ツイン・チャイルド

文字数 5,915文字

 私が紫木と香川邸に赴いてから二日後。紫木は京都府警の会議室で黙々と書類に目を通していた。既に彼の元に送っていた、清輝くんの診断をしたカウンセラーの報告書であるとか担任教師の証言をまとめたものだ。最後の確認といったところだろう。こうして真剣な表情で紙へ向かう彼を見ていると彼はやっぱり学者なんだなと実感をもって思えた。初対面から三か月目にしてようやくだけど。
「はい先生、お茶」
「あぁどうも、ありがとうございます」
「へぇ、薫が人にお茶入れてあげるなんて珍しー」
 私をちらりと見て湯飲みへ手を伸ばす紫木よりも素早く出てくる手があった。なぜか紫木の隣で一緒になって資料を覗き込んでいる晶だ。彼女は背が低いせいで床に届かない足をぶらつかせながらお茶をすする。
「ていうか、なんで晶もここにいるわけ? 仕事は?」
「今日は暇。いいじゃない。今回は出番が少なかったんだからちょっと顔を出させてよ」
 まるでいまから楽しい出し物が始まるんだと言うようにウキウキ声でいう晶に私はため息をつく。紫木のことだから大丈夫だろうと思いつつもやっぱりナイーブになってしまう。今回は大阪府警も来るのだから、彼にうまく説明してもらって彼らを納得させないといけないのだ。
「先生、晶邪魔じゃない? もしよかったらつまみ出そうか?」
「ご心配にはおよびませんよ。むしろ鑑識官の方の専門知識には目を見張るばかりです。現場の捜査官の視点もよくご存じなので説明を組み立てる参考にもなりますし」
「だってさ!」
「ふぅん……」
 なんとなく、紫木の言葉の使い方が私に対するときよりも晶に対してのときの方が丁寧な気がして私は癪に障った。インテリ同士で仲良さげなこいつらをどうしてやろうかと思って二人を眺めていると会議室のドアが開く。警部が大迫を連れてやってきたのだ。そのあとに希望ちゃんとその母親が、そして清輝くんと母親が続いて入ってきた。役者はそろった。
 紫木が立ち上がり会議室の前方、演台が設置されている場所にまで歩き出す。それを尻目に警部が私に近寄ってきて耳打ちしてきた。
「おい神園……本当に大丈夫なんだろうな、あの学者先生は」
「大丈夫なんじゃないですか? 直前まで資料を確認してましたし抜かりはないでしょう」
「でもなぁ……」
「あー、どうも」
 捜査員ではない紫木に大阪府警の説得を任せるのが不安なのか煮え切らない態度で警部がぼやく。その声にマイクで拡張された紫木の声が覆い被さってかき消した。
「皆さん本日はお忙しいところご足労いただき恐縮です。では時間も勿体ないので早速京都府警の捜査報告をさせていただきましょう」
「ちょっと待ったれや。お前誰や?」
 平然と話しを進めようとする紫木に大迫が待ったをかけた。そういえば彼には紫木のことを全然話していなかったっけ。
「これは失礼……初めましてですね。僕は鹿鳴館大学文学部の紫木優、犯罪学者です。今回の捜査について助言をするように京都府警の方から正式に依頼を受けています」
「犯罪学者ぁ?」
 自分の立場をいい具合に修飾して説明する紫木に大迫が大げさな反応を示す。彼はおそらく警部同様に捜査の現場に素人が介入するのを嫌いそうなタイプなので、そのせいだろうと思われた。
「素人が捜査に? 京都府警は人手不足なんか?」
「現場に学術上の専門家が足りないという意味では確かに人手不足でしょう。もっともこれは大阪府警も同様であるということをいまからご理解いただくことになりますが」
 大迫の嘲るような言葉に紫木はにこりともせずに皮肉を叩き込む。基本が人見知りのくせに、こういう人前で話すときには何を言われてもびくともしないのが頼もしくもあり、ちょっと怖くもある。
 彼は大迫から視線を外し、会議室にいる全員を一通り見渡す。
「では話を戻しましょう。事件の概要の整理からです。今月の十一日、午後三時ごろ大阪府枚方市内で強盗事件が発生。大阪府警は侵入手段などから見て以前から京都大阪間で連続して発生していた窃盗事件と同一犯とみて捜査していました。その過程で大阪府警が容疑者を逮捕、その人が真犯人であるという仮説のもと裏付けの捜査を行っていました。そしてその過程で、二つの相反する証言が登場することになります」
 紫木は一旦言葉を切り、手で希望ちゃんを指した。
「一つは事件のあった時間に容疑者を左京区内で見かけたという猪目希望さんの証言。もう一つは……」
 今度は清輝くんを反対の手で指す。
「同時刻に事件現場周辺で容疑者を見たという香川清輝さんの証言。現状では大阪府警が後者の目撃証言を採用し検察への送検を準備しているところ……ですよね?」
 大迫が苦々しい顔をして頷く。端から紫木の言葉を疑ってかかっているのがありありと見て取れた。紫木は大迫の顔をちらりと見ただけで構わず説明を続ける。
「しかし京都府警の、というより僕の見解は真逆です。僕は希望さんの証言を信用し、清輝さんの証言は採用すべきではないという立場です。その理由をいまからご説明します。まず希望さんの証言ですが……」
 大迫は何かを言おうと口を開くが、それよりも先に紫木が言葉を紡いでいく。大阪のお喋り刑事への対処法として割り込ませないという戦法を取る気らしい。
「大阪府警がこれを退けた理由ですが、希望さんに知的障害の疑いがあるためということになっています。知的障害の存在がそのまま証言の信頼性を毀損することになるわけではありませんが今回そのあたりの議論は割愛することにします。大阪府警としては希望さんに知的障害が無ければ証言を退ける理由もない、という立場ですか?」
「まぁな。でも障害はあるんやろ? 親も教師もそういっとるんやし」
 大迫の不躾な発言に希望ちゃんの母親が小さく頷いた。しかし紫木は大げさに首を振ってその見解を退ける。
「親や教師は子供をよく見ていますが小児心理の専門家ではありません。親がそう思っているといことそれ自体は何の根拠にもならないのです」
「でも先生……希望は教科書を読むのも大変な状況で……何か障害があるとしか考えられないんですけど」
 母親が小さな声で紫木に告げる。自分の娘の証言がことを大きくしたと思っているのか、部屋の隅で縮こまったままになっている。
「確かに、何らかの障害はありました。しかし知能の問題ではありません。僕も臨床心理士ではないので診断は下せませんし、あとで正式な診断を専門家にしてもらうことになりますが……」
 紫木はここで言葉を切って息を吸った。
「希望さんは局在性学習障害である可能性が高いです。恐らくディスレクシアでしょう」
「きょくざ……でぃす……なんやて?」
 聞きなれない言葉の応酬に大迫が口を開けて紫木を呆然と見つめる。紫木はあっという間に、大迫が容易に口を挟めないところにまで話の難易度を持っていったのだ。ここからはもう彼の独壇場になる。
「局在性学習障害。読み書き計算など学習に関わる能力に特異的な困難を示す障害です。その最大の特徴は、知能それ自体には何ら問題がないことです」
「知能に問題がないのに文章が読めなかったりするの?」
 晶の疑問に紫木は静かに頷く。
「えぇ、原因は未だにはっきりしていないのですが、恐らく器質的な脳の機能不全でしょう。しかし知能それ自体に問題があるわけではないので、適切な支援が受けられれば大学進学レベルの学力を身に着けることも可能となります。希望さんの場合文章を読むことだけが困難でしたので担任教師の言う通り、計算は普通にできたというわけです」
 支援という紫木の言葉で、私は彼が希望ちゃんに渡した黒いシートのことを思い出す。あれも支援の一つだったのか。多分、行を読み飛ばすなら読む場所以外を隠してしまえという発想のものだ。塚本先生が文章題になるとできなくなると言っていたけど、文章が読めないなら解けるはずもない。
「……話を戻しますが、希望さんが局在性学習障害であるということは逆説的に知的障害ではないことを意味し、それは彼女の目撃証言を疑う理由がなくなるということでもあります。故に、僕は希望さんの証言を採用し容疑者を釈放すべきであると結論づけました」
「ちょっと待てや先生! じゃあ大阪で犯人見たっちゅう証言はどうするんや! こっちにだって疑う理由はあれへんやろ!」
 とうとうと語る紫木に大迫が必死の形相で食ってかかる。声が大きく希望ちゃんはびっくりして母親に抱き着くが紫木は涼しい顔で見ているだけだった。
「清輝さんの証言を信頼すべきではない理由は彼の自閉症にあります。自閉症はその定義上知的な障害を含みますが、先ほど言った通り知的障害それ自体は証言の信頼性を疑う理由になるとは限らないので僕は別の視点から彼の証言に疑念を挟むこととします。ところで大迫刑事、自閉症がどのような障害であるか具体的にご存知ですか?」
「はぁ……そりゃ……なんか、変わっとるんやろ?」
「まぁ、そうですね。変わってますね」
 紫木は大迫の答えを軽く笑っていなす。嘲笑するような笑いではないがそれがかえって大迫を馬鹿にしているような感じを醸し出してしまう。
「自閉症の中核となる特徴は人への無関心と特異的なこだわりです。さて、大阪府警の報告では清輝さんは犯行時刻の午後三時ごろ、容疑者の逃走経路上にいたために容疑者を目撃したことになっています。これは後日行われた面通しで確認されたとなっています。間違いありませんね?」
 紫木に視線を向けられた祥子が首を縦に振った。
「しかし妙ではありませんか? GPSの記録によると事件当時清輝さんはあの路上に一時間以上立ち止まっていたことになっているのです。小学一年生の子供が、何もない路上でそんな長時間立ち止まっている理由とは一体何でしょうか?」
「そんなのどうでもええやろ。そこにいたことははっきりしとるんやから」
「いえいえ」
 大迫の文句に紫木はまた大仰に首を振って応じる。
「その理由こそが彼の証言の信頼性のカギになるのです。ところで祥子さん。先ほど僕は自閉症の特徴の一つとして特異的なこだわりを挙げましたが、清輝さんは何にこだわっているかわかりますか?」
「ええと、あぁもしかして……」
 祥子は紫木に促されて思案を巡らせる。だけどもう心当たりはあるはずだ。こだわっていなければあんなことにならないはずだから。
「もしかして、鳥の羽ですか。あぁだからあんなに溜め込んで」
「そうです。彼は鳥の羽にこだわりがあるようです。これは川島刑事に調べてもらったことですが、小学校の担任や同級生もこの点を認めていますね。学校の飼育小屋にいる鶏に夢中になって授業へ遅れることもしばしばだとか」
「だから? 鳥の羽にこだわっとるんが何の関係があるんや」
 私たちとは違って話の流れが見えていないらしい大迫が苛立った口調で紫木を問い詰める。紫木はそれに対して表情を変えず目の前の演台に置いてあった地図を取り上げて彼へ見せた。
「事件当時、清輝さんがいたのはこの場所です。ここには正確には何もなかったわけではなく、民家が一軒建っています。池のある広い庭を持った住宅ですね。さて清輝さん」
 紫木が演台を離れ清輝くんに歩み寄っていく。知らない人に近づかれたのが怖いのか清輝くんはちょっとずつ後ろへ下がっていってしまった。紫木はそんな彼へ追いすがるように腰を曲げて視線を合わせようとするが、彼の視線は定まらない。
「これは本人に直接教えてもらいましょう。清輝さん。あそこには何がありましたか?」
「……トリ」
「それは……これ?」
「あっ……」
 紫木は背後から一枚の写真を取り出して清輝くんへ見せる。それは真っ白な鳥、あのとき庭の池を泳いでいたアヒルだった。清輝くんはその写真に気づくと反射的と言ってもいい速度で手を伸ばしてそれを受け取った。
「清輝さんがよく立ち止まっていた、あの家の住民はアヒルを飼っていました。コールダックというペットとしてよく飼われている種類のアヒルですね。これも川島刑事の裏取りですが、あの家の住民は事件のあった十一日、アヒルを外で遊ばせるために庭に出していたようです。ちなみにそのときアヒルを見つめる清輝さんの姿も確認していました。恐らく鳥の羽へのこだわりからそのような行為をたびたび繰り返していたのでしょう」
 紫木は清輝くんから離れ演台へ戻っていく。
「人に興味がなく、羽へこだわりのある清輝さんが事件当時、鳥から目を離し容疑者を目撃したとは考えにくいと言わざるを得ません。ただでさえ人はあるものに注目しているとそれ以外のものが見えなくなります。自閉症のように世界の見方に偏りができる場合より顕著になるでしょう」
「そうかゴリラの……」
「ゴリラ?」
 つい口をついて出た言葉を晶に聞き返されて私は口をつぐんだ。健常者の私でもバスケットボールに注意がいくと画面を横切るゴリラが見えなくなってしまう。自分が経験していると実感を持って理解できることだった。
「いやいや。それは先生がそう思っとるだけやろ? 本当にこの子が見た可能性はあるやんか。そうやなかったらどうして面通しのとき犯人の写真を選ぶことができたんや?」
 大迫は紫木へなおも食い下がる。私からすればもはや無理のある屁理屈にすぎない反論だけど、紫木はそれを予想していたのか僅かに口元を歪めた。
「それもきちんと理由があります。清輝さんの羽へのこだわりは実物の羽だけではなく写真にも及んでいるようです。現にさっきも写真へ素早く手を伸ばしましたし、清輝さんの部屋には何度もめくられたためにボロボロになった鳥の図鑑がありました」
 全員の視線が清輝くんに注がれる。彼は紫木からもらった写真を食い入るように見つめ、その白い羽を指で撫でている。母親はその動きに見覚えがあるようであっと小さく声を上げた。
「これが大阪府警の面通しで使用された容疑者の写真です。容疑者の左胸にご注目ください」
 紫木は手のひらサイズの写真を取り出し、被写体の左胸を指さして大迫に見せつける。大迫はその小さい写真をよく見ようと演台にまで大股で歩き寄り、途中で足を止めて息をのんだ。
 容疑者のスーツには赤い羽根がついたままになっていた。会社のチャリティーか何かでつけろと命じられたのだろう、赤色の羽根だ。
「以上で僕からの説明を終わります。ご清聴ありがとうございました」
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