聖書はどこに

文字数 2,290文字

以前、聖書の一節を引用してドヤ顔しているって言ったけど
そうね
思えばさ、聖書の一節って、ツイッター向きでしょう。
長さといい、文字数といい。
そう言われればそうね
ツイッターが2000年前にあったら、たくさん呟いたことだろう。
そうしたら、今の比じゃないくらい、もっと大量の文書になったに違いない。
それに、無くなったりしないしね
じゃあ、私も呟こうかしら
今日のランチはこれにしなさいってか。
おお、神の声が聞こえる〜、今日はカレーがお得よ〜ってな感じだろう。
失礼ね。でもあのお店、行ってみたいわ。
聖書の勉強が足りないとか、キリスト教を良く知らないからって、
これは、この一節、あれはこことここ、それにここもって具合で、

最後に、『聖書に書いてある』で締めてる。


これって聖書が絶対的な信頼があるっていう前提がないと意味ないよね。

そうね、共通する概念があってこそよね
聖書の内容について、ここでどうのこうのと言うつもりは無いけどね。
その辺のところは、散々議論されていることだろう。
だけどね、前後の文書なしで、都合のいい文書だけ抜き出して、
こうなってます言うのは、それはまるで偏向報道と同じじゃないかと
そうね。そうしてくっつけたものを全体として読めば辻褄は合っていても、その前後はどうなのって。

すごい量の文章があるわけじゃない、聖書って。

それを切り貼りして、どう、正しいでしょうって。

そしてその正しさっていうのが、聖書に書いてあるからって。

そう、だから話は戻るけど、聖書が絶対って認識がお互いにないとね、

意味ないと思うんだよ。

どんな問いにも聖書があれば答えられる万能感を、聖書を引用する人に感じるんだ。
そういうのを目にするたびに、聖書は研究者にでもならなければ理解できない代物じゃないのかと思う時がある。
だから俺には関係ないと。
キリストがどこで何をしようが、誰があれやった、これやったを追求するつもりはない。
俺が知りたいのは、そんなことじゃないんだ。
それはなに? 今晩のご飯は何かなって?
それはもちろんだが、肝心の聖書は『何が言いたい、何を伝えたいんだ』ということ
それもそうね、一杯あって、どうなんだろうって思う。
そこで、適当に読んでみたんだが
どう? 分かった?
全然。そもそも、なんたら福音書ってとこで、最初は魔法書かと思ったぐらいだ。
そうね、福音って、滅多に聞かないわよね。
でも宗教だから、それも有りなんじゃないの?
現実と乖離している感じが宗教っぽくて。
中身もだいたい……何言ってるかわからない。
しかーし、そこで へこたれる俺じゃない。
聖書を解説しているWebサイトを『運良く』見つけた。
運良くとは、これが意外に有りそうでなかったからだ。
それで?
解説を読んで、何ていうの、原文と相当、意味が違うってのが分かった
何を読んだの?
ヨハネの黙示録だ
あらまあ、最後に書かれたと云われるものね
よりによって最後とは
結末を先に知りたいものでね
最後って言っても、『最後に書かれた』というだけでしょう。
それで聖書は『完』という意味ではないしょう、多分。
あれを真に受けると、神様が世界を滅ぼして再構築する話だ。
しかし、解説を読んで分かったんだが、
滅ぼすのも滅ぼされるのも『人』だということ。
だったら比喩的に言わないでくれよとも思う。
でも、書いてある通りで、どう思うかが肝心なんだろうな。
そうね。
行間とか、書かれている意図とか背景とかを考えなさい、ということかしら
これを読んで分かったというか、感想なんだが、
要は、「信じるものは救われる」ということらしい。
良く聞くわよね
ああ。
だけど、これの逆は無いと思う。
信じるものは救われる、の逆、信じないものは救われないだ。
それ、聖書のどこかに書いてあるって見た気がするわ。
信じないものは救われないって。
それは違うと思うな。
この辺のところは、あまり言いたくは無いが、
俺が読んだ感想では、神様は最後の最後まで「信じるか」と聞いてくるんだ。
だから、「信じるものは救われる」の逆は、と問われれば、それは無言だろう。
だってこれは哲学でも数式でもないんだ。それで良いと思うけどな。
ふ〜ん。
ところで、何を『信じる』の?
そ、それは、あ……い……かな
えっ、なに、聞こえないよ
うるさい。
それよりもだ。そもそもキリスト自身はどうなのかと、これも調べた。
調べてばかりね
そうしたら、どうだい。
神への愛と隣人愛を重視したっていうじゃないか。
でも、考えてみればそうだ。分厚い聖書を持ち歩いて説教したとは思えない。
言いたいこと、伝えたいことは単純明快で、そう多くはなかったと思う。
それ、自分の願望が入ってない?
いいじゃないか。
せめて、二つか三つ、多くても10個くらいの「教え」みたいにならないかな。
そうしたら、いちいち聖書を読まなくても済むのにな。
読んでも分からないけれど。
それ、無理だと思うわ。
だって、壮大で難解、何故か洋の東西を問わず、長年の修行や勉強とか研究みたいにしないと理解できない、近道は無いのよってのが常だから。
まして答えが有るようで無いのが宗教じゃない。
だけどさ、聖書を読んで思ったんだけど、
読んで理解しようとすればするほど、キリストの言いたかったことに遠ざかって行く気がするんだ。
つまりは、キリスト教の本質から離れて行く気がすると思う。
聖書をとことん理解しようとすることとは、道が違う、そんな気がする。
それって、気のせい? 気の迷い?
気の迷いついでに言っておこう。
聖書は読まなくてもいいじゃないか、問題ない。
まあ!
無理か、無理だろうな。
なんか、一杯、言われそうだから、今のうちに逃げておこう。
お元気で〜
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登場人物紹介

無宗教のAさん

今日も元気ハツラツです。

無宗教のBさん

今日も一人で元気です。

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