呪いの真相
文字数 17,794文字
「これまでいろんな事件を担当してきたが、神と呼ばれる人の弁護をするのは、今回が初めてだ」
ガラス窓の向こう側で笑う弁護士の顔を、久千木はつまらなそうに見ていた。
「ネット上での君の扱いは凄いよ。嘆願書も三千人を超えたし、君のアカウントのフォロワーは六万人を越えた」
六万人。それだけの人数が自分をフォローしたのなら何故、誰も寄藤と戦おうとしなかったのか。彼は無責任な六万人に苛立ちを覚えたが、すぐにどうでもいいことだと思い直した。
「私は出来る限りのことをする。君の力になる」
「クライアントの力に 、でしょ?」
久千木の言葉に、脂ぎった中年の弁護士は表情をしかめた。あんたの機嫌なんか知ったことか。飼い主に尻尾を振って点数稼ぎでもしてろ。内心で中年男を罵ってみたが、それで気が晴れることはなかった。
担当弁護士との初めての接見は短時間で終わった。何の実りもない時間を終えて、久千木は拘置所の居室へ戻された。刑の確定していない被疑者は作業を行うこともなく、一日をこの居室で過ごす。読書や執筆などもできるが、彼は何もしないことを選んだ。
あの時、彼は自分が道化だと言うことを思い知らされた。あの鈴木という男に殺されていたら、道化のまま一生を終えるところだった。
──これ以上、踊らされてたまるか。
久千木はあの時、鈴木須間男が口にした言葉を思い出す。
鈴木が振り下ろしたバットは、彼の頭部ではなく地面を叩いた。バットを放り捨てて、宣言するかのようにつぶやいた鈴木の言葉を、彼は何度も思い出していた。そして事件の発端から結末までを振り返った。全てを終えた今だからこそ、冷静に振り返ることが出来た。俯瞰で見た自分の姿は、あまりにも滑稽だった。
自分は何も見えていなかった。何も見えず、何も知らなかったくせに、全てを知った気になって、@LINKを助ける神などという妄言を吐いた馬鹿だ。そして、全てを終えて今ここにいる自分は、もはや何者でもない。からっぽの器だ。新たに注ぐものは何もない。いや、最初から満たされていると錯覚していただけのことだと、彼は思い直した。
一日三食の食事は何の味もしなかった。何を食べたかすら、彼は覚えていない。食に対する興味もない。ただ食べろと言うから食べる。食べ終えた後は空っぽの頭で同じことをずっと考え続けた。就寝時間になり、布団に身を沈めてからも、彼は考え続けた。
……もう、操り人形はごめんだ。
睡魔に飲み込まれる直前に、ふと彼は、そんなことを思った。
四日目の朝、起床時間になっても、久千木は布団から起き上がってこなかった。刑務官が異変に気づいて居室に入ろうとしたが、扉が開かなかった。数人の刑務官がどうにかこじ開けたドアの格子に、彼は脱いだシャツを巻き付けて首を吊っていた。
「本当にありがとうございました」
麻美奏音から深々と頭を下げられ、須間男も会釈を返した。奏音の両隣には川口雅弘と相馬めぐみの姿があった。
あの事件以降、奏音は時の人になった。呪いから逃れた奇跡のアイドル、あるいは、ストーカー被害に耐え続けた悲劇のアイドルとして、マスコミに多く取り上げられた。特にアイドルストーカー問題は彼女の発言を契機に広く一般に知られることになり、ストーカー規制法改正の気運が高まっているほどだ。
そんな折、奏音が@LINKに加入することが発表された。彼女の初ステージとなる今日のライブチケットは既に完売し、路上には大勢のファンが集っていた。各地でパブリックビューイングが行われること、テレビ局で完全生放送が行われることも既に決定している。
「あんなに酷いことを言って、すいませんでした。あなたのおかげです」
奏音は再び頭を下げる。
「いえ、僕は何もしていません」
須間男は淡々と答えた。何もしていない──何も出来なかったのは、消し去りようのない事実だった。制服を模したステージ衣装に身を包んだ奏音は、不思議そうに彼を見つめた。
「鈴木さん、本当にありがとうございました。これでやっと奏音ちゃんは解放されたんですね。あさ美ちゃんも、他の子達も、きっと喜んでいると思います」
めぐみは大粒の涙を流しながら、強引に須間男の腕を取って何度も振った。
「私からも礼を言わせてください。社長にも礼を言いたかったんですが、今日は?」
川口がにやにやと笑みを浮かべて、わざとらしく辺りを見回す。
「社長は所用で来られません」
「あ、そうですか。それじゃあ、よろしくお伝えください」
「それよりも麻美さん、ツイッターの方は確認しましたか?」
「ああ、あれね」
奏音に代わって、須間男に無視された川口が答えた。
奏音のアカウントから、あのナンバー4のフォローは外れていた。それだけではなく、ナンバー4のアカウントそのものが消えていた。しかし、無数の「ナンバー4」を名乗るアカウントが奏音のアカウントをフォローしていた。罵倒するような発言を彼女に投げてくるアカウントも少なくなかった。
「うちの法務部の方で証拠を保全して、手配は進めていますよ。逮捕の前例が出れば、あんな連中は消えていくでしょう」
「ああ、それで、あの動画も動画サイトから削除されたんですね?」
「いや……?」
川口はめぐみと顔を見合わせたが、めぐみも知らないらしい。
「それでは動画サイトの運営側で削除して下さったんでしょう。ところで、ネット上で奇妙な噂が流れているのをご存じですか?」
「噂って、どんな?」
「まだ呪いは 続いているのではないか 、という噂です。ネット上ではかなり盛り上がっているようです」
「そんな! あなた方が呪いを終わらせてくださったじゃないですか!」
奏音が思わず声を上げる。フロア内の人たちが一斉に彼女の方を向いた。
「お前ら、サボってないで動け動け!」
川口が檄を飛ばすと、人々は元の作業に戻った。
須間男と奏音たちが今いるのは@LINKステージの奈落だ。ステージがビルの最上階、奈落が一階下に位置している。天井──ステージまでの高さは五メートル弱。左右にある階段と中央に鎮座している巨大な迫り台がステージと奈落を繋ぐ移動手段だ。申し訳程度の照明の下、今日行われる奏音のデビューライブの支度が、着々と進んでいた。
「鈴木さん、奏音を怖がらせるようなことを言わないでもらえますか?」
「僕も根も葉もない噂だと思います。ですが、最期を見届けたものとしては、真相を調べなければなりません。何か見落としがないか、今回のDVDの映像をチェックしたんですが、みなさんはあれ、ご覧になりましたか? もしよろしければ、何枚か持ってきてますけど」
須間男はリュックからDVDのパッケージを取り出した。パッケージ表面には『ガチの恐怖を思い知れ! ファイナル ~完全除霊スペシャル~』のタイトルロゴが踊る。
「そんな縁起の悪いものを持ってくるな! すぐに片付けてくれ!」
川口が露骨に嫌がる。奏音とめぐみはたじろいでいた。
「そうですか……」
須間男はため息をつくと、DVDをリュックに仕舞った。
「川口さんと相馬さん、お二人の長年の夢 がようやく叶ったんです。麻美さんを安心して送り出したいと思いませんか?」
……こいつ、今、何て言った?
川口は自分の耳を疑った。彼は何とか平静を装ったが、須間男は尚も続けた。
「小埜沢さんが当時の資料を見つけてくれていました」
小埜沢尚行の名が出ると、めぐみは顔を伏せた。
「あのDVDの企画を持ち込んだプロダクションは有限会社エムケイプロ。社長は川口めぐみ 。お二人は元ご夫婦だったんですね」
「……それが?」
「エムケイプロは川口さんの会社、アットリンクプロダクションと提携関係にあったそうですね。当初の計画通り 、六年前に すんなり移籍が 出来ていたら 、麻美さんは今頃@LINKのセンターを張っていたかも知れませんね」
須間男の言葉に川口は言葉を失った。
……何故こいつが、そのことを知っている?
「加藤あさ美さんのご両親から話を伺いました。ナンバー4の彼女が自殺していなければ、麻美さんはDVD発売後すぐに移籍するはずだった。加藤さんも@LINKの専属になる予定だったと、彼女は言っていたそうです」
「……確かにそういう計画はあったし、流れた理由も君の言うとおりだ。だから?」
「ちょっと気になることを、ある人から聞いたんですよ」
須間男は川口の言葉を受け流し、話を続ける。
「かつて@LINKの追っかけをやっていた、『ののん愛好会』というグループがあったんですが、ご存じないですか? 寄藤のホームページで全裸土下座の映像を晒されていた彼らなんですけど」
現在、寄藤のホームページは閉鎖されている。事件発覚後にプロバイダ──ネットサービスを提供している会社が削除したものと思われる。土下座動画も削除されている。
「彼らのひとりとようやく連絡が取れたんですが、彼の話だと、@LINKの活動が軌道に乗り出した頃に突然、寄藤たちがライブにやってきたそうです。アリーナのプラチナチケットをほぼ毎回確保し、イベント後の握手会でも先頭に陣取り、しつこいファンを誘導する『引きはがし』と呼ばれるスタッフも、彼らには最初から甘かったそうです」
「確かにそういうスタッフがいたのは事実で、すでに彼らは処分済みだ」
「その時、僕と揉めた笈川明も同じことを言っていました。同様の話はあなたが寄藤を出禁にした前後から現在まで、ネット上でもずっと噂されています。現在はピクルスまで遡って、そういう蜜月関係があったとかつてのファンを自称する人たちが書き込みを行っています。リハーサルであなたと寄藤が談笑している姿を頻繁に目撃したとか、チケットや現金の受け渡しを目撃したという、自称元スタッフの書き込みもありました」
「そんな話はでっち上げだ!」
「そうですね。あくまで噂ですし、『ののん愛好会』の人たちの話も彼らの主観でしかありません。既にネットメディアも煽るだけで具体的な新情報を出せない状況ですし、いずれ別の話題に飲まれて忘れ去られるでしょう」
「……君は何が言いたいんだ?」
川口は須間男に薄気味悪さを感じていた。話の筋道が見えない。こちらが真意を問うとはぐらかす。あっさり持論を引っ込める。確証を何も得ていないから、攻めあぐねていると言うことなのだろうか。
そうだ。真相を知っているのは私だけじゃないか。彼は思い直す。寄藤たちを利用していたのは事実だが、それを知っているのは自分と寄藤だけだ。しかしあいつは暴走をはじめてストーカーにまでなってしまった。下手に切れば何を暴露されるかわからない厄介者だった。
幸い、あいつは何一つ喋ることなく、都合良く 死んでくれた 。私が口を滑らせない限り、真実は表に出ないじゃないか。
そこまで考えて、彼ははたと気づいた。
……もしかして、それが狙いか?
「不名誉な噂ですし、一応お伝えしておこうかと。法務部に伝えれば、適切な対処をして頂けるんですよね?」
須間男の言葉は理にかなっていた。川口が言ったことをそのまま返したのだから当たり前だ。皮肉めいた返しに川口は苛立ちを覚えたが、どうにか感情をねじ伏せた。
「情報提供には感謝するよ」
「まだ情報があります。寄藤と久千木のツイッターアカウント、今では削除されていますが、削除される以前、あるアカウントがふたりをフォローしていたんです」
「ナンバー4じゃないのか?」
まだ何かあるのかと、川口は内心うんざりしながらも尋ねた。
「いいえ。鍵つきのアカウントでアイコンは初期設定のまま、フォロー数二、フォロワー数二、つぶやきは六十弱でした。名前は『リンクファン』。ありがちですよね」
「そのアカウントが今回のことと何か関係があるのか?」
須間男の話すアカウントについて、川口には全く心当たりがなかった。唐突に自分とは無関係な話をされて、彼は戸惑った。
「鍵つきのアカウントというのは、つぶやいている内容は誰にも見えないんです。相互にフォローをしている人以外には、それがどんな人物でどんな趣味を持ち、どんな人なのかは全くわかりません。寄藤と久千木はふたりとも、そんなアカウントをフォローしていました。もしかしたら、直接面識があるか、知っている人物のアカウントだったのかもしれません」
「それで?」
「さっき、つぶやきの数が六十弱と言いましたが、この全てがつぶやきとは限らないんです」
「どういうことだ?」
「ツイッターにはダイレクトメールの機能があるんですが、メールを誰かに送った時も、つぶやきのひとつとしてカウントされるんです。もしかしたら、六十弱のつぶやきは、全てダイレクトメールだったかもしれません」
「それで?」
「それだけです」
あっさりと話を終える須間男に、川口は戸惑った。今の話はいったい何なんだ? ふたりを俺が操ったとでも言いたいのか? まったく意味がわからない。意味が……。
嫌な予感がして、川口はめぐみを見た。しかし、彼女もぽかんとした顔をしている。まさか……。彼は恐る恐る奏音の方を見た。
奏音はぎゅっと口を結んで下を向いていた。それだけで、川口は全てを察した。
「そういえば、久千木が僕たちを襲った時、こんなことを言ってました。確か……『そういえば、彼女が言っていたっけ。あんたらも呪いに関係があるんだって?』って。もしかしたら、彼女というのはそのアカウントの持ち主だったのかもしれませんね」
須間男の言葉に、奏音は衣装の裾を強く握った。川口は大きく咳払いすると、奏音は我に返って平静を装った。しかし須間男の話は終わらなかった。
「アカウントと言えば、ナンバー4……あ、今大量にあるアカウントではなく、麻美さんが教えてくれたあのアカウントですが、ひとつ引っかかることがあるんです」
「引っかかること?」
「あのアカウントは麻美さんや僕たちもフォローしましたが、久千木だけがフォローされずに終わっています。しかし彼は拘置所で自殺した。このことをどう思いますか?」
「彼は呪いの元凶だった寄藤を始末した。ナンバー4にとっては恩人で呪いの対象ではなかった。だが彼は良心の呵責に耐えかねて死を選んだ。そういうことじゃないか?」
「確かにそれなら筋も通りますね。@LINKを救った恩人に対してあなたは、顧問弁護士を彼に付けたそうですね?」
「……そうだ。犯罪とは言え、うちの子たちを守るための行動だ。私たちにも責任がある。サポートが至らず、残念な結果に終わったが」
答えつつ、川口は奏音の方を見た。彼女は顔を伏せたままだ。
久千木に弁護士を付けるよう、川口に懇願してきたのは奏音だった。その時川口は、単なる恩義からくるものだと思っていた。しかし……。
「くだらない話はもうたくさんだ」
話に付き合い続けるとぼろが出る。川口は早く切り上げたかった。
「そうですね。これらの噂はあくまでも噂ですし、あのDVDが産み出した呪いは終わりました。ですが何故 、今だった んでしょうね 」
「何がだ?」
「何故六年前に関係者全員を巻き込まずに止まったんでしょうか。そして何故、今になって呪いが再起動したんでしょうか」
「お前たちが調査を始めたからじゃないのか? こっちはとんだとばっちりだ」
「そうかもしれませんね。麻美さん」
「は、はい」
急に呼びかけられて、奏音は狼狽した。
須間男は彼女の顔を見て、にっこりと微笑みかけた。
「今日はいよいよ、約束のステージ ですね」
「えっ?」
「ピクルスのみんなと約束したじゃないですか。みんなの分まで頑張るって。やっとその約束が叶いますね。おめでとうございます」
「え、あ、ありがとうございます……」
「最後にひとつ、伺ってもいいですか?」
「な……なんでしょう?」
奏音は思わず身構えた。
「あなたは何故、アイドルになろうと思ったんですか?」
奏音にとって、須間男の問いは意外なものだった。意外すぎて何と答えていいかわからなくなり、彼女は固まってしまった。
「もういいだろ。奏音は疲れてるんだ。これから本番に向けてやることがたくさんある。少しでも彼女に休む時間をくれないか」
溜まりかねた川口が割って入る。
「そうですね……。それでは失礼します」
須間男はあっさりと引いた。
「本番のステージはご覧になっていかれないんですか?」
脳内の帰れコールを押し隠し、めいっぱいの営業スマイルを浮かべて、川口は問いかけた。
「すいません。仕事がありますので。ところで川口さん」
「……まだ何か?」
「ハンカチ落としの 終わらせ方って ご存じですか ?」
「……は?」
「いえ、いいんです。それでは」
須間男は会釈すると、あっさりと奈落から出て行った。
「……何なんだあいつ。長瀬の馬鹿はちゃんと教育してんのかよ」
須間男を見送った川口は、途端に悪態をついた。
「奏音、あんな奴の言うことなんか忘れちまえ。今日、お前はアイドル史に名を刻むんだ。お前の伝説は、今日から始まるんだからな」
「は、はい!」
「ほらお前らぁ! 奏音のデビュー戦だ! 気合い入れていくぞ!」
「おっす!」
奈落は熱気に包まれていた。あと三十分ほどで、ステージの幕が上がる。
過程はどうだっていい。この世界、成り上がれば勝ちだ。
川口は割り切ることにした。いや、割り切るしかなかった。
「ほらほらおじいちゃん、そろそろ『奇跡のアイドル』が登場するわよ!」
「……そうかい」
まるまる太ったホステスに声をかけられた老人は、そっけなく返答した。
老人がほぼ毎日通うちっぽけなスナックの、すっかりヤニまみれになったブラウン管テレビには、@LINKのステージが映し出されていた。
「カノンちゃんって子、おじいちゃんのスタジオでライブとかやってたんでしょ? ストーカーとか呪いとか、そういうの乗り越えてデビューなんて、凄くない?」
「……知らねぇよ」
「何をふてくされてんの? 前にDVD見せてくれた時はあんなに嬉しそうだったのに」
老人は答える代わりに、柿ピーを口の中に放り込み、ばりぼりと噛み砕いた。
こいつらはもう、あの娘 のことを覚えてねぇか。
柿ピーの残りカスをビールで洗い流すと、老人は再び柿ピーを掴んだ。そして思い出す。あのロッカーの映像をここで自慢したとき、隣の席に座っていた、おどおどとした娘 のことを。
──あの、これ、投稿したらどうですか?
その時は面白半分に娘の話に乗った。しかしあの鈴木という小太りな男から完成したDVDをもらい受け、ここで上映会を行ったとき、老人は全てを知った。
「おじいちゃん、あの子嫌いなの?」
「ああ、大 っ嫌 ぇだ」
あんな奴のために、浮かばれねぇ娘がいる。それが老人には許せなかった。
……そう言う俺も、あの娘の顔を 思い出せねぇ 薄情もんだがな。
老人は掴んでいた柿ピーを口の中に投げ込むと、一気に噛み砕いた。
頭上のステージでは、@LINKのメンバーが持ち歌を披露し、観客の歓声が奈落まで揺らすほどだった。彼女たちの平均年齢は約十七才。奏音がピクルスに入った時と同じ年齢だ。それから六年。彼女は二十四歳。年末には二十五になる。
アイドルとしてはギリギリの年齢だった。
幼い頃からレッスンを続け、オーディション雑誌を買い漁り、スカウトされるためだけに原宿に通った。ようやく所属した事務所の社長夫婦は彼女を高く評価し、ピクルスは実践の場としてちょうど良かった。しかし、グループとしては素人以下だった。
特に酷かったのはナンバー4だった。他のメンバーも自分のレベルを棚に上げてナンバー4の陰口を言うようになっていた。それなりに固定客が付いてきた頃、川口が寄藤を連れてきた。アイドルオタク歴の長い寄藤は、ファンを仕切って場を盛り上げる一方で、メンバーに容赦ないダメ出しを行った。
寄藤は特にナンバー4を徹底的に貶した。奏音や他のメンバーも寄藤に続いた。一度露わになった本心は、より陰湿な形を取るようになった。中には寄藤も知らない、寄藤ですらしないようなことも行われた。全員のはけ口として、ナンバー4は都合が良かった。
十八歳というのはアイドル予備軍にとって、ひとつの壁だった。年齢と若さを売りにできるアイドル適齢期。しかし、チャンスを逃すとデビューが遠のく境界線でもあった。
あのDVD収録が終わり、ようやく移籍というチャンスが巡ってきた時に、ナンバー4は自殺した。当然、移籍の話も消えた。他のメンバーが次々に死んだことはただの偶然だと、奏音は今でも思っている。
この台本通りに 死ねばいいのに 。
収録が終わった日、彼女はナンバー4に台本を投げつけながら罵った。それだけは失敗だったと今でも思っている。移籍すれば縁が切れる相手を追い詰めたことで、大幅に計算が狂ってしまったのだから。
めぐみが会社を畳んでから、彼女は地下アイドルグループを転々としながら、いくつものオーディションを受けてきた。しかしいずれもうまくいかず、事務所を転々としながら続けてきた地下アイドル活動も、寄藤の横暴な言動とストーカー行為で立ち行かなくなり、やがて行き場を失った。
そして気づけば二十歳を過ぎ、二十五歳という避けようのない壁が迫ってきていた。
今回の事件は、奏音にとって最後の賭けだった。
あの忌まわしい場所──貸しスタジオを何気なく訪れたとき、須間男たちが取材を行っているのを見て、何か運命めいたものを感じた。めぐみに呼ばれて取材を受けた時、期待は確信へと変わった。
めぐみからエムケイプロのことは伏せるように言われた時、自分がひとりではないことを実感し、嬉しかった。あさ美がすべてを話しそうになった時も、めぐみが目配せをして止めた。そして、永遠に黙らせた 。
久千木という男の存在を知ったのも幸運だった。彼はナンバー4の呪いを独自に調べ、寄藤が原因であると結論づけていた。プライベートアカウントに接触があったが、用意した別のアカウントで彼とやり取りを行うことにした。彼女が寄藤に対する不安と恐怖を訴えるだけで、久千木は勝手な正義感を燃え上がらせた。
一方で寄藤にも別アカウントで接触を図った。須間男から電話をもらったあの日、須間男たちがあの廃村へ向かうことを確信した彼女は、ナンバー4の呪いを解く儀式の方法と廃村の場所、儀式に適した時間を寄藤に伝えた。
久千木にも同じ時間と場所を伝え、寄藤に呼び出されたと嘘をついた。激怒した久千木は、確実に寄藤を殺す方法を調べ上げ、彼女に計画を伝えてきた。彼女は久千木がより確実に成果を上げるように遠回しにアドバイスを行った。最終確認を終えると、互いのダイレクトメールを削除するよう注意するのも忘れなかった。
そして久千木は、奏音にとって最高の成果をもたらした。正義感に燃える久千木は自分の名前を出さないだろう。それでも用心のために別アカウントは削除した。
須間男がアカウントの件を指摘してきたのは、奏音にとって予想外のことだった。「ナンバー4」のアカウントから久千木をフォローしなかったのは、寄藤や須間男たちに彼の動きから目をそらすために仕方がなかった。
「リンクファン」のアカウントは須間男自身が説明したように、外部からやり取りを見ることは出来ない。ダイレクトメールなら尚更だ。不審に感じたとしても、それを裏付ける情報はもう出てこない。寄藤は死に、久千木は全てを抱えて命を絶ち、ふたつのアカウントを削除して、全ては終わったのだから。
スタッフに案内されて、奏音は迫り台の上に立った。
──今日はいよいよ、約束のステージですね。
須間男の言葉が脳裏を過ぎる。
……約束なんてしていない。
奏音はピクルスのメンバーを仲間だと思ったことは一度もない。通過点のひとつでたまたま出会っただけのことだ。電車で乗り合わせた乗客みたいなもので、目的地に降りれば赤の他人だ。
電車といえば……。奏音は自分の掌を見つめた。小埜沢を突き飛ばした時の感触がまだ残っている気がして、彼女は両手を大きく振った。小埜沢をホームで見かけたのは偶然だった。そっと背後に立ち、耳をそばだてると、彼が何かを掴んだらしいことがわかった。気がついたら彼を突き飛ばしていた。
小埜沢を殺すことにためらいはなかった。何故なら、めぐみが手本を 見せてくれたから 。
「大丈夫かしら?」
「大丈夫だ。いざとなったら、今度は 俺がなんとかする」
川口の言葉を聞いても、めぐみの不安は拭えなかった。
あの日、須間男たちの元へ行こうとしたあさ美を、めぐみは引き留めた。
あさ美が良心の呵責に耐えきれなくなっていたのが、めぐみには痛いほどわかっていた。でも今、彼女がすべてを明かすと、もう奏音にチャンスは巡ってこない。そう思った。
あさ美に振りほどかれそうになった瞬間、彼女は思わず手を離した。それだけであさ美はバランスを失い、あっけなく階段を転げ落ちて死んでしまった。
殺すつもりなどなかった。
あさ美の通夜の準備を手伝っているとき、めぐみは奏音に買い出しを頼んだ。戻ってきた奏音は、めぐみに耳打ちをしてきた。
──小埜沢さんを殺しました。先生の手本通りに 。
小埜沢はめぐみの過去を──めぐみと川口の関係を知っていた。須間男が取材に訪れたとき、伏せてあった結婚写真を撮影されていたとしたら、小埜沢はその意味に気づくに違いないと思っていた。なんとかしないとと思っていたのは確かだった。しかし、恩ある監督の息子である小埜沢を殺そうなどとは全く考えていなかった。川口を裏切ってでも、全てを相談しようかと思っていたくらいだ。
まさか奏音が、小埜沢を手にかけるとは欠片も思っていなかった。
めぐみはエムケイプロ時代のことを思い出していた。設立当初から@LINKの候補生を育成する団体として立ち上げた会社だったが、奏音が来たことで、奏音のみを育成する方針へと転換した。全て川口のアドバイスだった。てこ入れとして寄藤を送り込んできたのも川口だった。そして実際、奏音はどんどん才能を伸ばしていった。
いじめの主犯が寄藤ではなく、寄藤の後ろ盾を得た奏音だったことにも、めぐみは早い段階から気づいていた。しかし、いじめがなくても他のメンバーには先がなかった。そう思って目をつぶった。その結果、ナンバー4は自殺した。
その後の元メンバーたちを襲った出来事が呪いだったのかどうか、今でもめぐみにはわからない。ただ、責任の一端は自分にもあると思っている。
あの子をあんな怪物 にしてしまったのは、わたしの責任。だけど……。
迫り台から頭上を見上げる奏音の姿から、めぐみは目を背けた。
曲が終わり、@LINKのトップ、三池ゆりが観客にマイクアピールを行う。
「みんな、元気ぃ~?」
「げーんきー!」
「今日は私たちの新しい仲間の初ステージです! もうみんな知ってるよね? 奇跡のアイドル、麻美奏音ちゃんです! みんな手拍子手拍子ぃ~!」
ドラムのリズムに合わせて、観客が手拍子を始める。
「か・の・ん! か・の・ん!」
観客が奏音コールを始めた。
迫り台がゆっくりと上昇していく。舞台の開口部がゆっくり開き、真っ暗な奈落にステージの照明が光明のように差し込み、奏音を照らした。
手を伸ばせば届きそうな距離。もう少しで、私はあの場所に立つ。奏音は徐々に開く開口部を見上げていた。
すると開口部から、何かが落ちてきて奏音の足下に転がった。てるてる坊主のように見えたそれは、重しになる何かを包んだ、あの忌々しいハンカチだった。しかもハンカチはその一枚だけではなかった。次から次へと、開口部から彼女に向かってハンカチが降り注ぐ。
「あなたのばん!」「つぎは!」「あなたのばん!」
「あなたのばん!」「つぎは!」「あなたのばん!」
いつの間にか、コールの言葉が変わっていた。
「ステージに物を投げないでください! お願いです、ステージに物を投げないでください!」
ゆりが観客に注意を促すが、コールは鳴り止まず、次々とハンカチが投げ込まれていく。
……何で?
奏音には、何故自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか、まったくわからなかった。呪いごっこは終わった。なのに、何故、私が?
──ハンカチ落としの 終わらせ方って ご存じですか ?
須間男の言葉が脳裏に浮かぶ。奏音は小さい頃、幼稚園や小学校でハンカチ落としで遊んだときのことを思い出す。みんなで輪を作り、鬼がハンカチを落とす。落とされた子が鬼を追いかける。鬼が空いた席に滑り込むか、落とされた子が鬼にタッチすれば、ゲームは……。
……終わらない 。
鬼が勝っても負けても、必ず鬼が一人残る 。
子供の頃は休み時間が終わってお開きになった。でも、解散できなければ、ゲームはずっと続く。
ゲームを はじめたのが 誰かは わからない 。
でも、ゲームに 参加することを 決めたのは 私だ 。
次の瞬間、奏音は何者かに背中を引っ張られ、迫り台の上に倒れた。
起き上がろうとする彼女を、無数の腕が掴む。
「あなただけを」
「いかせない」
「わたしたちも」
「いっしょに」
「つれてって」
「やくそく、したよね?」
六つの顔が闇の中に浮かび上がり、奏音を見下ろす。
何であなたたちが、と、奏音は叫ぼうとした。しかし彼女の口に、固結びされたハンカチがねじ込まれた。
何で今? 何でこいつらが? 何で邪魔をするの?
──あのDVDが産み出した呪いは終わりました。
奏音は須間男の言葉を思い出す。
ちっとも呪いは終わっていない! こいつらをどうにかして! 冗談じゃない!
奏音は奈落にいるスタッフと川口元夫婦に必死で呼びかけようとしたが、誰も迫り台の方を見ようともしない。
──あのDVDが産み出した呪いは終わりました。
──あのDVDが産み出した呪いは。
不意に奏音は、須間男の言葉に隠された本当の意味に気づいた。彼らは確かに、自分たちが作ったDVDに出てきた呪いの元凶に決着を付けた。しかしそれはナンバー4ではなく、廃屋の少女のことだったのだ。
あのDVDのラスト通り、ナンバー4の呪いは 解かれていないのだ 。
他のメンバーがDVD通りに死んだのは、単なる偶然ではなかった。
──何故、今になって呪いが再起動したんでしょうか。
須間男の言葉は、自分が呪いを利用したことを指摘したものだと彼女は解釈していた。
しかしそれは間違いだった。
──今はそっちに行けないのっ!
彼女自身があのDVDで言った台詞だ。ナンバー4は、メンバーたちは、ずっと待っていたのだ 。やっと 上り詰めた 、今 、この瞬間を 。
しかし@LINKのファンにとって奏音は、呪いをもたらす疫病神でしかなかった。それだけではない。彼らの中には、奏音が呪いで死ぬことを期待している連中も混じっている。それがあのコールと、ハンカチが投げつけられる理由だ。
死者たちが憧れ、生者たちが呪詛を吐く。そんな舞台に自分は憧れていたのか。
──あなたは何故、アイドルになろうと思ったんですか?
須間男の言葉が彼女の脳裏に蘇る。
……どうして私は、アイドルになりたかったんだろう……?
……アイドルになって、何をしたかったんだろう……?
「いこう」
「いっしょに」
「わたしたち」
「なかまでしょ?」
「さあ」
「もうすこし」
言葉とは裏腹に、六対の腕は奏音をより強く締め付けた。ハンカチは口元だけでなく、顔のほぼ全体を多い、息が出来なくなっていた。塞がれることを免れた右目は、開口部から覗くステージの照明を捉えていたが、次第にぼやけてきた。
「あなたたちはこれ以上、行かせてあげない」
それは、ずっと忘れていた 声だった 。
奏音が最後に見たのは、無数の ひっかき傷のような モザイクがかかった 女の顔 だった。
「お前さん、こうなることを見越してたのか?」
段ボールの山に囲まれた社長が須間男に問いかけた。デスクの上には今朝売りのスポーツ新聞が無造作に置かれていた。
〈「ナンバー4の呪い」か? 奇跡のアイドル、デビューライブで事故死〉
スポーツ新聞の一面を真っ赤な大見出しが彩る。見出しの通り、麻美奏音はデビューライブのステージで死亡した。いや、正確にはステージに上がる直前、迫り台が誤動作して負荷がかかり、上がりきる前に折れて奈落に転落、奈落にいた関係者二名──川口雅弘と相馬めぐみが圧死、投げ出された奏音も死亡した。
誤動作の原因は、観客席からステージに投げられた無数のハンカチが駆動部に絡まったためと見られる。警察は観客を扇動した笈川明ら数名を過失致死で逮捕、過去に事務所とトラブルになった件も含めて事情を聞いているという。
奏音の死因は頭部を強く打ったための脳内出血が原因と発表されている。しかしネット上では、彼女は無数のハンカチでミイラのように包まれていて、どうにかハンカチを引きはがした時には息をしていなかったという噂が広まっている。迫りが上がってくるはずだった開口部から、無数の腕が伸びるのを見たという証言も後を絶たない。
「嫌な予感はありましたけど、確証はありませんでした。ですから一応、話をしに行ったんですが、つい腹が立って……。申し訳ありません、社長」
「その呼び方はやめてくれって。長瀬でいいよ。何だったら竜ちゃんでもいいぜ」
「わかりました、竜ちゃん」
「何かむかつくな」
「やっぱり社長と呼ばせてくださいよ。愛称ですよ」
「シャチョサーン、ってか? 会社はもうないんだぜ?」
社長──長瀬竜次はげらげらと笑った。今の彼は須間男の上司でもなければ、カオスエージェンシーの社長でもない。
「会社……本当に畳んじゃったんですね」
「俺も終わらせたかったんだよ。お前さんの卒業制作のおかげでたんまり儲かったし」
須間男の卒業制作でありシリーズ最終作となった『ガチ怖ファイナル』は、シリーズで最大の売り上げを記録していた。全員にモザイクを入れて仮名にし、場所や団体を特定できないように加工してあるのだが、めざといマニアは今回の事件との関連性に気づき、販売元──小埜沢のいた会社は、増版と電話対応に追われているそうだ。
「いえ、あれは僕だけの力では完成できませんでした」
「……だな。あいつらの置き土産のおかげだ」
「はい……」
須間男は素直に頷いた。手元にあった素材だけでは、『ガチ怖ファイナル』を完成させることはまず出来なかったからだ。それを救ってくれたのが、小埜沢と千美が遺してくれた資料と素材だった。
小埜沢は雑誌付録DVD制作時の背景と、今回の事件の不自然さについて調査を行っていた。彼の調査資料は全て、カオスエージェンシーのサーバに保管されていた。奏音のデビューライブの日、須間男が彼女たちに突きつけた仮説は、全て小埜沢の資料が元になっている。
ふたりの置き土産はそれだけではなかった。小埜沢は雑誌付録DVDに使用した映像の未編集版の動画もサーバに転送してくれていた。その量は百時間分にも及んだ。
そして千美もまた、大量の動画を遺していた。しかしそれらの動画の中には、どう考えても撮影できるはずのないものも混ざっていた。川口が竜次と千美の母親の関係について須間男に語る映像や、社長が刺された時、須間男が老婆の手から剪定ばさみを叩き落とす瞬間、そして、ガレージで小埜沢が千美と彼女の母親について須間男に語る場面などがそうだ。
それらの映像の中でも最も不可解な映像が、『ガチ怖ファイナル』のクライマックスで使用された。
あの廃屋に入る千美を、すぐ後ろから撮影した映像だ。
千美の前には少女が座っていた。その少女に千美は「ただいま」と声をかけると、ふわりと少女を抱きしめた。少女も嬉しそうに千美に抱きついた。次の瞬間、廃屋が炎に包まれる。それでも尚、ふたりは抱き合い続けた。そして廃屋が轟音と共に崩れた瞬間、映像は途切れていた。
「あれを買ったり借りたりした連中は、『よくできてる』って言ってるらしいな。嘘の映像には本気で怖がって、本物の映像には嘘くささを感じる。虚実の境界線ってのは、本当にいい加減なもんだな」
竜次はあきれ果てたようにつぶやくと、はぁ、と大きなため息をついた。
「本当か嘘か、現実か虚構かなんて、当事者しかわかりませんから。僕たちは何が本当かを知っている。それでいいんじゃないですか?」
「言うようになったな、カピバラ博士」
「その呼び方、やめてくださいよ」
「でもお前、ブルーレイの中ではそう呼ばれてるじゃんか」
「あれだって僕は猛反対したんですよ。顔出しだってしたくなかったし。それに何でDVDじゃなくてブルーレイの方をきっちり見てるんですか」
「安心しろ、レンタルだ」
「買ってくださいよ」
小埜沢が生前に手配してくれた転職先で、須間男は動物映像の編集と撮影助手をするはずだった。しかし実際には人手が足りず、ほぼひとりで作業をこなすことになった。転職先の女社長は、編集前の動画と須間男との日常会話──というよりはほぼ須間男の動物談義に大いに興味を持ち、彼を動物博士として映像に登場させる方針を一方的に決定した。
女社長の読みは当たり、じわじわと動物博士シリーズは売り上げを伸ばしていた。
「……全部、社長と小埜沢さんのおかげです」
「違うよ。お前さんの才能だよ」
「ですよね」
「お前、なんか変わったな」
「全部、社長のおかげです」
「嬉しくねーぞ、それ」
ふたりは声を上げて笑った。この場所で、こんな風に笑える時が来るとは、須間男は全く想像していなかった。ただ、笑い声が足りないことが、とても寂しかった。
「それで、やっぱり行かれるんですか?」
「ああ。千美の墓参りもかねて、ちょっくら北でたそがれてくるわ」
千美の墓は東北にある。しかし、墓の中に彼女の遺骨はない。廃屋と共に燃え尽きてしまい、何も残らなかったのだ。廃屋跡を訪れた彼女の伯父は、灰をひとすくい骨壺に収めると、無言のまま東北へと帰っていった。
千美の母親の行方は、今もわからないままだ。
「……見つかるといいですね」
「ユキの奴、寂しがり屋のくせに意地っ張りだからな。いつも逆を行って自分を追い詰めちまう」
──寂しがり屋だから。
須間男は千美の言葉を思い出した。千美にとって母親──ユキは、うんざりするほどそっくりで、大嫌いで、大好きな母親だったに違いない。
「でも、これを片付けてからだけどな。PCや機材はお前さんの会社に送ればいいんだよな?」
段ボールの山をぽんぽんと叩きながら、竜次が尋ねる。
「はい。とても助かります」
「いいってことよ。そんだけ儲かったんだから」
竜次は親指と人差し指で輪を作り、にんまりと微笑む。
「その表現、何かゲスっぽいです」
「ゲスでげす、なんてな……いや、これにはつっこめよ」
「それで、休日を狙って僕を呼び出した本当の理由は何ですか?」
「わかってるくせに。これだよ、これ」
竜次は再び、段ボールの山をぽんぽんと叩いた。
「このままじゃ退去日までに片付けが間に合わなくてさ。手伝ってよ。ゼニは弾むよ?」
竜次は再び親指と人差し指で輪を作り、うさんくさい満面の笑みを浮かべた。
「ゼニがあるなら業者に頼めばいいじゃないですか。何で僕なんですか……」
全ての荷造りを終えて宅配業者に回収してもらうと、竜次はあの白いワゴンとともに旅立った。
──これ以上いると、離れがたくなっちまうだろ?
空っぽになったカオスエージェンシーの応接室で、事務椅子に身を沈めながら、須間男は竜次の言葉を思い出す。資料や機材類、これまでの作品パッケージや自慢の大型テレビはなくなったが、ロッカーや事務用品はそのまま残されている。居抜きで貸し出しをするのだろうが、借り手がないまま朽ちていくのではないかと、須間男は思った。
……確かに社長の言うとおりだ。
鍵は竜次から預かっている。退去日までに不動産屋に返却すれば全ては終わる。須間男は鍵束をポケットから取り出すと、顔の前でブラブラさせた。
その時、彼の背後でがたっと何かが音を立てた。
びっくりした須間男は鍵束を落とし、更にバランスを崩して椅子ごと転倒した。
「あいたたた……」
顔と背中の痛みに悶絶しながら、音のした方を見た。そこには資材保管用のロッカーがあった。須間男は恐る恐る近づき、ロッカーの扉を開けた。
「うおっ」
ロッカーの中に充満した香りが一気に解き放たれる。嗅ぎ慣れた、きつい洋モクの香りだ。ロッカーの中にはきちんと折り畳まれたハンカチと、透明なティアドロップ型のイヤリングが一対、ぽつんと置かれていた。
須間男はゆっくりと手を伸ばし、ハンカチとイヤリングを手に取った。イヤリングは痛みもなく綺麗な状態だった。ハンカチも古びてはいるが保存状態は良好だった。ハンカチの片隅にはピンクの糸で「ユキミ」と刺繍されていた。
気づけば夕景が窓の外に広がり、空っぽのオフィスもセピア色に染まっていた。
誰ぞ彼時、あるいは逢魔が時。
須間男はため息をつく。かつて消臭スプレーで追い払っていた残り香を漂わせたままにして、彼は手にしたハンカチとイヤリングを見つめた。
──私は必ず、あの子を連れて帰ってきます。
千美の言葉が、彼女の笑顔と共に須間男の脳裏に蘇る。
涙の滴が、ティアドロップ型のイヤリングの上に落ちた。
ひとしきり泣いてから、須間男は顔を上げて涙を拭った。
まだ竜次のワゴンは都内を出ていないだろう。合流するのはさほど難しくない。須間男はこれからの予定と段取りを頭の中で整理した。それにしても、と彼は思った。
……社長がいる時にアピールしてくれればよかったのに。何で僕……。
そこまで考えて、彼は笑った。
……ま、いっか。
彼はハンカチとイヤリングをリュックに仕舞った。そして立ち上がるとリュックサックを背負い、機材バッグを抱えた。
きっと長い旅になるだろう。でも、三人旅 も悪くない。須間男はそう思った。
ガラス窓の向こう側で笑う弁護士の顔を、久千木はつまらなそうに見ていた。
「ネット上での君の扱いは凄いよ。嘆願書も三千人を超えたし、君のアカウントのフォロワーは六万人を越えた」
六万人。それだけの人数が自分をフォローしたのなら何故、誰も寄藤と戦おうとしなかったのか。彼は無責任な六万人に苛立ちを覚えたが、すぐにどうでもいいことだと思い直した。
「私は出来る限りのことをする。君の力になる」
「
久千木の言葉に、脂ぎった中年の弁護士は表情をしかめた。あんたの機嫌なんか知ったことか。飼い主に尻尾を振って点数稼ぎでもしてろ。内心で中年男を罵ってみたが、それで気が晴れることはなかった。
担当弁護士との初めての接見は短時間で終わった。何の実りもない時間を終えて、久千木は拘置所の居室へ戻された。刑の確定していない被疑者は作業を行うこともなく、一日をこの居室で過ごす。読書や執筆などもできるが、彼は何もしないことを選んだ。
あの時、彼は自分が道化だと言うことを思い知らされた。あの鈴木という男に殺されていたら、道化のまま一生を終えるところだった。
──これ以上、踊らされてたまるか。
久千木はあの時、鈴木須間男が口にした言葉を思い出す。
鈴木が振り下ろしたバットは、彼の頭部ではなく地面を叩いた。バットを放り捨てて、宣言するかのようにつぶやいた鈴木の言葉を、彼は何度も思い出していた。そして事件の発端から結末までを振り返った。全てを終えた今だからこそ、冷静に振り返ることが出来た。俯瞰で見た自分の姿は、あまりにも滑稽だった。
自分は何も見えていなかった。何も見えず、何も知らなかったくせに、全てを知った気になって、@LINKを助ける神などという妄言を吐いた馬鹿だ。そして、全てを終えて今ここにいる自分は、もはや何者でもない。からっぽの器だ。新たに注ぐものは何もない。いや、最初から満たされていると錯覚していただけのことだと、彼は思い直した。
一日三食の食事は何の味もしなかった。何を食べたかすら、彼は覚えていない。食に対する興味もない。ただ食べろと言うから食べる。食べ終えた後は空っぽの頭で同じことをずっと考え続けた。就寝時間になり、布団に身を沈めてからも、彼は考え続けた。
……もう、操り人形はごめんだ。
睡魔に飲み込まれる直前に、ふと彼は、そんなことを思った。
四日目の朝、起床時間になっても、久千木は布団から起き上がってこなかった。刑務官が異変に気づいて居室に入ろうとしたが、扉が開かなかった。数人の刑務官がどうにかこじ開けたドアの格子に、彼は脱いだシャツを巻き付けて首を吊っていた。
「本当にありがとうございました」
麻美奏音から深々と頭を下げられ、須間男も会釈を返した。奏音の両隣には川口雅弘と相馬めぐみの姿があった。
あの事件以降、奏音は時の人になった。呪いから逃れた奇跡のアイドル、あるいは、ストーカー被害に耐え続けた悲劇のアイドルとして、マスコミに多く取り上げられた。特にアイドルストーカー問題は彼女の発言を契機に広く一般に知られることになり、ストーカー規制法改正の気運が高まっているほどだ。
そんな折、奏音が@LINKに加入することが発表された。彼女の初ステージとなる今日のライブチケットは既に完売し、路上には大勢のファンが集っていた。各地でパブリックビューイングが行われること、テレビ局で完全生放送が行われることも既に決定している。
「あんなに酷いことを言って、すいませんでした。あなたのおかげです」
奏音は再び頭を下げる。
「いえ、僕は何もしていません」
須間男は淡々と答えた。何もしていない──何も出来なかったのは、消し去りようのない事実だった。制服を模したステージ衣装に身を包んだ奏音は、不思議そうに彼を見つめた。
「鈴木さん、本当にありがとうございました。これでやっと奏音ちゃんは解放されたんですね。あさ美ちゃんも、他の子達も、きっと喜んでいると思います」
めぐみは大粒の涙を流しながら、強引に須間男の腕を取って何度も振った。
「私からも礼を言わせてください。社長にも礼を言いたかったんですが、今日は?」
川口がにやにやと笑みを浮かべて、わざとらしく辺りを見回す。
「社長は所用で来られません」
「あ、そうですか。それじゃあ、よろしくお伝えください」
「それよりも麻美さん、ツイッターの方は確認しましたか?」
「ああ、あれね」
奏音に代わって、須間男に無視された川口が答えた。
奏音のアカウントから、あのナンバー4のフォローは外れていた。それだけではなく、ナンバー4のアカウントそのものが消えていた。しかし、無数の「ナンバー4」を名乗るアカウントが奏音のアカウントをフォローしていた。罵倒するような発言を彼女に投げてくるアカウントも少なくなかった。
「うちの法務部の方で証拠を保全して、手配は進めていますよ。逮捕の前例が出れば、あんな連中は消えていくでしょう」
「ああ、それで、あの動画も動画サイトから削除されたんですね?」
「いや……?」
川口はめぐみと顔を見合わせたが、めぐみも知らないらしい。
「それでは動画サイトの運営側で削除して下さったんでしょう。ところで、ネット上で奇妙な噂が流れているのをご存じですか?」
「噂って、どんな?」
「
「そんな! あなた方が呪いを終わらせてくださったじゃないですか!」
奏音が思わず声を上げる。フロア内の人たちが一斉に彼女の方を向いた。
「お前ら、サボってないで動け動け!」
川口が檄を飛ばすと、人々は元の作業に戻った。
須間男と奏音たちが今いるのは@LINKステージの奈落だ。ステージがビルの最上階、奈落が一階下に位置している。天井──ステージまでの高さは五メートル弱。左右にある階段と中央に鎮座している巨大な迫り台がステージと奈落を繋ぐ移動手段だ。申し訳程度の照明の下、今日行われる奏音のデビューライブの支度が、着々と進んでいた。
「鈴木さん、奏音を怖がらせるようなことを言わないでもらえますか?」
「僕も根も葉もない噂だと思います。ですが、最期を見届けたものとしては、真相を調べなければなりません。何か見落としがないか、今回のDVDの映像をチェックしたんですが、みなさんはあれ、ご覧になりましたか? もしよろしければ、何枚か持ってきてますけど」
須間男はリュックからDVDのパッケージを取り出した。パッケージ表面には『ガチの恐怖を思い知れ! ファイナル ~完全除霊スペシャル~』のタイトルロゴが踊る。
「そんな縁起の悪いものを持ってくるな! すぐに片付けてくれ!」
川口が露骨に嫌がる。奏音とめぐみはたじろいでいた。
「そうですか……」
須間男はため息をつくと、DVDをリュックに仕舞った。
「川口さんと相馬さん、
……こいつ、今、何て言った?
川口は自分の耳を疑った。彼は何とか平静を装ったが、須間男は尚も続けた。
「小埜沢さんが当時の資料を見つけてくれていました」
小埜沢尚行の名が出ると、めぐみは顔を伏せた。
「あのDVDの企画を持ち込んだプロダクションは有限会社エムケイプロ。社長は
「……それが?」
「エムケイプロは川口さんの会社、アットリンクプロダクションと提携関係にあったそうですね。
須間男の言葉に川口は言葉を失った。
……何故こいつが、そのことを知っている?
「加藤あさ美さんのご両親から話を伺いました。ナンバー4の彼女が自殺していなければ、麻美さんはDVD発売後すぐに移籍するはずだった。加藤さんも@LINKの専属になる予定だったと、彼女は言っていたそうです」
「……確かにそういう計画はあったし、流れた理由も君の言うとおりだ。だから?」
「ちょっと気になることを、ある人から聞いたんですよ」
須間男は川口の言葉を受け流し、話を続ける。
「かつて@LINKの追っかけをやっていた、『ののん愛好会』というグループがあったんですが、ご存じないですか? 寄藤のホームページで全裸土下座の映像を晒されていた彼らなんですけど」
現在、寄藤のホームページは閉鎖されている。事件発覚後にプロバイダ──ネットサービスを提供している会社が削除したものと思われる。土下座動画も削除されている。
「彼らのひとりとようやく連絡が取れたんですが、彼の話だと、@LINKの活動が軌道に乗り出した頃に突然、寄藤たちがライブにやってきたそうです。アリーナのプラチナチケットをほぼ毎回確保し、イベント後の握手会でも先頭に陣取り、しつこいファンを誘導する『引きはがし』と呼ばれるスタッフも、彼らには最初から甘かったそうです」
「確かにそういうスタッフがいたのは事実で、すでに彼らは処分済みだ」
「その時、僕と揉めた笈川明も同じことを言っていました。同様の話はあなたが寄藤を出禁にした前後から現在まで、ネット上でもずっと噂されています。現在はピクルスまで遡って、そういう蜜月関係があったとかつてのファンを自称する人たちが書き込みを行っています。リハーサルであなたと寄藤が談笑している姿を頻繁に目撃したとか、チケットや現金の受け渡しを目撃したという、自称元スタッフの書き込みもありました」
「そんな話はでっち上げだ!」
「そうですね。あくまで噂ですし、『ののん愛好会』の人たちの話も彼らの主観でしかありません。既にネットメディアも煽るだけで具体的な新情報を出せない状況ですし、いずれ別の話題に飲まれて忘れ去られるでしょう」
「……君は何が言いたいんだ?」
川口は須間男に薄気味悪さを感じていた。話の筋道が見えない。こちらが真意を問うとはぐらかす。あっさり持論を引っ込める。確証を何も得ていないから、攻めあぐねていると言うことなのだろうか。
そうだ。真相を知っているのは私だけじゃないか。彼は思い直す。寄藤たちを利用していたのは事実だが、それを知っているのは自分と寄藤だけだ。しかしあいつは暴走をはじめてストーカーにまでなってしまった。下手に切れば何を暴露されるかわからない厄介者だった。
幸い、あいつは何一つ喋ることなく、
そこまで考えて、彼ははたと気づいた。
……もしかして、それが狙いか?
「不名誉な噂ですし、一応お伝えしておこうかと。法務部に伝えれば、適切な対処をして頂けるんですよね?」
須間男の言葉は理にかなっていた。川口が言ったことをそのまま返したのだから当たり前だ。皮肉めいた返しに川口は苛立ちを覚えたが、どうにか感情をねじ伏せた。
「情報提供には感謝するよ」
「まだ情報があります。寄藤と久千木のツイッターアカウント、今では削除されていますが、削除される以前、あるアカウントがふたりをフォローしていたんです」
「ナンバー4じゃないのか?」
まだ何かあるのかと、川口は内心うんざりしながらも尋ねた。
「いいえ。鍵つきのアカウントでアイコンは初期設定のまま、フォロー数二、フォロワー数二、つぶやきは六十弱でした。名前は『リンクファン』。ありがちですよね」
「そのアカウントが今回のことと何か関係があるのか?」
須間男の話すアカウントについて、川口には全く心当たりがなかった。唐突に自分とは無関係な話をされて、彼は戸惑った。
「鍵つきのアカウントというのは、つぶやいている内容は誰にも見えないんです。相互にフォローをしている人以外には、それがどんな人物でどんな趣味を持ち、どんな人なのかは全くわかりません。寄藤と久千木はふたりとも、そんなアカウントをフォローしていました。もしかしたら、直接面識があるか、知っている人物のアカウントだったのかもしれません」
「それで?」
「さっき、つぶやきの数が六十弱と言いましたが、この全てがつぶやきとは限らないんです」
「どういうことだ?」
「ツイッターにはダイレクトメールの機能があるんですが、メールを誰かに送った時も、つぶやきのひとつとしてカウントされるんです。もしかしたら、六十弱のつぶやきは、全てダイレクトメールだったかもしれません」
「それで?」
「それだけです」
あっさりと話を終える須間男に、川口は戸惑った。今の話はいったい何なんだ? ふたりを俺が操ったとでも言いたいのか? まったく意味がわからない。意味が……。
嫌な予感がして、川口はめぐみを見た。しかし、彼女もぽかんとした顔をしている。まさか……。彼は恐る恐る奏音の方を見た。
奏音はぎゅっと口を結んで下を向いていた。それだけで、川口は全てを察した。
「そういえば、久千木が僕たちを襲った時、こんなことを言ってました。確か……『そういえば、彼女が言っていたっけ。あんたらも呪いに関係があるんだって?』って。もしかしたら、彼女というのはそのアカウントの持ち主だったのかもしれませんね」
須間男の言葉に、奏音は衣装の裾を強く握った。川口は大きく咳払いすると、奏音は我に返って平静を装った。しかし須間男の話は終わらなかった。
「アカウントと言えば、ナンバー4……あ、今大量にあるアカウントではなく、麻美さんが教えてくれたあのアカウントですが、ひとつ引っかかることがあるんです」
「引っかかること?」
「あのアカウントは麻美さんや僕たちもフォローしましたが、久千木だけがフォローされずに終わっています。しかし彼は拘置所で自殺した。このことをどう思いますか?」
「彼は呪いの元凶だった寄藤を始末した。ナンバー4にとっては恩人で呪いの対象ではなかった。だが彼は良心の呵責に耐えかねて死を選んだ。そういうことじゃないか?」
「確かにそれなら筋も通りますね。@LINKを救った恩人に対してあなたは、顧問弁護士を彼に付けたそうですね?」
「……そうだ。犯罪とは言え、うちの子たちを守るための行動だ。私たちにも責任がある。サポートが至らず、残念な結果に終わったが」
答えつつ、川口は奏音の方を見た。彼女は顔を伏せたままだ。
久千木に弁護士を付けるよう、川口に懇願してきたのは奏音だった。その時川口は、単なる恩義からくるものだと思っていた。しかし……。
「くだらない話はもうたくさんだ」
話に付き合い続けるとぼろが出る。川口は早く切り上げたかった。
「そうですね。これらの噂はあくまでも噂ですし、あのDVDが産み出した呪いは終わりました。ですが
「何がだ?」
「何故六年前に関係者全員を巻き込まずに止まったんでしょうか。そして何故、今になって呪いが再起動したんでしょうか」
「お前たちが調査を始めたからじゃないのか? こっちはとんだとばっちりだ」
「そうかもしれませんね。麻美さん」
「は、はい」
急に呼びかけられて、奏音は狼狽した。
須間男は彼女の顔を見て、にっこりと微笑みかけた。
「今日はいよいよ、
「えっ?」
「ピクルスのみんなと約束したじゃないですか。みんなの分まで頑張るって。やっとその約束が叶いますね。おめでとうございます」
「え、あ、ありがとうございます……」
「最後にひとつ、伺ってもいいですか?」
「な……なんでしょう?」
奏音は思わず身構えた。
「あなたは何故、アイドルになろうと思ったんですか?」
奏音にとって、須間男の問いは意外なものだった。意外すぎて何と答えていいかわからなくなり、彼女は固まってしまった。
「もういいだろ。奏音は疲れてるんだ。これから本番に向けてやることがたくさんある。少しでも彼女に休む時間をくれないか」
溜まりかねた川口が割って入る。
「そうですね……。それでは失礼します」
須間男はあっさりと引いた。
「本番のステージはご覧になっていかれないんですか?」
脳内の帰れコールを押し隠し、めいっぱいの営業スマイルを浮かべて、川口は問いかけた。
「すいません。仕事がありますので。ところで川口さん」
「……まだ何か?」
「
「……は?」
「いえ、いいんです。それでは」
須間男は会釈すると、あっさりと奈落から出て行った。
「……何なんだあいつ。長瀬の馬鹿はちゃんと教育してんのかよ」
須間男を見送った川口は、途端に悪態をついた。
「奏音、あんな奴の言うことなんか忘れちまえ。今日、お前はアイドル史に名を刻むんだ。お前の伝説は、今日から始まるんだからな」
「は、はい!」
「ほらお前らぁ! 奏音のデビュー戦だ! 気合い入れていくぞ!」
「おっす!」
奈落は熱気に包まれていた。あと三十分ほどで、ステージの幕が上がる。
過程はどうだっていい。この世界、成り上がれば勝ちだ。
川口は割り切ることにした。いや、割り切るしかなかった。
「ほらほらおじいちゃん、そろそろ『奇跡のアイドル』が登場するわよ!」
「……そうかい」
まるまる太ったホステスに声をかけられた老人は、そっけなく返答した。
老人がほぼ毎日通うちっぽけなスナックの、すっかりヤニまみれになったブラウン管テレビには、@LINKのステージが映し出されていた。
「カノンちゃんって子、おじいちゃんのスタジオでライブとかやってたんでしょ? ストーカーとか呪いとか、そういうの乗り越えてデビューなんて、凄くない?」
「……知らねぇよ」
「何をふてくされてんの? 前にDVD見せてくれた時はあんなに嬉しそうだったのに」
老人は答える代わりに、柿ピーを口の中に放り込み、ばりぼりと噛み砕いた。
こいつらはもう、
柿ピーの残りカスをビールで洗い流すと、老人は再び柿ピーを掴んだ。そして思い出す。あのロッカーの映像をここで自慢したとき、隣の席に座っていた、
──あの、これ、投稿したらどうですか?
その時は面白半分に娘の話に乗った。しかしあの鈴木という小太りな男から完成したDVDをもらい受け、ここで上映会を行ったとき、老人は全てを知った。
「おじいちゃん、あの子嫌いなの?」
「ああ、
あんな奴のために、浮かばれねぇ娘がいる。それが老人には許せなかった。
……そう言う俺も、
老人は掴んでいた柿ピーを口の中に投げ込むと、一気に噛み砕いた。
頭上のステージでは、@LINKのメンバーが持ち歌を披露し、観客の歓声が奈落まで揺らすほどだった。彼女たちの平均年齢は約十七才。奏音がピクルスに入った時と同じ年齢だ。それから六年。彼女は二十四歳。年末には二十五になる。
アイドルとしてはギリギリの年齢だった。
幼い頃からレッスンを続け、オーディション雑誌を買い漁り、スカウトされるためだけに原宿に通った。ようやく所属した事務所の社長夫婦は彼女を高く評価し、ピクルスは実践の場としてちょうど良かった。しかし、グループとしては素人以下だった。
特に酷かったのはナンバー4だった。他のメンバーも自分のレベルを棚に上げてナンバー4の陰口を言うようになっていた。それなりに固定客が付いてきた頃、川口が寄藤を連れてきた。アイドルオタク歴の長い寄藤は、ファンを仕切って場を盛り上げる一方で、メンバーに容赦ないダメ出しを行った。
寄藤は特にナンバー4を徹底的に貶した。奏音や他のメンバーも寄藤に続いた。一度露わになった本心は、より陰湿な形を取るようになった。中には寄藤も知らない、寄藤ですらしないようなことも行われた。全員のはけ口として、ナンバー4は都合が良かった。
十八歳というのはアイドル予備軍にとって、ひとつの壁だった。年齢と若さを売りにできるアイドル適齢期。しかし、チャンスを逃すとデビューが遠のく境界線でもあった。
あのDVD収録が終わり、ようやく移籍というチャンスが巡ってきた時に、ナンバー4は自殺した。当然、移籍の話も消えた。他のメンバーが次々に死んだことはただの偶然だと、奏音は今でも思っている。
収録が終わった日、彼女はナンバー4に台本を投げつけながら罵った。それだけは失敗だったと今でも思っている。移籍すれば縁が切れる相手を追い詰めたことで、大幅に計算が狂ってしまったのだから。
めぐみが会社を畳んでから、彼女は地下アイドルグループを転々としながら、いくつものオーディションを受けてきた。しかしいずれもうまくいかず、事務所を転々としながら続けてきた地下アイドル活動も、寄藤の横暴な言動とストーカー行為で立ち行かなくなり、やがて行き場を失った。
そして気づけば二十歳を過ぎ、二十五歳という避けようのない壁が迫ってきていた。
今回の事件は、奏音にとって最後の賭けだった。
あの忌まわしい場所──貸しスタジオを何気なく訪れたとき、須間男たちが取材を行っているのを見て、何か運命めいたものを感じた。めぐみに呼ばれて取材を受けた時、期待は確信へと変わった。
めぐみからエムケイプロのことは伏せるように言われた時、自分がひとりではないことを実感し、嬉しかった。あさ美がすべてを話しそうになった時も、めぐみが目配せをして止めた。そして、
久千木という男の存在を知ったのも幸運だった。彼はナンバー4の呪いを独自に調べ、寄藤が原因であると結論づけていた。プライベートアカウントに接触があったが、用意した別のアカウントで彼とやり取りを行うことにした。彼女が寄藤に対する不安と恐怖を訴えるだけで、久千木は勝手な正義感を燃え上がらせた。
一方で寄藤にも別アカウントで接触を図った。須間男から電話をもらったあの日、須間男たちがあの廃村へ向かうことを確信した彼女は、ナンバー4の呪いを解く儀式の方法と廃村の場所、儀式に適した時間を寄藤に伝えた。
久千木にも同じ時間と場所を伝え、寄藤に呼び出されたと嘘をついた。激怒した久千木は、確実に寄藤を殺す方法を調べ上げ、彼女に計画を伝えてきた。彼女は久千木がより確実に成果を上げるように遠回しにアドバイスを行った。最終確認を終えると、互いのダイレクトメールを削除するよう注意するのも忘れなかった。
そして久千木は、奏音にとって最高の成果をもたらした。正義感に燃える久千木は自分の名前を出さないだろう。それでも用心のために別アカウントは削除した。
須間男がアカウントの件を指摘してきたのは、奏音にとって予想外のことだった。「ナンバー4」のアカウントから久千木をフォローしなかったのは、寄藤や須間男たちに彼の動きから目をそらすために仕方がなかった。
「リンクファン」のアカウントは須間男自身が説明したように、外部からやり取りを見ることは出来ない。ダイレクトメールなら尚更だ。不審に感じたとしても、それを裏付ける情報はもう出てこない。寄藤は死に、久千木は全てを抱えて命を絶ち、ふたつのアカウントを削除して、全ては終わったのだから。
スタッフに案内されて、奏音は迫り台の上に立った。
──今日はいよいよ、約束のステージですね。
須間男の言葉が脳裏を過ぎる。
……約束なんてしていない。
奏音はピクルスのメンバーを仲間だと思ったことは一度もない。通過点のひとつでたまたま出会っただけのことだ。電車で乗り合わせた乗客みたいなもので、目的地に降りれば赤の他人だ。
電車といえば……。奏音は自分の掌を見つめた。小埜沢を突き飛ばした時の感触がまだ残っている気がして、彼女は両手を大きく振った。小埜沢をホームで見かけたのは偶然だった。そっと背後に立ち、耳をそばだてると、彼が何かを掴んだらしいことがわかった。気がついたら彼を突き飛ばしていた。
小埜沢を殺すことにためらいはなかった。何故なら、
「大丈夫かしら?」
「大丈夫だ。いざとなったら、
川口の言葉を聞いても、めぐみの不安は拭えなかった。
あの日、須間男たちの元へ行こうとしたあさ美を、めぐみは引き留めた。
あさ美が良心の呵責に耐えきれなくなっていたのが、めぐみには痛いほどわかっていた。でも今、彼女がすべてを明かすと、もう奏音にチャンスは巡ってこない。そう思った。
あさ美に振りほどかれそうになった瞬間、彼女は思わず手を離した。それだけであさ美はバランスを失い、あっけなく階段を転げ落ちて死んでしまった。
殺すつもりなどなかった。
あさ美の通夜の準備を手伝っているとき、めぐみは奏音に買い出しを頼んだ。戻ってきた奏音は、めぐみに耳打ちをしてきた。
──小埜沢さんを殺しました。
小埜沢はめぐみの過去を──めぐみと川口の関係を知っていた。須間男が取材に訪れたとき、伏せてあった結婚写真を撮影されていたとしたら、小埜沢はその意味に気づくに違いないと思っていた。なんとかしないとと思っていたのは確かだった。しかし、恩ある監督の息子である小埜沢を殺そうなどとは全く考えていなかった。川口を裏切ってでも、全てを相談しようかと思っていたくらいだ。
まさか奏音が、小埜沢を手にかけるとは欠片も思っていなかった。
めぐみはエムケイプロ時代のことを思い出していた。設立当初から@LINKの候補生を育成する団体として立ち上げた会社だったが、奏音が来たことで、奏音のみを育成する方針へと転換した。全て川口のアドバイスだった。てこ入れとして寄藤を送り込んできたのも川口だった。そして実際、奏音はどんどん才能を伸ばしていった。
いじめの主犯が寄藤ではなく、寄藤の後ろ盾を得た奏音だったことにも、めぐみは早い段階から気づいていた。しかし、いじめがなくても他のメンバーには先がなかった。そう思って目をつぶった。その結果、ナンバー4は自殺した。
その後の元メンバーたちを襲った出来事が呪いだったのかどうか、今でもめぐみにはわからない。ただ、責任の一端は自分にもあると思っている。
あの子をあんな
迫り台から頭上を見上げる奏音の姿から、めぐみは目を背けた。
曲が終わり、@LINKのトップ、三池ゆりが観客にマイクアピールを行う。
「みんな、元気ぃ~?」
「げーんきー!」
「今日は私たちの新しい仲間の初ステージです! もうみんな知ってるよね? 奇跡のアイドル、麻美奏音ちゃんです! みんな手拍子手拍子ぃ~!」
ドラムのリズムに合わせて、観客が手拍子を始める。
「か・の・ん! か・の・ん!」
観客が奏音コールを始めた。
迫り台がゆっくりと上昇していく。舞台の開口部がゆっくり開き、真っ暗な奈落にステージの照明が光明のように差し込み、奏音を照らした。
手を伸ばせば届きそうな距離。もう少しで、私はあの場所に立つ。奏音は徐々に開く開口部を見上げていた。
すると開口部から、何かが落ちてきて奏音の足下に転がった。てるてる坊主のように見えたそれは、重しになる何かを包んだ、あの忌々しいハンカチだった。しかもハンカチはその一枚だけではなかった。次から次へと、開口部から彼女に向かってハンカチが降り注ぐ。
「あなたのばん!」「つぎは!」「あなたのばん!」
「あなたのばん!」「つぎは!」「あなたのばん!」
いつの間にか、コールの言葉が変わっていた。
「ステージに物を投げないでください! お願いです、ステージに物を投げないでください!」
ゆりが観客に注意を促すが、コールは鳴り止まず、次々とハンカチが投げ込まれていく。
……何で?
奏音には、何故自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか、まったくわからなかった。呪いごっこは終わった。なのに、何故、私が?
──
須間男の言葉が脳裏に浮かぶ。奏音は小さい頃、幼稚園や小学校でハンカチ落としで遊んだときのことを思い出す。みんなで輪を作り、鬼がハンカチを落とす。落とされた子が鬼を追いかける。鬼が空いた席に滑り込むか、落とされた子が鬼にタッチすれば、ゲームは……。
……
鬼が勝っても負けても、
子供の頃は休み時間が終わってお開きになった。でも、解散できなければ、ゲームはずっと続く。
でも、
次の瞬間、奏音は何者かに背中を引っ張られ、迫り台の上に倒れた。
起き上がろうとする彼女を、無数の腕が掴む。
「あなただけを」
「いかせない」
「わたしたちも」
「いっしょに」
「つれてって」
「やくそく、したよね?」
六つの顔が闇の中に浮かび上がり、奏音を見下ろす。
何であなたたちが、と、奏音は叫ぼうとした。しかし彼女の口に、固結びされたハンカチがねじ込まれた。
何で今? 何でこいつらが? 何で邪魔をするの?
──あのDVDが産み出した呪いは終わりました。
奏音は須間男の言葉を思い出す。
ちっとも呪いは終わっていない! こいつらをどうにかして! 冗談じゃない!
奏音は奈落にいるスタッフと川口元夫婦に必死で呼びかけようとしたが、誰も迫り台の方を見ようともしない。
──あのDVDが産み出した呪いは終わりました。
──あのDVDが産み出した呪いは。
不意に奏音は、須間男の言葉に隠された本当の意味に気づいた。彼らは確かに、自分たちが作ったDVDに出てきた呪いの元凶に決着を付けた。しかしそれはナンバー4ではなく、廃屋の少女のことだったのだ。
あのDVDのラスト通り、
他のメンバーがDVD通りに死んだのは、単なる偶然ではなかった。
──何故、今になって呪いが再起動したんでしょうか。
須間男の言葉は、自分が呪いを利用したことを指摘したものだと彼女は解釈していた。
しかしそれは間違いだった。
──今はそっちに行けないのっ!
彼女自身があのDVDで言った台詞だ。ナンバー4は、メンバーたちは、
しかし@LINKのファンにとって奏音は、呪いをもたらす疫病神でしかなかった。それだけではない。彼らの中には、奏音が呪いで死ぬことを期待している連中も混じっている。それがあのコールと、ハンカチが投げつけられる理由だ。
死者たちが憧れ、生者たちが呪詛を吐く。そんな舞台に自分は憧れていたのか。
──あなたは何故、アイドルになろうと思ったんですか?
須間男の言葉が彼女の脳裏に蘇る。
……どうして私は、アイドルになりたかったんだろう……?
……アイドルになって、何をしたかったんだろう……?
「いこう」
「いっしょに」
「わたしたち」
「なかまでしょ?」
「さあ」
「もうすこし」
言葉とは裏腹に、六対の腕は奏音をより強く締め付けた。ハンカチは口元だけでなく、顔のほぼ全体を多い、息が出来なくなっていた。塞がれることを免れた右目は、開口部から覗くステージの照明を捉えていたが、次第にぼやけてきた。
「あなたたちはこれ以上、行かせてあげない」
それは、
奏音が最後に見たのは、
「お前さん、こうなることを見越してたのか?」
段ボールの山に囲まれた社長が須間男に問いかけた。デスクの上には今朝売りのスポーツ新聞が無造作に置かれていた。
〈「ナンバー4の呪い」か? 奇跡のアイドル、デビューライブで事故死〉
スポーツ新聞の一面を真っ赤な大見出しが彩る。見出しの通り、麻美奏音はデビューライブのステージで死亡した。いや、正確にはステージに上がる直前、迫り台が誤動作して負荷がかかり、上がりきる前に折れて奈落に転落、奈落にいた関係者二名──川口雅弘と相馬めぐみが圧死、投げ出された奏音も死亡した。
誤動作の原因は、観客席からステージに投げられた無数のハンカチが駆動部に絡まったためと見られる。警察は観客を扇動した笈川明ら数名を過失致死で逮捕、過去に事務所とトラブルになった件も含めて事情を聞いているという。
奏音の死因は頭部を強く打ったための脳内出血が原因と発表されている。しかしネット上では、彼女は無数のハンカチでミイラのように包まれていて、どうにかハンカチを引きはがした時には息をしていなかったという噂が広まっている。迫りが上がってくるはずだった開口部から、無数の腕が伸びるのを見たという証言も後を絶たない。
「嫌な予感はありましたけど、確証はありませんでした。ですから一応、話をしに行ったんですが、つい腹が立って……。申し訳ありません、社長」
「その呼び方はやめてくれって。長瀬でいいよ。何だったら竜ちゃんでもいいぜ」
「わかりました、竜ちゃん」
「何かむかつくな」
「やっぱり社長と呼ばせてくださいよ。愛称ですよ」
「シャチョサーン、ってか? 会社はもうないんだぜ?」
社長──長瀬竜次はげらげらと笑った。今の彼は須間男の上司でもなければ、カオスエージェンシーの社長でもない。
「会社……本当に畳んじゃったんですね」
「俺も終わらせたかったんだよ。お前さんの卒業制作のおかげでたんまり儲かったし」
須間男の卒業制作でありシリーズ最終作となった『ガチ怖ファイナル』は、シリーズで最大の売り上げを記録していた。全員にモザイクを入れて仮名にし、場所や団体を特定できないように加工してあるのだが、めざといマニアは今回の事件との関連性に気づき、販売元──小埜沢のいた会社は、増版と電話対応に追われているそうだ。
「いえ、あれは僕だけの力では完成できませんでした」
「……だな。あいつらの置き土産のおかげだ」
「はい……」
須間男は素直に頷いた。手元にあった素材だけでは、『ガチ怖ファイナル』を完成させることはまず出来なかったからだ。それを救ってくれたのが、小埜沢と千美が遺してくれた資料と素材だった。
小埜沢は雑誌付録DVD制作時の背景と、今回の事件の不自然さについて調査を行っていた。彼の調査資料は全て、カオスエージェンシーのサーバに保管されていた。奏音のデビューライブの日、須間男が彼女たちに突きつけた仮説は、全て小埜沢の資料が元になっている。
ふたりの置き土産はそれだけではなかった。小埜沢は雑誌付録DVDに使用した映像の未編集版の動画もサーバに転送してくれていた。その量は百時間分にも及んだ。
そして千美もまた、大量の動画を遺していた。しかしそれらの動画の中には、どう考えても撮影できるはずのないものも混ざっていた。川口が竜次と千美の母親の関係について須間男に語る映像や、社長が刺された時、須間男が老婆の手から剪定ばさみを叩き落とす瞬間、そして、ガレージで小埜沢が千美と彼女の母親について須間男に語る場面などがそうだ。
それらの映像の中でも最も不可解な映像が、『ガチ怖ファイナル』のクライマックスで使用された。
あの廃屋に入る千美を、すぐ後ろから撮影した映像だ。
千美の前には少女が座っていた。その少女に千美は「ただいま」と声をかけると、ふわりと少女を抱きしめた。少女も嬉しそうに千美に抱きついた。次の瞬間、廃屋が炎に包まれる。それでも尚、ふたりは抱き合い続けた。そして廃屋が轟音と共に崩れた瞬間、映像は途切れていた。
「あれを買ったり借りたりした連中は、『よくできてる』って言ってるらしいな。嘘の映像には本気で怖がって、本物の映像には嘘くささを感じる。虚実の境界線ってのは、本当にいい加減なもんだな」
竜次はあきれ果てたようにつぶやくと、はぁ、と大きなため息をついた。
「本当か嘘か、現実か虚構かなんて、当事者しかわかりませんから。僕たちは何が本当かを知っている。それでいいんじゃないですか?」
「言うようになったな、カピバラ博士」
「その呼び方、やめてくださいよ」
「でもお前、ブルーレイの中ではそう呼ばれてるじゃんか」
「あれだって僕は猛反対したんですよ。顔出しだってしたくなかったし。それに何でDVDじゃなくてブルーレイの方をきっちり見てるんですか」
「安心しろ、レンタルだ」
「買ってくださいよ」
小埜沢が生前に手配してくれた転職先で、須間男は動物映像の編集と撮影助手をするはずだった。しかし実際には人手が足りず、ほぼひとりで作業をこなすことになった。転職先の女社長は、編集前の動画と須間男との日常会話──というよりはほぼ須間男の動物談義に大いに興味を持ち、彼を動物博士として映像に登場させる方針を一方的に決定した。
女社長の読みは当たり、じわじわと動物博士シリーズは売り上げを伸ばしていた。
「……全部、社長と小埜沢さんのおかげです」
「違うよ。お前さんの才能だよ」
「ですよね」
「お前、なんか変わったな」
「全部、社長のおかげです」
「嬉しくねーぞ、それ」
ふたりは声を上げて笑った。この場所で、こんな風に笑える時が来るとは、須間男は全く想像していなかった。ただ、笑い声が足りないことが、とても寂しかった。
「それで、やっぱり行かれるんですか?」
「ああ。千美の墓参りもかねて、ちょっくら北でたそがれてくるわ」
千美の墓は東北にある。しかし、墓の中に彼女の遺骨はない。廃屋と共に燃え尽きてしまい、何も残らなかったのだ。廃屋跡を訪れた彼女の伯父は、灰をひとすくい骨壺に収めると、無言のまま東北へと帰っていった。
千美の母親の行方は、今もわからないままだ。
「……見つかるといいですね」
「ユキの奴、寂しがり屋のくせに意地っ張りだからな。いつも逆を行って自分を追い詰めちまう」
──寂しがり屋だから。
須間男は千美の言葉を思い出した。千美にとって母親──ユキは、うんざりするほどそっくりで、大嫌いで、大好きな母親だったに違いない。
「でも、これを片付けてからだけどな。PCや機材はお前さんの会社に送ればいいんだよな?」
段ボールの山をぽんぽんと叩きながら、竜次が尋ねる。
「はい。とても助かります」
「いいってことよ。そんだけ儲かったんだから」
竜次は親指と人差し指で輪を作り、にんまりと微笑む。
「その表現、何かゲスっぽいです」
「ゲスでげす、なんてな……いや、これにはつっこめよ」
「それで、休日を狙って僕を呼び出した本当の理由は何ですか?」
「わかってるくせに。これだよ、これ」
竜次は再び、段ボールの山をぽんぽんと叩いた。
「このままじゃ退去日までに片付けが間に合わなくてさ。手伝ってよ。ゼニは弾むよ?」
竜次は再び親指と人差し指で輪を作り、うさんくさい満面の笑みを浮かべた。
「ゼニがあるなら業者に頼めばいいじゃないですか。何で僕なんですか……」
全ての荷造りを終えて宅配業者に回収してもらうと、竜次はあの白いワゴンとともに旅立った。
──これ以上いると、離れがたくなっちまうだろ?
空っぽになったカオスエージェンシーの応接室で、事務椅子に身を沈めながら、須間男は竜次の言葉を思い出す。資料や機材類、これまでの作品パッケージや自慢の大型テレビはなくなったが、ロッカーや事務用品はそのまま残されている。居抜きで貸し出しをするのだろうが、借り手がないまま朽ちていくのではないかと、須間男は思った。
……確かに社長の言うとおりだ。
鍵は竜次から預かっている。退去日までに不動産屋に返却すれば全ては終わる。須間男は鍵束をポケットから取り出すと、顔の前でブラブラさせた。
その時、彼の背後でがたっと何かが音を立てた。
びっくりした須間男は鍵束を落とし、更にバランスを崩して椅子ごと転倒した。
「あいたたた……」
顔と背中の痛みに悶絶しながら、音のした方を見た。そこには資材保管用のロッカーがあった。須間男は恐る恐る近づき、ロッカーの扉を開けた。
「うおっ」
ロッカーの中に充満した香りが一気に解き放たれる。嗅ぎ慣れた、きつい洋モクの香りだ。ロッカーの中にはきちんと折り畳まれたハンカチと、透明なティアドロップ型のイヤリングが一対、ぽつんと置かれていた。
須間男はゆっくりと手を伸ばし、ハンカチとイヤリングを手に取った。イヤリングは痛みもなく綺麗な状態だった。ハンカチも古びてはいるが保存状態は良好だった。ハンカチの片隅にはピンクの糸で「ユキミ」と刺繍されていた。
気づけば夕景が窓の外に広がり、空っぽのオフィスもセピア色に染まっていた。
誰ぞ彼時、あるいは逢魔が時。
須間男はため息をつく。かつて消臭スプレーで追い払っていた残り香を漂わせたままにして、彼は手にしたハンカチとイヤリングを見つめた。
──私は必ず、あの子を連れて帰ってきます。
千美の言葉が、彼女の笑顔と共に須間男の脳裏に蘇る。
涙の滴が、ティアドロップ型のイヤリングの上に落ちた。
ひとしきり泣いてから、須間男は顔を上げて涙を拭った。
まだ竜次のワゴンは都内を出ていないだろう。合流するのはさほど難しくない。須間男はこれからの予定と段取りを頭の中で整理した。それにしても、と彼は思った。
……社長がいる時にアピールしてくれればよかったのに。何で僕……。
そこまで考えて、彼は笑った。
……ま、いっか。
彼はハンカチとイヤリングをリュックに仕舞った。そして立ち上がるとリュックサックを背負い、機材バッグを抱えた。
きっと長い旅になるだろう。でも、