第1幕 市立博物館

文字数 3,105文字

 生徒会長の誠クンと、副会長の愛ちゃんは、私立紺碧小学校の誰もが憧れる、理想的なカップルだった。
 誠クンは、成績はいっつも学年二位でスポーツ万能、中でも小さい頃から続けてる空手の実力は、全国クラス。
 愛ちゃんは、成績はいっつも学年三位でピアノが上手、サラサラのロングヘアーが印象的な、まさに絵に描いたようなお嬢様。
 え?
 じゃあ、成績がいっつも学年一位なのは誰かって?
 イヤねぇ、あたしのわけがないじゃない。いっつも決まって一位なのは、あたしと同じマンションの三階に住んでるガーよ。
 ガリ勉ガーは、若林大河なーんて大層ご立派な名前のわりにはガリガリで、百科事典を読むことがナニより好きな変わり者。
 ちなみに、あたしの家の百科事典は、お部屋のドアストッパーの代わりに使われてるわ。
「ま、あれだ。全然使わねぇよりはマシじゃねぇ?」
 って、いつかパパが笑ってた。
 うふふ。やっぱり神様は見てるのね。パパ、自分でドアに立てかけた百科事典に右足の小指をぶつけて、南の島のオウムみたいな悲鳴を上げてたわ。
「くぇーっ!」

 あ……れ?
 ナンでパパの話になっちゃったのかしら? 本題に戻るわね。
 それは金曜日の夕方のことだったわ。
 銀縁めがねのガーが、マンションの廊下からあたしの部屋の窓をノックしたの。
「ライチ、お願いがあるんですけど……」
「どうせ、市立博物館に一緒に行ってくれ、って言うんでしょ。イ・ヤ・よ!」
 あたしは自分の机の椅子に座ったまま、左手で窓を開けるなり、冷たくそう言ってやったわ。
 生徒会で無理やり書記をやらされてるガーが、〈夏休み前に市立博物館に行って感想文を書く〉っていう社会科の自由研究で、また誠クンと愛ちゃんからダブルデートに誘われるのは、火を見るより明らかだったんだもの。
 あの二人、学年一位の成績を取るために、ガーの研究に余念がないのよ。
 で、ガリ勉ガーが誘える同級生の女のコなんて、世界中のどこを探したって、結局、幼馴染みのあたししかいないってわけ。
「感想文、手伝いますからぁ……」
 当たり前でしょ、そんなこと。あんた、むしろ書くことが大好きじゃない、
『お願いですから、ライチ様の分まで全部書かせて下さい』
 って、それくらいは言いなさいよ。あたしは無言で窓を閉めようとしたわ。
「あ、これ、エスパルスの選手カード!」
 慌ててガーが窓の隙間に手を突っ込んでくる。
 ぎゃーっ!
 そ、それは韓国の英雄アン・ジョンファンの、清水エスパルス時代の激レアカードじゃない! し、しかも背番号が26じゃあなくって19、日韓ワールドカップの翌年バージョンだわ! あたしが生まれる前の珍品よ!
「OK! その話、のった!」
 あたし、両目を星にしながら、差し出されたカードを、ガーの細い手から素早く奪い取った。
 きっとガー、こういう日のために、いっつも駄菓子屋さんで、おこづかいでも買えるお宝を探してくれてるんだわ。
 むふふ、なかなか女ゴコロってやつを分かってるじゃない。ありがとう。大切にするね、このカード。

 土曜日のJリーグで、われらが清水エスパルスがジュビロ磐田との静岡ダービーに競り勝ったもんだから、あたしは上機嫌で日曜日の朝を迎えたわ。
 ママが、そんなあたしの長いクセっ毛を丁寧にブラッシングして、とってもかわいいポニーテールにしてくれたの。
 淡いギンガムチェックのシンプルなブラウスに、ネイビーのキュロットを合わせて、これでダブルデートの準備は完璧よ。
 でも……、市立博物館はびっくりするほど退屈だった。
 江戸時代の庶民の暮らし展だとかナンだとか、まあ、そんな内容の特別展示で、ガリ勉ガーはノート片手に熱心にメモをとりながら、『自分が今まで知らなかったことに出会う』っていう経験そのものが、楽しくって楽しくって仕方がないみたいだったけれど。
 で、誠クンと愛ちゃんの二人はと言えば、自分たちのメモをしっかりとりつつも、ガーがナニをどうメモしてるのか、何度も何度も後ろから覗き込んでは、細かくチェックしてたわ。
 どうせなら頭のいい三人で、仲良く意見を交換し合いながら見学すればいいのに……。
 博物館なんかよりずっとおもしろいわね、人間関係って。

 事件は帰り道で起こった。
 市立博物館から駅へと続く少し広めの歩道で、三十歳くらいの目つきの悪い男が、あたしたちとすれ違いざま、わざとガーのことを突き飛ばしたの。
 あたし、お恥ずかしながら瞬間的にブチ切れた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
「あん?」
 男が振り返って、そうすごんだわ。小学生だからって、あたしたちのことをなめてたのね。
 私のうしろで、愛ちゃんが転んだガーに駆け寄り、その二人をかばうように、誠クンが空手の型を構える気配がしてた。
 でも、その時にはすでに、あたしは右側の壁を垂直に二歩駆け上がって、空中にいたのよ。
 信じられる?
 だって、どこに足をつけば高く飛べるのか、一目で分かったんだもの! 運動音痴の、このあたしがよ!
 踏み切った右足を前方に突き出すように曲げて、そのひざが、男の顔面を容赦なくとらえた。
 もちろん女のコのキックだから、そんなに威力はないけれど、あまりにも予想外の反撃に、ヤツはさぞかしビックリしたと思うわ。精神的なダメージは相当あったはずよ。
「逃げるわよ!」
 着地するなり、あたしは振り返って叫んだ。
 でも、ガーと愛ちゃんは、あたし以上に走るのが遅かった。
 追いかけてきた男にすぐに追いつかれて、あたしは男が伸ばした手をナンとかかわしたんだけれど、今度は誠クンが突き飛ばされて、愛ちゃんはトートバッグを盗られたわ。
 男が愛ちゃんのかわいいトートバッグを抱えて、歩道を一目散に逃げて行く。
 な、な、なんて卑劣なヤツなの! もうっ、絶対許さない!
 あたしは男を追いかけながら、とっさに歩道からガードレールに飛び乗って、矢のようにダッシュした。
 か、体が勝手に動いてる!
 自慢のポニーテールがあたしの勇気を乗せて、ホンモノの馬のしっぽみたいに、七月の風に雄々しくたなびいた。
 カンカンカンカン……。
 背後から追いかけて来る、そのありえない足音に、男が顔色を真っ青に変えて振り向いたわ。
 歩道を逃げて行くその男よりも、白いガードレール――断面が下敷きみたいに薄い――の上を疾走するあたしのほうが背が高かったから、振り向いたその目に映ったのは、多分、あたしの両ひざだけだったんじゃあないかしら。
 ボゴッ!
 さっきと違って、スピードが十分に乗った渾身の顔面両ひざ蹴りは、男を地面に転がすのにピッタリの選択だった。
 たまたま居合わせた新聞屋のおじさんが、車道にバイクを止めて、歩道に転んだ男を取り押さえてくれたわ。
「お嬢ちゃん、身軽だねー。体操選手かい?」
 そう言って、男に馬乗りになったおじさんは、愛ちゃんのトートバッグについたほこりを丁寧にはたきながら、あたしに手渡してくれたの。
 大して驚いてないところを見ると、きっと最後のワンシーンしか見てなかったのね。大騒ぎされずにすんでラッキーだったわ。
 引ったくりは強盗と同じで立派な犯罪だからって、おじさん、ちゃんと警察を呼んでくれて、もうビックリよ。
 その男、わけもなく小学生を突き飛ばす常習犯だったんだもの。
「犯人逮捕にご協力頂き、ありがとうございました」
 えへへ。あたし、いろいろ事情を聞かれたあと、おまわりさん全員から敬礼されちゃった!
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