第9話 十八時までの約束

文字数 6,066文字

オーストラリアに引っ越して来て二回目の夜が明けた。
たったの二日間にしてはだいぶ濃い二日間だったように感じる。
まだ誰も起き出していない朝6時半、暗い廊下を通って洗面所まで行き冷たい水で顔を洗う。冬の水はとにかく冷たい。これは日本でもオーストラリアでも変わらないのだ。


“So the bus will depart from the bus stop across the road from the house, just over there, you see?
Also, you must come back home before 6pm, that’s the law here in Australia until you are 18, okay?”

朝7時、Alexandraがわたしを玄関まで見送りに来て、バスの乗り場や未成年は必ず18時までに家に帰らなければいけないという法律があるのだということを熱心に伝える。
そんな法律があるとは到底思えなかったが、Alexandraは教師なので政府との結びつきが強く特別厳しいのだ、と、佐々木さんから小耳に挟んでいた。「法律」の解釈も一番安全な解釈を取っているように思えた。

わたしはホストファミリーを探す際に、日本にいる親や知人と連絡が取りたかったので、インターネット回線がある家にしてほしいという希望を出していたのだが、何故かそれは叶わなかった。
この家に引っ越してきて、Alexandraと二人きりになったタイミングで一度、インターネット回線はあるかと尋ねたところ、

“Internet? Yes… we plan on installing it.”

と「計画は一応している」と話を濁されていたのだった。

そこでわたしは、学校の帰りに街でインターネットカフェを探して、持ってきたノートパソコンを繋ぐことにした。

何度も書くが、この時わたしが持っていた携帯電話はNOKIAの、画面が白黒、2cm x 3cm程度でアルファベットしか打てない「原始的」と言われる電話番号で、国内ではメッセージが送り合えるというだけの必要最低限のことしかできないものだったのだ。佐々木さんに連絡を入れてもらえるよう頼みはしたが、こちらに来てから親に到着メールすらまだ送れていない。
インターネットカフェに行くということで、Alexandraはよるが遅くなるのではないかと心配しているようだった。


ノートパソコンをカバンに詰め込んで、「貴重品」をカバンに入れたことで、昨日よりも緊張した状態で家を出る。
扉を開けると、空は少し明るくなり始めていた。階段を降りて、道路を数十メートル歩くと、数台のバスが見えた。バスの中には運転手が座っているが、寝ているのか、うつむいた状態で座っており、バスのドアは閉まっている。きっとこのバスが時間になると動き出すのだろう。
バスが数台停まる先を見ると、バス停があった。バスの時間を確認すると、次のバスまであと15分ほどあるようだった。

わたしは少しずつ明るくなっていくオレンジ色の空に向かって歩き、バスの時間まで少しだけ浜辺に下りてみることにした。

冬の乾燥した空の先に、オレンジ色に広がる水平線がある。近くにはヤシの木のシルエットが見える。浜辺にはわたししかいない。日の出を見る特等席だった。

浜辺の横に伸びるコンクリートの道に所々ある石のでっぱりに腰掛けて、日が昇るのを眺めた。
空がオレンジになったと思ったら、そこからは小さな丸い玉が水平線から昇ってきた。感動的なシーンだった。人生の新しいチャプターを祝ってくれているようだ。

水平線から昇る太陽を遮るものは何もない。

船も通らなければ、人っ子一人いない浜辺に時々おだやかな波の音が聞こえる。

こんなにゆっくり時間が流れる世界があったのか。

太陽の輪郭が水平線から離れたところで、時間は10分を過ぎていた。バス停の方に目をやると、さっきまで誰もいなかったバス停には数人の人の姿が見えた。
きっとバスがもうすぐ来るので乗る人が集まってきたのだろう。
わたしは日本から持ってきたコンデジで海辺の写真を数枚取って、バス停に並んでいる人の後ろについた。

定時になると一つのバスの運転手が起きだして、バスにエンジンをかけた。バスの前面の標識が空白だったものが「駅」行きに変わる。
バスがバス停に停車して、待っていた人が次々に乗り込む。わたしは四人目だ。
バスの真ん中の扉に近い椅子の窓側の席に座り、昇りきった太陽を眺める。そして2分後、ドアが閉まりバスが走り出した。
わたしは笑顔で太陽にお別れをして、バスから見る景色を楽しんだ。電車もこれだけ景色が良かったらいいのに。


今日は来週から行く学校へ行く日だ。バスを降りる前、入念に学校に提出する書類とノートパソコンがカバンに入っていることを確認する。事前に佐々木さんとも確認をして学校の位置はだいたいわかっているはずだし、特に学校に行かなければいけない時間は指定されていないので大丈夫だろう。駅に向かう足取りも心なしか軽かった。

昨日と同じ電車に乗るが、降りる駅が三駅ほど違うようだ。発券機で切符を買うと、昨日と同じようにエスカレーターを降り、今日は一台しか止まっていない電車に乗り込む。まだ発車時間まで時間があるのか、昨日ほど混んではいなかった。
わたしは車両の壁に沿うように立って背中を壁につけた。個人情報が書いてあるといけないので他の人に見えないように、学校に提出する書類をカバンから出して眺める。3枚ほどある書類は、何度見ても何が書いてあるのかよくわからない。大人になるとはこういうことなのだろうか。


昨日より三駅分長く電車に乗っていたのに、結局外の景色が開けることはなかった。この電車はそもそも地下鉄であり、地下鉄ではない電車が別であるのだろうか。電車の中で時間を潰す本が買えなかったことを思い出しながら、電車を降りる。今日はどこかで本屋に立ち寄れるだろうか。
駅を出ると、不愛想な駅だ、という感じがした。いつも降りる駅と距離としては大して変わらないのに、いつもの駅のような賑わいがない。細い薄汚い通路を出ると、サンドイッチスタンドがある。横目で眺めながら歩くと、ローストビーフのような肉が汁に浸っていて、その牛肉を挟んでサンドイッチを作ってくれるようだった。美味しそうだ。

事前に学んだ通りに道を曲がり、大きな道に出る。数駅違うだけでここまで治安が変わるとは驚きだ。
ほとんど車の通らない道の隣に長く伸びる歩道には、たくさんの同じシャツを着た若者が同じ方向に向かって歩いている。民族大移動のようで少し滑稽な風景だった。
車道を挟んだ向かい側には大きな公園がある。ゴルフコースのような巨大な公園で、所々に木が茂ったり丘になっていたりして、中には何があるのかよくわからない。
わたしは人の波が切れたところで、同じシャツを着ている人たちの波に混ざり、同じ方向に向かって歩いてみた。きっとこちらに学校があるのだろう。


10分程度歩くと、大きな教会のような建物が見えてきた。シャツを着た若者たちは次々にその中に入っていく。

「ここかな…。」

到底学校には見えないが、中を覗くとそこには校庭のような広場があって、小さい子供から、わたしより年上に見える大きな男子までが一緒にバスケットボールをして遊んでいた。

ビビビビビビビビ

火事かと思うようなブザーが鳴り、校庭で遊んでいた子供たちはそそくさと地面に置いた荷物を掴み、建物の中に入っていった。きっと授業が始まる時間なのだ。

わたしは校庭へとつながる階段から目を離し、もう少しきた道を進んでみると、そこには厳かそうな赤い鉄の扉がある。どうやらそこが受付のようだ。
重い扉を押し開けると、細い迷路のような通路になっていた。矢印通りに歩いていくと、そこには大広間があり、右手側にはファストフード店で見るようなカウンターがある。3人の女性がカウンターの後ろ側に座っており、書類を処理したりしているようだった。

“Hello”

わたしは一人の女性に声をかけた。

“Can you sit over there on the bench? I will call you in a second.”

女性は大広間に置いてある長椅子を指差して、そこに座っているよう指示をした。
わたしは長椅子の真ん中に腰掛けて、周りを見渡した。大広間には誰もいない。
先ほど授業のブザーがなっていたのでみんな教室に入っているのだろう。わたしが座っている場所の目の前にはカウンセラーのような雰囲気のある部屋があった。小さな八角形の部屋には前面に書類がこれでもかというほど積まれており、奥を覗くと色々な偶像が置いてあるようだった。不思議な部屋だ。

ぼーっと目の前の八角形の部屋を眺めていると、先ほど話しかけた女性がわたしのところまでやってきて、

“How can I help you?”

と聞いてきた。

“I am going to this school next week, I have papers from my guardian.”

“Okay, can I have them? What’s your name?”

“Hanna, Hanna Mashima.”

“Alright, give me a few minutes.”

女性はわたしから書類を受け取ると、自分のブースへ戻っていった。またしばらくの時間が経ち、今度はわたしがブースに呼ばれた。

“Hanna - “

ぼーっとしていたわたしはあわててカバンを掴んでカウンターまで歩いた。

“You need a signature here also… and you are supposed to take another piece of paper with you on the first day next week when you are coming to school, also, I might need your guardian to show up…”

早口で何か言われているが、全くわからない。脳は”You need a”まで聞いて解釈を諦めてしまったようだ。もう少し頑張ってほしいところだった。

心の中で佐々木さんに助けを求めるも、佐々木さんはいない。

“Ok! See you next week then?”

朦朧としているあいだに、なぜか「では来週。」ということになっている。

さっきまで言われていたことは「不備がある」という話ではなかったのだろうか?

「別に必要なわけじゃないけど、できればそうしてほしい」ということを延々と伝えられていたのだろうか。

どう返したら良いのかもわからず、とりあえず挨拶されたようなので

“See you.”

と言って学校を出た。すぐに佐々木さんにメッセージを送る。

“Syorui Tarinai Monoga Aru Mitai Nandesu Ga.”

佐々木さんからの返事はすぐにはこなかった。
時計を見るとまだ朝の9時半。今から急いで学校に戻っても授業の最中で中途半端だろう。
わたしはせっかくなので、学校に戻るまでの道のりでインターネットカフェを探してみることにした。来週からはこの学校に通うのだから、インターネットカフェにいくならこの辺りが良いはずだ。

わたしは学校から来た道を戻って駅に向かう。
数人の生徒とすれ違った。遅刻勢なのか、授業は選択制なのだろうか。
駅に着くと、色々な方角に道が伸びていることがわかった。地図を見て、できる限り学校の方向に向かう道を選ぶ。この駅の周辺にはたくさんの小道がある。しばらく誰も通らない小道を歩くと、ひらけた大きなバスターミナルが見えた。ここも大きな駅なのだ。わたしはただ一つの出口を見ただけだったようだ。

今は社会人は会社が始まった時間、学生からすれば授業中だろうか、街中にはほとんど人がいない。
わたしは大通りを、地図通りに学校の方向に向かって歩いた。
しばらく歩くとアジア系のお店をたくさん見かけるようになった。タイ料理、中華料理、アジア系のぬいぐるみが飾ってある店もある。
小道を覗くと、インターネットカフェも所々にあるようだった。わたしは店員のいない店の中に入ってみて、LANケーブルがあるテーブルがあるかを見に入ってみた。
店は比較的満員状態だったが、皆各々が自分のしていることに集中していて、わたしには気がついていない。

数件の店を見てみたあとで、やっとLANケーブルがテーブルから伸びているデスクを見つけた。時間は10時。30分ほど使わせてもらおうと思い受付へ行く。この店には受付に男性が座っていた。
わたしは自分のノートパソコンを見せて、デスクで繋がせてもらいたい旨を説明する。
受付の男性はカードを作るとそこに接続情報が記載されているので、それで使った分だけ支払えば良いといった説明をする。

わたしはカードの分の10ドルを支払い、デスクに向かった。LANケーブルをノートパソコンに挿して、カードに書かれている通りに接続する。接続は簡単だった。

Eメールのアプリケーションがローディングを始めて、たくさんのメールを受信した。その中には日本に住む友人のアキからのメールもあった。
昔オーストラリアに住んでいたアキは、現地に友人がいるので連絡を取ってみると言ってくれていたのだ。メールを見る限り、今週末アキの友人であるオーストラリア生まれ、オーストラリア育ちのアユミが、時間を作れるので街中で会おうという話だった。メールにはアユミの電話番号が記載されている。
ありがとうとメールを返して、両親からのメールに、無事ついて今はインターネットカフェから連絡をしている、という旨を返信する。

わたしは持っている携帯電話の電話番号をメールに書いた。
国際電話は高すぎてなかなかかけられるものではないが、両親は時々かけてくれるというのでお願いした。

メールを一通り返すと、30分が経とうとしていた。わたしはノートパソコンをケーブルから外してカバンにしまう。受付で新たに5ドルを請求されて支払い、店を出る。
このカードがあれば次からは利用が楽そうだ。

インターネットカフェから出て、学校まで歩く間は徒歩での所用時間を計測した。家には18時までに到着しなければいけない。学校が終わるのはだいたい15時半。今のインターネットカフェから家までは電車とバスを乗り継ぎ1時間近くかかるだろう。毎日行けたとしてもメールができるのは1時間程度だろうか。

案の定学校へは30分程度で到着した。学校は授業の真っ最中の時間だったので、ランチ休憩まで辺りを探索しようと、いつもは時間がない散歩をしてみることにした。明日から行きたいカフェが見つかるかもしれない。
わたしは残り1時間の時間を使って、初めて自分が引っ越してきた土地を一人で探索してみることにした。
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