覇下シナスタジア

文字数 4,802文字

「おれ、好きなひとができたんだ」
「えっ?」
 突然だった。一緒に観に行った美術館の帰り、館外の庭で、彼は確かに、そう言った。
「もう君とは付き合えない。好きになったひとと、結婚の約束も、した。ごめん。さよなら」
 呆然とするわたしはその場で足が棒のようになって、動けない。七月下旬。蝉の声と夏の暑さを残して、彼は去っていく。
 枯れてしまったと思った涙が、溢れてくる。わたしはあたりかまわず、泣いた。
 誰もわたしを気にかけない。突然の別れに、天も驚いたのか、雨が降ってきた。
 激しい雨。ゲリラ豪雨だった。足が棒になったわたしはその庭で、大きく激しい雨粒に打たれながら、大きな声を出しながら泣いた。
 涙の粒が、雨粒と区別がつかなくなった。わたしはわめいた。
 豪雨のなか、ひとはわたしくらいしかいない……はずだった。
 だが、そこにそのひとは立っていた。優しい微笑みをわたしに向けながら。
 気に食わない。
 わたしはその男に叫んだ。
「わたしがバカなオンナに見えるでしょ! 笑えばいいんだわ! 笑えよ、そこの優男!」
 しかし、その男は、少しはにかんでから、美術館のその庭で、踊りだした。
 鼻歌をうたいながら。
 優雅に、タップを踏んで。
 わたしは、見とれてしまった。
 彼のダンスに。
 泣いているわたしのためだけにあるかのような、豪雨の中のそのダンスに。
 なんでこの優男はダンスを見せてくれるのだろう。
 美しい振付を踊る、美しいその男の姿態が、艶めかしい。
 雨が止んだ。
 わたしは目を瞑った。目を開くと。
 彼は、いなくなっていた。



「なるほどね。それで、その男が消えてからも、たまに街で出くわす、と」
「そうなんです。近くに住んでいるのか、最近になってよく見かけるんです」
「それでその男を好きなってしまって、告白したいから居場所を突き止めてくれ、と」
「友達の……旭って娘に訊いたら、この蘆屋探偵事務所が人探しもしてくれるって。評判が良いからって言われて」
「ああ。旭くんから訊いたのか。僕の専門は迷い猫探しなんだけどねぇ」
 わたしがこの探偵、蘆屋アシェラという方に相談をしていると、事務所のドアが勢いよく開けられた。
「うひー。暑かったぁ。こんな日になんなんですか、アシェラさん」
 探偵は入ってきた男性をわたしに雑な口調で紹介する。
「こいつの名前は成瀬川るるせ。部屋に扇風機しかないから、クーラーで涼もうとやってくる貧乏人さ」
「その言い方、ひどいですよー、アシェラさん。それに今日は呼ばれたから来たのに」
「るるせくんは手土産のひとつも持ってこないからそう言われるのさ」
「手土産ですかぁ? 一体なにを持ってこいと?」
「そうだな……最近は雨が多いから、『覇下』のオブジェが欲しいと思っていたところさ」
「覇下ってなんですか」
「伝説では竜の子供のうちの一匹で、柱や橋や水路に彫られる竜に似た姿の動物が覇下なんだ」
「そのオブジェが欲しいと?」
「覇下は水を好むという。だから、水に関したところに彫られる意匠なのだよ」
 わたしは思わず顔をほころばせてしまう。
「探偵さん。よくおわかりですね。〈彼〉は、雨の日によくわたしの前に現れるんです。それに、川の近くなんかにも、たまにいるんです」
「だろうね。自分じゃ声をかけられないのかい?」
「気づくと、いなくなってしまっていることが多いんです。出会ったときと同じように。
 わたし、頭がおかしくなったんじゃないか、と思って病院へ行ったんです。そうしたら、お医者様が、どこにも異常はないって」
 探偵は頷く。それを見て成瀬川という男は探偵に尋ねる。
「だろうねってどういうことです。消えてしまうなんて、幻覚っぽいじゃないですか」
 成瀬川という男にはデリカシーというものがないのか。だが、探偵がそれに答える。
「るるせくん。幻覚と一口に言うけれどね。
 幻聴というのは、比較的起こりやすいが、幻覚……つまり『幻視』と呼ばれるものは、通常、極度の精神疾患でも、起こらない。
 彼女は狂ってなどいないし、狂っていても、それで幻視を見ることは、まずないだろうね」
 前言撤回。この探偵の物言いもひどい。
 成瀬川は探偵に訊く。
「幻視じゃない、ってことは、その〈雨の日男〉は存在するから、見つけろってことですよね」
「いや、川の近くに出てくることもあると言っていたじゃないか。だから〈水男〉が正しい」
「あはは。アシェラさん。それじゃその男、水商売に聞こえますよ」
 ひどすぎる! わたしは話に割って入る。
「で、見つけてくれるんですか?」
 探偵・アシェラはスマートフォンの画面を見てから、
「見つかるよ。あと一時間後くらいにね。るるせくん、クライアントである彼女……秋野天さんに同行して彼を確保してくれたまえ」
「は? 一時間後に見つかる? 確保? 僕が行くんですか」
「そのために呼んだのだから、当然じゃないか。見つけても、秋野さんは彼に声をかけられないんじゃないか、と思ってね」
 成瀬川は口をとがらせて、
「へいへい。わかりましたよ」
 と、拗ねた声を出した。こんな男は大嫌いだが、声をかけてくれるというのなら、付き合ってもらおうか。
 わたしと成瀬川は、夕方差し迫る、炎天下の街にでることになった。



「アシェラさんはこの事件の裏を掴んでいるから、あんなこと言ったんだな、一時間後に見つかるって。ひとがわるいや」
 成瀬川るるせが、わたしの横をひょこひょこついてくる。
「川の近くにいることもあるんでしょ。まず、そこに行ってみましょうよ」
 わたしたちは久我山駅のそばの、宮下橋公園に向かった。神田川沿いにある公園だ。
 宮下橋公園に着くと、成瀬川は虫除けスプレーをまず自分に吹きかけ、その後、問答無用でわたしに虫除けスプレーを吹きかけた。
「夏だからねー。備えあれば憂いなし」
「備えあればって、貧乏そうな身なりですけどね、備えがないのでは、成瀬川さん?」
「よく言われますよ、貧乏人って。それはともかく。この付近で見かけたんですか」
「ええ。散歩道で。あのゲリラ豪雨の日まで、彼を見かけたことはなかったんですけどね」
「その時はどんな日でしたか」
「大雨の次の日で、からっと晴れていました」
「晴れの日も出くわすんですねぇ」
「ええ。前日の大雨の日も、スーパーの帰りに見かけたんですよ。二日連続で会えてラッキーでした」
「じゃ、次はその、言いにくいんですが、初めて会ったという美術館へ行ってみましょうよ。手がかりがあるかも」
「そうしましょうか」
 しばらく歩く。宮下橋公園から神田川の橋を渡り、久我山稲荷神社を抜ける。
 そこには杉並区立久我山美術館があった。
「へー。こんなところに美術館があったんですねぇ」
 成瀬川は口をぽかーんと開けて、美術館の庭の彫刻を眺めている。
 しゃべりながら移動していたので、そろそろ一時間が経つ。彼の姿は、ない。
「ここにある彫像、全部、高そうだなぁ。保険、いくら払っているんだろう」
 成瀬川は、
「美術館に入りますか?」
 と言う。それじゃ、まるでデートじゃないか。わたしは首を横に振った。
「えー。じゃあ今度一人で来よっと」
 このひとに「本気で人探しする気あんのか!」と怒鳴りたくなる。けれども、我慢、我慢。
 成瀬川は、顔を空に向けて、目を細めて、
「雨粒が頬に当たった。夕立が来るぞ」
 と呟いた。
 十秒後、一気に激しい夕立が始まった。
「うひー」
 と言って、しかし成瀬川は雨に濡れながら、わたしの横で直立不動にしている。

「いた……!」

 わたしは目を丸くした。
「はい?」
「彼が……踊っている」
 成瀬川は、周囲を見渡して、それからわたしの目を見た。見たところで、わたしの瞳は〈彼〉のダンスに釘付けだ。
 びしょ濡れになり、水を弾きながらタップダンスを踊る彼の靴音が、わたしには〈聴こえる〉。
 美しくて、それは雨の中でしか存在できないかのような、完璧さを持っていた。

「ダンス……踊りは〈祈り〉に通じているからね。完璧さを、持っているものさ」

 いつの間にか、探偵アシェラも、わたしたちのそばに来ていた。
 わたしの視線の先を、探偵と成瀬川も、見つめている。
「秋野さん。告白、自分でしたほうがいいんじゃない? 僕らが、そばで見ているからさ。勇気を出して、告白しようよ」

 アシェラの言葉に、わたしは頷いた。一歩一歩、彼に近づいていく。
 あの時と同じ美術館の庭で、微笑み、鼻歌交じりで踊る彼に、わたしは近づいていく。
 ゆっくり。
 ゆっくりと。

 彼のそばまで来て、わたしは大きな声で、告白の言葉を、言った。
「好きですッ! 愛してますッ! わたしと付き合ってくださいッッッ!」

 夕立が、サァっと止む。彼はわたしを見て、口笛を吹いてウィンクをした。
 そして、消えた……。

〈彼〉は、一瞬にして、消えていなくなってしまったのであった。
「どう……いうこと…………なの?」



 アシェラは口を開く。消えてなくなった、彼のいた場所を見つめるわたしに向けて。
「感性間知覚。シナスタジアと呼ばれるものだったのさ、秋野さん、あなたに突然生まれた〈才能〉は」
 わたしは彼の消えた場所を見つめながら、探偵の言葉を聴いていた。
「秋野さん。今のあなたには〈音〉が〈見える〉んだ。これをシナスタジア、日本語で〈共感覚〉と呼ぶ」
「え? アシェラさん、共感覚って、音が色で見えるとか、そういう奴ですよね?」
 成瀬川が探偵になにか尋ねている。
「〈大きな水の音〉が、彼女には擬人化して〈見えた〉のさ。きっかけは、彼氏との突然の別れだ。
 調べさせてもらったよ。複雑な家庭環境に育ったみたいだね、毎日体中に痣ができるほどの。
 そこから連れ出してくれたのが、彼氏だったのだろう。でも、秋野さんは、彼氏を想うあまり〈共依存〉になってしまっていた。
 そんな彼氏と別れたんだ、心が痛いどころの話じゃなかったと思う。
 でも、そこででてきたのは、精神疾患ではなく、新しい、隠されていた才能であった〈共感覚〉だったってわけさ。
 別れた直後のゲリラ豪雨がトリガーとなって、現出した才能だったのだろう。
 大雨以外では、雨の次の日、増水した川の流れの音でも、彼は〈現れた〉んだね、〈大きな水の音〉が〈擬人化〉して。
 これは稀有な才能だ。でも、まぼろしだ。幻覚ではないにしても。日常に害をなすなら、消えてもらった方がいい。
 君は〈彼〉に話しかけた。〈彼〉は消えた。そういうことだよ。君自身が共感覚を共感覚と〈認識〉したんだ。
 マジックのタネがわかってしまえば幻滅するように、気づいてしまった君の前からは、〈彼〉は消えた。
 でも、共感覚は続くだろう。そういう能力だから。大きな水の音だけが特別、擬人化する才能だったのかもしれないけど。
 これからこの才能がどうなるのか、君自身がこれからその身をもって証明していけばいい」

 そっか。覇下。水を好む伝説の動物。それは、雨の日に現れる〈彼〉ではなくて。
 覇下だったのは、大きな水の音を人間に〈知覚〉してしまう、わたしの方だったんだ。
 あっは。バカみたい。でも、ありがとう。

 わたしは探偵・蘆屋アシェラと成瀬川るるせを見る。ふたりもわたしと同じく服をびしょ濡れにさせながら、夕飯の話をしている。
 勝手な男たちだ。
「ありがとね」
 わたしは言った。
 それはこの探偵たちだけにではなく、水の泡と消えた〈彼〉に向けての言葉だった。さあ、わたしはこれからどう生きよう。

〈了〉
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