それは奇跡か偶然か
文字数 4,155文字
イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
(新約聖書『マルコによる福音書』11章22-23節)
今日も愛花は陽太を昼ご飯に誘う。愛花が学年中の生徒から嘲笑の対象になっているにも関わらず、それを気にせず朗らかに陽太に声をかけるものだから、教室中の生徒の注目を浴びでしまう。中には『水野陽太とサイッコラ愛花は付き合っているのではないか』と囃し立てる生徒もいるのであった。
嘲笑の視線をものともせず、愛花は笑みを浮かべたまま陽太の手を引っ張る。馬鹿にされながら教室を出て廊下を渡り、昨日と同じ踊り場へ。今日も陽太はゾンビの如く、ずるずると足を引きずって移動するのであった。
いや……ずっと一人ぼっちよりは……マシかな……。
(後から気にするくらいなら、教室の中で大声で話しかけるなと言いたいところだけど、残念ながら、誰にも話しかけられない高校生活よりはマシかもしれない。あまりに残念だけれど。)
…………。
私なんかで良かったらいくらでも話相手になるよ……。
(やばい、サイッコラさんが引いてる。これはガチのドン引かれ発言っぽいぞ。)
"狂信者"から憐れみの目で見られているように感じた陽太は、自分の発言を取り消ししたくなった。しかし一度口から出た言葉は、二度と口の中に戻ってくることはない。自分がひとりぼっちであると自白してしまったことを、激しく後悔する陽太。
あ、そうだ。昨日はどこまで話したっけ。
その前に、愛する天のお父様、この糧感謝していただきます。イエス様の御名前によって、アーメン。
いただきます。
昨日話したのは、奇跡が起きればいいとか、そういう話までだったよね。
(流れてくれた。よかった。)
愛花の関心は、"信仰"にばかり向いていたのか、陽太のボッチ発言は軽く流れていった。もしかすると、あまり触れないでやろうと、陽太に配慮して話題を切り替えたのかも知れない。そんなことは陽太にとってどうでも良く、自分にとって恥ずかしい発言が流れてくれたという事実が彼を安堵させた。
そうだったね!水野君には、キリスト教の基本からお話ししとくね!授業は創世記から始まるし。いきなり聖書が神様の言葉だとか、奇跡だとか言っても、分からないもんね。
確かに、今の授業も旧約聖書の話だし、先月の授業もキリスト教文化の話とか大まかな歴史とか、その辺りだったもんね。ええっと、キリスト教はユダヤ教から生まれたんだっけ。
そう。神様は世界を造って、ご自分の姿に似せて人を造って、楽園に住ませた。だけど、人は悪魔に唆されて神様に逆らってしまった。そして、人は楽園から追放され、全ての人類は原罪を抱えて生きることになったの。原罪っていうのは、何か特定の悪いことをしたとかじゃなくて、神様から見て的外れなことをやってしまうっていう性質を生まれつき抱えてるってこと。
人間は生まれつき悪いことをする存在っていうことかな。
(この子、神が世界を創ったとか、楽園の話とか悪魔の存在とか、文字通り信じてるのかな。怖いなあ。)
そう、人は生まれつき悪いことをせずにはいられない。私たちはもともと不完全な存在で、自分の力で正しくなることはできない。そして人間は楽園を追放されて地上で生活するけど、神様は人間を救うために、アブラハムっていう人を選んだの。もともとはアブラムって名前なんだけど。まあ、アブラハムが選ばれる前にも、いろいろ話があるんだけどね。
アブラ……ハム……。
(脂っこそうな名前だな。あ、お弁当のハム美味しい。)
その後、アブラハムの子孫は栄え、その子孫がイスラエル人になっていく。それから、イスラエル人は何度も神様に逆らって裁かれてのくり返し。神様を忘れたり、偶像を拝んじゃったりするの。そうこうしている内にイスラエル人の国ができるんだけど、神様に逆らって裁かれて悔い改めてを繰り返す内に、国が滅びてしまう。
聖典に書かれてる話なのに、何度も人間が神に逆らうんだね……。
そうなの!人間ってそれだけ弱い存在で、頑張るぞー!って思ってても、次の日には同じ失敗を繰り返す。神様に選ばれて王様になったダビデだって、浮気を誤魔化すために部下を殺してるし。
うわあ……ドロドロしてるね……。ダビデ、意外と嫌な奴だなあ。
(イケメンの人生成功者死ぬ程きらい。)
うん。でもそれがこの世界の現実。今の世の中だって、暗い話ばかりでしょう?
そうだよね。生きてても希望なんてないし。
(もうほんと理不尽な世界だよね。人はどんな環境で生まれるか選べないし、努力しても報われるとは限らないし、努力して積み上げた幸せが、どんなきっかけで崩れるかもわからないし、こんな世界本当に嫌いだ。はやく滅びればいい。人類きらい。)
陽太の脳内でネガティブスイッチが入り、彼は厭世的な考えを反芻しまくっているが、そんなことには気づかず、愛花は話を続ける。
そんな希望のないこの世界に、2000年くらい前、救世主<メシア>が生まれたのでした!
そう!イエス様!イエス様が生まれた時代には、イスラエル人の国は既に滅びた後で、細かい説明は省くけど、ユダヤ人と呼ばれるようになってたの。で、当時ユダヤ人が住んでいた地域はローマ帝国の属州だった。
自分たちの国は滅びて、外国人に支配されてたと。
(ローマ帝国はシミュレーションゲームでやってるから分かる。でもゲームにはユダヤ人なんて出てきてなかったなあ。)
そうそう。そんな時代だから、当時の人々は、ユダヤ人が神様の教えに逆らったから、その罰として国が滅ぼされ、非ユダヤ人、つまり異邦人に支配されることになったと考えた。だから、神様の教えに従って生活しようとした。
そうなの。あらら、食べながら話してる内に時間が。今日は4時間目大分長引いてたもんね。放課後は時間ある?放課後も話せたらなーって。
え……まあ部活入ってないからいいけど。
(普通だったらこんなの断ってたけど、誰からも見向きされないよりはマシだ。もういっそのこと、とことん話聞いちゃおう。あ、カルトにハマる人って、こんな感じで心の隙をつかれて絡めとられていくのかな。かなしい。)
2人は空になった弁当を持って、教室へと向かった。
すると、1人の女子生徒が廊下でうずくまっているのを見つけた。
愛花は女子生徒の隣にしゃがんで、背中に手を当てた。その体勢で祈り始める愛花。
主イエス・キリストの名によって命じます。胸とお腹は癒されなさい。
しんどさは全て出ていきなさい。
(え……しんどくなってる人に何やってんのこの人……さすがにこれは引くわ。今までも散々引いたけど。祈ったところで何も変わらないでしょ。)
急に祈り始めた愛花にドン引きする陽太。呆気にとられ、ツッコミを入れる気すら起らない。
主イエス・キリストの名によって命じます。残っているしんどさは全部出ていきなさい。身も心も完全に癒されなさい。
陽太は自分の目と耳を疑った。つい先ほどまでうずくまって苦しんでいた女子生徒が、愛花が手を当てて祈っただけで回復したのである。しかし、こうも考えた。この女子生徒は、"怪しい宗教の人"に絡まれるのが面倒だから、治った振りをしただけなのではないか。その疑問から、彼は冷静さを取り戻した。
うん、イエス様が白附さんのことを愛してるから、白附さんのしんどさを取ってくれたの!
(明らかに「ありえない」って言ったぞ、この子。サイッコラさんが祈ったタイミングで、偶然収まったとかなんじゃないの?)
…………えっと、とりあえず、ありがとうございます。
またしんどくなったら私の所に来て!あ、そうだ!放課後に聖書についてお話するんだけど、白附さんも来ない?
(おいおい、これ完全にアレな宗教の勧誘じゃん。絶対ヤバいでしょ。)
そっか!気が進んだら来てね!あと、毎日あっちの踊り場で昼ご飯食べてるから!それじゃ、またね!
(踊り場の昼食会はまだ2日目だけど、サイッコラさんの脳内ではもう日課になってるんだね。)
(おいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!確かにそりゃそうだわ!全クラスの黒板にあんなこと書いて回ってんだから。周りからどう思われてるか、もっと自覚持った方が良いんじゃないの?)
幸音は教室へと向かった。
陽太と愛花も教室に向かって歩き出す。
えっと……さっきの、どういうことなの?イエスの名によってとか何とか。
白附さんに伝えたそのまんまだよ。私が祈ったらイエス様が治してくれた。それだけ!ね、簡単でしょ?
(全然簡単じゃねえええええええええええええええ!!っていうか意味わっかんねえええええええええええええええええ!!!!)
愛花の発言に無数の疑義を抱いた陽太であったが、それらを指摘する気も起きず、結局口に出すのは止めにした。
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