4-1-8 雨中の別離

文字数 7,328文字

 端末棒から引き出されたホログラム・スクリーンには、ミッダルトの市街地の地図情報が映し出されている。自動一輪(モトホイール)の位置情報が指し示すのは、繁華街の、とりわけ治安の危ぶまれる雑多な地域だった。ジェスター院生だけでなく、一般市民も余り足を運ぶことのない、怪しげな建物や店が建ち並ぶその一角を、モートンは訪れていた。
 日が暮れてから降り出した雨は、ミッダルトの市街地一帯を覆って夜半の今も延々と降り続けている。この雨は明け方まで続くらしいという予報を聞いて、モートンは完全防水のフード付きの真っ黒なコートに長身を包んでいた。足元にはこれも防水の効いた、膝下まで完全に覆い尽くすロングブーツを履いている。雨天外出時であれば常識的な格好だが、シャレイドからもカナリーからも怪しいことこの上ないとよくからかわれたものだ。
 夜半の外出はジェスター院の寮住まいには当然禁じられていたが、そんな寮則を気にしない輩もまた多い。シャレイドもそのひとりであり、同室のモートンもしばしば付き合わされたものである。おかげで院の敷地から抜け出すこと自体は苦もなかったが、目的地まではまだ距離がある。通常は市街地まで繰り出すのにオートライドを拾うものだが、モートンはあえて歩いて向かうことにした。オートライドを利用すれば交通システムにはっきりと履歴が残ってしまう。一時間以上を雨の中歩き続けることになるが、余計な足跡は残さないに越したことはなかった。
 自動一輪(モトホイール)の居場所が判明したことを、カナリーに告げるべきかどうか。モートンはしばらく迷ったが、結局伏せたままにすることにした。これまで音沙汰なかった位置情報が今になって稼働したのは、改めて位置情報をオンにした人物がいるということである。つまりその先にシャレイドがいる可能性が高かった。カナリーがシャレイドの行方を心配していることは重々承知していたが、彼女に告げれば当然同行すると言い出すだろう。だが日中はシャレイドが姿を現すとは思えないし、だからといって夜半に連れて回るには危険な場所であった。
 モートンがこの場所を訪れるのは、実は初めてではない。一回生の頃、一度シャレイドに連れられたことがあるのだ。モートンに女性との交際経験がないと知ったシャレイドが、有無を言わさずに彼を放り込んだ店が、この近くにある。もしかするとシャレイドなりの親切だったのかもしれないが、モートンにとっては思い返すのも憚れる経験でしかない。ただ様々な意味で衝撃的だったせいで、その後一度も訪れることはなかったというのに、その店の場所や外観は鮮明に覚えている。
 夜半、しかも降雨で視界が遮られる中、辛うじて目に入るのは、ところどころでたむろする胡散臭い男たちや、無駄に光量の強いホログラム映像に映し出されたきわどい格好の女性の姿ばかりだ。細い路地裏で通り過ぎる人影と肩がぶつからないようにしながら、位置情報を確認しつつたどり着いたのは、案の定というべきか。かつてモートンが訪れたことのある店の前だった。
「あいつめ、冗談きついぜ」
 苦虫を噛み潰したような顔でもう一度地図を確かめるが、位置情報が告げるのは間違いなくこの店の中だ。モートンは諦めの境地のまま店の入り口をくぐった。扉は古臭い蝶番を使った開閉式で、押し開けるにつれて耳障りな音が響く。この店ではどうやらその音がチャイム代わりらしく、ちょうど扉が閉まる頃合いに合わせて、けばけばしい彩りの狭いロビーの中央に妙齢の女性のホログラム映像が現れた。
『いらっしゃい。お客さんは見ない顔ね。ここは初めてかしら?』
 わざわざ二回目だ、と言う必要もない。質の悪い電子合成音が織り成す出迎えに、モートンは極力無愛想に答えた。
「悪いが俺は客じゃない。自動一輪(モトホイール)を返してもらいに来た」
 するとホログラム映像の女性は表情を止め、唐突にモートンの目の前から掻き消えてしまった。代わりにロビーの奥の陰から現れたのは、ホログラム映像の女性を二十年は熟成させたような、胸元がやけに開いたドレスをまとった濃い化粧の中年女性だった。
「あんた、名前は?」
 フードを被ったままのモートンの頭から、足元のブーツまで露骨に探るような視線を向けながら、女は詰問口調で尋ねてきた。
「モートン・ヂョウ」
 モートンもフードを下ろしながら、ぶっきらぼうに答える。女は彼の顔を食い入るように見つめていたが、やがて顎をくいと動かして背中を向けた。どうやらついて来いという意味らしい。尻まで見えそうな丸見えの背中には弛んだ贅肉と染みが目立ち、彼女が結構な年配であることを物語っている。おそらくこの店の主人なのだろう女の後を、モートンは黙ってついていった。
 女はロビーの陰に入り口を開けた階段を、地下へと降りていった。深さはさほどないが、階段の先に延びる通路は店の外観に比して思いの外長い。扇情的な照明が灯る通路の両脇には、何枚かのドアが連なっている。それぞれの部屋は防音もろくに効いているとは言い難く、あちこちから艶めかしい声が聞こえてきた。そういえばこんな内装だったかな、とモートンの記憶が嫌でも呼び覚まされる。
 女は一番奥の右側のドアの前で立ち止まると、不機嫌そうな口振りでドアに向かって声を掛けた。
「お客さんだよ。お待ちかねの、モートン・ヂョウだ」
 彼女の声が聞こえたのかどうか、ドアの向こうから聞こえる嬌声は止む気配がない。モートンはどうしたものかと立ちすくんでいると、女は彼を置いてその場を離れようとする。困惑した視線を送るモートンに対して、女はばさばさの睫毛に縁取られた瞳から冷たい視線を寄越した。
「さっさとあいつを連れ出しておくれ。うちの一番人気が身銭を切ってまで入り浸ってるから、迷惑なことこの上ないよ」
 吐き捨てるような言葉を投げかけると、女の剥き出しの背中はそのまま通路の奥へと消えていった。後に残されたモートンは苦い顔のまましばらく待ちぼうけていたが、部屋の中では房事が一向に尽きる様子を見せない。いい加減に痺れを切らして、モートンは部屋のドアに拳を叩きつけた。
「いつまで待たせる気だ、シャレイド!」
 するとようやく室内の声が止み、しばらくの間ごそごそという音がしたかと思うと、ドアが力任せに開け放たれた。
「いいところだったのに、邪魔すんじゃないよ、全く」
 白い肌がほとんど透けて見えそうな薄い肌着をまとった若い女は、モートンの顔を見るなりそう言い放つと、ところどころ青や紫のメッシュが入った赤毛を翻しながら、彼の脇を通り抜けていった。初対面の女たちに立て続けにきつい言葉を浴びせ掛けられて、モートンは釈然としない面持ちのままのそりと部屋の中に足を踏み入れる。
「よう、モートン」
 一ヶ月ぶりに見るシャレイドは、辛うじて下着だけは身につけていたが、寮でしばしば目撃する羽目になったときの様子と全く変わらない。
 室内には男と女の残り香が濃厚に立ちこめて、換気が追いついていなかった。明度の落ちた暖色の照明が照らし出すのは大ぶりなベッドと、小テーブルにふたり掛けが精々のソファがひとつ。壁にはシャレイドのものにしては地味な、黒のコートがハンガーに掛かっている。奥のドアの向こうはシャワールームだろう。いかにもな部屋の中で異彩を放っているのは、隅に立てかけられた自動一輪(モトホイール)だった。
 モートンはそれが彼自身のものであることを確かめると、フード付きのコートを脱いでそのまま床に投げ出し、憮然とした顔のままソファに腰を下ろした。
「久々の再会だっていうのに、不景気な顔してるな」
「そう思うなら、もう少しシチュエーションを選んでくれ」
 仏頂面で答えるモートンを見て、シャレイドの口元にふっと笑みが浮かぶ。
「まあ、そう怒るな。俺がここでこうしているのも、やむにやまれずって奴だ」
 そう言うとシャレイドはベープ管に手を伸ばし、おもむろに一口吸い込んだ。やがて吐き出された煙は、霧散するよりも先にするすると換気口に吸い込まれていく。
「実際のところ、逃げ出したはいいが、その後どうしたものか何も考えてなかった。しばらくはいくつか店を渡り歩いたり野宿したりもしたが、途中でジェゼルのことを思い出したんだ」
「ジェゼル?」
「さっき、お前と入れ違いになった彼女だよ。前に彼女がネヤクヌヴの出だって聞いて、星は違えど同じ外縁星系人(コースター)ってことで話に花が咲いたんだ。そのままこの店に飛び込んで、幸いなところ今に至ってる」
「たいした女(たら)しぶりだな」
 感心するべきか、呆れるべきか、モートンは肩を竦めるしかなかった。
 ともかくもシャレイドが今日まで無事であることをこの目で確かめることが出来て、モートンはひと安心していた。ジェスター院の立方棋(クビカ)大会決勝の騒動は、ささやかながらミッダルト中でも報道されている。シャレイドが追われる身だということはわかっていただろうに、それでも彼を匿ってくれたというなら、先ほどの女性には感謝するしかない。
 モートンが安堵の表情を浮かべるのを見て、シャレイドはベープの煙を吐き出しながら唇の端を皮肉めいた形に曲げる。
「ジェゼルの実家はネヤクヌヴで食品雑貨の小売店を営んで、そこそこ成功していたらしい」
「成功して()()?」
 表現が過去形であることに気がついて、モートンはシャレイドの言葉を反芻した。
「ネヤクヌヴでいくつも店を出して、地元じゃちょっとした名士扱いだったそうだが、ある日突然全てを失った。彼女の実家を支援していた企業が、融資の延長を突然断ったんだ」
 シャレイドはそう言って持ち上げたベープ管の先を、冷ややかな目で見つめる。
「そのまま小売店は丸ごと取り上げられて、彼女の実家は無一文になった。父親は絶望して自殺し、母親も心労で倒れ、彼女が代わりに働きに出たものの元々が世間知らずだからな。散々騙された挙げ句に、今はこんなところで男を取る生活だ。ネヤクヌヴには小さい弟や妹もいるらしいが、もう連絡も取れないらしい」
 シャレイドはまるで世間話でもするように、軽い口調で語る。だがその内容の重苦しさに、モートンはどんな顔で反応すれば良いのか戸惑っていた。一ヶ月ぶりに会ったばかりで切り出される話題としては、いささか深刻すぎる話だ。
「そんな身の上だから、ジェゼルも俺のことを匿ってくれたのさ。納得いっただろう?」
 ジェゼルという女性がシャレイドの逃亡を手助けしている理由を説明するためだとしても、詳細に過ぎるし何より生々しい。自分自身以外のことには何につけ突き放した態度を取ってきたシャレイドだが、一ヶ月も逃亡生活を過ごして、何か思うところもあったのだろうか。
 シャレイドの印象が、どこか院にいた頃とは異なることについて、モートンはそう推測するしかない。
「そこまでお前のことを親身になって助けてくれたなら、俺も後で彼女に礼を言わなくちゃな」
 モートンは無難な台詞を選んだつもりだったが、シャレイドは大きく首を振った。
「やめておけ。彼女の親から店を奪ったのはテネヴェの企業だ。万が一お前がテネヴェ人だと知られたら、何をされるかわからない」
 シャレイドに非難の意図はないだろう。だがそう言われると、モートンは口をつぐむしかなかった。
外縁星系(コースト)じゃジェゼルの家みたいなことは日常茶飯事なんだ」
 再びベープ管の吸い口を咥えながら、シャレイドの言葉は止まらない。
「企業だけじゃない、連邦そのものが平気で外縁星系(コースト)から奪っていく。知ってるか? ジャランデールの交通システムを所有しているのはジャランデール行政府じゃない、連邦通商局なんだぜ。行政府が開拓支援融資の返済を滞らせたってことで、担保に取り上げられちまったのさ。今はシステムを使うのに、行政府が馬鹿高い賃料を連邦に払ってる始末さ。間抜けな話だよ、全く」
 立て板に水とばかりに語り続けるシャレイドだが、モートンに口を挟ませない語り口それ自体が、既に彼が平静でないことを示していた。モートンの知るシャレイドは、感情に任せた言動を見せるような男ではない。
「シャレイド」
 低い、だがその場を圧するような声で、モートンは無理矢理にシャレイドの言葉を断ち切った。
「何があった」
 するとシャレイドはそれまで浮かべていた皮肉めいた笑みをすっと収めて、無表情になった。そのままふたりの間にしばしの沈黙が流れたが、やがてシャレイドの口が無機質に動き、ぼそりと一言口にする。
「兄貴が死んだ」
 淡々と告げられた言葉から、モートンは後頭部に強烈な一撃を受けたような衝撃を受けた。驚愕に凝り固まってしまったモートンの顔を前にしても、シャレイドの無表情は変わらない。唇の間からは、淡々とした口調の言葉が紡ぎ出されていく。
「保安庁の取り調べでぼろぼろになって、ほとんど投げ捨てられるような感じで釈放されたらしい。ジェネバが引き取ったときにはもう虫の息で、そのまま意識を取り戻さないで死んじまったそうだ」
 そう言ってシャレイドはおもむろに口元を笑みの形に歪めたが、その目は欠片も笑っていなかった。
「なあ、モートン。兄貴は俺なんかと違って真面目で寡黙な、でもただの現像工房の採掘係だよ。それがどうして、そんなぼろ雑巾みたいな死に方をしなきゃいけないんだ?」
 モートンは何も言えない。何を口にすれば良いのかわからなかった。シャレイドの張りついたような笑顔の中で、黒い瞳だけが今にも暴れ出さんばかりに小刻みに揺れ動いている。モートンが何を言ったとしても、その瞳の奥に燃えさかる強烈な感情を鎮めることが出来るとは、到底思えない。
 シャレイドの目はしばらくの間、射すくめるようにしてモートンの顔に向けられていたが、やがてその面はゆっくりと伏せられていった。
「俺はジャランデールに戻るよ、モートン。なんとかして戻って、兄貴を弔わなきゃいけない」
「……そうか」
 モートンの視線もまた、いつの間にか足元へと落ち込んでいた。シャレイドがジャランデールにたどり着くまでには、これまでの逃亡生活どころではない困難が待ち受けているだろう。だが友人の悲壮な覚悟を前にして、彼を翻意させうるような言葉を、モートンは持ち合わせていなかった。
「最後にお前と立方棋(クビカ)を一局指したかったが、もうそんな時間も無いんだ。再会したら対局しようって約束だったのに、済まないな」
 誰よりも無念なのはシャレイド自身だろうに、そんな謝罪を口にする彼の顔を、モートンは見返すことが出来なかった。
 言いたいことは全て言葉にし尽くしたのか、ついにシャレイドも口を閉じ、やがてベッドの傍らに脱ぎ捨てられていた衣服を拾い上げる。そのまま一枚ずつ袖を通し始めるのを見て、きっと着替え終えたらこの店から出て行くつもりなのだろうということに、モートンは気がついた。
 急速に別れが近づいていることを察して、モートンはおもむろに顔を上げる。
「カナリーには? 何か言うことはないのか?」
 肩越しに振り返るシャレイドに、モートンは喉の奥から声を振り絞るようにして問いかけた。
「カナリーはお前のことをずっと心配していたよ。あいつに伝えることはないか?」
 ハンガーから下ろした黒いコートを羽織りながら、シャレイドは小さく笑った。
「そうだな、元気でいろ、とでも伝えてくれ」
「それだけか? もっと何か、言っておくことがあるだろう」
 するとシャレイドは床に投げ出されたモートンのコートを手に取り、そのまま笑顔で手渡した。
「それで十分だ。カナリーの面倒はお前が見てくれ。お前に任せておけば、俺も安心だ」
 カナリーの名前を耳にして、シャレイドの顔からは張り詰めていたものが束の間でも抜け落ちたように見えた。コートを受け取りながら、モートンが四角い顎を縦に振る。それを見て、シャレイドが再び笑う。
 ふたり揃って黒い防水コートを羽織っている姿は、背格好以外はまるであつらえたかのようにそっくりだった。「この雨の中なら多分、お前がそのコートを着てくるだろうと思って、同じような奴を見繕っておいたんだ」とシャレイドは言う。
「俺の防水コートなんて、良く覚えてたな」
「その怪しげな見た目は、一度見たら忘れないさ」
 つまりモートンの振りを装って、この店から出て行く腹づもりなのだ。だがモートンと並んでそっくりであることを強調するシャレイドを見ていると、それだけのためにこのコートを用意したわけではないようにも思える。このコートはふたりの友誼の証しなのだと思い込んでも、きっと間違いではない。
 モートンは立てかけてあった自動一輪(モトホイール)を引きずりながら、けばけばしい照明に彩られた通路に出た。すると先に部屋を出ていたシャレイドが、階段とは反対の方向へと手招きしている。
「こっちに裏口がある。ここからなら自動一輪(モトホイール)を階段の上まで運ばなくても、そのまま外に出れるんだ」
 シャレイドの言う通り、通路の突き当たりと思われた陰に曲がり角があり、すぐそこに表と同じような蝶番式の扉が見えた。そのまま扉を押し開けると、未だやむことのない雨が降り続く外の景色が目に入った。
「雨の夜道は視界が悪いからな。気をつけて帰れよ」
 遊びに来た友人を見送るような、何気ない台詞だった。もしかすると今度こそ今生の別れとなるかもしれないのに、シャレイドの顔からは今やすっかり毒気が抜けて、見慣れた薄い笑みを浮かべている。
「そっちこそ。あんまり無茶するなよ」
 モートンはコートに打ちつける雨音を感じながら、自動一輪(モトホイール)のサドルに腰を下ろし、操縦レバーを握ってから笑顔を向けた。
「じゃあな」
「ああ」
 お互いに頷きながら短い言葉を交わすと、モートンの乗る自動一輪(モトホイール)が静かに動き出した。モーターが徐々に唸り声を立てて、自動一輪(モトホイール)の速度が増す。やがて周りの景色が後ろに流れ出していっても、モートンは後ろを振り返ろうとはしなかった。
 シャレイドはきっと、モートンの姿が見えなくなるまで、扉を開けたまま見送り続けているだろう。かけがえのない友人の視線を背中に感じながら、モートンが駆る自動一輪(モトホイール)は雨の降りしきる夜道を駆け抜けていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み