第一節 1

文字数 3,027文字

 二年 ぶりのティエラ山の空気は澄んでいた。
 エドガルドは深く息を吸い込んで澄んだ空気を胸いっぱいに満たし、緩い勾配の山道を登っていく。
 ティエラ教義の学師であるエドガルドは、昨夜この山に戻って来たばかりだった。山の静謐な空気の中に身を置いていると、エドガルドはまぎれもなくここが自分の故郷であると感じた。戻る前に抱いていた、もはや自分は場違いな人間になってしまっているのではないかという思いは杞憂に過ぎなかった。山の木々、草花、岩に囲まれ曲がりくねった緩急のある勾配の道々、何もかもが自分の一部であるかのように身体の隅々まで馴染んでいる。
 道ともいえぬ道を迷いのない足取りで進んでいたエドガルドは、ふと、自分の後をつけて来る獣の気配に気付いて足を止めた。身体に刻まれた刺青(しせい)を通じて辺りに充盈(じゅうえい)するエネルギー を感じ取る。茂みの向こうから発せられる波動が、周囲のエネルギーを微かに揺らがせているのが伝わってきた。
 覚えのある波動だ。
 懐かしさにかられたエドガルドが、
「イルダ」
 と名を呼ぶと、茂みが揺れて灌木(かんぼく)の隙間から一頭の獣が姿を現した。灰褐色の毛並みと琥珀色の瞳を持つ、雌狼である。
 エドガルドはその場に(ひざまず)き、狼に向かって手を差し伸べた。イルダと呼ばれた雌狼は少しのあいだ様子を窺うように佇んでいたが、やがてゆっくりと近づいて来てエドガルドの手に鼻面を押し付けた。
「久しぶりだな、元気にしてたか」
 イルダはティエラ山に棲む野生の狼で、仔狼時代をエドガルドと共に過ごした。最後に会ったのは二年も前だったが、この賢い獣はエドガルドのことを覚えていてくれたらしい。
「今は用事があって本院に行かないといけないんだ。また後で会いに来てくれ。お前が来てくれなくても、俺が会いに行く」
 愛おしげに頭を撫でながら告げると、イルダはまるで言葉が通じているかのようにじっとエドガルドの顔を見上げてから、再び灌木の茂みの中へと消えて行った。エドガルドは暫くその場に立ち尽くし、刺青を通じてイルダの発するエネルギーの波動を追いかける。
 遥か昔に人類が移住したこの惑星では、ありとあらゆる物質に混沌エネルギーと呼ばれるエネルギーが宿り、地下には網の目のような水脈が張り巡らされている。
 海のない広大な大地に莫大なエネルギーが循環し続ける惑星は、生命にとって過酷な環境だった。初期入植者である先住民の祖先が様々な動植物と共に移住するまで、この惑星に生命はなかったとされている。人類を含め入植した動物たちは、混沌エネルギーによってDNAに傷をつけられ遺伝的変異を繰り返しながら、長い年月を掛けて環境に適応し独自の進化を遂げてきた。
 惑星にとって異物ともいうべき生命がこの地で生き延びる方法を模索するため、先住民はティエラ教義という学問体系を生み出した。ティエラ教義はこの惑星のありとあらゆる事象について学び、人類を含め全ての生命がこの世界と調和を保って生き延びる道を求める学問である。
 ティエラ教義の学師たちは、エスプランドル鋼という特殊な金属の粉を用いた刺青を身体に刻むことで、複雑に干渉し合い変動するエネルギーを感じ取ることが出来る。
 イルダの発するエネルギーの波動が捉えきれぬほど遠ざかると、エドガルドは再び歩を進め、道ともいえぬ小径を迷いのない足取りで進んで行った。獣道のようだった隘路(あいろ)にも徐々に人の踏みしめた跡が増えていき、やがて広い山道へ出た。
 視界が開け、抜けるように青い空を背にした広大な建造物群が現れた。山頂から中腹にかけて斜面に連なる重厚な建物を、優美な意匠の回廊が繋ぐ。ティエラ教義の総本山、本院である。
 エドガルドは一瞬だけ足を止めて、荘厳ともいえる光景を仰いだ。新生児の頃にティエラ山の麓に捨てられていたエドガルドは、本院の学徒 として育てられた。十五歳 のとき、教義の修得に人生を捧げること、この惑星に生きる全ての存在に己れの身を捧げることを誓い、ティエラ教義の学師となったのである。
 エドガルドは脇道へ逸れ、本院の回廊へと足を踏み入れた。懐かしい佇まいに心が躍り、目的の建物へ直行するのをやめて少しだけ本院の中を散策することにする。回廊の途中途中に設けられた野性味のある中庭を眺めながら、山を下って行く。
 本院の中でも標高の低いエリアに近づいた辺りで、びゅん、びゅん、と何かが風を切るような音が響いてくる。エドガルドは音のする方へと足を向けた。
 広い中庭で、学徒たちが棒術の教練に励んでいる。中庭の正面では、熊のような風貌をした男が胡座をかいて学徒たちの動きを眺めていた。男は昔馴染みの学師、ルカスだった。
 視線に気づいたルカスが振り返り、驚きの表情を浮かべた。少しのあいだ穴の開くほどエドガルドを見つめていたが、すぐに平常の表情を取り繕って、
「エドガルド」
 と名を呼んで手招きをした。
 エドガルドは僅かな逡巡のあと、方向転換してルカスの方へ足を向ける。
「ルカス。久しぶりだな」
「ああ、久しぶりだ。七年ぶりくらいか。戻って来てるなら挨拶にくらい来いよ、薄情な奴だ」
 くせの強い赤銅(しゃくどう)色の前髪の間からエドガルドを見上げ、ルカスは言葉の割に責める風もなくのんびりとした口調で言った。
 大きな身体を丸めて胡座をかいたルカスの太い両手首と両足首には、エスプランドル鋼の粉を用いた黒い刺青が刻まれている。
 エスプランドル鋼は、混沌エネルギーを取り込み、蓄積し、放出する媒体としての性質を持つ特殊な金属だ。エスプランドル鋼の粉を用いた刺青を身体に刻むことで、周囲のエネルギーを感じ取り、体内を巡らせることが可能となる。
 学徒が学師になることを決意すると、まず両足首に刺青を彫って下級学師 の位に就く。中級学師 に昇ると、新たに両手首に刺青を彫る。加えてルカスは額にも美しい紋様の刺青を彫っていた。これは、彼が数少ない上級学師 であることを示している。
「戻って来たばかりなんだ。プラシドにも今から会いに行くところだ」
「そうか。なら仕方ないな」
 プラシドというのはティエラ山の麓で新生児のエドガルドを拾った、いわば親代わりの人物だ。両性具有という先住民の中でも珍しい性別の持ち主で、ティエラ山にも四人しかいない最高位の学師、大学師 の位にある。
 真剣な眼差しで教練を眺めているルカスに目を遣り、エドガルドが尋ねる。
「今はお前が学徒たちの棒術を指導しているのか」
「ああ。といっても、学徒になって一年未満の、初心者担当だよ。俺に指導できるのはそのくらいまでだ。今はビト様もいるからな」
「棒術の名手が何を言ってる」
「お前が言うと嫌味だ」
 ティエラ棒術は、知識だけでなく肉体と精神を通じてこの世界を理解するために編み出された武術である。一定の法則や規則性を持たない混沌エネルギーの流れに呼吸を合わせ、その一部となったかのごとく動くことで、世界と共鳴することを目指す。武術であると同時に瞑想の要素を持ち合わせ、初心者にとっては簡単な動きのように見える基本型をなぞることさえ難しい。
 エドガルドとルカスは両者とも、若い頃から卓越した才を発揮してきたティエラ棒術の手練れである。
「時間があるなら少し稽古を見ていかないか」
「そうだな」
 プラシドとは特に時間を決めて約束している訳ではない。少しくらい良いだろうと考え、エドガルドはルカスの傍らに立って眼前で繰り広げられる練習風景を眺めた。
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登場人物紹介

エドガルド

ティエラ教義の学師。ティエラ棒術の名手。

ナサニエル

都市人。ティエラ教義の学徒。

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