第8話 窓硝子の横顔

文字数 2,801文字

 まあ昔話ですから、そのつもりで聞いてください。

 東京都内の、とある高校でのできごとです。

 ある生徒、名前を仮に細川としましょうか。

 朝、ホームルームが始まる少し前くらいに、生活指導の先生が細川のクラスに現れましてね、「おい、細川。お前の生徒手帳を出せ」という。生活指導を受けた記録が生徒手帳に書かれることになってたんですね、その高校では。

 細川は非行歴……今はそんな言い方、しないんですかね。まあ、問題児ではあった。ふだんから教師に反抗的な態度をとる生徒だった。

 けれども、急にそんなことをいわれても、理由がわからない。

 「生活指導を受けるようなことなんかしてない」

 細川はそういったんです。

 すると先生は「昨日おまえは、どこそこのクラスの女子生徒と手をつないで歩いてたじゃないか」という。

 今ではちょっと理解に苦しむところですが、当時のことですから実に他愛もない話で。それで生活指導だ、ってんです。

 細川は、誤解だといって抗議したんですよ。

 すると先生、いきなり細川を殴りつけた。

 手をつないでいたかどうか、真相は今でもわかりません。でもね、細川だって血気盛んな年ごろですからね。同級生が見ている前だし、やられたままじゃ、ってんで、反撃したんですね。

 殴られた先生も、鼻を骨折しましてね。

 それが原因となって、細川は退学処分になったんです。

 一度細川は停学処分を受けていましてね。細かいところはもう忘れましたが、タバコかカツアゲか、そんなところでしょうね。

 そのとき、何とかチャンスを与えて欲しいと懇願した先生がいまして、まもなく進級したときのクラス替えでは、担任になったんです。

 かりに、嶋津先生としておきましょうか。

 細川の退学前後、嶋津先生は相当苦労されたんです。

 細川の親が衆議院議員とコネを持っていましてね、そっちの方から何とか退学は撤回してくれと申し入れてくる。校長の方は一度下した決定だと、にべもない。それを覆すことは沽券にかかわる、というわけなんでしょう。

 その一方で、校長は職員会議で嶋津先生の指導法を頭から否定するようなことをいうようになり、そのうえ職員室内の席をなくして物理地学講義室に移動させたりした。

 嶋津先生は生徒思いでしたからね。やっぱり細川の退学は不本意だったでしょうし、どちらかといえば、管理職を目指すよりも生徒に向き合って定年を迎えたい、そんな先生だった。

 悪くいえば……いや、悪いのかな。どうなんだろう。純粋だったんでしょうね。

 残念なことに、それからまもなく嶋津先生は電車に飛びこんで、死んでしまったんです。

 これは今でもはっきり憶えておりますが、飛びこんだのは西武新宿線のとある駅で、時間は午後12時36分でした。

 ところがまさにその時間にですね、校庭をふらふら歩いている嶋津先生の姿を見た人がいたんです。

 その日の放課後、生徒数人が物理地学準備室を通りがかったところ、ああでもない、こうでもないと呟いている嶋津先生を見たともいいます。

 これだけなら錯覚で片づけられるんでしょうが、嶋津先生が亡くなってからの混乱がおさまって……だいたい一週間ほどあとでしょうか。校舎の窓のひとつに、嶋津先生の横顔が浮かびあがった。

 いえ、これがどう見ても、嶋津先生なんです。

 本人を知っている人みんな、あれは嶋津先生だって口を揃えていうくらい、生前そのままの横顔なんです。

 鼻の高い人でしたから、その鼻筋がすーっと通っているところもそうですし、顎のあたりの輪郭や、ちょっと癖のある髪の毛のぐあいまで、本当に瓜二つだったんです。

 ええ。苦しんでいる顔だという生徒もいれば、笑っている表情だという者もいまして、そのあたりは両極端でしたね。

 これが、掃除しても消えなかったんですよ。

 いえ、ラッカーなどではないですね。油絵具の類でもない。

 あえていうなら、煤のようなもの。色とりどりの煤のようなものが窓ガラスにべったり貼りついていて、何度掃除しても、強力な洗剤をつけてこすっても、全く落ちませんでした。

 嶋津先生の四十九日過ぎますとね、いつのまにか消えてしまったんですがね。

 生徒のいたずらだったんでしょうか。

 嶋津先生は、慕われていましたから……。校長から今でいうパワハラを受けていると聞いた生徒が、義憤にかられて何か行動に移さなければと考えて、その結果が……。

 特殊な顔料かなんかで書いて、書いた本人だけがどうすればすぐ消せるか知っていた……。

 ただ、あの横顔は……横顔自体は、煤のようなもので描かれていたといっても、ほとんど写真に近かったんです。それくらい、リアルだった。

 外から見たら、周囲とは縮尺のあわない嶋津先生の生首が、窓の内側に浮かんでいるように見えていた。いや……これはご本人に失礼ですが。

 美術部の生徒の連中には、とてもあんなにリアルには描けなかったはずです。

 細川……ですか?

 細川はその後、よその高校に転入したって聞きましたが、そのあとのことはわかりません。

 ええ、そうなんですよ。私はこの話の中の、生徒指導の教師です。

 わかりますよね、すぐに。隠していたつもりはなかったんですが、今日は自分を客観的な立場においてみたかったもので。

 私は確かに、細川が女子生徒と手をつないで歩いていた、と聞きました。その件について細川に真偽を問いただし、生徒手帳にそのもようを書くつもりだった。

 手をつないでいたかどうかなんて、どうでもよかったんです。ただ、そんな噂を聞いたから本人と話をした旨、記入する。それだけの話だったんです。

 いやあ……。細川を刺激しないように、当たり障りなく接するなんてことはあの当時、できませんでした。

 暴力。うん、そうですね。

 体罰、というより、暴力ですよ。

 当たり前のように生徒を叩いたり、蹴ったりしていた。

 私もそのころ、よく生徒から叩かれたり、蹴られたりしていたもんです。

「そういう時代でした」で片づけたいんですがね。そういうわけには、いかんのです。

 細川は退学処分にしない方が、よかったんじゃないか。校長の横暴に対して、他の教師といっしょに立ち向かうべきだったんじゃないか。そうすれば、嶋津先生のようないい先生が、あんなことにならずに済んだんじゃないか。

 あれこれ考えると、もう、たまらんのです。

 悔いることばかりです。

 今でもね、この話をすると鼻がうずくんです。

 はい。細川に折られたところが、です。

 もちろん今こうして話していても、うずいていますよ。

 細川、元気にやっとればいいんですが。
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