4-3 そうでなければ、最初からそうではなかった。という論理的帰結【天佑 視点】

文字数 1,685文字

 文字どうり涙枯れるまで、妻 柳生烏丸に支えてもらう。気づくまでもなく、けっこうな時間がたっていたはずで。

 そんな行為を我が身に許したのは、人生最大規模の精神的危機だったからということはもちろんだが、さりとてどんなに動揺や激情に身を焦がそうとも、私とて仙だ。必要最低限の警戒は保持しているし、外界に向けた「観の目」とでもいうべき状況把握能力は常に働いている。そうなのだ。先ほどから、まったくといっていいほどに脅威になりそうなナニモノもまるで感知されない。完全に安全で平穏な状態のこの場所。意識を失って完全に無力化した人間以外は存在しない。そう、そのはずだった。

 だから私は安心をしていた。それゆえに目から湧き出る液体で想い人の服を濡らさずにすむほどに落ち着いた後は、ただひたすらに長話。頭の中の整理をつけるため、未だに自らの内に確固たるキリスト教への信仰が息づいていることを証明するために、それこそカトリックにおける、ゆるしの秘蹟。告解に臨む信徒のように、ただ語り真摯に聴かれ癒される、そんな作業を夫婦で繰り返している。


「ええ激怒しましたとも。大人以前に人として、とても許される行為ではないし、ましてや神の言葉をあずかる神父が……。

 だが、この案件はホントウに洒落にならない。それこそ教会の正統性、カトリックが、聖書で示される信徒の集まり、尊き神秘を保持せし『教会』を名乗れるかのどうかさえも揺らぐ事件だ。ちがう宗教の話をしますが、昔のインドにおけるバラモン、宗教者階級の言葉は『必ず実現する』ということにされた。ということは『実現しない言葉を口にしたものはバラモンではない』ということになる。となると、実際問題現実には、バラモンの人々は無口にならざる得なかったと思います。つまり『そうである』ということは、『そうであることを完全に実践する』そんな偉業によってのみ認められる、ということです。

 そう、神の言葉を代弁する神父が『そのような蛮行に身を浸すわけがない』んです。……ということは『そんな行為をしたものは神父でもなんでもない』『ただの下種な男でしかなかった』ということになる。となれば、実質的本質的ともに『神父ではなかった性犯罪者』となってしまう、そうならざえない。

 そんなどうしようもないほどの罪人に、よりによって『神父と名乗らせていたのは、はたして誰だったのか』という話になる。そうしてその任命責任を、どこまでもどこまでも遡れば……わかるでしょう。その正統性への疑い、その当然の思考が、万が一組織の中枢にまで届いてしまったら。それこそ我らカトリックは教会を騙っていただけではないのか、という、そういう論理的な帰結さえむかえてしまうのです。

 そして、そのような事の重要性こそが、犯罪自体の隠蔽に拍車をかけてしまった。そして隠蔽という形で結果的に犯罪者をかばってしまえば、その中には再犯をくりかえす恥知らずも自ずとして生じてしまう。実は、どんな趣味嗜好であろうと、どのような職業であろうと、まっとうな社会であるかぎりにはその実行を認めようのない、そんな性癖 性的嗜好の者はでるものだし、その中の極一部は歯止めがきかなかったりする。ただ、そんな外れた大人が存在する割合は、どの業界でもどんな趣味でも実は大した違いなどない。

 だが、どんな理由があろうと事件そのものを隠蔽しだすと、再犯をという形で被害がどこまでも拡大してしまう。

 そうです。犯行におよんだ者を隠蔽した大愚行。そんなあれこれに関わった彼らを許すことはできるはずもありませんが、痛いほどに、その動機は理解できてしまうのが私という男、カトリック仙人なわけで。あれらはカトリック全体が完全に壊れてしまうキッカケにさえなってしまう事件群だ。事実、ルターさんの免罪符批判からのヨーロッパでのゴタゴタ、それ以来の、そしてそれ以上の危機に直面しているのが現在のカトリックがというわけです」



作者注

スポットライト

そんな映画があります

アカデミー賞もとってるはず


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登場人物紹介

柳生烏丸(やぎゅう からすまる)


ヒロイン


柳生剣士でありながら女仙


キリスト教 正教会信徒


詳細は後日

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