにした方が良い」
それからすぐ、八央は研究所内で隔離されてしまった。
考え直して研究に協力するなら出してやると言われたが、八央は決して首を縦には振らなかった。
そのうち、八央は気を病んでしまい、言葉を発することも、感情を表に出すこともなくなってしまった。
そのまま放っておけば良かったのだろうが、研究者たちはそんな元研究仲間だった八央に対しても、被検体としてDNAを提出するようにと言ってきた。
断ろうとしても無駄なことで、水を飲んだコップからであったり、床に落ちている髪の毛であったり、採血などを行って、八央の遺伝子を手に入れた。
そして八央のクローンの実験が始まり、生まれたのは耶納華だった。
「あんたはそれを許可したってことか」
「勘違いするなよ?俺が今の地位に就任したときには、もうすでに八央の実験は進んでたんだ。それに、止めたって止まる奴らだと思うか?」
「・・・・・・」
「八央はきっと望んではいないだろうな。耶納華、お前はいることを」
「!!!」
炎涼と黄生が睨みあっていたが、炎涼の視線は耶納華へと向かった。
クローンを作ることに疑念を抱いていたのならば、炎涼の言うとおり、本体である八央に望まれて生まれてきたわけではない。
それを思うと、耶納華は今自分がここにいることが本当に良いことなのかどうかと、唇を噛みしめて俯いてしまった。
「・・・なんでもいいが、お前らも早くここから逃げた方が良いぞ」
「え?」
またちらっと腕時計を見た炎涼にそう言われ、黄生たちは眉を顰める。
「どういうことだ?」
「もうじきここが潰れるってことだ」
「潰れる!?」
「ああ。クローンも研究員も、いや、研究所にいる全ての者が、潰されるだろうな」
「なんだと!?」
すると、急にゴゴゴゴ、と大きな物音が響いてきた。
「な?」
「いや、な?って言われても。お前の仕業か!?どういう心算だ!!?」
「不味いぞ咲明。俺たちここでウエハースのようにボロボロになるぞ」
「お前は何を恐ろしいことを可愛らしい表現してんだよ」
「ああ、そうだ」
地震でも起こっているのかと思うほどの大きな揺れに振動。
ここにいたら危ないということだけははっきりと分かる。
そんな中、炎涼が項垂れている耶納華に向かってこう聞いてきた。
「八央がここにいることを教えたのは、結羽実だって言ってたが、確かか?」
「・・・ああ、そうだよ」
「・・・そうか。結羽実か」
実験は失敗か、とボソッと聞こえたような気がするが、それどころではなかった。
炎涼はそのまま反対側にある出口から出て行ってしまい、残された黄生たちも逃げようとしたのだが、耶納華がその場から動かなかった。
「耶納華!早く逃げるぞ!!!何してんだ!!!」
「・・・・・・」
逃げようとする黄生と咲明だったが、耶納華が一向に動かないばかりか、八央までもがそこに留まったままだった。
耶納華は両膝を曲げて八央と目線を合わせようとするが、八央はまったく耶納華を見ようとしない。
「おい耶納・・!!!」
咲明が耶納華の腕を掴もうとしたのだが、それを黄生が止めた。
「黄生・・・」
「・・・・・・」
首を軽く横に振ると、黄生はくるっと踵を返して元来た方に走って行った。
咲明も走ってその後を追いかけるが、出口のところで一旦足を止めると、耶納華たちの方を見て、少ししてからまた走った。
ガラガラと崩れ始める研究所の中で、八央と耶納華はただ向かい合っていた。
どれだけ待っても視線ひとつ合わせてくれない八央に、耶納華はなぜだか涙が出そうになったが、ふと、視界で何かが動いたのが見えた。
それは紛れもなく八央で、耶納華が顔をあげると、ようやく八央と目があった。
「・・・!!」
「・・・・・・」
特別な言葉は何も発しないが、八央は小さく唇を動かしていた。
何だろうと思い、耶納華は耳を八央の口元へと近づけてみた。
「・・・ろ」
「へ?」
それでも八央の声は小さくて、耶納華には聞きとれなかったのだが、いきなり八央に髪の毛を強く掴まれ、痛がっている耶納華の耳に唇をつけるくらいの近さで、今度ははっきりとこう言ったのが聞こえた。
「逃げろ」
「・・・!!」
八央の顔を見ると、変わらず特に表情を動かすことはなかったが、それでも自分の耳にはっきりと聞こえてきたその言葉に、耶納華は目を潤ませる。
唇を強く噛みしめながら、八央の額に自分の額をくっつける。
「馬鹿野郎・・・!!俺はっ、お前のことなんて知らずにっ・・・!!ずっと!!」
自分がオリジナルだとずっと信じ続けて生きていて、本体がいることなんて考えたことも気にしたこともなかった。
クローンの奴らは無様だな、そんなことを思っていたときもあった。
だがどうだろうか。
いざ自分がクローンだと知った途端、耶納華の中で何かが弾けてしまったようで、本体の代わりに生きてやる、そんな想いまで込み上げてきた。
本体さえいなくなってしまえば、自分が耶納華という言わば本体として生きて行くことが出来るのではないかと。
クローンだって構わない。
それならば、オリジナルを消してしまえばいいだけの話だと思っていた。
それなのに、今目の前にいる自分の元となる本体、八央を前にして、拳ひとつ振るうことさえ出来ないでいる自分がいる。
「俺は、お前なんかいなければいいと思ってるんだぞ・・・!!お前さえいなければ、俺がお前として生きていけるって、そう思ってるんだぞ!!」
溢れてきてしまった涙は、まるでコップから零れてしまった水のように止めることが出来ないまま。
零れた水は流れていき、耶納華の手の甲へと滴り落ちて行く。
「なのに、なんで俺に逃げろなんて言うんだよ!!!いっそ、ここで俺を殺してくれればいいのに・・・!!!!なんで・・・」
ボロボロと泣きながら耶納華がそう告げると、もう心なんて無い人形のようになってしまったと思っていた八央が、フッと笑ったような気がした。
耶納華の頭に手を置くと、力ない声でこう言った。
「俺の代わりとしてじゃなく、お前として、生きてくれればいい」
徐々に部屋が崩れてきた。
それでも、耶納華は八央の傍から離れようとはしなかった。
「俺はお前だ。ずっとここにいるよ。例え死ぬとしても、一緒に死ぬなら本望だ。俺はお前だからな、八央」
「・・・やっぱり、お前は俺だな。耶納華」
大きく崩れて行くその中で、互いに寄りそい合う2つの影だけが、1つになって消えていった。
それから2人がどうなったのかは、誰にもわからない。
「なあ黄生」
「なんだ咲明」
「お前、方向音痴のくせに、こういうときは動物並みに嗅覚がきくっていうか、なんていうか」
「素直に俺のお陰で逃げ切れたって言ったらどうなんだ」
「それが癪だからなんとも言えねえんだよ」
やっとの思いで逃げ切れた黄生と咲明は、研究所から離れた小屋にいた。
逃げる時、咲明は黄生に後ろから右だの左だのと言っていたが、それをことごとく無視をして走り続けていた黄生だったのだが、うまい具合に研究所の出口、(というか壁だったのだが黄生が破壊したため出口になった)その場所から逃げられたのだ。
丁度研究所から裏手の場所だったということもあって、誰にも見つかることがなかった。
いや、あの炎涼の言葉からして、誰も助からなかった、という言い方の方が正しいのかもしれない。
「耶納華は、どうなったかな」
「・・・さあな」
「なあ黄生」
「なんだ咲明」
「俺ずっと気になってたことがあるんだけど」
「急に気持ち悪い奴だな」
どれほど長く一緒にいるかなんて、もう年数を数えるのも面倒になってしまって分からないが、結構長く一緒にいる咲明がこんな風に話しかけてくるのは珍しい。
というか、なぜずっと気になっていて、今日になってそれを聞いてきたのかという方が、黄生にとっては気になることだ。
そして何が気になっていたのかと思えば、こんなことだった。
「黄生って、本当はどんな奴なんだ?」
「は?」
「いやなんかさ、方向音痴だったりやる気なかったり、けど本当は実はすごく出来る奴なんじゃないかと思って」
「・・・・・・それは遠まわしに俺のことを侮辱してるのか?」
「何言ってんだよ。褒めてるだろ」
褒めてるようには聞こえなかったが、黄生はため息を吐いたあと、適当に聞き流した。
やればできる子、というわけではないが、黄生はのんびりしているようで時に機敏で、やる気ないように見えて時に迅速に対応し、欠伸ばかりしているかと思えば時に乾燥してるんじゃないかと思うほど目を開けたまま話しを聞いている時がある。
それを咲明が熱弁していると、黄生は面倒臭そうにしていたが、最終的には「そうだ俺はすごいんだ」とか何とかいって、のってくれた。
結局、黄生が本来そういう人物なのかは全く分からなかったが、それで良いとした。
「寒くなってきたな」
「やれやれ、ようやく収まったか」
「御無事ですか」
「当然だ。俺を誰だと思ってる」
「失礼いたしました」
茶色の目をしていた炎涼は、自分の指を目に近づけると、薄くて丸いものを目から取り出した。
そしてそこから現れたのは、先程まで見ていたそれとは全く違う、金色の瞳だった。
首を絞めつけていたネクタイを緩めながら、男は煙草を口に咥え、それに火をつけた。
煙を吐いたところで、1人の男が近づいてきた。
「将烈さん、研究所の破壊を確認しました。生存者はいないものと思われます」
「そうか。まあ、生き残りがいるとしても、研究所がなくなった今、生きていける場所はなくなったも同然だがな」
「それにしても、“金目の将烈”ともあろうお方が、この研究所でトップになるまでに11年もかかるとは。今回の計画で最も計算が狂ったところですね」
「この俺にそんな口を聞けるようになったのか、波幸」
「爆発の準備をしたのも、こうして秘密警察を呼んだのも一応私ですよ?大変だったんですから。これなら、“炎涼様”の時の方が少しは丸かったんじゃないですか?」
「お前には後でしっかりと仕事を割り振ってやろう」
さっさと煙草を一本吸い終えると、炎涼、本名、将烈はもう一本煙草を咥える。
そしてまた煙草に火をつけようとしたところで、波幸が何かを取り出した。
きちんとファイルに挟まれたそれらを将烈に見せると、元から眉間にシワが入っていた将烈の眉間には、更に深くシワが入った。
「例の男2人のうち、咲明という男の方のものです。見てください、これ」
「・・・・・・」
波幸に調べさせておいた、黄生と咲明、2人の遺伝子の結果であった。
何が書かれているのかよく分からないが、しかし将烈には分かるようで、そこに示されている結果を見て、将烈は咥えていた煙草を一度口から取り出して握りつぶした。
「将烈さんのものが混ざっていたのでしょうか?しかし、あの状況でサンプルが混合するとは考えにくいかと」
「・・・この男の詳細は?」
「いえ、何も。黄生という男のほうも素性を探っているのですが、なかなか。5年ほど前から2人揃って賞金首になっていることは確認できたのですが」
「・・・・・・」
少しして将烈がその紙を波幸に手渡すと、将烈は新しい煙草を取り出して口に咥えた。
そして火をつけて煙を空に向かって吐き出すと、何か考えているようにしばらく動かなかった。
「黄生に咲明、か。なかなか面白い奴だ。まあ、あいつらには二度と会わないだろうがな」
「将烈さん、これからいかがいたしますか?」
「そうだな。まずは遺体の確認をしろ。名簿は波幸、お前持ってるな」
「はい」
「もしも遺体がなかった場合、それはそれでまとめておけ。特に陸の遺体はちゃんと確認しておけ。あいつは一人にしておいても実験しそうだからな」
「そうですね」
「それから、黄生と咲明。こいつらのことも調べておけ」
遺体を確認するだけでも、正直いって時間がかかる仕事だ。
何しろ、研究所内には医療関係の研究者たちが53名、主に遺伝の実験や研究をしている者達が112名、そして被検体が362名、そして潜入していた男が2名。
時間のかかることだが、確実に遂行しなければいけないことだ。
将烈という男は残忍で冷酷非道と言われているが、部下想いのところがある。
しかし、仕事に対して厳しいのもまた事実。
「波幸、お前いつまでマスクつけてるんだ。苦しくないのか」
「ああ、忘れてました。なにせ、9年もの間マスクをかけて生活してたので」
炎涼のときには一本も煙草を吸っていなかった将烈だが、煙草を吸うと素の将烈が出そうだからと、潜入中はずっと禁煙をしていたのだ。
禁煙していても、あまり普段の将烈と変わりはなかったのだが。
「それにしても、本当に何者なんでしょうね、あの2人」
「さあな。下手したら、お前もやられてたかもしれないな。相当強いぞ、あいつら」
「顔を見られましたけど、今後の任務に支ありませんかね?」
「万が一会ったとしても、あいつらがわざわざ俺達の正体をバラすような真似をするとは思えねえな。互いに顔を知ってるんだから、条件は同じってとこだな」
「・・・なんか、楽しそうですね、将烈さん」
「そうか?」
鬼だ鬼だと言われるほど、将烈はほとんど笑わない男だ。
その男が、にっこり、というわけではないが、ニヤリと口角をあげて笑ったのを見ていた波幸は思わず顔を引き攣らせた。
こういう表情をしているときは、烈将はきっと良からぬことを考えているのだ。
「それに、随分と買ってるようですね。あの人たちのこと」
「んなことねぇだろ。ただ、思ったことを言ったまでだ。それより、遺体の確認は7日で終わらせろよ」
「終わるわけないじゃないですか。手伝ってくださいよ」
「俺だって報告書とか報告書とか書かなくちゃいけねぇんだよ」
「報告書しかないじゃないですか」
「波幸、お前をそんな器の小さい男に育てた覚えはねえぞ」
「……失礼しました。それでは、予定通り7日で終わらせられるように、迅速に丁寧にやらせていただきます」
「はいよー。俺は本部に戻るから、後頼んだぜ」
軽く手を振りながら、烈将は去って行ってしまった。
残された波幸は、瓦礫の山となってしまったそこを眺めながら深くため息を吐き、遺体の確認を始めるのだった。
「刺身だー、うまそう」
「酒飲みたいな」
「黄生、酒飲めたっけ?」
「3%ならなんとか」
「それはほぼジュースだな」
小屋から歩いて2時間ほどの場所にあった宿に泊まった黄生と咲明は、夕飯を満喫していた。
馬刺しやマグロ、よくわからないが洒落た食べ物が並んでいたが、一番驚いたのはステーキだった。
マンガに出てくるような大きな肉がドカンと目の前に出されると、黄生も咲明も、まるで野獣のように喰らいついていた。
酒も頼もうと思ったのだが、以前酒を大量に頼んで、夜中2人揃ってトイレに籠ったことを思い出し、止めておいた。
朝になっても二日酔いが続き、宿から出てすぐの場所で倒れるように眠ったのを思い出す。
「そういや、八央の部屋いたあの炎涼といかいう男、何者なんだろうな?なんで自分の研究所を壊すような真似したんだ?」
「知らない。興味ない」
「だろうな。そう言うと思ったよ。けど、あいつのお陰で俺達は逃げられたわけだし、多少感謝しなくちゃだな」
「・・・・・・」
「どうした、黄生?」
「いや」
急に黙ってしまった黄生に声をかけると、なんとも言えない返事が返ってきた。
何か引っかかることでもあるのかもしれないが、それを黄生に聞いたとしても、きっと正直には答えてくれないだろう。
黄生が身体に巻いているさらしの下を、一度だけ目にしたことがある。
そこには何かの傷があったような気がしたが、それを聞いた時にも曖昧な返事が返ってきたあと、「眠い」と言って誤魔化されてしまった。
そんなことを考えながら黄生の顔をじーっと見ていると、「気持ち悪い」と言われてしまった。
「あ!黄生、それ俺の茶碗蒸しだろうが!!自分の食べろよ!!」
「オレノナイ。チャワンムシタベタイヨ」
「なんで片言なんだよ!自分の分喰ったならもう無ぇんだよ!!」
「俺のものは俺のもの。お前のものも俺のものって、誰かが言ってただろ」
「まあ、確かに言ってたがよ・・・」
はあ、とため息を吐きながら、お茶を口に含んだ。
ご飯を綺麗に平らげた後は、温泉に入ってゆっくりと過ごし、静かに寝た。
「はあっ・・・はあっ・・・」
ガラガラ、と瓦礫の中からやっとの思いで出てくると、もう一人を連れて森の中に隠れるようにして進んで行った。
「宥海?はあっ・・・」
自分とそっくりのその少女に声をかけながら身体を揺すってみるが、少女は目を覚まさなかった。
「馬鹿っ・・・!!」
何度身体を揺すっても起きない少女、宥海に身体に顔を埋めていたもう一人の少女、結羽実。
結羽実と宥海は一緒に避難していた。
だが、その途中で結羽実の頭上から天井が落ちてきて、宥海がそれを庇ったのだ。
結羽実が目を覚ましたときには、宥海が結羽実の身体を覆う様にして倒れていた。
その時にはすでに意識もなく、脈拍も確認は出来なかったのだが、結羽実は宥海を外まで連れ出すことが出来た。
ようやく泣きやんだ結羽実は、宥海の額に自分の額をくっつけた。
「ありがとう。今まで“私”として生きてくれて。これからはあなたが演じていた“私”を、私がちゃんと生きて行くからね」
「将烈さんは何か考えごとですか?」
「ああ・・・ちょっとな」
「次の任務のことですか?次は少し遠いですよね。もう何十年も任務で会ってない連中もいますし」
「ああ」
将烈は頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
何やら部下が話しているが、ほとんど耳に入ってきていない。
「将烈さん、コーヒーがはいりました」
「ああ、ありがとう」
そこでようやく何処かへ行っていた意識が戻ってくると、まだ熱いコーヒーで舌先が痺れるが、将烈はそれを強引に流し込んだ。
「あっつ」
「黄生、早く行くぞ」
「あーい」
「ったく。食べ過ぎて起きられねえとか、どんだけ無邪気なんだお前」
「咲明」
「なんだよ」
「人生は一度きりなんだ。好きなもん喰って寝て、それが一番幸せなことだろ。俺はそうやって生きて行きたいんだ」
「最初は良いこと言ったんだけどな。お前はそうやって生きていってるから大丈夫だ。だから早く布団から出ろ」
まだ布団の中にある温もりから抜け出せないでいる黄生を横目に、咲明は頬杖をつきながらお茶を飲んでいた。
窓を開けようとしたのだが、寒いから閉めるように黄生に言われてしまったのだ。
まだ布団の中で朝日と格闘している黄生を見て、咲明は小さく笑った。
「咲明」
「ん?」
「・・・俺、布団と共に生きて行くよ」
「勝手にしろ」