19 教会でも、いいことばかりじゃない
文字数 1,972文字
「ねえ、裁判、どうなった?」
りべかが聞いてきたのは、夏休みが開けてすぐ、9月の第1木曜日の放課後だった。もくもく会のある日である。
「夏休み中の期日で、裁判官が和解勧告っていうのを出してきたよ。まあつまり、この条件で離婚したら? みたいな内容」
あたしたちは学校の昇降口で待ち合わせ、一緒に電車に乗ってきて、地元の駅で降り、港通り教会へ向かって歩いているところだった。
「それで? どうするの」
「お金の条件は悪くないんだけど、お母さんは拒否するって」
「ふうん」
暑い日だった。世界を燃え尽くすような日射しが、夕刻になっても降っていた。あたしたちはふたりとも、チャコールグレーのボックスプリーツのスカートに、白い半そでのブラウスという、地味な制服姿だった。
路面はぎらぎらと銀色に照っていて、建物や木々の影は焼け焦げたみたいに黒かった。
平日は、礼拝がないから、教会には基本的に信徒はいない。正確には、聖書の勉強会のようなものが週に何回か開催されていたけれど、もくもく会とは曜日や時間がずれていた。
だから、8年通い続けていても、あたしたちは教会で信徒に遭遇したことは、ほとんどなかった。
その日までは――。
教会の前にある巨大な菩提樹の下で、老婦人につかまった。その人は、何かの用事で教会に来ていたらしい。目を輝かせて話しかけてきた。
「あら、もしかして、〝木曜の少女たち〟じゃない?」
老婦人はくぐもった笑い声を立てた。
「ほほ、ごめんなさいね、わたくしたち、そう呼んでいますのよ。お会いできてうれしいわ。教会では、ほら、あれ、あなたたちは幻の存在みたいなものですの」
良きにつけ悪しきにつけ、あたしたちは目立っていたのだろう。日曜の礼拝には出ないのに、月1回の牧師との面談を続けている、女の子のふたり組。牧師の第1木曜日の夕方を独占している非キリスト者。しかも片方はとびぬけた美人だ――。
大樹の影のなか、葉の隙間 からこぼれてくる光が、金の粉のように舞っていた。
整った白髪と、レース遣いの上品なブラウスにも、光がまだらに踊っていた。
キリスト教徒なのに、いやむしろキリスト教徒だからなのか、老婦人は年を重ねていても女っぽい色気があり、むしろ若い人より艶 やかであるほどで、あたしはなんだか狐につままれたような気分(実際に狐につままれたことは、ないけれど)になり、しばし彼女を眺めていた。
その間に、老婦人とりべかはあらぬ先へ会話を進展させていた。
「私の父はおかしいんです」
りべかの声は苛立 ちを孕 み、老婦人はほんの数瞬、眉 をひそめてひるんたが、すぐさま立て直していかにも良識的な微笑を浮かべた。
「ご自分のお父様を、そんなふうに言うものではありませんよ。あなたを養って育ててくださっているんですから」
「何も、わかってないくせに」
静かな口調に、りべかは怒りを滲 ませた。
「あなたに干渉されたくありません」
「あらまあ、わたくしだって、それはもう、いろいろなことを経験してきたんですのよ」
老婦人は鷹揚 に胸を張った。
「そうでしょうね。でも、だから何? あなたに起こったことと、私に起こっていることは違います。まったく別の出来事です。私の家庭を見たことも、私の父の言葉を聞いたこともないくせに、あなたに何がわかるっていうの?」
りべかの鼈甲 色の虹彩 が、攻撃的に閃 いた。
老婦人は、口を半開きにして立ち尽くしていた。
傍 から見れば、善意の老婦人に噛 みついている無礼者はりべかのほうだ。
あたしはりべかを引っ張った。
「行こう。島川先生を待たせてしまうよ」
老婦人に会釈 して、あたしたちは小走りに教会へ逃げた。
逃げながら、あたしの胸では動悸 が苦 く跳ねていた。頭はかっかと熱かった。
それまでに、島川牧師に家庭の事情を話してみようとしたことはあった。だけど、あたしはあるとき、気づいたのだ。
肝心な話をしようとすると、牧師はひらりと身をかわす。神様の愛とか救いを持ち出して、美しく話をまとめようとする。聖書の解き明かしを聞いている分にはいいけれど、現実の話になると、なんだか胡散 臭 い、そんな感じを覚えていた。
結果として、島川牧師に深い話はしていなかった。
でもそれは、教会の人たちがあたしたちに無関心でいてくれることとイコールではなかったのだ。
りべかはとにかく目立つ。どこへ行ってもそうであるように、教会でも、詮索 したくてうずうずしている人はいる、それをこの日、あたしたちは思い知った。
りべかが聞いてきたのは、夏休みが開けてすぐ、9月の第1木曜日の放課後だった。もくもく会のある日である。
「夏休み中の期日で、裁判官が和解勧告っていうのを出してきたよ。まあつまり、この条件で離婚したら? みたいな内容」
あたしたちは学校の昇降口で待ち合わせ、一緒に電車に乗ってきて、地元の駅で降り、港通り教会へ向かって歩いているところだった。
「それで? どうするの」
「お金の条件は悪くないんだけど、お母さんは拒否するって」
「ふうん」
暑い日だった。世界を燃え尽くすような日射しが、夕刻になっても降っていた。あたしたちはふたりとも、チャコールグレーのボックスプリーツのスカートに、白い半そでのブラウスという、地味な制服姿だった。
路面はぎらぎらと銀色に照っていて、建物や木々の影は焼け焦げたみたいに黒かった。
平日は、礼拝がないから、教会には基本的に信徒はいない。正確には、聖書の勉強会のようなものが週に何回か開催されていたけれど、もくもく会とは曜日や時間がずれていた。
だから、8年通い続けていても、あたしたちは教会で信徒に遭遇したことは、ほとんどなかった。
その日までは――。
教会の前にある巨大な菩提樹の下で、老婦人につかまった。その人は、何かの用事で教会に来ていたらしい。目を輝かせて話しかけてきた。
「あら、もしかして、〝木曜の少女たち〟じゃない?」
老婦人はくぐもった笑い声を立てた。
「ほほ、ごめんなさいね、わたくしたち、そう呼んでいますのよ。お会いできてうれしいわ。教会では、ほら、あれ、あなたたちは幻の存在みたいなものですの」
良きにつけ悪しきにつけ、あたしたちは目立っていたのだろう。日曜の礼拝には出ないのに、月1回の牧師との面談を続けている、女の子のふたり組。牧師の第1木曜日の夕方を独占している非キリスト者。しかも片方はとびぬけた美人だ――。
大樹の影のなか、葉の
整った白髪と、レース遣いの上品なブラウスにも、光がまだらに踊っていた。
キリスト教徒なのに、いやむしろキリスト教徒だからなのか、老婦人は年を重ねていても女っぽい色気があり、むしろ若い人より
その間に、老婦人とりべかはあらぬ先へ会話を進展させていた。
「私の父はおかしいんです」
りべかの声は
「ご自分のお父様を、そんなふうに言うものではありませんよ。あなたを養って育ててくださっているんですから」
「何も、わかってないくせに」
静かな口調に、りべかは怒りを
「あなたに干渉されたくありません」
「あらまあ、わたくしだって、それはもう、いろいろなことを経験してきたんですのよ」
老婦人は
「そうでしょうね。でも、だから何? あなたに起こったことと、私に起こっていることは違います。まったく別の出来事です。私の家庭を見たことも、私の父の言葉を聞いたこともないくせに、あなたに何がわかるっていうの?」
りべかの
老婦人は、口を半開きにして立ち尽くしていた。
あたしはりべかを引っ張った。
「行こう。島川先生を待たせてしまうよ」
老婦人に
逃げながら、あたしの胸では
それまでに、島川牧師に家庭の事情を話してみようとしたことはあった。だけど、あたしはあるとき、気づいたのだ。
肝心な話をしようとすると、牧師はひらりと身をかわす。神様の愛とか救いを持ち出して、美しく話をまとめようとする。聖書の解き明かしを聞いている分にはいいけれど、現実の話になると、なんだか
結果として、島川牧師に深い話はしていなかった。
でもそれは、教会の人たちがあたしたちに無関心でいてくれることとイコールではなかったのだ。
りべかはとにかく目立つ。どこへ行ってもそうであるように、教会でも、