二十四

文字数 4,575文字


 ついに入金があった。記帳時間は二時を回っていた。
 払戻用紙に必要金額を記入し、それを提出したわたしは、一般とは別のカウンターに呼ばれた。そして、少しでも預金をされてはと銀行員が勧めるのを断って、全額を下ろしてくれるよう頼んだ。
 それでも、なんだかんだと半時間近くは待たされた。
 最終的に出された現金は、一千万円単位で束にされ、ナイロン袋に入っていた。わたしに要求額のすべてがあることを確認させた銀行員は、それをひとつずつ丁寧に掴んで、二枚重ねにしたペーパーバッグの中に入れた。そして表からは見えないように、入口付近の札束を白い紙で覆ってくれた。
「重いですよ」
 渡しながら、銀行員が言った。持ってみると、さすがに印刷物だけあって、相当な重さがあった。
「なにかご用があれば、ぜひわたしどものほうへ」
 銀行員が名刺を差し出して言った。「定期にすれば有利な預金や為替商材などもございますので、いつでもお申し付けください」
「わかりました。そのときはお願いします」
 わたしは適当に言って、銀行を出た。ペーパーバッグをバイクの荷台に括りつけ、セルモーターを回した。そして、銀行の駐車場を出ようとしたとき、わたしを呼び止める甲高い声がした。
 振り向くと、そこに見覚えのある女の顔があった。大分、ふっくらしており、歳は重ねていたが、ひかりの面影は残っていた。
「やっぱり、パパなんや」
 彼女が懐かしそうな笑顔をつくって言った。「さっきからよう似たひとやなあ思うて、ずっと見てたんやけど、知らん顔して出て行かはるし、違うのかな思うて……」
「ああ、ひかりちゃんかいな」
 わたしは、無視するわけにも行かず、いま気づいたという風にヘルメットを外して言った。「長いこと会うてへんなぁ」
「ほんま久しぶりやわ。その後、どうしたはりますの。なんか知らん会社は、畳まはったて聞いたけど……」
「ああ。閉めてしもた……」
「けど、忙しそうにしたはりますやん」
「たまたま今日はそうやけど、貧芝だけは相変わらずや」
「そうなん。けど、何するにしても身体が資本やもんね」
「まあ、な。ほな、元気で――」
「え、もう行かはんの。せっかく会うたんやし、その辺でコーヒーでもしません」
「いや、ちょっと急ぐんや」
「ええやないですか。ほんの十分や二十分遅れたところで、罰当たらしませんやろ。うちが奢りますし、付き合うたってくださいな」
 考えてみれば、喫茶店の淹れるコーヒーを何ヶ月も口にしたことはなかった。もともとコーヒー好きのわたしは、その誘惑に抗してまで先を急ぐ必要を感じなかった。
 どうせ、自由な身なのだ。彼女も言うように、ほんの十分や二十分遅れたところで、罰は当たらない……。
「わかった。ほな、十分だけ……」
 彼女が案内してくれた喫茶店は、シックな内装の本格コーヒーを出す専門店だった。
 わたしがさも旨そうに飲んでいると思ったのか、ただでさえ細い眼を細めて、ひかりが言った。
「なんか、コーヒーに飢えてたみたいな飲み方したはるわ」
「ほんま。けど、美味しいで、このコーヒー」
「そやろ。うち、ここのコーヒーが一番気に入ってんねん」
「そやろな。ほんま美味しいわ」
「ところで、なんなん、パパ。その大っきな袋……」
「ああ、これか。これは、ちょっと届け物しよう思うてな」
「ふーん」
 彼女はあまり興味がなさそうな顔で言ったが、なんとなく中身を気にしている様子が見て取れた。いくらその昔、ベッドで睦んだ仲とはいえ、中身を知られるわけには行かない。
「あんな、パパ。ちょっと聞いてもらえへん」
 あ、きた。わたしは首をすくめて思った。この言い方は、彼女がおねだりするとき、決まって使う常套句であった。
「ああ、ええよ。ただし、お金と彼氏の話だけは、ごめんやで」
「ほな、なんも言うことなくなってしまうわ」
「そうか。悪いな。いまの俺にはひかりを助ける力はないんや。実を言うと、いまホームレスやってるくらいでな」
「えー、嘘やろ、パパ」
「ほんまや。家内も、ついこの間、死んだしな。家なし、女房なし、金もなし。三無い尽くしや」
「またまたぁ。冗談きっついなー、パパ」
 笑って言い、真顔になって。「けど、ほんまに、そうなん――」
「ほんまに、そうなんや。そやから、他のひとに当たってくれたほうがええと思うで」
「そんなん、ありぃ……」
 あまりもの期待はずれに、口が利けなくなってしまったのだろう。彼女は、それっきりものを言わなくなってしまった。
 それを見届けたわたしは、レシートを掴んで言った。
「おおきに、ありがとう。こんな旨いコーヒー初めてや。あんたはまだ若いんやし、なんとでもやって行けるわ。こんな爺さんアテにせんと、もっと若い実業家のぼんぼん探したほうがええわ。ま、今日の勘定くらいは、俺が払わしてもろとくけどな」
 わたしは、うな垂れる彼女をあとにした。
 久しぶりに旨いコーヒーの酸味が口中と鼻腔に拡がっていた。
 これで、よかったのだ。バイクを走らせながら思った――。
 以前のわたしなら、喫茶店の旨いコーヒーばかりか、美味しい肉体までご馳走してくれるはずの彼女のご相伴に打ち勝つことはできなかったろう。
 ここまで強くしてくれたのは美貴だった。
 いま初めて、そのことが実感できた……。
 かつて美貴一家が住んでいた、北白川の高級マンションに着いたのは、それから小一時間ほどが経ってからのことだった。
 寒い中を小さなバイクで走っただけあって、身体は氷のように冷え切っていた。辺りはすでに、ライトを点けなければ走れないほどの暗さになっていた。このように冷える日は、生前の彼女であったなら、さまざまな料理づくりに精を出していたことだろう。
 わたしは重いペーパーバッグを抱えながら、彼女が初めて肉じゃがを配ったときのことを憶い出していた。あの日も、こんな風に重いペーパーバッグを持って、彼女のあとを追いて行ったのだ。
 あの夜は、雪がしんしんと降っていた。
 それも珍しいくらいに、よく降った日だった。思えば、あのときから、彼女の苦悩は始まっていたのだ……。
 しかし、もうすぐ彼女の許に行ける。この仕事を終えさえすれば、わたしは晴れて彼女に認めてもらえる存在になるのだ。そう思うと、寒さなど、どこかへ行ってしまったような気がした。
 わたしは、805を押した。
 だが、インターフォンからはなんの応答もなかった。留守なのか……。
 記憶では、真崎家の住戸は八階の五号室であったはずだ。わたしは、集合ポストを見てみた。やはり、記憶に間違いなかった。
 どうすればいいのか――。
 このような大金、というより、嵩張ったものは集合ポストには入らない。せいぜい数センチしかない投函口に、厚さ十センチ以上におよぶ印刷物を押し込むのは不可能だった。しかも、その量はばらばらにして入れても、ポストの許容量を遥かに超えるのである。
 かといって、その辺に置いて帰るわけにも行かないし……。
 わたしは、彼女が「また無計画なことをして――」と、どこかで笑っている気がした。
 おそらく彼女なら、こんなとき
「もっと先を見て、計画を立てなさいな。でないと、必ず失敗するわよ。いつだって、あなたは行き当たりばったりなんだから……」
 と口を極めて言っているはずだった。
 彼女に言わせると、行き当たりばったりで直情的で、他力依存型で、無責任――それが、わたしに与えられた最大級の褒めことばなのだった。しかし、それが褒められたことでないのは、言うまでもなかった。逆説的に言うのが、彼女のセンスなのだ。
 いまから思えば、それすらも彼女の愛情表現のひとつだったのかも知れない。莫迦な子どもほど可愛いというが、わたしもその中に入っていたのだろうか――。
 いやいや、そんなことは、向こうへ行けばわかる。
 彼女に教えてもらえば、済むことだった……。
 その後、二時間ほどもマンションの外に立って、出入りするひとを観ていたが、それらしい人物はいなかった。あまり長居するのも怪しまれるだけなので、結局、その日は諦めるしかなかった。
 わたしは、荷物の処理をどうしようかと迷ったが、持って帰るしかなかった。途中、自動販売機で熱いコーヒーを飲んだとき、その傍に手ごろな大きさの清涼飲料水の空箱があるのを見つけた。
 調べてみると、ペーパーバッグがそのまま、ぴたりと納まる大きさだった。
 これに入れよう。外見的にも、堅牢度においても、ペーパーバッグのまま保管しておくよりましだろう。
「どうしはったんですか。心配しましたで。なんか事故にでも遭わはったんやないやろかて……」
 橋の下に帰ると、村上が心配そうな声で言った。
「ごめん。ちょっと知り合いのとこ、寄ってたんや。そしたら、こんな晩うなってしもうて……」
「ま、そんなことは、無事やったんやからどうでもよろし。これ、いただいてください。今日の収穫ですわ。わたしの分はもう済んでまっさかい。気ィ遣わんと、どうぞ」
「あああ、おおきに――」
 彼が差し出したのは、伏見スーパー駿河屋の幕の内弁当と惣菜であった。考えてみれば、今日はこれを確保する日だったのだ。「すんまへん。今日が、この日やいうのん忘れてました……」
「なに言わはりますのん。お互いさまですやんか。吉田はんかて、色々としてくれたはりますやん」
「いやいや、そんな言い方してもらうと、なんやこう、背中の辺りがこそぼうなってきますわ」
「ところで、なんでんのん、さっき持ってきはった重そうな箱」
「ああ、あれ。あれは、知り合いのとこからもろた――」
 考えなければ……。そう「その、なんちゅうか、原稿用紙みたいなもんですわ。ちょうど余ってた用紙があったさかい、なんやったら持って帰るか言われてね」
「なるほど。いま一生懸命、小説書いたはるもんね。わしらなんの才能もないさかい、あれやけど、ものが書けるいうのはよろしな。羨ましいわ」
「いやいや。そんなええもんちゃいますわ。ただ好きなように書き殴ってるだけで、才能もなにもありませんよ。ムラさんは、どうですのん。小説なんか読まはりますの」
「いや、小説いうのはあんまり読んだことないし、どっちかいうたら、週刊誌みたいな柔らかいもんのほうがよろしな。学校も中学しか出てへんし、硬いのはあきまへん。
 漢字が多い文章は、肩は凝るし、眼ェは疲れるしで、なにが書いたァるのか考えてるうちに、上の目蓋と下の目蓋が好き好き言い出しますわ」
「なるほど、眠とうなるいうわけですね。ムラさんのほうが、よっぽど文学的や」
 わたしは、少しは安心した。
 これで、あの段ボール箱には原稿用紙「みたいなもの」が入っていることになった。書き物に興味のない彼が、わざわざ開けてみることはしないだろう。まして他人の持ち物なのだ。いくらホームレスにまで墜ちたとほいえ、心まで堕ちていまい……。
 わたしはガスコンロで湯を沸かし、外気でよく冷えた幕の内弁当をありがたくいただいた。夏場ならともかく、よく冷えているだけに身体には優しいのだった。
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