Chap.2

文字数 2,525文字

 スナオさんは、その日のうちに先生の奥さんと会ってほしい、といった。もうアポイントを取ってあるという。千川さんが引き受けることは確信していた様子だ。
武富さんが入院している病院で待ち合わせることになっていた。スナオさんと千川さんと私は電車で現地に向かう。
車中、千川さんは私の隣で居眠りをした。口を半開きにした無防備な寝顔をなんとはなしに見つめてしまう。自分の隣で居眠りをすることなんて、出会ったばかりの頃はなかったなぁ、と思いながら。
と、揺れで千川さんの頭が傾く。私の腕の付け根と千川さんの頬が衝突した。
「……っいってぇ。上腕骨が硬いよ!」
 目を覚ました千川さんが頬を押さえ、不機嫌極まりない顔でいった。
「はい⁉ なんですかその斬新なクレームは。骨はみんな硬いですっ」
「君は人一倍硬いんだよ。頭と同じだよ」
「なっ。自分でぶつかっておいて……千川さんは柔らかすぎるんじゃないですか? 寝顔もほにゃぁーっとしてましたよ!」
「ほにゃってなんだよ、ほにゃって」
「ほにゃぁーっです」
 目と口を半開きにして再現した。
「取り込み中ごめん。ついたよ、二人とも」
 スナオさんが温い微笑みを浮かべながらいい、口論は宙に浮いた。
病院に到着し、まっすぐ病室へ行く。スナオさんの紹介で武富さんの奥さん、和枝さんと対面する。スナオさんは和枝さんとも付き合いがあったらしい。
「初めまして」と和枝さんは腰を折る。「須藤くんの友達の、なんでも調査してくれるお仕事の方だそうですね。ずいぶん優秀な方だと」
千川さんがスナオさんを横目で見た。スナオさんは事前に、「奥さんには千川くんのこと、いい感じに説明しておいたから」とウィンクしていた。どうやら探偵か何かと信じ込ませたらしい。相変わらず、「嘘つきですね」と小声で私がいうとスナオさんは得意げだった。千川さんは作り笑いを和枝さんに向ける。
「どうも。千川完二、いわゆるなんでも屋です。もう、なんでもしてしまう男です」
 投げやりすぎる態度に、私は焦って、「このたびはお気の毒です」と前に進み出た。
「ありがとう。調査なんて申し訳ないって須藤くんにいったんだけれど。私も……この人が飲酒運転なんて、信じられなくて」
沈んだ声で和枝さんがいい、身を引いた。私はベッドの武富さんを直視することになった。
 武富さんの頭には包帯が巻いてあるが、眠っているように安らかな顔だった。白いがボリュームのある髪と、浅黒い肌、高い鉤鼻が特徴的だ。ほんの一瞬、幼い頃に失った母の最期の姿が重なった。首を振って振り払う。目の前にいるのは武富さんで、生きている。
「意識が戻るかは五分五分と、医者にいわれました。静かに寝てるわね。こっちは大変だっていうのに……」
 和枝さんの声に涙が混じる。小さいながらも事故は報道されていて、武富さんの自宅や学校にマスコミやクレームの電話が殺到しているそうだ。もし、飲酒運転が間違いならば一刻も早く濡れ衣を晴らさなきゃいけないけれど。
「武富さんに最近、変わった様子は?」
 千川さんが訊ねる。少し考え、和枝さんは夫を見つめながらいう。
「職場の愚痴なんかは話してくれてたけど、弱音は吐かなかったから……何か隠している気もしてた。本人は私に内緒にしているようだったけど、食が細くなって……」
そのとき病室に一人の見舞客が入ってきた。
「あ、茂手木くん」
「直人」
 セーターを着た男性はスナオさんと私たちを見て、会釈した。短髪で真面目そうな印象を受ける。「彼は茂手木くん。僕の中学時代の同級生で、今は武富先生の同僚」とスナオさんが紹介した。
 
 和枝さんを部屋に残し、私たちは院内にある喫茶店に移動した。茂手木さんも、かつて武富先生の教え子だった。教員になって数年、赴任した風見中学校で武富先生と再会し、今は担任と副担任という関係らしい。
「受け持っているのは二年生です。不思議なものでした。武富先生とコンビを組んで生徒たちを教えることになるなんて」
「あの頃の自分に教えてやりたかった?」
 スナオさんにいわれ、茂手木さんが初めて笑みを浮かべた。淡い笑みだった。
「武富先生、いってくれたんだ。『教え子と机を並べられるなんて、定年前に最高のご褒美だ』って。嬉しかったな」
「茂手木くんは当時から将来教師になりたいっていってて、先生に気に入られてたよね」
「直人こそ、面白い生徒って思われていたろ」
「武富先生、『嘘はつくな。俺もおまえたちに嘘はつかない』って口癖まだ使ってた?」
「ああ、いまだに使ってた」
笑い合う二人の視線は、二人だけにしか共有できない中学時代を見ているようだ。
「武富先生が飲酒運転なんて信じられないとスナ……直人さんは主張しているけど。茂手木さんも、飲酒運転ではない、と思います?」
 コーヒーをすすっていた千川さんが訊ねる。茂手木さんはちら、とスナオさんを見た。
「私も直人のいうとおり、信じられない気持ちでいっぱいです。生徒たちもショックを受けていて」
 茂手木さんは若い千川さんや私にも腰が低く、丁寧だ。
「飲酒運転なんてする人じゃない、と私も思います。ですが……」
 茂手木さんは、口元を手で覆ってしばし考えてから、沈痛な声で答えた。スナオさんがわずかにショックを受けたように茂手木さんを見た。
「状況的には飲酒運転による事故としか、考えられない。直人はどう考えてるんだ?」
「仮説一、だれかに無理やり酒を飲まされ、強制的に運転させられた可能性」
 スナオさんの仮説に、ぴく、と茂手木さんが動く。
「現実的じゃないだろうそんな、」
「仮説二、酒を飲むほど尋常じゃない精神状態に追い込まれていた可能性」
「何かトラブルを抱えていたとかは?」
 千川さんが問いかける。三人分の視線を受け、茂手木さんがしどろもどろに口を開く。
「……問題のある生徒をクラスに抱えています。副担任である私と共に、必死に指導していますが、なかなか……。武富先生の悩みの一つであったことは間違いないでしょう。申し訳ないですが、それ以上はいえません」
 そうして、深々と頭を下げたのだった。
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