人と冥府:8

文字数 6,781文字

暗闇にハデスの姿だけがはっきりと浮かび上がっている。
今までに見せた事のない威圧を纏って、静かに微笑みながら。
その右手には珍しい二又の矛が握られていた。果たして矛と呼んで良いのかと躊躇うほど剣のように長い槍頭、まるで氷をそのまま刃にしたかのように澄んでいて向こう側が見える。柄は光を反射しない黒色で毒々しい赤色の蔦のような装飾されていた、刃とは正反対でとても禍々しい。
怒っている理由はなんとなく想像がつく、契約者イオスの怪我と死者の扱いに対してのモノだろう。空気が震えているのを肌が感じており、氷のような冷たさが辺りを覆う。
そのハデスが仁王立ちしている場所にグレイスが動揺の色を見せた。
それは小さな反応だったが近くに居るイオスが気付くのには充分だ、奥歯をぎりぎりと噛みしめる音が小さく聞こえハデスを睨みつけている。
相手に悟らせないようにしているのか表情に出さない。
そんなグレイスの様子知ってか知らずかハデスが微笑みを崩さず話始める。
「さて、暗いと動きやすかったがイオスが困るだろう。」
ハデスが優雅に手を振ると小さな光の粒が無数に表れ、洞窟の天井の方へと上昇する。その光が満遍なく広がると昼間のように洞窟内が明るくなった。今まで光の届かなかった場所が照らし出されてこの場所の広さが露となる。
天井は高く鍾乳石がいくつもその鋭い切っ先を下に向け、剣のように幾重にも並んでいた。地底湖はかなり広く対岸の方まで光が届いていない、深さもかなりあるようで底は真っ暗だ。
今まで暴れていた場所も整地されているかのように平らであった、道理で動きやすかったわけだ。
「なんで貴方、呪術を纏ったナイフで確実に刺したのに……。」
「呪術? あのチクッとした奴か、残念ながらその程度のモノは効かんよ。」
「なっ!? チクッて!?」
「まぁこちらの人間は流石に気を失っているようだがね、傷は塞いだし命に別条はない。」
驚き開いた口の塞がらないグレイスをよそにハデスが目線を落とす、目線の先をよくよく見れば足元にレオがうつ伏せで転がっていた。顔色は伺えず安否は確認できない。
ハデスが無事と言うのならば信じるしかないだろう、現に何回も回復魔法でイオスを今まで助けてくれたから。



ハデスが無事だったのはグレイスの足元に連れて来られた時点で気付いていた。と、言うのもグレイスが勝誇っている足元で顔を上げ小さくこちらに手を振っていたからだ。
近くに置いたせいでグレイスにはその動作が見えておらず、更にイオスを警戒していたお陰でまったく気付いていなかったらしい。
ハデスが口に指を当てて『話すな』という動作をしているのは分かったのだが、その他の動作が分からず少し眉を寄せた。
「なんでって顔ね、予定は色々と狂ったけど――。」
と、グレイスの話がこちらに構わず続いていく。どうやらイオスの微妙に動いた表情で勘違いをしたらしい。
それならば、ずっとこちらで気を引いておけばハデスの方が動きやすいのではと剣を抜いた。
死霊の珠の説明に険しい顔をしていたハデスの表情が一気に慌てふためいたのを覚えている。


あとはご覧の通りだ、ハデスが何かを探している時間稼ぎをイオスが引き受けてこの有様だ。
流石に慣れない長話に疲れてイオスがげんなりとしている。
「さてと、ではイオスを離してもらおう。色々気になる所は置いといてね。」
明るくなった地底湖にはグレイスと巨大化した骨の集合体、ハデスと捕らえられているイオスの他は安否不明のレオしか居ない。
骨が少し揺れ軽く硬い音が響き渡る、遮るものが無いので少しの音でもよく響いた。
「……そんな事をすると思う? あなたこそこっちに召喚者が居るのを忘れないでね、手を出せばこのナイフで魂を取り出してあげる。」
イオスの首元に冷たい刃が当てられる、少しでも動けば肌が裂け赤い血が流れるだろう。
どうやら自分を人質として使うらしい。
ハデスの片眉が釣り上がった。
「ほぅ?」
「彼が居ないとこの世界に留まれないのよね。大人しくしててねハリー?」
「……仕方ない。君の術は全て無効化させてもらう。」
その言葉にグレイスが固まる、構わずハデスが矛を何もない地面に突き刺すと赤色の光を発し風が巻き起こった。
「バイデント、陣を壊せ。」
かなり距離があるはずなのにハデスの凛とした声がこちらまで届いた、赤い光が地面を伝って何かの魔法陣をなぞっていく。円形の魔法陣には様々な読めない文字が描かれておりそれらが全て赤い光に覆われる。
「やめなさい!それは!」
グレイスの悲鳴も虚しくその光がガラスのようにはじけ飛ぶ、花びらのように空中に舞い霧散した。
放心しているグレイスをよそに、チリチリと燃えるような音だけがしばらく残り消える。
すぐに状況は一変した、骨の音が一切なくなる。
イオスを拘束していた力が緩む、横目で確認すれば骨の爛々と光る赤が消えていた。視野に入る全ての目に赤い光が宿っておらず、暗い空洞に戻っている。服を掴んでいた手に力は入っておらず、徐々に重さで落ちていく。
自由になった手でグレイスの背を押し、自身も横へと退き転がる。時間もおかず今まで居た場所に力を失った骨の山が崩れてくる、鋭い肋骨や爪が幾重にも地面に刺さり土煙が空中に舞った。
骨が全て地面に崩れ去るとそこから小さな光がいくつも表れ消えた、それを最後に静けさが戻る。
念のために剣を構えたが反応はない。
「ここに陣を引いて死者を縛っていたのだな。」
「動かないのか?」
「あぁ、全て行くべき所へ行った。」
グレイスは地面に転んだまま動こうとしない、剣は収めず目を配っておく。
「かなりの人数を縛っていたのは地脈の力を利用していたのだな。だが、これで脅威は無い。大人しく縛につけい!」
「……何だそれは。」
「一度言ってみたかったのだ。」
先程までの氷のような空気が少し和らぐ、息苦しさも軽くなった。
少し力の片鱗に触れただけでも分かる、ハデスはとてつもなく強い。纏う圧もさることながら、軽く小突いただけであの死霊を操っていた魔法陣をいともたやすく破壊してしまった。
「…………ふ、ふふ。」
グレイスが力のない笑いをこぼす、肩は小刻みに震え小さく見えた。すぐに動けるように立ち上がり、間合いを取った。
「せっかく集めたのに……よくも。」
「君の死は同情するが、これは看過できん。……それに依頼されたのだからな。」
「…………。」
ようやく顔を上げたグレイスは鬼のような形相を浮かべていた。真っ直ぐとハデスを睨みつけ、表情に一切の感情が宿っていない。
そして、人の言葉ではない何かを囁いた。
地底湖の水が蛇のように鎌首を持ち上げハデスへと襲いかかった、水に飲み込まれたハデスはそのまま湖に引きずり込まれてしまう。まるで本当の蛇のように蠢き、得物を逃さまいと何度も巻きついていた。
間髪入れずに紫の炎がイオスへと襲いかかってくる、それを体を捻って避けた。しかし、後ろから同じように湖の水が襲いかかり水球となって一瞬でイオスを包んでしまう。
衝撃で吐き出しそうになる息を止めた。剣を振って払おうにも水は刃を通すばかりで、斬れない。
ゆっくりと立ち上がったグレイスがイオスの方へ歩いてくる。その目は深淵を覗いたように暗く、感情が読み取れなかった。
「……死霊、とっておきのを別にしておいたのよ。流石に水は切れなさそうね。」
ただの水ではない、まるで縄で締められているかのように体中に圧力がかかる。
「ハリーには効きそうにないけど時間稼ぎにはなるでしょ。貴方の魂を貰うわ、イオス。」
音が聞こえそうなほど締め付けられ意識が遠のく、首に手を持っていっても掴めるモノはなく水を掻いた。
ブラックアウトし始める視界、耐えられず息を吐き出し水が口の中に侵入してくる。
一瞬水色の線が輝き、包んでいた水が全て氷へと変わる。冷たさを感じるより先に氷は砕け散りイオスが地面へと投げ出された。
苦しさから開放され大きく息を吸い込む、どうやらハデス自身が水に襲われながらもこちらを助けてくれたらしい。未だに湖の波は荒々しく渦巻いており上がってくる様子はない。
刃の光を視線の端に捕らえて体が反応する、いくら意識が遠のこうと剣は手に握ったままだ。切っ先にナイフが当たり金属の甲高い音が響き渡った、女性の力とは思えないほどの重さが剣に伸し掛かってくる。なんとか踏ん張るが焦点がブレて長く持ちそうにない。
「どこまで邪魔をするのよあの男!」
「……っ。」
ナイフが徐々に首元へと迫る、怒りにも似た表情にかすかな違和感を感じた。
イオスの方が仕留めやすいだろう、だがハデスの方には足止めばかりで『殺す』という選択をグレイスしていないのだ。
(なぜ?)
グレイスはもう死んでいる、死霊だ。その死霊が避けている……
「ハデスが、怖いのか。」
率直な言葉にグレイスの肩が跳ね上がる、今までの表情とは打って変わって次第に青ざめていった。
「ハ……デ、ス?あの男はハデス、なの?」
唇が次第に震え力が抜けていく、瞳には明らかに恐怖が宿っていた。
湖の水中で爆発したように水柱が天井まで上がる、すぐに全ての水が氷と化した。氷柱を割って何事も無かったかのようにハデスが姿を表す、左手に何かを持っていて淡い白い光を放っていた。
「まったく、魔物の魂も利用するとは。水中にあるこいつの陣も破壊させてもらったよ……って、どうかしたのか?」
「名前を言ったらこうなった。」
「あ―……そうだな。知ってる者には、特に亡者ならばそんな反応にもなる。」
ハデスが困ったように頬を掻く、もはや決着はついたようなものだった。
グレイスがゆっくり後ずさる、ナイフは持ったままだがこちらに殺意は向けていない。
「この魔物の魂は我の管轄で預かろう、君はレオに引き渡し……。」
「うるさいっ!冥王だろうが、邪魔するな!」
感情的な大声を出し、グレイスが自分の喉元にナイフを当てる。瞳が震えてどう見ても正気ではない、自棄を含んだ笑みを浮かべて二人を交互に睨みつけてくる。
「何をしてるんだって顔ね、貴方が私を見つけられなかった理由を教えてあげる。この体は生きてる女なのよ、生きてる体に憑けば貴方みたいな存在から隠れられる。」
「……この期に及んでまだ人を傷つけるか。」
「嫌ならこのまま手を出さないでね。」
喉元にナイフを当てながら一歩づつ後退していく、まだ復讐を諦めていないのかその先は出口へと続いていた。
イオスは相手の挙動を一瞬たりとも目を離さず、呼吸を合わせていく。
いくら武器を持っているとはいえ動きは素人に近い、むしろ術士ならば当然だ。少しの隙が出来るのをただ待つ。
すぐにその時は来た。目線が一瞬外れる、おそらく出口の場所を確認したのだろう。
音もなく一歩を踏み出し、数歩でグレイスの横へと立つ。目線が戻ってくる間にナイフを持っていた腕を掴んだ。
驚いたグレイスが咄嗟に紫の炎をイオスに向けて放つ、炎が服と肌を焼いたが腕を離す事はない。遠くでハデスが自分の名を呼んでいる、炎の音でよくは聞こえなかった。
炎で喉と目が焼け付かないように閉じる、炎が通り過ぎるとあちこちの痛みがある。服も少し燃えているかもしれない。
ゆっくりと目を開ければグレイスの緑の目と合った。
必死に腕を振り払おうともがいており、徒労に終わっている。
「離せ!どいつもこいつも邪魔ばかり!」
「…………。」
空いてる拳でイオスの腕や胸を殴り始める、しかしイオスが反撃することはなかった。
「あいつらに恨みを晴らして何が悪いのよ!誰も助けてくれなかった見殺しにした!私と同じ苦しみを味あわせてあげただけよ!」
「理不尽じゃない!他人に振り回されてすべて決められて、そのせいで死んで!貴方もそんな経験したでしょ!」
悲鳴のような叫びに空気が震える、もはや色々な感情が入り混じった顔にイオスが少しだけ目を細めた。
「……気が済んだか?」
イオスの静かな言葉にグレイスの目が見開かれ一気に怒りが噴出する、今まで抜け出そうと引いていた力を殺意を持って前に押し出す。男と女の腕力の違いは明白だ、だが肉体強化術を使えば同等かそれ以上の力を出せる。避けられても炎で焼き尽くせばいいだけだ。
しかし、予想に反して呪術のかかったナイフは易易とイオスの胸を刺し貫く。
あまりのあっけなさに思わずイオスの顔を見上げる、青い瞳がこちらを見つめ怪我を増やしたにもかかわらず無表情だった。
背筋に冷たいものが伝い、幾分か冷静になる。
「何よ……貴方、何がしたいの。」
「気が済むまで言えば良い。」
静かな言葉にその場で動けなくなる、気がおかしいのだろうか。自分を殺そうとしている言い分を聞くなど、ありえない。
だが、胸の奥につかえていた物が少しだけ軽くなった。
「貴方、やっぱりおかしい。変よ、異常よ。」
「そうか。」
「恨みなさいよ、罵りなさいよ。そういう事をしてきたのよ、貴方だってナイフが刺さってるのよ。」
「ああ。」
「今まで騙してたのよ、酷い事をしてきたの!」
「……レオの兵士を助けてくれただろ。」
予想外の言葉に呆然となる、遥かにソレより酷い事をしていたのに兵士数人を治しただけでこんな事をしているのか。
「あんなの演技に決まってるじゃない、貴方達を騙すための。」
「そうか。」
「……本当に馬鹿よね、真面目に霊術の修行してきてあっさり切られるんだもの。まだやりたい事とかあったのに、目標にしてた人にだって届いてないのに。死にたくなかった。」
思わず深い溜め息をつき、何かが頬を流れた。
「こんなモノもう出ないと思ってた。………………話せて少しはすっきりしたわ。早くケリをつけなさいな。」
「どういう意味だ。」
「私は恨みを残して死んだ死霊よ、恨みを晴らすまで止まれるわけないじゃない。あの冥府の王が居るんだったら簡単でしょ?」
イオスの顔がハデスの方へ向けられる、そうなのかと問いかけている表情だ。そういえばゴタゴタしていて自分がどんな存在なのか説明しきれていなかった事を思い出す。
慌てて首を縦に振れば何の疑問も抱かずグレイスの方へと向き直る、そのイオスの隣へ一瞬で移動した。
グレイスが少し疲れを含んだ顔で片方の口角を釣り上げて笑った。
「せっかくのご縁なんだから冥府の王直々に裁いてほしいものね。」
「約束しよう。」
「この娘は返してあげるからちゃんと受け止めなさいよ。」
そう言い残すとグレイスの体がグラリと傾いた、すぐに力が無くなりこちら側に倒れてくる。その体が地面に倒れないように支えれば規則正しい呼吸音が聞こえてきた、どうやら眠っているらしい。
ハデスが軽く腕を振ると淡い光が宿った丸い氷の結晶が現れた。この中にグレイスが居るのだろう。
「これで良い。イオス、傷を見せてみろ。」
険しい顔のハデスがこちらへと振り返る、視線を落としてみればいつの間にか胸に刺さっていたナイフが消えていた。傷も服の穴を残して何も見当たらない、どうやら最後に治してくれたようだ。その事を確認してハデスがこれまでに無いくらい深く息を吐き出しイオスの肩へと手をつく、よほど安心したのか何度か肩を軽く叩いてきた。
「ハデス?」
「取り合えずここでやる事は無い。砦へ戻ろう、キミを休ませねばなるまい。」
確かに傷はあちこちにあるし、服はボロボロだ。
おまけにレオとグレイスが取り付いていた女性も気を失っている。これでこの洞穴を抜けて山道を降りるのは骨が折れそうだが。
「転移を使うぞ、レオを運んでくるからイオスはそこで動かない。」
少し強めの口調でハデスが指示をする、うなずくと言われた通りにその場で立ち尽くした。その様子を確認し矛をしまうと軽々とレオを担いで足早に戻ってきた、やけに焦っているようにも見える。
「砦の中……では流石に騒ぎになるか。入り口の近くに。」
そう呟くハデスが手を前にかざすとあの黒い穴が現れる、光を一切通さない穴は相変わらず吸い込まれそうだ。
女性をしっかりと肩で支え来た時と同じ要領でその穴をくぐる、暗闇を抜けると砦の入り口が離れた先に見えていた。辺りもだいぶ明るみを帯びており夜明けが近い事を示している、どうやら一晩中戦っていたらしい。
自分の呼吸音がやたら大きく聞こえる、心なしか視界が少しふらついた気がした。
砦の門が開けられ数人の兵士がこちらへ走ってくるのが見えた、ハデスが後ろで何か言ったがよく聞こえない。
イオスが一歩踏み出そうとする、だがそれを最後に意識が遠のいた。

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