聖書はどこに
文字数 2,290文字
聖書の勉強が足りないとか、キリスト教を良く知らないからって、
これは、この一節、あれはこことここ、それにここもって具合で、
これは、この一節、あれはこことここ、それにここもって具合で、
最後に、『聖書に書いてある』で締めてる。
これって聖書が絶対的な信頼があるっていう前提がないと意味ないよね。
聖書の内容について、ここでどうのこうのと言うつもりは無いけどね。
その辺のところは、散々議論されていることだろう。
だけどね、前後の文書なしで、都合のいい文書だけ抜き出して、
こうなってます言うのは、それはまるで偏向報道と同じじゃないかと
その辺のところは、散々議論されていることだろう。
だけどね、前後の文書なしで、都合のいい文書だけ抜き出して、
こうなってます言うのは、それはまるで偏向報道と同じじゃないかと
そうね。そうしてくっつけたものを全体として読めば辻褄は合っていても、その前後はどうなのって。
すごい量の文章があるわけじゃない、聖書って。
それを切り貼りして、どう、正しいでしょうって。
そう、だから話は戻るけど、聖書が絶対って認識がお互いにないとね、
意味ないと思うんだよ。
どんな問いにも聖書があれば答えられる万能感を、聖書を引用する人に感じるんだ。そういうのを目にするたびに、聖書は研究者にでもならなければ理解できない代物じゃないのかと思う時がある。
あれを真に受けると、神様が世界を滅ぼして再構築する話だ。
しかし、解説を読んで分かったんだが、
滅ぼすのも滅ぼされるのも『人』だということ。
だったら比喩的に言わないでくれよとも思う。
でも、書いてある通りで、どう思うかが肝心なんだろうな。
しかし、解説を読んで分かったんだが、
滅ぼすのも滅ぼされるのも『人』だということ。
だったら比喩的に言わないでくれよとも思う。
でも、書いてある通りで、どう思うかが肝心なんだろうな。
それは違うと思うな。
この辺のところは、あまり言いたくは無いが、
俺が読んだ感想では、神様は最後の最後まで「信じるか」と聞いてくるんだ。
だから、「信じるものは救われる」の逆は、と問われれば、それは無言だろう。
だってこれは哲学でも数式でもないんだ。それで良いと思うけどな。
この辺のところは、あまり言いたくは無いが、
俺が読んだ感想では、神様は最後の最後まで「信じるか」と聞いてくるんだ。
だから、「信じるものは救われる」の逆は、と問われれば、それは無言だろう。
だってこれは哲学でも数式でもないんだ。それで良いと思うけどな。
そうしたら、どうだい。
神への愛と隣人愛を重視したっていうじゃないか。
でも、考えてみればそうだ。分厚い聖書を持ち歩いて説教したとは思えない。
言いたいこと、伝えたいことは単純明快で、そう多くはなかったと思う。
神への愛と隣人愛を重視したっていうじゃないか。
でも、考えてみればそうだ。分厚い聖書を持ち歩いて説教したとは思えない。
言いたいこと、伝えたいことは単純明快で、そう多くはなかったと思う。
だけどさ、聖書を読んで思ったんだけど、
読んで理解しようとすればするほど、キリストの言いたかったことに遠ざかって行く気がするんだ。
つまりは、キリスト教の本質から離れて行く気がすると思う。
聖書をとことん理解しようとすることとは、道が違う、そんな気がする。
読んで理解しようとすればするほど、キリストの言いたかったことに遠ざかって行く気がするんだ。
つまりは、キリスト教の本質から離れて行く気がすると思う。
聖書をとことん理解しようとすることとは、道が違う、そんな気がする。