純喫茶・蔵々 ~魔法とコーヒーのお店~

文字数 11,737文字

 01

「実は僕ねえ、魔法使いなんだよ」

 店長の立野(たての)は、カウンターに頬杖をついてそう言った。鼻の下によく整ったヒゲのある、この『純喫茶・蔵々(くらくら)』のマスターだ。年齢は確か五〇前後だと美弥(みや)は聞いていた。
店長(マスター)。今度は何の冗談ですか」
 美弥は制服のエプロン姿で、カウンター越しに応じた。
「魔法使い? そんなふうには見えませんけど。神主さんくらいなら――まあ、見えなくもありませんが」
 軽くため息をつきながら、雇い主である立野の顔を見つめる。面長で、目鼻立ちははっきりとしている。年の割に髪の毛は若々しく、いつもきちんとオールバックにまとめられていた。
 彼はよく、バイトの美弥たちに向かって冗談を言う。そして、どんな反応を取るのかを見て面白がっているのだ。

 店内には、ゆったりとしたBGMが掛かっていた。音楽に疎い美弥には、これがどんなジャンルの曲なのかは分からなかったが、店の雰囲気にはとても合っているように思えた。
 二人掛けのテーブルが窓際に三つと、四人掛けのものが壁沿いに二つ。カウンターには八つの席が設けられた、広くも狭すぎもしない店内だ。照明はしっとりと暗めで、窓にはブラインドカーテン。外からの余計な光や雑音はない。
 蔵々(くらくら)は、住宅街の奥まったところにある古い喫茶店だ。
 美弥の住むアパートからは自転車で通える程の距離だが、ここで働くことになるまで、彼女はこの店の存在を知らなかった。店の前には、車一台がやっと通れる狭い道路があって、周りには民家しかない。
 随分と控えめな立地だったが、それでも時間帯によっては、席の八割近くが客で埋まることもある。騒がしくない店の雰囲気や、立野が()れるコーヒーのファンが多いらしい。
 こういうのを隠れた名店というのだろう。働き始めた当初、美弥はそう思った。

 大学生の美弥は、先月からこの喫茶店でバイトを始めていた。立ち姿はスラリとしていて、長い髪を後ろで束ねている。化粧っ気はなく、蔵々(くらくら)の雰囲気にも馴染む、落ち着いた容貌だった。

 彼女には、ここでバイトを続ける理由が二つあった。そのため、大学の都合が付く日は必ずこの喫茶店に通っている。


 02

 柱の時計が昼の一時を回った。
 食事メニューの乏しい蔵々(くらくら)は、正午前後には客が少なく、このくらいの時間になると、食後のコーヒーを求めて客足が増える。
「よし、じゃあ僕が魔法を見せてあげよう。透視の魔法だ」
 立野は懲りずに冗談を続けた。
「次に入って来るお客さんの格好を当てようじゃないか」
 人差し指をピンと立てて、鼻の下のヒゲを押さえつけるように撫でる。わざとらしく(うな)ったり、眉をひそめたりしている。
 ドアの向こうを透かして見るように、ぐっと目を細めた。しかし、木製のドアに窓はなく、たとえすぐ向こうに誰か居たとしても、その姿を内側から見ることは出来ない。
 だが、立野はひとつ(うなず)いて、
「うん、分かったぞ。その人は杖をついている。ベージュのハットを被って……そうだなあ、薄い青色のセーターを着ているんじゃないかな。そして、窓際の一番奥の席に座るんだ」
 そう言ってにっこり笑った。
 美弥は呆れたように、
店長(マスター)、それって――」
 言い終わらないうちに、入口のドアが開いた。

 カランコロンカラン――

 ドアに取り付けられたベルが、軽やかな音を鳴らした。
 そこには、腰の曲がった男性の姿があった。立野の予言通り、杖を片手に、ハットを被り、セーターを着ていた。色までぴったり合っている。
「いらっしゃいませ」
 と美弥が応じる。
「お好きな席へどうぞ」
 老人は軽く頷いて、窓際の一番奥の席を選び、ゆったりした動作で腰を下ろした。
 美弥がチラリとカウンターのほうを(うかが)うと、立野が勝ち誇ったような顔で微笑んだ。
 美弥は肩をすくめて、目だけで不満を訴えた。
 これは魔法でも何でもない。
 ただの予想だ。
 いや、ほとんど決まりきったことなのだ。
 この柳田(やなぎだ)という老人は常連客だ。それも決まって、月曜から木曜の午後一時に現れる。今日は火曜日だ。いつも杖を持って、ハットを被り、十月に入るとセーターを着こむらしい。奥の席はほとんど彼の指定席である。
 立野が当てて見せたのはセーターの色くらいだったが、柳田は四色のセーターを着回していて、規則正しく、順番がある。昨日は落ち着いたピンクだったから、今日は薄い青色の日だ――これは、美弥にも容易に推測できた。
(今日の冗談、つまらないですよ)
 美弥は立野に顔を近づけて、小声で囁いた。

  + + +

 しばらくすると、常連客の入店が増えた。
 いつもカウンターの奥から二番目に座るスーツ姿の男性と、窓際の席でまったりと話し込む、老年の女性客が二人。まだ働き始めて一ヶ月と少しだが、美弥にとっても、これらは見慣れた光景だ。

 親元を離れて大学に通う美弥には、お金が必要だった。
 家は裕福でも貧乏でもないが、父親が厳しく、遊ぶためのお金を余分に与えてはくれなかった。生活費は十分にもらっているので、普段ならば特に困ることもなかったが、美弥は今、旅行資金を稼がねばならなかった。
 以前、サークルの仲間と、こことは違うカフェで雑談をしていた時、友人の真里愛(まりあ)が急に切り出した。
「冬にさ、北海道に行かない? カニ食べて、雪まつり見て、ラーメン食べよう、みそラーメン。ああ、ジンギスカンもいいね」
 食べてばっかりだな、と美弥は思ったが、口には出さないでおいた。
 楽しそうに語る真里愛はとは対照的に、美弥は自身の通帳の残高を気にして、あまり気が進まなかった――しかし、他の友人たちは随分と乗り気だったので、その日のうちに、美弥を含めた五人のサークル仲間の間で、旅行の日取りまでが決定された。
 一人だけ辞退するという雰囲気でもなかったので、美弥も表面上は賛成の形を見せた。
 後になって、こっそりと真里愛に相談を持ちかけた。
 真里愛はいつも仲間の中心的存在で、外見も華やいでいる。胸の辺りまである髪はキャラメル色で、毛先のほうは緩やかにカールが掛かっている。メイクも嫌味がないように工夫されていて、彼女のはっきりとした顔つきに似合っていた。分け隔てない性格で、真里愛は男女のどちらからも人気を集める存在だ。
 実は貯金が足りない、ということを打ち明けると、真里愛は明るく微笑んだ。
「じゃあ、いいバイト先、紹介してあげる。確か美弥のアパートからも近いはずだし。雰囲気も良くて、マスターも素敵な人だから、きっと美弥も気に入るよ」
 そうして半ば強引に渡された地図を元に、美弥は蔵々(くらくら)を訪ねた。
 面接とは名ばかりのコーヒータイムを立野と過ごした後、その場ですぐに、ここで働くことが決まったのだ。
 働いてみると、確かに真里愛の言う通り、居心地は良かった。バイトは初めての経験だったのでしばらくは緊張していたが、気さくな立野の人柄もあって、すぐに馴染むことが出来た。給料も決して悪くないので、少なくとも旅行資金が貯まるまではここで働かせてもらおうと美弥は思った。

 ベルの音とともに、友樹(ともき)が出勤してきた。
 目が隠れるほどに伸びた真っ直ぐな前髪と、猫背な姿勢。肌は白くて、あまり太陽の下を好むようなタイプには見えない。彼はいつも、どこか儚げな気配を纏っており、今日は灰色のパーカーを着ている。
「すみません、遅くなって。すぐ着替えます」
 と立野に会釈をして、友樹は店の奥のドアへと消えていく。
 途中、美弥とも顔を合わせると、彼はぎこちなく笑った。美弥も薄く笑(え)んで返した。思った通りの笑顔にならなかった。もしかしたら、困ったような顔に見えてしまったかもしれない。

 友樹は、美弥と同じ大学に通う二年生――同い年だ。
 美弥がここで働き続ける二つ目の理由が、彼だった。美弥は、前髪に隠れがちな友樹の目が、とても綺麗なことを知っている。


 03

 友樹と知り合ったのは、半年前の四月のことだ。
 同じ学部なので、それまでも学内ですれ違うことはあったのだろうが、特に意識したことはなかった。もちろん、名前すら知らなかった。
 きっかけは些細なことだった。中庭で友人と話しているうちに、次の講義に遅れそうになった美弥は、慌ててトートバッグを肩に掛け、小走りに教室へと向かった。
 二階へと続く階段に足を乗せたところで、後ろから声を掛けられた。
「あの、これ。……中庭に落ちてましたよ」
 友樹が差し出す右手には、美弥のハンカチがあった。花柄があしらわれた、お気に入りのものだった。どうやら中庭で落としたらしい。

 彼は息を切らしていた。
 後になって知ったことだが、友樹がちょうど中庭を通り掛かったとき、美弥のバッグからハンカチが落ちるのを目撃したのだという。
 しかし友樹がそれを拾った時には、美弥はもう校舎に入ったところだったので、彼はすっかり迷ってしまった。走って追いかけるべきか、落し物として届けるべきか――友樹はあまり社交的な性格ではなく、見知らぬ女子に自ら声を掛けた経験など、ほとんどなかったらしいのだ。
 悩んだ末、彼は追い掛けることにした。だいぶ距離が開いてしまったので、友樹は走らなければならなかった。運動も苦手だった。
 
 美弥は、肩で息をする友樹からハンカチを受け取り、
「ありがとうございます。えっと――」
 一瞬、息を呑んだ。
 走ったためか、友樹の前髪は乱れ、二重まぶたの大きな目が露(あら)わになってた。瞳の色素は薄く、琥珀(こはく)色に輝く。春の光をたくさん取り込んだかのようなその目に、美弥は見入ってしまった。
 半年経った今でも、その瞬間のことは鮮明に思い出せる。時間にして十秒もなかったはずだが、彼女にとっては、永遠に続くストップモーションのように脳裏に焼き付いていた。
 その間、友樹も目を見開き、ずっと美弥のことを見つめていた。彼の瞳の中の輝きは、さらに増したようだった。
 友人の催促する声が階段の上から聞こえてきて、美弥は我に返った。
 名残を惜しむように、思わず口を開いていた。
「あの、名前は――」
 互いに名乗り合い、二人は別の教室へと向かった。
 
 あれ以来、美弥は友樹の姿を目で追うようになった。
 廊下を歩く姿。学生食堂の食券機の前で、頭を掻いて迷う仕草。図書館で、手元の本に視線を落とす横顔。
 ごくたまに彼が振り返って目が合うと、慌てて視線を逸らした。
 話し掛ける勇気は出なかったが、十分に幸せな時間だった。


 04

 翌日の水曜日は、バイトが休みだった。
 確か、友樹のシフトも入っていないはずだ。店は開いているので、今日は立野ひとりで店を切り盛りしていることになる。そもそも、慌ただしい気配とは無縁な店だから、彼ひとりでも十分にやっていけるらしい。
 それならば、バイトなど雇わなくてもいいのではないかと美弥は思うが――そこはどうやら立野の趣味というか、道楽らしく、色々な価値観の人間と接してみたい、というのが彼の主張なのだ。
 経営者としては随分と呑気(のんき)に構えているようにも感じられるが、長年、潰れることなくやっていけているようなので、美弥が心配するようなことではないのだろう。
 それに、そうした立野の余裕こそが、蔵々(くらくら)のまったりとした雰囲気を醸し出す、もっとも大切な要素なのかもしれなかった。

 美弥のスニーカーが、落ち葉を踏みしめた。学内の図書館へ向かおうと、一人で歩いている時だった。廊下を行く二つの人影に目が止まった。
 真里愛と友樹だ。
 肩を並べて歩きながら、何やら話していた。
 友樹はいつもと同じように、無愛想な顔をしている。彼は愛想笑いが苦手なのだ。バイト中、注文を取ったり、コーヒーを運ぶ時も、決して明るい笑顔を浮かべたりはしなかったが、彼の纏(まと)う朴訥(ぼくとつ)な雰囲気からか、常連客はむしろ彼のことを好ましく思っているようだったし、美弥も同じように感じていた。
 しかし一方で、今彼は、真里愛との間に壁を作っているようにも見えなかった。
 美弥の立ち尽くす場所からは距離があったし、ガラス窓越しなので会話の内容までは分からなかったが、目を合わせて、二言(ふたこと)、三言(みこと)、言葉を交しているようだった。歩く速度もぴったり揃っていた。
 つまり、ごく自然な様子なのだ。
 美弥は、あのような距離感で友樹と会話をしたことがない。いつもぎくしゃくして、会話が途切れてしまう。美弥は初めて真里愛のことを羨ましいと思った。

  + + +

 その次の日、立野に電話して、バイトは休ませてもらった。
 何となく、友樹と顔を合わせたくなかったからだ。早い時間に学校から帰り、枕に顔を埋(うず)めて、美弥は友樹とのことを思い出していた。

 それは、蔵々(くらくら)でのバイトの三日目だった。
 店に着くと、濃いブラウンのエプロンを着けた友樹の姿があった。美弥が、思わず驚きの声を上げると、立野は二人の顔を見比べて、「おや、知り合いかい?」と言った。
「ああそうか、同じ大学だもんね。友達同士なのかな」
 美弥は困惑しながら、ほとんど無意識に回答していた。
「えっと、はい。そうです」
 なぜそんなことを言ってしまったのかは、自分でも分からなかった。あの春の日以来、挨拶を交わしたことすらない。これはただの願望に過ぎなかった。変なふうに思われたんじゃないだろうか。実は彼を盗み見したこともバレていて、ストーカーだと気味悪がられたりはしないだろうか。私のことなんて、とっくに忘れているかもしれない――。
 だが友樹は、否定しなかった。ただ黙って頷いた。そして、「牧野さん」と美弥の名字を呼んだ。
「よろしくね」
 平坦な声で言って、ぎこちない笑顔を見せた。
 頬が熱くなるのを感じて、美弥は自身の恋心をはっきりと確信した。その日からバイトが楽しみで仕方なくなった。
 同じ空間に居ても、話すときは大抵、立野を交えてだった。あるいは、常連客を挟んでの間接的な会話だ。
 友樹は、相変わらず何を考えているか分からないような顔をしていたが、時間が経つに連れ、彼の声や仕草から、いくらかの感情を読み取ることが出来るようになった。
 例えば、緊張している時は声がひとつ高くなるし、立野の冗談が可笑しい時は、顔をそむけてひそかに肩を揺らす。
 馴染みの常連客との会話はリラックス出来るようで、特に、窓際に座るご婦人たちからは「友(とも)くん」と呼ばれ、その声を聞くと、彼はやや弾んだ足取りでテーブルへと近づいていく。何だか、子犬のようで可愛らしかった。

 そしてどうやら、ぎこちない笑顔を浮かべるのは――照れている時のようなのだ。

 それに気づいた頃から、コーヒーの香りで満ちた蔵々(くらくら)での時間は、美弥にとって他の何にも代えがたい宝物になっていた。


 05

「じゃあ、今日は賭けをしよう」

 翌週の月曜日のことだった。
 昼食を終え、蔵々(くらくら)へと出勤し、エプロンに着替えたばかりの美弥に、立野はいきなりそう切り出した。
 店内にはまだ、彼と美弥の二人だけだった。
 今日は友樹は休みだったが、寂しいとは感じなかった。むしろほっとしている自分が居ることに美弥は気づいた。
 美弥の頭の中にはまだ、先週見かけた友樹たちの姿がはっきりと残っている。
 ふとした瞬間に思い出してしまい、憂鬱な気分になった。家でひとりで居る時も、バイトの時もだ。店長の冗談に付き合うには、少しばかり労力を必要としそうだった。

 そんな美弥の心情に気づいていないのだろう、立野はいつもの通り、カウンターを挟んで呑気な顔で笑っている。
「次に来店するお客さんの姿を当ててみせよう」
「また魔法ですか?」
 美弥はややうんざりした顔で、
「それ、賭けになりませんよ。私にだって分かりますもん」
「そうかい?」
「ええ。今日は月曜日だから、きっとピンクのセーターです」
「ふうん」
 立野は片方の眉を吊り上げて、挑戦的に笑った。そしていつかのように、人差し指で鼻の下のヒゲを撫でてみせた。
「僕の予想では……おっと」
 小刻みに首を振って言い直した。
「僕の魔法によるとね、そうだ、水玉模様のワイシャツ姿だね」
「水玉?」
 常連の柳田が、そのような格好で現れたことはない。
「賭けるものは――そうだなあ、負けたほうが勝ったほうの言うことを何でも聞く、っていうのはどうだい。オーソドックスだけどね」
「何でもって……変なことは駄目ですよ」
「おいおい、僕を何だと思ってるんだい。傷つくなあ」
 そう言いながらも立野は、からからと楽しげに笑う。
 美弥は怪訝に思いながらも、渋々賭けの内容を了承した。どうせ、当たろうが外れようが構わない。立野の暇つぶしでしかないのだ。
 それに、今の美弥は、気を紛らわすことが出来るのなら別に何でもよかった。ただ淡々と働くよりは、幾分か気が楽になるだろう。

  + + +

 美弥がテーブルを拭いていると、時計が午後一時を回った。
 入口のドアが開いた。
 そこに立っていたのは二〇代くらいの若い男だった。初めて見る顔で、黒い生地に白い水玉模様のシャツを着ていた。
 彼は右手にスマートフォンを握りしめたまま、恐る恐る店内へと踏み入り、
「あのう、ここって、蔵々(くらくら)っていう喫茶店でいいんですよね?」
 と訊ねてきた。
「ええ、そうですよ」
 立野が答える。
「純喫茶・蔵々(くらくら)です。いらっしゃいませ」
 男は「どうも」と言って、カウンターの端の席に座り、コーヒーを一杯注文した。どうやらコーヒーに関してはこだわりがあるらしく、立野と何やら専門的な会話を交わしている。その様子を眺めながら、美弥はあっけに取られていた。

 すると、接客を終えたらしい立野がカウンターの中を移動して、美弥の前までやって来た。
「どうだい? 僕の魔法は」
「……はあ」
 美弥はため息をつき、小声で言った。
「そうですね、私の負けですよ。……店長(マスター)、あのお客さんと知り合いなんですか?」
「いいや、初めて会ったよ」
「じゃあ、お店の外に監視カメラがあるとか?」
「はは、そんな物騒なものを設置した覚えはないなあ」
 立野はどこまでも愉快そうだった。
「それでは罰ゲームだ」
 手元から茶色い封筒を取り出して、カウンターの上に置いた。すっと美弥のほうへと差し出し、
「これを持って帰りなさい。仕事はもういい」
「……え?」
 しばし美弥は呆然とした。
 差し出された封筒の中身は、もしかしてこれまでの給料なのだろうか? もうクビだと、そういうことなのだろうか?
「な、何の冗談ですか」
「本気だよ、僕は」
 ずしんとした重いものが、胸の奥に落ちるような感覚がした。
 立野の真面目な瞳が、美弥の顔を真っ直ぐに見ている。店内に流れる大人しいBGMが、今はやたらと耳に響いて、彼女にはうるさく感じられるくらいだった。
 コーヒーの香りだけが、いつもと変わらず店内を満たす。
「ただし」
 と立野は続けた。
「次にお店に入って来るお客さんを連れて……というのが条件だ。それが誰でも、例え何人であっても。必ずその封筒を持って、一緒に帰ること」
 美弥には立野の言う意味が、まったく分からなかった。
 言葉を継ぐことが出来ずに、視線を落とし、封筒を見つめた。
 それは随分と薄かった。今月分の給料にしたって、こんなに薄くはないはずだ。では、この中身は何なのだろう。開けてみれば分かることだったが、何故か体が固まって動かなかった。突き放すような立野の言葉に、ショックを受けていたのかもしれない。
 耳の奥がガンガンした。
 何かを言いたかったが、それが何なのか、美弥自身にも見当が付かずにいた。それでも言葉を紡ごうと、目を伏せたまま唇を動かそうとした、その時だった。

 カランコロンカラン――

 軽やかな音がして、誰かが入店してきた。
「いらっしゃいませ」
 立野の言葉に反応して美弥が振り向くと、そこに居たのは友樹だった。
 長い前髪に、少し丸まった背中。普段から彼がよく着ている灰色のパーカー。開け放たれたドアを背に、彼は静かに佇んでいた。
「え、友樹くん?」
 美弥は目を丸くして、
「今日は、バイト休みなんじゃ――」
「うん。だけど、特別メニューを試したいから、客として来て欲しいって、店長が」
 驚いて振り向くと、立野は肩をすくめて微笑んだ。
「そういうことで。ほら、早く行かないと、いい席が埋まっちゃうよ。開演は二時からだ。バスに乗って十分くらいだから」
「開演って、何がですか?」
 美弥が訊ねると、立野は不思議そうに首を捻る。
「何って、映画だよ、映画」
「え、じゃあこの封筒って――」
 美弥はカウンターに置かれたままになっていた封筒を、手に取った。
「映画のチケットだよ。二人分。ん、言ってなかったっけ?」
「……言ってませんよ、絶対」
「ははは、そうだっけか? まあいいじゃないか。ほら、決まりは決まりだろ? ちゃんと君から声を掛けるんだ」
「…………」
 美弥はがっくりと肩を落とした。立野に仕組まれたらしいこの状況に、すっかり呆れていた。
 しかし、こうしたタイミングでもなければ、友樹との距離を縮められそうにはなかった。一瞬、廊下を歩く二人の姿が浮かんだが――首を振って頭の中から追い出した。
 顔を上げると、カウンター越しに立野の笑顔があった。美弥の視線を受け止めると、黙ったまま、ゆっくりと頷(うなず)く。
 美弥は封筒をぎゅっと握りしめて振り向いた。
 一方の友樹は、状況が飲み込めないようで、首を傾げている。
 ドアからの秋風が、彼の真っ直ぐな髪を揺らした。琥珀色の目が美弥を見ている。優しくて、大きな目だ。あの春の日から、ちっとも変わらない光がそこにはあった。
 美弥は、意を決して口を開いた。

「あの――」


 06

 二人が去った後の店内で、立野は「ふう」と大きく息をついた。
「上手くいきましたね、マスター」
 水玉模様のシャツを着た男が、カウンターの端から話し掛ける。
「ああ、ようやくね」
 立野は苦笑いを浮かべて男のほうを見やった。
「まったく、これだけお膳立てしてあげたっていうのに、全然進展がないんだからなあ。お似合いっちゃあお似合いなんだけどね。この調子だと、あと二、三回は背中を押さなきゃ、くっつかないんじゃないかな」

 そんなことを話しているうちに、スーツ姿の男が入店してきて、いつものカウンター席に腰掛けた。続いて二人組の老婦人が、カウンターに並んだ。スーツの男の隣だった。
 水玉シャツの男が座っていたはずの一番端の席には、いつの間にか柳田が座っていた。ハットを被っており、今日のセーターはピンク色だった。
「うん、これで全員かな」
 立野は、めいめいの顔を見渡した。
「あの、お師匠様(マスター)。今日はもういいんですよね?」
 柳田が立野に向かって言った。若々しい声だ。声の高さは、少年といってもいいくらいで、瑞々しい響きがあった。
「そうだね、今のところは。まあ、一休みしていいよ」

 立野の言葉を合図に、常連客の四人は、するりと姿を変えた。

 二人の老婦人の頭は、ひとつはトカゲに、ひとつは蛙に変わった。二人の座高は、随分と伸びた。
 続いてスーツ姿の男は、髪の短い女性になった。細身な彼女の髪は、燃えるように赤い。
 最後に、老人の姿をしていた柳田は、金髪碧眼(きんぱつへきがん)の少年へと姿を変化させる。彼にとってカウンターの席は高すぎるようで、座り心地が悪そうに身を捩(よじ)った後、小さな顎をカウンターに乗せて言った。
「もう、お師匠様(マスター)ったら、直前で命令(オーダー)を変えるんだもんな。こっちの身にもなってくださいよ。準備なしに変身するのって、凄く疲れるんですよ」
「それは君が未熟な証拠だよ。それに、いつも同じじゃ修行にならないだろ」
 立野が少年の額を、人差し指で軽く弾くと、少年は「うう」と低く呻(うめ)いた。
「そのくらいでへばってどうするんだい。情けないな」
「そうは言いますけどお師匠様(マスター)。僕はまだ少年なんですよ」
「いやいや。僕が――私が君くらいの年には、変身の魔法なんてとっくに習得していたよ」
お師匠様(マスター)と比べないでくださいよ」
 金髪の少年はむくれて、カウンターの上で頭を横に向けた。被っていたハットが、コロリと落ちた。

「それよりお師匠様(マスター)
 トカゲ頭が、低い声で言った。
「いつまでその格好でいるんですか?」
「ああ、そうだね」
 立野は、パチンと指を鳴らす。
 途端、キャラメル色の長い髪がふわりと揺れた。ヒゲはすっかりなくなって、顔はひと回り小さくなった。身長も縮み、すっかり若い女性の体に変貌していた。
「でもまあ、取り敢えず第二段階はクリアかな」
 カウンターの中で、真里愛は言った。
 声も女性のものに戻っていた。
「大学生のくせに、奥手なんですね」
 少年が青い瞳で真里愛を見上げ、ふふんと鼻で笑った。
「君に恋愛の何が分かるんだよ」
「分かりますよ、僕にだって恋のひとつやふたつ」
「本当かよ?」
 隣に居た赤髪の女が、少年の肩を小突いてニヤリと笑う。少年はまた拗ねたような顔をした。
「しっかしまあ、あたしも男のフリすんの飽きたよ。次は別のカッコしてもいいかい?」
「いいけど、あの二人が居る時は今まで通りよろしくね」
「へーい。しょうがないな。お師匠様(マスター)の仰せの通りに」
 片肘をついて、赤髪の女は気だるげにそう言った。

 蛙頭の、もと老婦人は、
お師匠様(マスター)は、よくあの二人の気持ちに気づいたものですね。私にはさっぱりでした。まあ私、人間の生態にあまり興味がないからかもしれませんけども」
 と言った。堅苦しい男性の声だ。
「はは、そうなんだろうね。……でも、友人として見てる分にはまあ、バレバレだったよ。美弥はいつも友樹のこと見つめては、ため息ばっかりついてたしねえ。友樹だって――あいつは高校時代からよく分からないやつだったけど、でも、美弥と会ってからはすぐ顔に出るようになったよ」
「左様ですか」
 蛙頭はげこげこと喉を鳴らした。
「しかしお師匠様(マスター)もお人が悪い。何でも、美弥()に向かって、魔法使いだと告白したと言うじゃありませんか。……冗談に取られたから良かったものの、正体がバレてしまっては大変なことになると言いますのに。師匠を失っては、我々は路頭に迷ってしまいます。もう少し、慎重に行動を」
「はは、悪い悪い」
 真里愛はそう言うが、反省しているような素振(そぶ)りはなかった。
「それに、透視の魔法だなんて嘘まで吐いたとか。人を騙すのは、あまりよろしくない」
「分かったってば、君は口うるさいなあ」
「私は蛙でありますれば、仕方がございません」
 真里愛は弟子の返答に辟易(へきえき)したように首を振り、大袈裟に肩をすくめてみせた。

 店内には相変わらず、真里愛が選曲したジャズが流れている。
 彼女が父親から受け継いだこの店には、今日も変わらぬコーヒーの香りが漂う。
 カウンターには、彼女の弟子が四人。
 少年と、赤髪の女と、トカゲと蛙。
 本当は皆、コーヒーが好きではないのだが、真里愛の趣味に従って大人しくカップを口に運ぶ。師匠は弟子からも容赦なく代金を取るので、彼らにしてみれば、ほろ苦い修行ではあった。

「おや」
 真里愛が不意に声を上げて、背筋を伸ばした。
「どうやら、次のお客さんのようだ。ほら皆、スタンバイして。たらたらしない。カップは自分で持って、所定の位置だ」
 弟子たちはゆるゆると従う。姿形は、もうすっかり蔵々(くらくら)の常連客のものになっていた。
 真里愛はそれを見届けると、誰ともなしに呟いた。
「よし、どんなお客さんか当ててみよう。ううん、そうだなあ――」
 ヒゲのない鼻の下を、すっと一度撫でて、
「うん。きっと、小説の好きなお客さんだ」

 カランコロンカラン――
 喫茶店のドアが、軽やかな音とともに開かれた。


(終わり)
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