第1話
文字数 3,495文字
日蔭の身。
わたしの人生をひとことで表すとしたら、この言葉以上に相応しいものはないと思う。
母は名の知れた旧家の主に囲われた、いわゆる愛人。わたしはその人とのあいだに生まれた庶子。
時勢を読むことに長けた父は事業を拡大させ、その一代で莫大な財を築いたらしい。その大胆な手腕から豪傑と謳われた彼は、色事を好み、派手に遊ぶことでも知られていた。
わたしはよくは知らないけれど、母のような立場の女性がほかにもたくさんいたのだろう。
それでも、たびたび家にやって来る父はやさしかったし、わたしは自分の境遇を嘆いたことはない。母も、父から経済的な援助を受けていたとはいえ、自分でも働き、その仕事に誇りを持って暮らしていたので、むかしの物語などにあるような、じめじめとした雰囲気はまるでなかった。
だけどまさか自分が母と同じような立場に身を置くことになるとは、わたしも、ましてや父も母も考えてもいなかったに違いない。
*****
ふと、見覚えのあるうしろ姿を見付けた。赤みがかった柔らかそうな髪。すらりとした立ち姿。わたしはすぐに彼のことを思い出した。けれど、彼はきっとわたしのことを覚えていないだろう。
そう思ったとき、なにかに呼ばれたかのように彼が振り向いた。わたしを見て、驚いたようすで目を瞠る。
思いがけないできごとに、わたしはその場に立ち竦む。わたしのことを覚えていないなら、そんな反応はしないはず。
はたして、彼は驚いた表情のままわたしの名を呼んだ。
「海棠さん?」
はい、と返事をする。そして、ひとからそう呼ばれるのはずいぶんひさしぶりだと気付く。
高校を卒業して以来、ごく限られたひととしか会わないような生活を送っているので、あらたまって名字を呼ばれることはまずない。
彼はこちらへ近付いてくる。
「ぼくを覚えているかな」
わたしはこくりとうなずく。
「柘植くん」
彼、柘植くんはわたしのまえで足を止めると、少し目を細めてじっとわたしを見つめる。心を見透かすような透明な眼差し。
ああ、この瞳だ。
わたしは学生時代に彼に助けられたことがある。きっと生涯忘れない。
「海棠さんは、これからどこかへ行くところ?」
「え? わたしは、」
思いがけないひとと再会したためか、動揺して、自分がどこへ向かっているのかを忘れてしまったらしい。そういう、ふつうならありえないようなドジをわたしはたびたびやらかす。そんな自分に呆れながらも言葉を探す。
「家に帰るところ、だと思う」
「うん、そうしたほうがいい。送って行こう」
予想もしない申し出に、びっくりして彼を見あげる。
「えっ、いえ、ひとりで帰れるから」
「迷子になるよ」
「迷子?」
「うん。海棠さん、自分が今どこにいるのかわかっている?」
そういわれて周囲を見まわす。視界一面に広がるのは鬱蒼と繁る木々。空を仰いでも、枝葉に遮られて光も差さない。薄暗い。
ここはどこだろう。
いつのまに、こんな森のような場所に足を踏み入れてしまったのだろう。
「ここは、どこ?」
「狭間」
「はざま?」
「そう。とりあえずここから出たほうがいい。手を貸して」
「は、はい」
うながされるまま手を差し出す。その手を掴んで柘植くんは歩き始める。
「ここの道は、あってもないようなものだから。一度はぐれたら見付けられる自信はない。離れないで」
背中を向けたまま淡々という柘植くん。その静かな口調が余計に恐ろしい。わたしはあわてて彼の手を握った。
彼の言葉どおり、もしわたしひとりだったら絶対に迷っていただろう。どこをどう歩いて来たのか、森を抜けて見慣れた我が家が見えてきたとき、安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。
「ありがとう、柘植くん」
玄関先で深々と頭を下げて礼をいう。柘植くんは「いや」と首を振るとわたしを見下ろして言葉をつづけた。
「なにか困ったことが起きたらぼくを呼んで。呼ぶだけでいい。海棠さんの声ならたぶん届くと思う」
戸惑いながらもわたしはしっかりとうなずく。呼ぶ、というのはそのままの意味で、電話をかけるとかメールを送るとか、そういうことではない。
彼はわたしに連絡先を教えなかったし、わたしも聞かなかった。それでも、彼が気休めからそんなことをいったのではない、ということはわかる。
柘植くんはそういうひとだった。
いつのまにか眠ってしまったらしい。身体を揺さぶられてわたしは目を覚ました。
「愛里」
ただならぬ響きの声で名を呼ばれて、はっと身を起こす。わたしは恋人の腕のなかにいた。
「彬さん」
彼は座敷に膝をつき、両腕でわたしを抱き起こしながら顔を覗き込んでいる。驚いてわたしはまじまじと彼を見つめた。
いつもまったく隙のない完璧な身なりをしているひとが、額に髪を垂らし、うっすらと髭まで伸びている。仕立てのよいシャツやスーツも心なしか崩れたような印象を与える。
そしてなにより、彼自身がひどく疲れているように見えた。こんなことは今までになかった。わたしはあわてた。
「ど、どうしたの? なにかあったんですか」
仕事でトラブルが発生したのかもしれない。真っ先に思い浮かんだのはそのことだった。
彬さんはわたしに仕事の話はしない。だから彼がどんな仕事をしているのか知らないけれど、責任の重い役職に就いていることだけはわかる。
一緒に過ごしているとき、彼はわたしに気を遣ってくれているのか、携帯電話の電源を切っているけれど、そのあいだにも彼のもとには引っ切りなしに連絡が入っていることをわたしは知っている。
そうして連絡が取れない時間がつづくと、彼の秘書が直接迎えに来て、ものすごく冷ややかな目付きでわたしを一瞥して、彼に小言めいたことをいう。彬さんは不機嫌さを隠そうともせず秘書を追い返すけれど、秘書の乃木坂さんは彬さんが帰るまで外でじっと待ち続けている。
だから彬さんがとても多忙な立場にいることは、わたしにも察することができた。
もし仕事でなにかトラブルが起きたのなら、こんなところに来ている場合ではない、はず。
それならいったいなにが。
戸惑うわたしを強く抱き締めたかと思うと、その手で頭を掴んで上向かせて唇を塞ぐ。息もつけないような激しい口づけに、わたしはただ目を瞑ってそれを受け止める。
しだいになにも考えられなくなってきて、わたしは彼に身をゆだねた。
まるでなにかに憑かれたかのように、彬さんは何度も何度もわたしを抱いた。尽きることのないその行為にさんざん鳴かされた声は枯れて、わたしはぐったりと布団に身を沈めた。汗に濡れた肌の上を彼の手が滑る。うつぶせた首筋を彼の唇が掠めて、わたしはびくんと身を震わせた。
理性を持たない獣のようにひたすら交わり合い、快楽を貪り尽くした。
ふっと正気を取り戻して、ひどい羞恥と得体の知れない不安に襲われる。
今夜の彼はなんだか異様だ。
彬さんはもともと口数が多いひとではない。わたしは彼のことをごく一部しか知らないけれど、少なくともわたしのまえでの彼は、必要以上に言葉を弄ぶことをしない。
好きだとか、そういう好意を表す言葉さえ、一度も聞いたことはない。だけど、彼の目が、手が、わたしを抱くときの仕草が、言葉よりも雄弁に想いを伝えてくる。
ふだんのクールな態度とは裏腹なその情熱的な行為に、わたしはいつまで経っても慣れることができない。
でも、こんなふうに、底の見えない深い海にどこまでも沈んでゆくような、重く激しい愛しかたをする人ではない。このままではふたりとも溺れてしまう。
シーツに顔を押し当てて乱れた呼吸を整える。その背中に彬さんが覆いかぶさり、骨張った大きな手でわたしの身体を弄ぶ。片時もわたしを離そうとしない。
これはいよいよただごとではない。
「あの」
「なんだ」
汗ばんだわたしの髪に鼻先を埋めたまま、くぐもった声で彼が応える。
「そろそろ時間じゃあ」
「時間?」
どうでもいい、とつぶやいてわたしを抱き寄せる。困った。どうしたらいいのかわからない。
わたしは途方に暮れる。
いつもなら、窓の外が白んでくる頃になると、彼は身仕度を整えて自分の家に帰っていく。
彼がこの家に泊まったのはたった一度だけ。わたしの母が死んだ夜。
多忙なはずの彼は、そのときだけは一日じゅうずっとそばにいてくれた。
その夜。
わたしは彼の恋人に、愛人になったのだ。
わたしの人生をひとことで表すとしたら、この言葉以上に相応しいものはないと思う。
母は名の知れた旧家の主に囲われた、いわゆる愛人。わたしはその人とのあいだに生まれた庶子。
時勢を読むことに長けた父は事業を拡大させ、その一代で莫大な財を築いたらしい。その大胆な手腕から豪傑と謳われた彼は、色事を好み、派手に遊ぶことでも知られていた。
わたしはよくは知らないけれど、母のような立場の女性がほかにもたくさんいたのだろう。
それでも、たびたび家にやって来る父はやさしかったし、わたしは自分の境遇を嘆いたことはない。母も、父から経済的な援助を受けていたとはいえ、自分でも働き、その仕事に誇りを持って暮らしていたので、むかしの物語などにあるような、じめじめとした雰囲気はまるでなかった。
だけどまさか自分が母と同じような立場に身を置くことになるとは、わたしも、ましてや父も母も考えてもいなかったに違いない。
*****
ふと、見覚えのあるうしろ姿を見付けた。赤みがかった柔らかそうな髪。すらりとした立ち姿。わたしはすぐに彼のことを思い出した。けれど、彼はきっとわたしのことを覚えていないだろう。
そう思ったとき、なにかに呼ばれたかのように彼が振り向いた。わたしを見て、驚いたようすで目を瞠る。
思いがけないできごとに、わたしはその場に立ち竦む。わたしのことを覚えていないなら、そんな反応はしないはず。
はたして、彼は驚いた表情のままわたしの名を呼んだ。
「海棠さん?」
はい、と返事をする。そして、ひとからそう呼ばれるのはずいぶんひさしぶりだと気付く。
高校を卒業して以来、ごく限られたひととしか会わないような生活を送っているので、あらたまって名字を呼ばれることはまずない。
彼はこちらへ近付いてくる。
「ぼくを覚えているかな」
わたしはこくりとうなずく。
「柘植くん」
彼、柘植くんはわたしのまえで足を止めると、少し目を細めてじっとわたしを見つめる。心を見透かすような透明な眼差し。
ああ、この瞳だ。
わたしは学生時代に彼に助けられたことがある。きっと生涯忘れない。
「海棠さんは、これからどこかへ行くところ?」
「え? わたしは、」
思いがけないひとと再会したためか、動揺して、自分がどこへ向かっているのかを忘れてしまったらしい。そういう、ふつうならありえないようなドジをわたしはたびたびやらかす。そんな自分に呆れながらも言葉を探す。
「家に帰るところ、だと思う」
「うん、そうしたほうがいい。送って行こう」
予想もしない申し出に、びっくりして彼を見あげる。
「えっ、いえ、ひとりで帰れるから」
「迷子になるよ」
「迷子?」
「うん。海棠さん、自分が今どこにいるのかわかっている?」
そういわれて周囲を見まわす。視界一面に広がるのは鬱蒼と繁る木々。空を仰いでも、枝葉に遮られて光も差さない。薄暗い。
ここはどこだろう。
いつのまに、こんな森のような場所に足を踏み入れてしまったのだろう。
「ここは、どこ?」
「狭間」
「はざま?」
「そう。とりあえずここから出たほうがいい。手を貸して」
「は、はい」
うながされるまま手を差し出す。その手を掴んで柘植くんは歩き始める。
「ここの道は、あってもないようなものだから。一度はぐれたら見付けられる自信はない。離れないで」
背中を向けたまま淡々という柘植くん。その静かな口調が余計に恐ろしい。わたしはあわてて彼の手を握った。
彼の言葉どおり、もしわたしひとりだったら絶対に迷っていただろう。どこをどう歩いて来たのか、森を抜けて見慣れた我が家が見えてきたとき、安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。
「ありがとう、柘植くん」
玄関先で深々と頭を下げて礼をいう。柘植くんは「いや」と首を振るとわたしを見下ろして言葉をつづけた。
「なにか困ったことが起きたらぼくを呼んで。呼ぶだけでいい。海棠さんの声ならたぶん届くと思う」
戸惑いながらもわたしはしっかりとうなずく。呼ぶ、というのはそのままの意味で、電話をかけるとかメールを送るとか、そういうことではない。
彼はわたしに連絡先を教えなかったし、わたしも聞かなかった。それでも、彼が気休めからそんなことをいったのではない、ということはわかる。
柘植くんはそういうひとだった。
いつのまにか眠ってしまったらしい。身体を揺さぶられてわたしは目を覚ました。
「愛里」
ただならぬ響きの声で名を呼ばれて、はっと身を起こす。わたしは恋人の腕のなかにいた。
「彬さん」
彼は座敷に膝をつき、両腕でわたしを抱き起こしながら顔を覗き込んでいる。驚いてわたしはまじまじと彼を見つめた。
いつもまったく隙のない完璧な身なりをしているひとが、額に髪を垂らし、うっすらと髭まで伸びている。仕立てのよいシャツやスーツも心なしか崩れたような印象を与える。
そしてなにより、彼自身がひどく疲れているように見えた。こんなことは今までになかった。わたしはあわてた。
「ど、どうしたの? なにかあったんですか」
仕事でトラブルが発生したのかもしれない。真っ先に思い浮かんだのはそのことだった。
彬さんはわたしに仕事の話はしない。だから彼がどんな仕事をしているのか知らないけれど、責任の重い役職に就いていることだけはわかる。
一緒に過ごしているとき、彼はわたしに気を遣ってくれているのか、携帯電話の電源を切っているけれど、そのあいだにも彼のもとには引っ切りなしに連絡が入っていることをわたしは知っている。
そうして連絡が取れない時間がつづくと、彼の秘書が直接迎えに来て、ものすごく冷ややかな目付きでわたしを一瞥して、彼に小言めいたことをいう。彬さんは不機嫌さを隠そうともせず秘書を追い返すけれど、秘書の乃木坂さんは彬さんが帰るまで外でじっと待ち続けている。
だから彬さんがとても多忙な立場にいることは、わたしにも察することができた。
もし仕事でなにかトラブルが起きたのなら、こんなところに来ている場合ではない、はず。
それならいったいなにが。
戸惑うわたしを強く抱き締めたかと思うと、その手で頭を掴んで上向かせて唇を塞ぐ。息もつけないような激しい口づけに、わたしはただ目を瞑ってそれを受け止める。
しだいになにも考えられなくなってきて、わたしは彼に身をゆだねた。
まるでなにかに憑かれたかのように、彬さんは何度も何度もわたしを抱いた。尽きることのないその行為にさんざん鳴かされた声は枯れて、わたしはぐったりと布団に身を沈めた。汗に濡れた肌の上を彼の手が滑る。うつぶせた首筋を彼の唇が掠めて、わたしはびくんと身を震わせた。
理性を持たない獣のようにひたすら交わり合い、快楽を貪り尽くした。
ふっと正気を取り戻して、ひどい羞恥と得体の知れない不安に襲われる。
今夜の彼はなんだか異様だ。
彬さんはもともと口数が多いひとではない。わたしは彼のことをごく一部しか知らないけれど、少なくともわたしのまえでの彼は、必要以上に言葉を弄ぶことをしない。
好きだとか、そういう好意を表す言葉さえ、一度も聞いたことはない。だけど、彼の目が、手が、わたしを抱くときの仕草が、言葉よりも雄弁に想いを伝えてくる。
ふだんのクールな態度とは裏腹なその情熱的な行為に、わたしはいつまで経っても慣れることができない。
でも、こんなふうに、底の見えない深い海にどこまでも沈んでゆくような、重く激しい愛しかたをする人ではない。このままではふたりとも溺れてしまう。
シーツに顔を押し当てて乱れた呼吸を整える。その背中に彬さんが覆いかぶさり、骨張った大きな手でわたしの身体を弄ぶ。片時もわたしを離そうとしない。
これはいよいよただごとではない。
「あの」
「なんだ」
汗ばんだわたしの髪に鼻先を埋めたまま、くぐもった声で彼が応える。
「そろそろ時間じゃあ」
「時間?」
どうでもいい、とつぶやいてわたしを抱き寄せる。困った。どうしたらいいのかわからない。
わたしは途方に暮れる。
いつもなら、窓の外が白んでくる頃になると、彼は身仕度を整えて自分の家に帰っていく。
彼がこの家に泊まったのはたった一度だけ。わたしの母が死んだ夜。
多忙なはずの彼は、そのときだけは一日じゅうずっとそばにいてくれた。
その夜。
わたしは彼の恋人に、愛人になったのだ。