第26話 カラヤンとモーツァルト

文字数 852文字

 ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮する音楽の、何が素晴らしいのか、よく分からなかった。
 よっぽど、トスカニーニやフルトヴェングラー、ブルーノ・ワルターのほうがしっくり来ていた(モーツァルトに限る)。
 しかし、広告批評家の天野祐吉がカラヤンについて語る「カラヤン~時代のトリック・スター~」というテレビを見て、カラヤンの凄さを知ったというか、見方が変わったのだった。

「レコード録音に力を注いだ」ということである。

 昔々は、いわば貴族的な上流階級の人々が、演奏会に足を運んだそうである。「ナマの演奏こそが芸術」であったとか。
 しかし、レコードの出現、さらにはCDと、音楽という芸術が大衆化されることを、カラヤンは予知していたのだろうか。
「良い音だけを録音する」ことへの拘りたるや、とてつもない情熱と信念があったようだ。

 そしてやはりテレビで見たのだが、モーツァルトも、音楽を大衆化させた人であったらしい。当時オペラはドイツ語でつくらねばならない慣習があったようなのだが、観に来た人たち、つまり民にも分かり易いように、イタリア語だかでそのオペラをつくったとか。

 宮廷にかかずらう、限られた人たちへの音楽ではなく、「市民のための、わかりやすい音楽、現代でいうポップス的な音楽を」という視野をもって、モーツァルトは音楽を奏でていた時期もあったのだった。

 さて、翻って、この国の政治の世界。
「民にわかりやすいように」などとは、まったく無縁である。
「後期高齢者医療制度」の仕組みの細かなところなど、ほんとうに理解している民がいるのだろうか? 少なくとも、ぼくにはてんで分からない。
 そしてタチの悪いのは、いかにも必要な制度であり、民にとって悪くないかのように政府が云ってのけるということだ。詭弁を弄すにもあたらない。「民のことなんかよりもね、この政治界にかかずらうワタシたちが、ワタシたちを守ることが、まず第一なんです。」そんな心根が見え見えである。

 政治を、大衆化できないものだろうか?

(2008. 4. 30.)
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