ケース1 一条瑠璃仁×統合失調症(4/5)
文字数 9,211文字
春馬を傍に置き、白夜のことは見ようともしなかったが、それでも言うことだけは聞く。
そんな日々が続いた。
手がかからず、問題も起きず、日常は過ぎていく。
白夜は薬棚から瑠璃仁の手の中へ薬を運ぶというたったそれだけの仕事をしていればよかった。
言葉も交わせぬ二人。それなのに二人にしかわからない言語を使って密に会話をしているようで。
困惑、そして焦りと自己嫌悪感が、白夜の胸の内に広がる。
俺はどうしてここにいるんだろう。
瑠璃仁が視線を寄越し、それに添わせるようにして春馬もこちらを見やる。
排他的な視線。
二人からの無言のメッセージ。
君はどうしてここにいるの?
医学知識もなく、片方は思考回路も危ういのに、もう片方は言葉さえ不自由なのに、それでも、二人は勝手に結びついて、白夜だけが除け者になっている。
自分はここに必要ない。
自分の居場所もない。
返事もない。
白夜は一礼し、一条家を後にする。
掴みどころのない一条家での業務のしんどさを、異邦の地を原住民に揉まれながらあてどなく彷徨うことに喩えるなら、針間精神科診療所で走り回って働く居心地の良さときたらまるで故郷の川辺を一人でジョギングするような清々しさに似ている。
業務内容はすべて医療業務マニュアルを順守。時間も分刻みでかっちりと固定。
頭を空っぽにしてひたすら目の前の仕事を終わらせていくだけで、職場の期待を上回る働きを提供できる。
いっそ、ずっとここにいたいと思ってしまう自分が嫌になる。
理想の「優しい看護師」の自分を手に入れようと意気揚々と出発したけれど、そんなもの欠片も見えず、無限に連なるような複雑怪奇な現実と見つめ合うだけの日々。
今日も診察室では、効率よく手際よく患者が捌かれていく。
時には厄介な患者が混じっていることもあるが、
ひらひらと手を振る針間に背を向け、患者はドアを激しく閉めて出ていってしまった。
健康志向が高いといっても、さすがに一般的なサラリーマンにそこまでの余裕はなさそうだ。
針間の言う通り、そこまでの必要もないのだろう。
もしどうしても必要ならば、藁にもすがる思いで金を払い、どこかを紹介してもらうはずである。
白夜の胸に、何か引っかかるような痛みが走った。
それなら自費で、白夜にプライベート訪問看護を依頼している瑠璃仁はどうなのか?
自分もちゃんと瑠璃仁の役に立たなくてはいけない。このままでは駄目だ。
気持ちを奮い立たせて、ノックを二回。
無理もないことだ。
急性期を脱したことで消耗もしているし、薬の副作用もある。
今は休むべき時なのに。
ならば、白夜は深く突っ込んで聞くこともできない。
患者の病的な世界を広げてしまい、かつ病的な世界にとどまる時間を長くさせてしまったり、質疑応答を通じて妄想をより強固で確信的に体系づける危険性がある。
たとえば、人を殺したかもしれないという加害妄想に苛まれている萩野に対しても、誰をどこで殺したのかなどといった質問はあえてしない。
その質問の答えを考えているうちに、茶髪の人を殺したかもしれない、三年前だったかもしれない、と世界が具体的に広がっていき、それは訂正不可能な確信に至るのだ。
だめだ、怒らせてしまった。
今は回復期で、精神を休ませるべき時期なのだと。
風邪が治っても、しばらくの間は気怠さが残っているように、統合失調症から回復し、精神が元気を取り戻し始める時期なのだ。
焦って無理をして、うまくいかず、負担をかけている。
休むべきだという忠告をどうしたら受け入れてくれるのだろう。
白夜は無力さを感じながら、すごすごと部屋を出た。そうするしかなかった。
その直後だ。誰かに手を引かれた。
似合わない素早い動作で、優しい色合いの髪を振って後ろを見たり、どこか挙動不審だ。
声を出すなということだろうか。
白夜が黙ってこくりと頷くと、どこかへ案内される。
階段を降り、連れていかれたのは医務室だった。
一条家には、学校でいう保健室のような設備まである。
春馬が先導し中へ入る。
デスクの引き出しを開けると、中に見慣れぬ木箱があった。
春馬はその箱を取り出すと、ドアが閉まっていることを確認した後、音も立てずそっと蓋を開けた。
そこには、アイスピックのような器具が何本も並んで入っていた。
歯科医師が使うような器具にも見える。
春馬は腰紐に吊り下げた画板から、前に描いたあの謎の棒人間二人のイラストのページを開くと破いて、白夜に手渡す。
そしてさっと木箱の蓋を閉じ、また周囲を警戒するように見渡すと、急ぎ足で去っていく。
今度は色まで塗られていた。
足元の弧の下は黄緑色のクーピーで塗られている。
やはりこれは芝生だったらしい。
人間は肌色で塗られている。駐車禁止マークも肌色だ。
それならこれは、絵の通り、頭だろう。
後を付けようかとも思ったが、ついてくるようには言われなかったし、ただこの箱の中身を見せたかっただけのような気がした。
……なぜ?
春馬の不可解な行動、でも、おそらく何か意味がある。何かを伝えようとしている。
さらにいえば白夜には、そのアイスピックのような器具をどこかで見たことがあるのだった。
記憶を辿ると、昔、学生時代に見たような気がする。
なぜ見たんだっけ? そんな歳で、お酒の氷も割らないのに?
なんだか気になる。妙な胸騒ぎもあった。
ふと、机の上に積み上げられている本が目に入る。タイトルは「精神外科」。
冷や汗が伝った。
白夜はようやく、このアイスピックをどこで見たのかを思い出した。
精神科の歴史の教科書の中だ。黒歴史の一つ――精神
正式名称はロイコトーム。
眼球と骨の間から入れて大脳前頭葉部分に到達させ、神経を切断する外科的手術で使用する。
白夜ははやる気持ちで「精神外科」の本を手に取り、目を通す。
脳という臓器は解明もされていない神経の集合体だ。
それを執刀医の勘で切断してしまうという手術。
悲惨な例では術中に死亡。
生還したとしても、人格変化、衝動化・無気力化などといった重大かつ不可逆的な副作用が起きてしまう。エビデンスもなく、人権的にも問題があるとしてロボトミー手術を行うことは、精神医学上禁忌とされている。
思い出すのは、あの日の事故だ。
瑠璃仁が自作した薬を、人に飲ませた。そして、後遺症が生じた。
彼は、言語能力を失ってしまったのだ。
渡辺春馬が話せなくなったのは、瑠璃仁の人体実験に付き合ったからだ。
あのイラストは、瑠璃仁と春馬だろう。春馬が目からロイコトームを挿れられ、脳を掻き回される手術を受ける図なのか。
白夜は主治医である針間に事情を話すべく、その場で電話をかけた。
針間が学会に出席するためだ。
有名な教授による発表があるらしく、ここ最近針間はそれに向けて準備をしていた。
患者を手早く捌くのが得意な白夜を午前の外来担当看護師として付け、気合十分。
これまでにも、安定的でおしゃべりな患者が来るたびに、話を熱心に聞いているふりをしながら机の上に散らかしたままの参考書やら画面上に表示させている論文資料をちらちら盗み見ていたりと、学会の予習に余念がなかった。
その学会に出るのは一体どんなご高名な教授先生なのだろう。
白夜が昨日、瑠璃仁の行動について緊急の連絡をしても、取りつく島もないほど?
資料の中に教授の白黒写真があったので見たが、熊のような体格で真っ白のアフロが印象的な人だった。
脳神経外科教授
変な人――脳外科医は変わり者が多いと聞くが、教授ともなると奇妙さも極まるのかもしれない。
針間はこの人の発表を聞くためにわざわざ飛行機に乗って熊本くんだりまで飛び立つのだという。
そういうわけで、診療所は午前のみで閉め、針間は張り切って出発。
医者志望の南もついていくことになり、白夜は昼下がりに一人、一条家に戻ることになった。
診療所の定休日でもないのに白夜がこの時間帯に一条家に帰ってくることはない。
階段を上っているとそう教えられ、踵を返す。
……医務室?
そこで何をしているのか。
ぞくりと嫌な予感が胸に広がる。
医務室に到達し、すぐにノックもなしに白夜は戸を開けようとして、もし驚かせてしまうことで何か不測の事態にならないかを無意識に危惧し、わずかに隙間を開け中を覗き込む。
丸椅子に座っているのは春馬。
その横に瑠璃仁が立ち、正面奥に大柄の見慣れぬ人物がいる。
使用人の一人である春馬が、主人の前で椅子に座ることなどない。
何かが行われようとしている。
だが、まだ話し込んでいるだけのようだ。
白夜は戸にかけている手に力を込めた。
奥の椅子に座る大柄の人物は、白髪のパーマが印象的な、
瑠璃仁が精神外科のロボトミー手術の論文を読み漁って、そこから影響を受けて行動したとしか考えられない。
下手に地頭がいいと、妄想から何をし始めるかわからない。
春馬が脳に障害を負ってしまったのは、以前瑠璃仁が春馬を誘導して自作の薬物を飲ませたことが原因だ。
薬が抜ければ元に戻るかもしれないと思ったが、今のところその気配はない。
だが、ロボトミー手術を施して、完全に脳が損傷されたら春馬の言語能力は、おそらく今後二度と戻ってはこなくなる。
その非可逆性は、「失明」や「子宮摘出による不妊」の類と同じになる。
白夜は平賀教授を追った。
嘘だ、演技だ、と白夜は思った。
瑠璃仁が過覚醒状態になって、何かを思いつき、金を積んで脳外科医の権威を呼びつけたのだろう。
脳外科医の権威だ。
瑠璃仁が妄想状態だとわかった上で、引き受けたのだ。
滅多にない激レ アの経験ができるから。
喜び勇んで学会も放り出して駆けつけた。
もちろん、春馬に何かあっても、一条家が揉み消して守るに違いない。
そもそも、従順な春馬がどこかに訴えることもないだろう。
金持ちの考えることは恐ろしい。
そして、学者の考えることというのも。
これをマッドサイエンティストというのだろうか。
翌日、針間は荒れに荒れていた。
楽しみにしていた平賀教授の研究発表が中止され、他の人達のつまらない発表を延々聞かされたということだった。
白夜はもちろん驚きはしなかった。
なぜならその教授は一条家に呼ばれていたのだから。
昨日はなんとか阻止できたものの、今後瑠璃仁も平賀もどんな行動をするのかわからない。
見張っているにも限界がある。
白夜は進むべき道がまたわからなくなっていくのを感じた。
業務終了し帰途につく白夜は、黙ったまま考え込んでいた。
思い悩んでいた。
一条家に帰りたくないような黒々とした混沌の気持ちを抑圧し、生産的な思考を進めようとしていた。
雰囲気を察したように、南がどうでもいいようなことを話しかけてくるが、白夜は上の空で生返事を繰り返すばかりだ。ただ、
ふと、冷たいものが背筋を流れていく。
そうだ、これは言い訳だ。
ついていないはずの血痕が見えてしまうのは萩野が病気だからだが、元々正義感が強すぎるため、幻覚は「人を殺してしまったのではないだろうか?」と加害妄想に引き摺られている、のかもしれない。
断定はできないけれど、影響はあるのかもしれない。
一条瑠璃仁から、病気の部分を取り除いたら、彼は元々どんな人間だった?
鋭く視線が交差する。
南は、白夜が自分の目標から目を逸らすのを許してはくれなかった。
患者の心を守りたくて看護師になった。看護師として良い仕事をしようと、知識を身に付けた。
一人で。
そう一人で。
自分一人だけの世界で戦っていては、完成しないのに。
俺が、俺しか見ていなかった。
俺が、瑠璃仁様を除け者にしていた。
拒絶されていたんじゃない。拒絶していたのは、俺だ。
その真実は、胸を抉られたように痛く、でも、あまりにもわかりやすく、ありがたく感じた。
ようやく問題がわかった。
そういうことだったのだ。
それならばさっさと正面からぶつかって、さっさと解決してしまう方がいいに決まっている。
自信を無くしている場合じゃない。
動こう。