第1話

文字数 1,665文字

11月の日曜日の朝、部屋のカーテンを開けた亜紀は、「わあ!」と歓声を上げた。
マンションの3階にある亜紀の部屋から見える景色が、一変していた。
亜紀の部屋はバルコニーに面していて、眼下にあるマンションの前庭の先には一部が駐車場になった空き地が広がり、その向こうの一段高くなったところに建っている家々の敷地にある木々が色付いていた。
小春日和といえる秋晴れの日差しの栄養をたっぷり吸い込んだように、木の葉が黄金色に近いほどの輝きを見せていた。
桜の木は緑から赤へのグラデーション。春に白い花を咲かせる白モクレンといちょうは、黄緑色に変化していた。
まるで、世界に黄葉という魔法がかけられているようだった。

亜紀は中学2年生で、毎日部活で忙しく、朝練があるので朝窓の外を眺める余裕もなく、バタバタと登校していた。
きのう土曜日も朝から部活があったが、今日は一日休みなので久しぶりに朝、窓の外の景色を堪能できた。
自分の名前と同じ音の秋は、一番好きな季節だった。
特に、ヴェルレーヌの詩句にある、悲しみを美しく奏でるヴァイオリンの音色を空中に描いたような黄葉は大好きだった。
散りゆく葉の悲しみが、最も美しい色彩を生み出している。
散ることは滅びや死を連想させるが、黄葉の美しさによって、そこには滅びの先の希望が感じられる。春になるとまた、新緑となって生まれてくるという希望が。
そうして、木々は新緑→濃緑→黄葉→落葉というサイクルを通して、生々流転のカラフルな絵巻を展開する。

気温が8℃以下になると紅葉が始まり、日中との気温差が大きいほどきれいに色付くという。そういえばこのところ朝晩めっきり冷えているが、昼間は20℃くらいまで上がって暖かかった。
それが黄葉には好条件ということなのかと、亜紀は目の前の風景を見て納得した。

さっきから窓の外の景色を見るたびに何かの気配を感じてハッとするのだったが、少しして亜紀はその原因に思い当たった。
白モクレンの大木の横に小さく佇む低木が赤茶色になっていて、その大きさや色合いが人か動物を思わせるのだった。
赤茶色の服を着た人が、そこにいるような気がした。
亜紀はふと、幼稚園児だった頃の弟の言葉を思い出した。
「木も、洋服を着替えるんだね」
弟の和志とは7歳年が離れていて、亜紀は弟の無邪気な発言に、ときおり母親と一緒になって笑った。
「今日、和ちゃんが着ているトレーナー、赤茶色であの木の色に似てるね」
と亜紀が指摘すると、和志は得意げに「じゃあ、あの木がボクの真似をしたんだ」と言った。
それを聞いて、母親は可笑しさと可愛さが入り混じったように朗らかに笑い、亜紀も母親に寄り添うように笑い声を上げた。

その和志はこの春小学校に上がったが、真新しいランドセルをしょったまま、天国へ行ってしまった。
集団登校の列に暴走した車が突っ込んで、はねられたのだ。
その日から、母親が笑うことは絶えてなかった。亜紀はそんな母親の深い悲しみにあえて寄り添わず、努めて明るくふるまった。部活に熱中することで、弟を失った悲しみを忘れようともした。

久しぶりの休日、亜紀は友達と散策やショッピングを楽しんで、夕方帰宅した。自室に戻ってふと窓の外を眺めると、誰か(何か)いる気配が今朝より濃厚になっていた。
赤みを帯びた夕陽の光線が、悲しみの色調を黄葉に付与しているようでもあった。
と、その時亜紀は見た。
白モクレンの黄葉樹の横に立つ、赤茶色の人影を。
亜紀は直感的に悟った。それは弟の和志だと。
「和志! 和ちゃん!」
声にならない叫びを飲み込んだ亜紀は、キッチンで夕食の支度をしている母親に知らせようと「おかあさ……」と言いかけて足を止めた。
幻は他人と共有できないことを、亜紀は思い出した。
呼んできて何も見えなかったら、母親をがっかりさせることにしかならない。そう考えて亜紀は断念し、再び窓の外を見やったが、すでに和志の幻は消えていて、黄葉した木々は11月の性急な夕暮れに没しようとしていた。
景色がすっかり闇に蔽われるまで、亜紀は茫然と窓の外に視線を漂わせていた。

(了)
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