第5話

文字数 4,268文字

母はもういないのに、この時限爆弾のような感情は、何だろう。そして、母は、私をどのようにしたくて、幾多の仕打ちをしたのだろう。
 そう言えば、仏壇の件を忘れていた。今は、一人暮らしで部屋も狭いということで、叔母が一式を預かってくれている。今のところ、何も言ってはこないけれど、いずれ引き取る時が来ると覚悟したほうが良い。恵は、
「やだー、そんな辛気くさいもの部屋に置けなーい。お姉ちゃん長女なんだから引き取って  よー」
 と言うに決まっている。引き取らざるを得なくなったら、仕方ない、仏壇を閉めたままにしておくくらいが、せめてもの反抗、または復讐だろう。その日のことを考えると、もう気が重い。父が長男だったので、そのまま山中家代々の墓に入れてもらえたが、私は独身のままでいたら、そこに入らなければいけないのだろうか。断じて、嫌だ。寿命が尽きる頃には、一般的になっている時代になっていてほしい。そうなるまで、生きている必要がある。何が何でも、生き抜かなければならない。
 健康に、気をつけよう。バランスの良い食事を取り、体力も必要だ。激しい運動は苦手なので、ウォーキングくらいがちょうど良い。だけど、私にはそれすらきついのだった。一キロ位歩き続けると、膝ががくがく震えてくる。
「あ、始まった」
 と思うと、一歩一歩痛みが増し、そのうち暫く休まないと進めなくなってしまう。たしか中学二年の時のこと。運動会の練習をしていた。リレーのバトンを渡すタイミングを身体に覚えさせるため、ペアになって何度も走りこんだ。猛ダッシュしたため、私は転んだ。バランスを崩し、左膝の上に、ちょうど右の膝小僧が当たり、ピキッというような音がした。出血はしなかったが、筋を痛めてしまったようだ。皆心配して寄って来てくれたけど、見た目が何でもないので、私も強がって、
「大丈夫、大丈夫」
 と言ってしまった。
 本当は、相当に痛かった。帰り道、足を引きずるようにして、漸く家に着いた。
 その頃母は、パートで始めた仕事が面白くなり、ほとんど毎日勤務していた。本人は、楽しいつもりだったろうが、明らかに疲労が蓄積していっているのが、わかった。夕食も、帰りに急いで買ってくるコロッケなどのお惣菜一品と、朝の残りの味噌汁。よく居間のソファで、うたた寝をしていた。
 私が、足を痛めたと言ったら、どういうことが起こるだろうか。
「まったく、この忙しい時期に余計な仕事増やして」
 中二なのだから、病院へは一人で行けるだろう。けれども、「怪我をしたので体育の授業を休む」という連絡は、親がしないといけない規則だ。そうでなければ、子供が勝手に休むことが出来てしまうから。
 連絡を紙に書くという簡単な事でも、母にとっては、イレギュラーであるから「余計」なのだ。たっぷりの嫌味を込め、学校への連絡を書いた生徒手帳を放って返してよこすだろう。
 そこまで想像して、伝える前から、げんなりしてしまった。
「転んだばかりだから、痛いだけだ。時間が経てば治るだろう」
 根拠のない希望的予測をして、その日は寝た。その夜、隠そうとしつつも痛いので、かなり足を引きずっていたが、母はちっとも気づかなかった。なぜなら、母の瞳に私は映ってはいないから。
 翌朝。驚いた。左足が、腫れている。広範囲にわたる内出血。やはり、右の膝小僧が強く当たっていたのだ。歩けない。やっとの思いで、キッチンまで辿り着くと、母は忙しそうに朝食の準備をしていた。父が一人で食卓につき、茶碗のごはんをかっこんでいる。いつも見る、やるせない風景。テレビの音だけが、大きく響き、誰も他の家族のことなど見ていない。誰も、楽しそうに朝を迎えていない。
「お母さん、足が痛くて学校に行けそうもないんだけど・・・」
 お母さん、と呼びかけたので、父は自分には無関係と判断したのか、私の方を見るでもなく、最後の一口を大急ぎで口中に放り込み、席を立った。
「え!!」
 怖い。
「どうしたのよ!!」
 恐れおののく。どこをどうすれば、こんなに怒りのこもった発声が出来るのか。
 事情を、説明する。それもなるべく手短に。母の朝の時間を極力奪わないように、気をつけつつ。
「なんで、昨日言わないの? こんな忙しい時に言われても、私仕事休めないのよ」
 言いながら、着々と身支度を整え、いつの間にか父の食器は食洗機の中にセッティングされている。私と妹は、自分で入れることになっているので、母の台所の仕事は、これでとりあえず終了した。
「・・・自分で行くから、大丈夫」
「やぁね、無駄金使って」
 無駄金、か・・・。その言葉が、心を二本取りのロープでもって締め付けた。きつくきつくまとわりつき、一瞬息が出来なくなってしまった。
 母は、玄関に移動していた。
「お釣り、返しなさいよ!」
 バタン。出掛けたようだ。ゆっくりと玄関まで行くと、五千円札が一枚、私のスニーカ
ーの横に落ちていた。拾い上げる。怪我することさえ、許されないのだ、私は。
 当日言っても、翌朝言っても同じこと。どちらにしても、叱られる。こういう時が、一番応える。母の思ったとおりの行動をすることが、前提。風邪の一つも引かず、門限を破ったりもしない。日曜日は、おとなしく家にいて、出来れば自室にずっとこもっているのが、理想。
 家事を手伝おうとしようものなら、
「いい、いい。余計なことしなくても。あんた、ノロいから、役に立たない。私が一人でやったほうが、よっぽど早いから」
 と吐き捨てるように。
 好きで怪我をしたんじゃないのに。思ったところで、どうしようもない。
「あんたの不注意でしょ」
 輪をかけて責められるだけだ。けれども、せめてもの救いは、誰かに怪我をさせられたのではないことだった。そうなった場合、突如母は、「山中奈津の良き母」として機能し始める。担任教師への電話に始まり、相手を加害者呼ばわりして、事実はどうであれ謝罪するまでは絶対に許さない。その言い方のきついこと。あまりの剣幕に、途中から相手のお父さんに電話を替わられてしまうこともあった。そんな時私は、受話器を持つ母のすぐそばで、やきもきしながらやり取りを聞いている。あんまりひどいことを言った場合には、袖を引っ張り、
「やめて・・・」
 と懇願、母は、私をものすごい形相で睨みつけ、私の手を思い切り振りほどく。
「大切な娘を傷つけられたんですからね」
 決まり文句。私は、大事な娘か。疑いの気持ちしか抱くことが出来ず、ともすればその空しさに笑い出しそうでもあった。
 言われれば言われるほど、現実との扱われ方の差に、悲しみが募った。そして、必ず私は友達を一人失う。小、中学校で、三、四人ほど疎遠になった子がいた。中には、隣の席の男子が、大きなしぐさで机の上の消しゴムのかすを払ったときに、運悪く私の目に入っただけなのに、計画的だった云々といちゃもんをつけていた。
 実は、さらに二回ほど、友達が絡んだトラブルがあったと記憶する。けれども、もう懲り懲りだったので、黙っていた。報告をしなかった。母は、だから知らない。子供と言うものは、ちゃんと受け止めてくれないとわかると、嘘をつく。陰で何かを、やらかす。でも、それは、子供が思いついたことではない。そうしないと、余計に苦しくなるのがわかっているから、いたし方なくそちらを選択するのだ。
 玄関の床から、拾い上げた五千円。母は、もう出掛けてしまったから、学校は休めなくなってしまった。欠席の時は、親から電話を入れることになっているからだ。私は、早めに家を出て、学校に向かうことにした。引きずって歩くので、時間がかかるだろう。そして、早退して病院に行こう。私は、万年筆を持ち出し、母の字を真似て書き始めた。
「本日、足が痛く通院の必要がありますので、二時間目にて早退させてください。よろしくお願いいたします」
 文面も、以前の連絡をなるべく模倣して完成させた。先生に見せた後、最新の注意を払って、そのページを生徒手帳から破り捨てたことをよく覚えている。そうせざるを得なかったけど、ばれたら、また母の逆鱗にふれることも良くわかっていた。
「まったく、やな子ね。こんなこずるい真似して。前の日にちゃんと言ってりゃ、こんなことにはならなかったのよ!」
 言われてもいないのに、頭の中で勝手に母が吠える。怖い。
 今でも梅雨時になると、しくしく主張してきてウォーキングの邪魔をするその痛みは、理不尽な日々をずるずると思い出させる。ある意味、まだ全然癒えていない生傷とも言える。
 当日に、
「ねぇ、お母さーん。今日体育の時間に転んじゃって、ここすごく痛いのよー」
「あら、大変! まだ病院開いているかしら。急いで行きましょう」 
 という会話が成立する家庭だったなら、私のこの足はすぐに完治したのだろうか。そうかもしれない。ただ、私には何回思い出しても、当日母に訴えるという選択は、有り得ないのだ。思い出すたび、思い出は脚色されていくのだろうか。十四歳の私は、どんどんかわいそうな少女になっていく気がする。当時のことを思い出すと、冷たい冬の海に浸かって、顔だけ水の上に出し、かろうじて浮いているような切羽つまった感がある。水の中では必死に足をばたばたさせて、何とか沈まないようにしているけれど、それ自体がパニックで、どうやって息をするのかも思い出せず、たまたま入ってきた空気を取り込んで、浅い呼吸を繰り返す。いつバランスを崩して、沈み、死んでしまってもおかしくない。それほど余裕のない状態であっても、誰にも頼れず、もがいている。すぐそばで、無様に手足をばたばたさせている私を母がせせら笑っているような気がした。何がおかしいのか、ちっともわからない。
 ただ、わかっているのは、私は常に母より劣っていなければいけないということ。それが、母の人生にとってはとても大切で、大前提。十四歳。何にでもなれる未来が、広がっている。皺もなく、手も荒れていない。そういうことすら、母にとっては許しがたいことだったらしい。だから、私が非力であることを強く強く植えつけようとしたのだろう。娘は、母より若いのは当然のこと。どうやっても、変えられない事実。自分が一番でいたいのに、ただ若いというだけで自分の存在を脅かす私は、きっと母にとっては天敵のようなものであったのかもしれない。

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