第13話 立春(後)

文字数 68,468文字

 元特殊部隊員の民間人による米軍輸送機からの秘匿降下突入作戦。
 それは、米国にも太いパイプを持つ最恐の辣腕家である母美也子と、天涯孤独の自由人ながら、未だに現役年齢で無理が利きそうな元特殊部隊員である先生の二人だからこそ、実現可能な無茶苦茶な作戦だった。米国と船籍国の在日大使館経由で、両国の捜査機関を飛び越し緊急外交ルートにより対応方針を協議させた結果、両国共に民間人による突入作戦なら、私人による現行犯人逮捕の範疇であり内政干渉には当たらない、との見解を確認した。しかし「本当にそれを民間人にさせるのか」と当事者国は半信半疑だったらしい。
 その上で米国は、既に独自作戦を展開しており、クルーズ船が米国領海に入った段階で作戦行動に突入するためそれ以前であれば干渉しない。船籍国は、公海上でシージャックを宣言された時点で、後の対応の検討に入る事としそれまでは静観する、と言う相変わらずの日和見だ。
「今のところ、諸々の状況に変化はないわね」
 シャーさんから差し入れられたハンバーガーを平らげた真琴が、持参したマグボトルに口をつけながら、やはり持参したタブレット端末を取り出し、現地本部の滝川から受信したメールを開封しつつ言った。差し入れにはセットのドリンクもついていたが、紅茶だったため気持ちだけ貰い、先生に譲っている。
「つまり、公海上なら好きにしろって事、ですね」
 それを受け取った先生は「ちょうど喉が乾いてたんで」と、早速それを嬉しそうに、空席を一つ挟んだ横の席上で呷っていた。急転直下の展開を強いたのだ。真冬だろうと、喉の一つも渇くだろう。かく言う今日も非番でのんびりしていたらしく、それを思うと只々申し訳なさが押し寄せて来るのだが、
「悪いわね。ホント、なんか」
 中々その思いを上手く伝えられなかった。
 せめて都度、謝意を口にしているのだが、先生は先生で、
「いえ」
 と片言、実にあっさりした返事を繰り返すだけだ。それどころか、早速カップを一つ飲み干すと
「じゃあ折角なんで、頂きますね」
 一々順序を怠らず、しかして早くも、真琴の分だったカップに口をつけた。がぶ飲みはともかく、その中においても変わらない丁寧さと言うか順番を飛ばさない振舞が、また真琴の何処かの琴線を弾く。
 こんな紅茶ぐらいで——
 と言っては用意してくれたシャーさんに悪いが、こんな物で喜んでくれるのならいくらでも用立てられる真琴である。が、それは状況が許せば、の話なのだ。今のそれはやはり、貴重と言えば貴重な水分ではあった。
 そもそも、それを用立てる心理的余裕がなかった自分が情けない。そのくせちゃっかり、自分の飲み物だけは持って来ていると言うから、今更ながらに自分自身が腹立たしかった。所携のマグボトルには、ここ最近愛飲しているルイボスティーが入っている。急展開で実家を飛び出す直前、真琴の事を一々把握している家政士の由美子が準備してくれた物だった。実家で籠城を続ける真琴が、表向きには酒浸り回避用の代替品として選んだそれには、実は唯一無二の腹心たる由美子にすら明かしていない裏事情があったりする。だからこそ、如何にも安っぽいファーストフードのつけ合わせの紅茶だろうと、決して侮っている訳ではなく、
 ——今は、飲めない。
 そんな何処か、都合良く気取っている自分が、重ね重ねも情けなかった。
 シャーさんの紅茶は少し温くなっているだけで、飲もうと思えば飲める物なのだ。それを自分勝手な事情で拒んだ。その事実が、安物にしては随分と胸の内を苦しめてくれる。自己の傲慢さに打ちひしがれると共に、善意に添えない事に少なからず胸が痛んだ。
 そんな事を脳裏で巡らせる真琴が、その隣で安物の紅茶を美味そうに飲む男を目の端で見ていると、
 ——おかしい。
 ふと我に返った。
 いつの間に自分は、安物の紅茶一つでこれ程の感傷に浸る事が出来るようになったのか。それは、隣にいる詐欺師のせいである事は言うまでもないのだが、いざ本人を目の前にすると、今はそれを脳内で認める事すら恥ずかしい。
 それよりも何よりも、今はとりあえず、真純を始めクルーズ船の命運を左右する状況なのだ。それに先生を巻き込んでしまったからには、感傷に浸る前にまずは最善を尽くすべく、やるべき事をやるべきだろう。
 感傷なんて——
 そんな事に想いを巡らす自分がまた有り得ないのだが、兎にも角にもそれは事が終わるまではお預けだ。
 とりあえず、諸々の思いを飲み込んだ真琴は、
「一応、公務扱いの担保をつけたから」
 その最善の一つと思しき茶色の手帳を、先生に差し出した。
「が、外交旅券!?
「気休めだけど、あなたの身に何かあれば、公傷扱いに捩じ込める余地はあるわ」
 国内の外交使節等に携帯が許されるそれは、
「よく用意出来ましたね」
 通常人であれば、一般的には一生お目にかかる事はない。
「ホントは公用旅券を取ろうとしたんだけど——」
 単に、先生の作戦行動の公用担保と言う事ならば、公用旅券が一番手っ取り早かったのだ。が、それは明らかに私人ではないし、思い切り政府所属機関の命による任務になってしまう。旅券にも「所属機関の命である」旨が記入されるため、安直に警察庁の命となってしまっては、違法捜査介入の謗りを受ける可能性が捨て切れなかった。
「かと言って、我こそはって言う所属機関が出る訳ないし、良さそうな都合も浮かばないわで、最後は手っ取り早く外務省に泣いてもらったって訳」
「はぁ」
 この辺りは、真琴もそれなりに事情を知っている事ではあるし、切れるカードを持っていたものだ。
「然程の事はなかったけど、一応言っとくと、外交特権はないからね。行って帰るだけだし」
 不可侵や治外法権に代表される外交官の身分を駐在先で保証するための外交特権は、国際交流が盛んな現代では庶民でも耳目に触れる機会がそれなりにあり、よく理解されている事だろう。が、その大権を得るには、追加で外交施設を受け入れる側の国(接受国)の認証を要し、外交旅券だけでは要件不足とされている事は、余り世に知られていないのではないだろうか。
「流石にそこまでは必要ないです」
 先生が気にしていたのは、作戦遂行に当たり、当事者国における不法出入国罪該当の恐れと、私人逮捕に対する違法性の見解だけだった。出入国に関しては、外交旅券であればケチのつけようがない。私人逮捕の見解は、先述通り当事者国間で共有確認済みだ。更に言えば、提供される装備品に至るまで、フラッグシップが疑われるような物は記章めいた物を始め一切ない、と言う念の入れようだった。そこに因縁をつけられるような事はないと思われたが、もしそうなったとしても「レプリカだ」と言ってしらばっくれる予定である。
「因みに船主は、何処から乗っても構わないし、お金もいらないって言ってるから」
 クルーズ船は、真琴の実家グループ企業が船主である。当然だ。
「まあそれは、何かあれば犯人グループに全部背負って貰いましょう」
 船主が被る損害賠償の責任は、基本的にその原因となった犯人グループにある。船主側が訴えを起こし賠償請求すれば、犯人グループが負ける事は目に見えているが、賠償金の支払いは、
「一生かかっても難しいんじゃないかしら?」
 大型クルーズ船の乗船人数やその船体の大きさを鑑みれば、その額は大変なものである事は言うまでもない。
「この際気にするのは、実際に動くあなたの事だけだわ」
 真琴は強い口調で、そこはしっかりと言い切った。無茶苦茶な頼みをするのだ。そのくらいの事は言ってやらないと、
 気の毒以外の——
 何物でもない。
 とにかく、申し訳がなかった。
「あくまでも、外務省のお遣い扱いね。クーリエみたいなものよ」
 外交上の急使や特使を意味するクーリエは、基本的に外交文書や行嚢を運ぶ伝書使を指す。
「そのお遣いの途中で——」
「犯罪を見かけたから逮捕した、と言う体ですね」
「そう言う事」
 これなら捜査介入ではないだろう、と最後は、ゴリ押しで捩じ込んだらしかった。そもそもが、私人でクーリエと言う事自体相当無理があり、そもそもが米軍機でクーリエとか上げれば切りがない。全ては当事者国間での国益、国情、法解釈等々の落とし所と、突入者の身分に最低限の配慮をした結果である。やろうとしている事も無茶苦茶なら、体裁も無茶苦茶だった。因みにこの米軍機の運用は、建前上では米軍内における「連絡用務」と言う事になっているらしい。
「連絡用務って——」
 どんだけ金使うんだ、と先生が思わず絶句した。
「まあ、費用は全額日本持ちだし」
「どこがそれを——」
 出すのか。
「さあ? 全額警察かしら?」
「いやぁ、そんなお金ないんじゃ」
 警察と言えば、面白おかしくドラマ化しやすい程分かりやすい業界にして、市井にも何かと密接な司法行政機関の代表格だが、実情は昼夜を分たず世の最下層と塗れる日常が守備範囲の荒んだ職域である。国家組織の権勢順で言えば事実上の最下層だ。更に言うと、組織の先祖を辿っても、江戸時代の身分制度における最下層であり、実はそれが未だに潜在意識の中に根づいていたりする組織だったりする。
 それ故か、予算配分は常に、
「渋く辛いもんですよ」
 と言うのが、警察と言う貧乏組織の常識らしかった。
「でも外務省は絶対払わないわよ。あくまで最低限の公用担保ってだけだもの」
「まあ、そうでしょうね」
 そもそもが、この件に関する必要経費など、高坂宗家のポケットマネーで十分賄えるのだ。加えて、クルーズ船の乗員乗客が全員死亡するような最悪の事態に発展したとしても、その賠償責任を資産で十分賄えるような家なのだ。問題は金ではなかった。
 国民の生命、身体、財産、自由、権利を守るのは、いかなる時も国家の責務である。法に添わないから後は個人責任、と開き直って国民を見捨てるような国家に、国民が寄り添ってくれる訳がないではないか。国家あっての国民ではない。国民あっての国家なのだ。法に添わないのなら、国民を守るためのそうした法律がない事にこそ問題がある。それを、典型的な保守思想を持ちながらも、国家としての矜持にうるさい因縁の母美也子が暗に示している事を、真琴は理解していた。
 一々癪に障るが真琴も同意見であり、悔しいがあの母でなくては、ここまで大胆な作戦など到底実行に移せなかっただろう。だからこそ、立案、実行には労を尽くしたものだが、国にもそれなりにその責任を分担させるべく、費用は国持ちにさせたのだ。
 が、これは背景に船籍を巡るグループ会社のフェアトレードの問題もあれば、裏の裏を探れば高千穂の横暴を許した宗家が招いた因果とも言える事である。それを暗に含ませるつもりはないのだろうが、結果として何らかの形で、高坂から国に金が動くだろう事は想像に無理がない、と真琴は睨んでいた。
 文字通り妙に現金な話をしていると、真琴のタブレットが追加メールを知らせる。
「国際手配したそうよ」
「何から何まで早いですね」
 防犯カメラに写っていた連行時の状況を捉えて、日本の裁判所から、とりあえず手っ取り早い逮捕監禁容疑と旅券法違反で逮捕状を取ったらしい。そこから警察庁経由でICPOへ手配した、と言う事だ。その手配内容は、即時拘束を要請する
「赤手配書だわ」
「まぁ当然ですよ」
 のそれは、犯罪と犯人が明白なケースに運用される最上級レベルの手配である。
「あなたが確保すれば、沿岸警備隊か、ホノルル港でFBIかホノルル市警が身柄を引き受けてくれるわ」
「まあ、捕まえた後の事は固まりましたね」
「確保の時はどうするの?」
 真琴は一応訊いてみた。
 その国際手配された事実での逮捕状を、先生は執行出来ないからだ。それが出来るのは、逮捕権を有する検察庁の検察官や検察事務官及び警察官を始めとする司法警察職員だけである。そもそもが逮捕権を有する日本の官吏ですら、公海上の船上は日本国外、つまり治外法権であるためその逮捕状を執行する事が出来ない。国際手配された事実の逮捕状は、犯人の潜伏国がICPOに加盟しているのであれば、その国の司法警察権を有する官吏をして、ようやく犯人確保の根拠に成り得るのだ。先生が「捕まえた後の事は固まった」とは、そう言う意味である。米国も船籍国もICPO加盟国ではあったが、だからといって、何ら公権力を有しない日本国籍の民間人である先生による犯人制圧時においては、その手配事実を拠り所にする事など出来ないのだった。
 よって先生は、何か別の法的根拠を求めた上で、犯人を確保しなくてはならないのだが。やはり、
 訊くまでもなかったか——
 先生の能力を推し量るような事を言ってしまった、と少し後悔していると、しかして先生は、
「このタイミングで旅券法って事は偽造パスポートを行使したって事なんでしょうけど——」
 私はそれを確かめる公権力を持たないので、と私人逮捕の要件を丁寧に考察する。仮に犯人が正規のパスポートで出国しているのであれば、まずは外務大臣からの旅券返納命令があり、それには基本的に返納期限が設けられる。返納命令に従わなければパスポートは有効期間切れとなり、そのまま何処かの国へ入国すれば不法入国、滞在すれば不法滞在となり、入国先、滞在先の国家法に基づき拘束される事になる訳で、その拘束に関して日本の逮捕状の必要性はない。よって事件が発覚して一日足らずのこの状況下で、それによる逮捕状が出る事はないのだ。つまりは、偽造パスポートで出国しているからこそこのタイミングでの逮捕状であり、国際手配と言う事なのだった。
 先生にしてみれば分かり切っているのだろうが、それでも慎重な擬律判断を模索する姿は、世人には決して見られない経験者ならではのものだ。犯人も被害者も人の事である。強制力を用いるのであれば、法を根拠に行動する。例え無茶苦茶な作戦だろうと、日本も関係国も法治国家だ。となれば、その活動根拠は法にすがる部分が多いのは当然の事である。それで法に対する感覚を確かめてみたくなった真琴があえて吹っ掛けたのだったが、予想通りの反応に安心感にも増した好感を覚え、俄かに勝手に動揺した。
「公海上なので船籍国法に則って、船上の現行犯罪事実で私人逮捕、しかないでしょうね」
 しかして、その答えを淡々と導き出すところなどは、やはり単なる国家の
 ——犬じゃない。
 事の証明である。
 世間で散々そんな中傷に晒される組織だが、大多数の末端の法の執行官は、現実として法に雁字搦めなのだ。そうした経験を匂わせるその男は、真琴と同じ見解を緊張感なくあっさり吐いたものだった。
 ——やっぱり。
 一々言動に全く澱みがない。
 何故いつも、
 いざとなると——
 頼りになるものか。
 土壇場になって来るとその本領を発揮し始める先生に、真琴はまた動揺し始めた。
 司法行政警察作用限定の事ではあるが、法知識やその見解において、弁護士がストレスを覚える事なくそれと対等に話しが出来る人間など、市井には圧倒的に数が少なく限られようものだ。返す返すもこの作戦の立案者の着眼の良さは、忌々しい事極まりないのだが認めざるを得なかった。
「他に何か気になる事、ない?」
 兎にも角にも結局最後は、自由の身になった筈のこの男の、一見柔そうな双肩に委ねるしかない。過酷な捜査経験に裏づけられた法知識と特殊作戦遂行技術に卓越した実務経験を有し、かつ未だそれが失われずその上で即応活動可能な民間人。それを今この瞬間、日本国内で探してみたところでこの男以外に
 考えられない——
 ではないか。何処を探せばそんな都合の良い男がいるのか、探せるものなら探して見ろと叫びたくなった。
 そんな人間など、この男の他に存在し得る
 ——筈がない。
 そう思うと、
 ホントに——
 何と頼もしいものか。真琴はみるみるうちに勝手に感極まり始めてしまった。まるで何かの物語のエージェントのようだ。その癖、結構良い男振りだったり、求めれば優しく寄り添ってくれる男。
 ——こんな男。
 地球上の何処を探したらいると言うのか。
 こうなって来ると、一見何でもない柔な男が途轍もなく大きく愛おしく感じ始めてしまい、一気に感情が怪しくなり始める。が、
 ま、まぁ、今は——
 とにかく、自分の感情を優先している時ではない。真琴は耳抜きに託けて、迫り上がって来た感情を飲み込むように、一度大きく唾を飲み込んだ。
「あとはもう、突撃あるのみですね」
 先生は、そんな真琴にはやはり気づかず、軽い調子であっさり答える。
「降下ポイントまでは、たっぷり五、六時間はありますし、ゆっくりしましょう」
 それどころか、
「昨夜から寝てないでしょう?」
 と、この土壇場を押しつけられたにも関わらず、他人を気遣う余裕振りである。
「——そうね」
 片や真琴などは、昨夜どころか連日連夜、誰かさんのせいで眠れておらず、実は結構くたくただ。今はとりあえず、その傍で
 ——休もう。
 素直にその厚意を噛み締め、甘える事にした。

 目が覚めたら、一瞬真琴は前後不覚になった。
「え? え?」
 慌てて身体を起こし、首を左右に振る。機械音がやたらうるさい鉄格子の中にいるのだが、そのすぐ隣にいる先生が、見慣れない繋ぎの作業服のような物を着たまま、本を読んでいた。
「まだ休んでても大丈夫ですよ」
 先生が柔らかく一瞥して、また本に目を戻す。
「休——む?」
 先生に言われて、それを自分で口にして、ようやく我に返った。気がつくと、二人の席の間の席に置かれている先生の荷物を枕代わりにしているではないか。それは先生の私物のリュックであり、コックピットに同乗しているシャーさんから借りた装備品を入れたリュックであり、これからの任務で先生を支える大事な物だ。
「ご、ごめんなさい!」
 真琴は慌てて身体を起こし、少し凹んで形が変わっている二つのリュックを手で整えた。
「いや、いいんですよ」
 潰れてもいい入れ方をしているので、と先生は、今度は読んでいる本を膝の上に置く。どうやら、相当舟を漕いではふらついていたらしい。見兼ねた先生が、枕代わりにリュックを置いてくれたらしかった。確かに寝込む前は、二人の間の席に荷物は置かれていなかった、と記憶している真琴である。
「あ、ありがとう」
「いえ」
 先生は言う事を言うと、また黙々と本だ。お陰で、少し取り乱した顔を晒さなくて済んだのだったが。
 ——あ。
 その瞬間で、大事を思い出した真琴は、慌てて先生とは反対側の席に置いていた自分のショルダーバッグの中から、またタブレット端末を取り出した。真琴は、実家の現地本部と先生を繋ぐための連絡要員として先生に同行している身なのだ。先生を突入以外の事で煩わせないための、せめてもの配慮であるそれは、事実上高坂宗家の名代として事件の顛末を見届けるための重大な役目でもあった。ここに至っては、実家向きの諍いを持ち出すつもりなど流石に皆無の真琴である。
 それなのに——
 つい、寝込んでしまった。
 タブレットを見ると、東京時間は午後八時過ぎ、米国ホノルル冬時間では日付が変わったばかりの同日午前一時過ぎである。幸い、特に連絡はなかったようだった。二時間ぐらい、前後不覚になる程熟睡したらしい。
 本当に——
 久し振りの熟睡だった。座ってうたた寝していたにも関わらず、である。こんな普段の生活とはかけ離れた環境下で、しかも有り得ない状況下において、普通なら気が立って寝れたものではない筈だ。
 理由はすぐに思い至った。
 最近動いておらず身体が弱っていた事に加え、昨夜からろくに寝ておらず食事も抜いていた状態で、先程貰い物の米国サイズのハンバーガーを喰らったせいである。腹が満たされれば眠くなる。人体上の現象としては当たり前、と言えた。が、
 やっぱり——
 飄々と隣にいる男の存在感が、それだけではない、と思わせてしまう。恥ずかしくて本人にはとても言えないが、この二月、ひたすらその存在に焦がれていたのだ。隣にいるだけでも、その安心感は大きかった。それが身体を弛緩させ、熟睡させたのだろう。
 その肝心の男はと言うと、この状況下で突入待機状態のまま
 ——本、読んでるし。
 余裕があるのだった。
 土壇場になると立ち位置の優位性が、普段と打って変わって全く入れ替わる二人の構図は、久し振りの再会にも関わらず、ここに至っても変わっていない。
「こんな状況で、よく読めるわね」
 真琴が呆れを通り越して、感心を示しつつ言った。つもりだったのだが、先生は徐に本を閉じてしまうと、私物のリュックに収め始める。
「あ、」
 思わず真琴は、間が抜けた声を出した。今、自分が吐いた言葉は、余りにも迂闊だったのではないか。確かに人命に関わる作戦を依頼された身とは言え、先生は今や民間人だ。それなのに急に引っ張り出して、命を左右する現場に送り込もうとしている。それに、既に臨戦態勢で待機しているのだ。自分に出来ない事をやろうとしている人間に対して、とやかく言うべきではない。
「ごめんなさい。そう言うつもりで言ったんじゃないのよ」
 その肝の太さを褒めたつもりだったのだ。が、先生は、やはり本を収める手を止めない。
「分かってます。声色で分かりますから」
 ちょうど読み切ったらしかった。
「伊達に詐欺師呼ばわりされ続けてませんよ」
 合わせて軽く嘯いて見せたものだ。
「そ、そうよね」
 思わず真琴は、とりあえず目だけ逸らした。
 声色で分かるとか——
 急に、微妙な感情を汲み取るかのような、熟れた察しの良さは何なのか。遅ればせながらに顔も逸らすと、俄かに耳に熱を感じ始めたものだった。
 ほんの少し間を空けて、それとなくまた目だけで先生の様子を伺うと、リュックの帯の長さを調節している。その丁寧な手つきが、また真琴の琴線に触れた。
「やっぱり、大事に使ってるじゃない」
「え?」
「以前、広島のマンションに来た時、そのリュックが汚いって」
 おたふく風邪の療養明けに、先生が以前の自宅マンションに来た時の事だ。ソファーに座らせたまでは良かったのだが「リュックが汚いので」と言って、先生はそれを膝に抱えたまま落ち着きがなかったものだ。それで仕方なく、荷物籠を用意してやった一幕があった事を真琴は思い出していた。当時の先生のリュックは、一見して汚れなどなく逆に丁寧に使い込まれていたと感じていたのだが、それはやはり今も全く変わらない。
「そんな事がありましたね。そう言えば」
 と言って、何となくリュックを撫でるその姿が、また心に触れる。
 食べる姿もそうだが、先生の何処か熟れた所作は総じて丁寧なのだった。物を大事にする心がけなのだろうそれは、しかしていざとなると力強くて頼りになる、と言う男らしさをも見せつけるのだ。
 こんなの——
 反則ではないか。
 何でこんな柔な男が、警察の特殊部隊員達の指導員を務めていたものか。真琴は不思議でならなかった。
「一つ、訊いてもいい?」
 すっかり目も頭も覚めて冴えていた真琴だったが、
「どうぞ」
「あなたが指導した特殊部隊の面々は、どうしてあんなにがさつな訳?」
 つい素直な疑問を確かめたくて、思い切り思った事をそのまま吐き出してしまった。それを耳にした先生が、瞬間で破顔する。堪える事も放り出した様子で、すぐ様噴き出した。
「やっぱりそう見えますか」
「うん」
 元の職業に対する批判や中傷は、その人の歩みを否定するも同じだ。真琴でさえ、そうした機微は通常人と同様の感覚である。
「——ごめん。批判するつもりじゃないんだけど、つい」
 また悪い癖で、思った事を口走ってしまった、と素直に謝った。
「いえ、まぁ事実ですから」
 大抵の人間は、その批判は受け入れ難く立腹するものだろうが、やはり先生は相変わらずの寛容振りである。大体が、自分の口から素直な謝罪が出るとか、思わずそれをさせてしまうのもまた、先生の為人と言えた。
 そもそも、先生こそが異質なのだ。荒事専門の特殊部隊員なら、がさつは言い過ぎかも知れないが、細事に拘らない豪快豪傑の強面揃い、としたものだろう。それが何故、
 こんなに飄々と——
 やんわりしたものなのか。
 出会って間もない頃など、何かの感情が欠落しているのか、と思った事すらあった。が、毅然として思いがけぬ大声を吐く猛々しさもあり、時折見せる大胆さを目の当たりにして来た真琴にとって、先生の興味は膨らみ続けた、と言う訳だ。で、今となっては、本人にはとても恥ずかしくて言えたものではないが、すっかりその存在を受け入れてしまっているのだった。
「やっぱり、あなたが少数派って事なのかしら?」
 つまり、そう言う結論になるその解釈は、真琴なりの褒め言葉である。
「そうですね。まぁ、そう言う事になりますか」
 やはり先生は、苦笑しながらも拘りなく答えたものだった。
「でも、根は似たようなもんですよ」
「そうなの?」
「ええ。何とかしたいから、形振り構わずドタバタするんです」
 別に刑事だからと言って、風を切って歩いてないし、スマートでも何でもない。
「——もんですよ」
「みんなドラマみたいに、凄腕ばかりじゃないの?」
 悪乗り気味に真琴が皮肉を口にすると、
「全くいないとは言いませんが、大抵は似たり寄ったりですよ」
 一部は、何処かしら勘違いした傍若無人めいたのもいない事はないんですが、と、先生はまた苦笑いした。
 加えて「そもそもが」と前置きした先生が、
「ドラマみたいにかっこよく大立回りして悪いヤツをやっつけたり、とっ捕まえるだけで終わって以上解決ってのだけは、未だに納得がいかないですけどね」
 珍しく、強い否定を口にする。
「あら珍しい。あなたがはっきり否定するなんて」
 明白なネガティブを主張する先生は記憶がなかった。更に、
「悪事を暴いて捕まえるような仕事をやると、ダメだとか出来ないとか、否定的な思念に支配されがちなんですよ」
 だから本性はどちらかと言うとネガティブですよ、と、この状況下で何やら奥深い一部分を暴露し始めたものだ。
「あら何? 何か思わせ振り」
 その特殊な経歴が、為人にどんな影響を与えたのか。一方でその為人が、経歴の特殊性にどんな影響をもたらしたのか。
「聞いてみたいわ。その辺りの事」
 先生の素性は既に押さえている真琴だったが、それが本人の口からどのように語られるのか、その興味は強かった。
「私からお話出来るような事は何も。それに何かもうご存じのようですし」
 が、先生はあからさまに嫌がってみせる。
「あら。私はちゃんと自分の事、ある程度自分で話したってのに?」
 グアムや小晦日の夜では、すっかり愚痴っぽく暴露したのだ。それを忘れている二人ではない。すると、逆にそれでまた艶かしい記憶が思い起こされてしまい、二人の間に微妙な空気が流れて始めて
 ——しまった。
 と思った時には、もう口が動いてしまっている真琴である。先生は先生で、喉を鳴らしたり咳をしたり。何処かばつが悪そうだ。
「女に喋らせておいて、男は黙ってるのって、余り世間体がよろしくないんじゃなくて?」
 その微妙さを払うように、真琴が男の矜持をなぶった。
「い、今は女とか男とか言う時代ではないような——」
 先生は、よく聞く通り文句で応戦する。が、
「性差まで否定する向きは、感心しないわね」
「いや、思考的な部分で——」
「じゃあ人として、自分だけだんまりなのはどうなのかしら、って事になるわね。その論法だと」
 つけ焼き刃で、真琴に適う訳もない。先生は珍しく、苦虫を潰したような顔をして、
「うぅ——」
 頭を掻いては唸っていた。
「どうせ時間はあるんだし、お陰様でもうすっかり頭も冴えちゃったし」
 真琴がそう言うと、逆に先生は腕を組んで目を瞑ってみせる。
「じゃあ私は休みますんで、またの機会と言う事で」
「聞きたいな、武勇伝——」
 それを予想していた真琴は、その隙に身を乗り出し、先生のリュック越しにその耳元に迫って言った。
「うわぁ!?
 その艶かしい声を耳元で囁かれた先生は、また真琴の想定内の反応で仰け反る。勢い余って椅子からずり落ちる程慌てた先生のその様子に、
「あはっ」
 真琴はつい噴き出してしまった。
「い、色仕掛けと来ましたか」
 先生が、たじろぎながらも細やかな抗議を含ませつつ席に戻る。
「ごめんごめん」
 もうしないから、と真琴が笑うと微妙な空気感はなくなっていた。すると先生が正面を向いたまま、
「軍にしても、警察にしても、」
 重苦しそうに口を開き始める。
「支持率は低いので、話をしても批判に晒されるだけで」
 だから嫌なんです、と、その顔はまた強い諦観を滲ませていた。何かと批判に晒されがちな組織の経験者ならば、ある程度は誹謗中傷に対する免疫も備わっている事だろう。が、だからと言って、それを好き好んで耳にしたくはないものだ。
「その癖、メディアは面白おかしく安直な警察ドラマを作っては、有りもしない虚構を国民に刷り込むんですよ」
 法解釈も法手続きもひどければ、非日常性ばかり強調して派手さを追求し、それを全面に出すようなテレビドラマなど、先生は殆ど見た事がないらしかった。
「じゃあ本も?」
「ありませんね」
 とにかく触れたくないとか何とか。
「都合が良過ぎるんですよ」
 などと、早くもぶつくさふて腐れている。現実じゃ散々批判しといて、ドラマで好き放題現実離れしたモン作って数字稼ぎって
「勝手過ぎますよ」
 と、先生にしては随分と穏やかではない。
 推理小説や刑事物など、その類の物はまるで眼中にないらしく、それどころかはっきりと
「だから嫌いなんです」
 と言い切ったものだった。
 先生にしては、本当に珍しいネガティブ思考である。書籍にしろドラマにしろ、何処か気取ったドラマタッチで虫酸が走るらしい。
「職務のために見つめるべきは現実であって、決して虚構ではないんです」
 と言い切るなど、本当にらしくなかった。
「だから。そう言うところを、さ。聞いておきたいのよ」
 真琴は、少しだけ先生の方に向き直す。目の端でその顔の輪郭を捉えると、諭すように言った。
「次に会えるの、いつか分からないしね」
 すると不意に、心臓が大きく跳ねた。そうだ。ひょっとすると、本当にこれが
 最後かも——
 知れないのだ。
 その目の端に捉えた顔が、少し自分に向いた様子に、真琴も合わせて顔を向ける。
「最後なら——良い思い出のまま、って訳には行きませんかね?」
 それを察した先生は、この期に及んでやはりブレなかった。余程良い思い出がないらしい。事実、真琴はその素性の大筋は既に知っており、輝かしい仏軍時代と打って変わって警視庁時代の先生は、組織の内外表裏を問わず、とにかく罰ばかり負っていたのだった。だからこそ、そうした男が何を語るのか。真琴は知りたかったし、
「私なら受け止められる、って言ったらダメかしら?」
 と、素直に思った。
 職歴批判で崩れ去るような関係性の壁などは、とっくの昔に飛び越えてしまっている。鷹揚として嫌に観念的なこの男は恐らく、その半生を賭して来た仕事に対する思いを口にした事などないだろう。真琴が知る限りでは、罰ばかりつけていたこの男の警察人生は、やはり中々通常人では有り得ない誇らしいものだった。
 その無念なり感慨なりを、その口から直接聞いて
 ——汲み取って、あげたい。
 自分は慰めて貰ったのだ。だから自分も慰めてやりたい、と思うのは、決して思い上がりではない筈だ。
「ずるいわよ。自分だけ、かっこつけたままなんて」
 そう言う真琴は、この男にさらけ出しては、散々無様を晒して来たのだ。
「対等って言った事があったわよね。私達は」
 おたふく風邪の療養明けに、先生が自宅マンションに来た時の話だ。勝手に真琴を「世間知らずの箱入りだ」と侮ったかのような先生の言動をバッサリ切り捨てた。
「許さないんだから」
 それを彷彿させた真琴が、わざとツンとして顔を背ける。するとインカム越しに、溜息か漏れ出たのが聞こえた。
「面白い話じゃないんですけどねぇ」
 それどころか敗者の黒歴史ですよ、とまた愚痴っぽい。
「実務経験者から実相が聞けるんだから、面白いわよ絶対」
「地味で、それこそドラマにならないつまらない実相ですよ」
「リアルはそうしたもんよ」
 そこまで言い合うと、先生はついに観念して、渋々ながらも黒歴史を紐解き始めた。
「軍の時の事は、それこそフェレール御一家が詳しいので——」
 が、どうやら成功譚は口にしたくないらしい。そこの辺りも、本人が言うようにネガティブとしたものなのか。本人に思うところがあるのだろう。
 まあ、まずは——
 今はとりあえず、先生のネガティブな口が何を語るのか気になるのだ。とは言え、既に仏軍時代の先生の軍功は把握済みの真琴である。
「あら、残念ねぇ」
 軍人としての先生を知る人は真琴の周囲に散見されるため、今は良い事にした。今本人から聞けなくともフェレールの面々から、母がもたらした資料の行間を辿る事が出来る。
「じゃあ今度、リエコ叔母さんから聞いとくわ」
 聞き分け良く、話しを合わせてさらっとその名を口にすると、
「リ、リエコ叔母さん——」
 慄いた先生が絶句した。
 確かに、恐れ多くも彼のフェレール財閥の大奥方を「叔母さん」呼ばわり出来るのは、世の中広しといえども真琴ぐらいだろう。先生の反応は当然の向きだった。そのリエコ叔母さんは、この度の事で随分先生に肩入れしていたものだ。
 一方で、警察時代の先生を探る真琴のネタ元は、にっくき母を除くと現地本部の滝川だけなのだ。
 だから今は——
 この機会を逃すと、詳細に辿り着けない可能性があった。
 ——まずは、
「じゃあ、警察の時の事ね」
 とした真琴が、嬉々として照準を絞る。すると先生は、
「地味な男の地味な黒歴史を弁護士さんに話したところで——」
 今度は何だか僻んでいた。
「あなたはホント、」
 煮え切らない時は、本当に煮え切らない。ネガティブと自己分析しているのは確かに的を得ているし、よく言ったものだと思った。
「まぁ、つべこべと——」
 と言いかけると、今度はそう言ってお互い肉弾戦に突入した時の記憶が瞬間で蘇る。しれっと先生を見ると、やはり何だか様子がぎごちなかった。これは、間違いなく
 ——お、
 思い出している。我ながら、何であの時、こんなに記憶に残るような迫り方をしたものか。当時の愚行を今更ながらに恨む。これでは事ある毎に、そのフレーズを口にする毎に、思い出してしまうではないか。
 先生がまた、不自然に喉を鳴らすと、
「そもそもが、警察ドラマで取り沙汰されるのは——」
 などと、少しわざとらしくも、丁寧な口調で語り始めた。
 例えば今回の事件をドラマにするならば、
「多分、捕まえたところで終わるんですよ」
 その後の公判に向けた、地道な証拠固めを旨とする事後捜査の苦悩を描くドラマはない、と、とりあえずぼやいたものだ。
「然もカッコよく、綺麗に捕まえて終わるもんだから——」
 絶対的正義を振るう特権意識の固まりのような見られ方する、らしい。
「まあ、地味じゃドラマにならないんだから、仕方ないんじゃない?」
 真琴は、然も平生を装い答えた。
「まあ、そうなんですが」
 先生はあからさまに口を尖らせる。
 更に言うと、大抵の刑事を始めとする警察官達は、文字通りドラマチックな立回りなど好まず、
「派手さはありません」
 務めて地味に、それこそ黙々と忙殺されているらしかった。
「まあ、それは——」
 先生の為人を見れば、何となく理解出来る。もっとも、
「滝川さんみたいな人達もいますけど」
 殴る蹴るなどの粗暴犯から、強盗、殺人、今回のような人質事件などの凶悪犯を担当する捜査一課の面々は、やはり強面揃いであるらしかった。
「でも、大抵の捜査員は——」
 文字通り昼夜を分かたず、事件の証拠固めのため、ありとあらゆる捜査結果を書類化する。その手間の凄まじさを報じるドラマを、
「かつて見た事がないのが悔しくて」
 それは現役で捜査に携わる警察官にとっては、無念以外の何物でもないと、先生は珍しく強い口調で言い切った。
「ドラマ、見ないんじゃなかったっけ?」
「CMが目につくんです」
 限られた時間で視聴意欲を掻き立てるような物を見てしまうと、余計幻滅していたらしい。
「歯が抜け落ちるんじゃないかと錯覚するぐらいの疲労が襲う程の書類を作らされるんですよ」
 珍しく、のべつ幕なく言い切った先生の気持ちは
「まあ、確かに、ね」
 少しは分かる真琴だった。
 それは確かに遥か昔、真琴が司法修習中の刑事裁判修習や検察修習先で見た、文字通り山脈のような事件書類の束を見て体感した事だ。
 書庫に収められている訳でもなく、執務室内に所狭しと置かれた、ちり紙交換で掻き集められた新聞紙の束の山と錯覚するかのような書類の束。その束の一つひとつを構成するその紙の一枚一枚が、全て捜査員達によって作成された現在進行形の係争中の事件書類である事の現実を、
 ——こんなに多いの?
 然しもの真琴も驚いたものである。
 これを作成する刑事を始めとする警察の捜査員とは、
 一体いつ寝てるんだろう?
 などと疑問に思ったのは、もう二〇年以上も前の話だが、
「今も昔も、変わってませんよ」
 書類の作り手は、先生に言わせると意外に少ない人数で、文字通り歯を食い縛って作っているらしかった。
「歯を食い縛ってるつもりはないんですが、無意識のうちにそうしてたのかも知れません」
 先生は本当に、ここ数年で歯茎がやせ細ったらしい。それは何も加齢によるものではない事は、その壮絶さが物語ると言うものだ。
 また一方で、近年では
「取調べがドラマになったりしますけど——」
 怒鳴る、脅す、誘導する、机を叩く蹴るなど、現役弁護士が見れば
「まあ、突っ込みどころ満載よね」
 違法取調べのオンパレード、と言う有様である。本来現場で現役刑事達が苦心している対話型重視のそれとは
「到底程遠いです」
 と先生は、今度はあからさまに嘲笑してみせた。ドラマに出て来る取調官の取調べでは、
「無罪事件を山積させるでしょうね」
 それこそ国家賠償案件まみれで「予算も渋くなるだろーなー」などとぼやいてみせる。
 能力差はあれど——
 先生のような、現場であくせくしていた人間でさえ、賠償リスクをはっきりイメージして
 活動している——。
 真琴は今更ながら、争い事を捌く事の難しさを痛感させられるのだった。
「大体が、日本の糾問的捜査観は、もう限界が来てるんですよ」
 話し出す前は、随分渋っていた先生だったが、いざ口を割ると今やすっかり愚痴の垂れ流し状態である。確かに市井で刑事司法に関する愚痴など、理解出来る者は限られるのだ。真琴の理解力こそが、先生の舌を滑らかにさせたようだった。その話が、更に専門性を帯びて来る。
「日本の刑事司法は、本当にかび臭い」
 現行の日本の刑事訴訟手続きは、その先生が今口にした「糾問的捜査観」に基づいて執り行われている。近年では「人質司法」や「可視化されていない密室の取調べ」などで悪名高い、警察捜査段階での起訴前勾留などによる事実上の強制的観点から被疑者の取調べを肯定する考え方である。
 片や、
「日本もいい加減、弾劾的捜査観に移行すべきだと思うんですが——」
 警察の捜査を公判の準備活動に限定し、捜査員と被疑者は対立対等の立ち位置と言うこの考え方では、被疑者に黙秘権が保障され、強制的取調べは許されない。基本的に、真実は裁判で一から争って明らかにする、と言う典型の観念である。
 両方の主義の決定的な違いは、
「警察の、被疑者に対する有意的立場を認め、それに基づく強制的な取調べを肯定するか否か、って事よね」
 真琴がタイミング良く、遥か昔に学んだ事を口にする。
「ええ」
 それをすぐに先生が追認した。話が乗って来ると、意味が伝わり噛み合うのが嬉しいらしい。つまり前者が日本式なら、後者は米国式だ。警察から取調べの権限をなくした後者のそれは、逮捕直後の犯人に対し、
「お前には黙秘権がある」
 と伝えるシーンが、それこそ米国物の警察ドラマですっかりお馴染みだが、それこそまさに弾劾的捜査観による手続きの一環である。
「古い刑事は、取調べ命ですからね」
 が、日本の場合、警察に限らず検察も裁判所も「糾問的捜査観」的な考え方は相当に根強いのだ。
「それだと、警察の事務負担は膨大なんですよ」
 それこそ真琴が若かりし頃、司法修習で体感した膨大な事件書類の有様が物語っていた。人質司法だとか、可視化されていない密室の取調べだとか、謗りを受けつつも、現場の刑事を始めとする警察の捜査員達は、文字通り歯を食い縛って日夜それを作成しているのだ。
「もう警察だけで、挙証責任を負う時代は終わってるんです」
 現行ではその負担は、第一次捜査機関である警察が殆ど担っており、刑事訴訟においては事実上法曹の下請けのような位置づけに甘んじている。それ故、全ての事件に平等に力を注ぎ込むような労力など到底なく、実情は事件の軽重でそれを惜しむ傾向が強い。「業務の効率化」と言えば聞こえは良いが、ひいてはそれが決めつけ捜査、更には独断専行の無茶振りを招く。
「まあ、そうね。でも——」
 言う事は理解出来るが、それにしては組織の規模に偏りがあるし、そもそも
「絶対的に法曹の数が足りないわ」
 法曹、特に検察官の数が絶対的に足りていなかった。検察官は、法曹界では最も人気の低い「国家の弁護人」である。
「そーなんですよねぇ」
 嘆く先生は、
「若手は結構、昔ながらの取調べ手法を嘆いていたりするんですよ、実は」
 それは意外だった。
 古い刑事達が「証拠の神様」を語っては、頑固にも取調べに固執する。真琴にとっての警察は、そんな古めかしい、それこそかび臭いイメージでしかなかった。警察にとってそれは、絶対的な武器である
 ——筈なのに。
 先生は、それをあっさり否定する。
 しかし、物事は一長一短としたもので、
「弾劾捜査は冤罪が起きやすいって言われたものだけど?」
 真琴は論うように言ってみた。
 弾劾的捜査観では、裁判で一から事実を明らかにしていくため、事件の調査結果が裁判の前に、日本の糾問捜査観に基づいた警察のような一つの専門組織で形にされない。つまり全体的に大雑把になりやすい、と言う側面があった。料理に例えれば、糾問捜査観で料理を作っているのは殆ど警察だ。検察は盛りつけ役である。出来た料理を裁判所で、関係者が味見する。一方、弾劾捜査観は、それぞれが裁判所に食材を持ち寄り、警察、検察はおろか、被害者、加害者、弁護士、裁判官みんなで料理を作るのだ。作り手が多いだけ予想がつきにくく、何が出来上がるのか出来てみないと分からない感があるのだった。
 が、
「糾問捜査は緻密で、弾劾捜査は大雑把って言いますけど——」
 結局は、無罪判決を回避し国家賠償を負いたくないがための決めつけの取調べが、冤罪を生み出す元にも
「——なってますしね」
 と言う事も出来るのである。
 事実、昨今そうした取調べが原因で逆転無罪になる事件は、一昔前に比べると多くなっている。先生はあっさりと真琴が欲した答えを、何の衒いもなく言ったものだった。
「過去に自分が属していた組織の欠点を、仮にも弁護士にぼやいていいのかしら?」
 何やら弁論を突き合わす様相になって来ると、つい理屈で屈する事に慣れていない真琴は、口が疼き始める。
「国家機関は、国家の骨格を支えるためにある訳でしょう? 国家は国民のためにある訳ですから、国民の益にならない事は独善でしかないですよ」
「国家機関は、国家と国民のため、じゃなかったっけ?」
 それは外務省時代、真琴も度々耳にした公職従事者がよく口にするフレーズだ。が、
「国民のため、だけじゃないと、また戦前みたいな事になるでしょう」
 先生はまた言い切った。要するにファシズムを煽る、と言いたいらしい。
「建前ね」
 国家が成立しないと、国民を守れない。公職経験者であれば、それは当たり前の通念である筈だ。
 が、それでもやはり
「建前でも誰かが言ってないと、国家は隙をみては、一つひとつ言質をとって権利を奪い、権力を育んでいくんですよ」
 と、言い切る先生は、ますます意外だった。
 一度なんらかの権力を握った者は、大なり小なりそれに見入られる、つまり悦に浸る
 ——としたものだけど。
「まるで権力が、一方的に悪いような言い方ね」
 真琴の周囲は、そんな権力を欲する連中ばかりである。それはそれで反吐が出るのだが、逆に先生のように、盲目的に毛嫌いするスタンスも気に食わない。
「私にとってそれは、重圧でしかありませんでしたから」
 職務執行はそれこそ懊悩の連続だった、と言う。
「まあ、言わんとする事は分かるけど」
 それでは余りにも腰砕けである。
「それは何だか、性根が座ってないと言うか——」
「物足りない、と思う人は多いでしょうね」
 正義は力があってこそ、正義を擁護出来るのだ。力なき正義は、悪に蹂躙されるだけである。そんなお飾りなど存在意義がないに等しい。先生が言っているのは、そう言う事だった。しかし、この一見柔で、ややもすると呆けているのではないか、とさえ思えるようなこの男は、
「随分と、私が聞いた不破警部補の印象とはかけ離れてるわ」
 その実像を知る数少ない証言者の目には、多少違う見え方をしていたようだ。
 先生は一瞬、驚いた顔をしたが、
「私は、途中で逃げ出した半端者ですから」
 またすぐに、柔らかく自虐的に苦笑した。

 遡る事四半日。
 母美也子は、宗家の居間に集まっていた面々を前に采配の主導権を一方的に宣言し、作戦の概要を説明すると、そのまま真琴に外務省との折衝を命じた。
「分かってるわね」
「外交ルートを使って関係国に擬律判断させて、後は外交旅券かしら?」
「分かってるのなら、早く動きなさい」
 その命令口調に腹が立ったが、言われた通りとにかく時間がない。元外務官僚の伝など、もう殆ど大した物は残っていなかったが、外務省は外務省で蜂の巣を突いたような状況になっているだろうと予測し、正攻法でいきなりど真ん中を突くと、気を引く事が出来た。
「不破元警部補の詳細な為人を知る人が必要です」
 連絡がつくと、そう言って殆ど着の身着のまま、無理矢理滝川を連れ出した。外務省が積極的に動くとは思えない。だからこそ、事件の詳細とキーマンの事を良く知る公人が必要だった。実行に移そうとしている事の責任に関しては、今の真琴では何ら身分に重みがないのだ。只の被害者の母親でしかない。辿れば組織的な重みを有する人間を引っ張り出す必要があった。
 で、現地本部の責任者たる滝川をむりしとるように宗家の車に連れ込み、そのまま外務省へ向かった。滝川は、道中でも電話をかけたりかかって来たりでしばらくは相当に忙しそうだったが、道半ばを迎える頃になってようやく静かになった。
 それを受けて、
「忙しいのにすみません」
 後席に座った二人のうち、口を挟むタイミングを伺っていた真琴がようやく詫びを伝えると
「まぁ、仕方ないですわね」
 警察は力及ばすですから、とさっぱりした顔で滝川が答えた。
「しかし、私何かで説得出来るもんですかね?」
 全く先生に似ていない滝川だが、情けなそうに頭を掻きむしるその仕種が、不意に先生と被る。思いがけず美女に見つめられる格好となった滝川が、繕うように軽く咳払いをしたそれで、真琴は慌てて我に返った。
「——すみません」
 それ程、急に降って湧いた先生の起用に動揺し、焦がれている。
「いえまあ、いいんですが」
 しかし、と顔を曇らせた滝川は、
「要するに作戦概要と、それに対する警察としての見立てですよね」
「ええ」
「参ったなぁ」
 そこまで言うと、またその頭を掻きむしった。どうやら癖らしい。
「つまりは、不破の作戦遂行能力を説明すれば良いんでしょう?」
「そうです」
 それで納得が得られなければ、外務省は決して旅券を発給しない。只でさえ法的根拠があやふやで、危ない橋なのだ。それには旧知の教え子の言、としたものだと思ったのだが。
「あいつは人に語れるような実績は、まるでないんですよ」
「え?」
 滝川は、予想外の事を口にした。
 特殊部隊員としては、ひたすら只の指導員。所轄に出てからはひたすら只の一捜査員だったらしい。
「罰や苦情は山程貰ったようでしたが——」
 そう言いながらも、その言に暗さはない。それどころか悪戯っぽくほくそ笑んでいるではないか。
「まぁ、間違っても外務省じゃ話せないでしょうから——」
「え?」
「あなたの知らない不破を、聞いてみたいとは思いませんか?」
「はぁ?」
 真琴が眉を顰めると、滝川は豪快に噴き出した。
「広島で見た不破とは、また違った男がいたりするもんです」
 思わせ振りな口振りは、どうやら真琴と先生の関係性に何となく気づいているらしい。昨秋にも、これに似たような事を武智に言われたものだったが、とすると武智は、あの頃から何やら察していたらしい事を凄まじい時間差で突きつけられたようで、急に恥ずかしさが込み上げて来た。
「そう、ですか」
 つい照れ隠しで、真琴が俯き加減に顔を背けると、
「あれぞまさに記憶に残る男、でしてね」
 滝川は愉快気にも勝手に口を動かし始め、
「はっきり言って問題児でしたよ」
 その第一声から中々容赦ない。
「特殊部隊での経歴は、まあ、指導員と言うか——」
 ひたすら裏の指導員として、表舞台に出る事はおろか、職域は極秘扱いで存在自体もベールに隠されていたらしい。殆ど幽霊職員扱いで、にも関わらず組織内でそうしたフォローが得られず孤立。教え子達の支持もなく、何の根拠もない悪評が先行し始めると指導員経歴の半分以上は、事実上装備資機材を始めとした部隊の維持管理を一方的に任され、
「『用度』って呼ばれてましたよ」
「用度——」
 世の中には、様々な職域で様々な維持管理業務を担当する人々が存在するが、滝川によって語られた先生のその立ち位置は、言うまでもなく蔑みだ。
「まあ、物を大事にするヤツでしたから向いていたようですが」
 指導員としては花が開かなかったようだが、
「兵站要員としては、それなりに重宝されてましたね。ま、何かにつけて小器用でしたし」
 とは、如何にも先生らしかった。仏軍でも後半の五年間は、兵站業務の延長上の切り札要員だったのだ。裏方で活躍する先生の姿は、今のイメージとも重なりやすかった。
 それにしても——
 軍でも警察でも、何処かしら裏方業務に馴染んでいる先生の今は、施設の宿直員と言うのだから何の因果としたものか。その何処かしら世の表舞台を躱し続けるかのような経歴は、先生の中にある世に対する何かを示唆するかのようで、一抹の寂しさを覚えた真琴だった。
 その生き様は一貫して、
 ——淡白過ぎる。
 悪い言い方をすればまさに、良いように使われて、それでも抗う事なく淡々と使われる。それこそ昨秋、先生の親代わりたる武智と山下が危惧していた「不必要に背負い過ぎる」その気質の底に潜む強い諦念を、真琴はまた思い出したものだった。
 そんな先生は、恐らく今母が企てようとしている作戦も、頼まれればきっと「使われて」くれるのだろう。それにつけ込もうとしている自分が、自分の中の何処かに確実に存在している。それがとにかく後ろめたかった。
「罰や苦情の山を築いたその問題児振りは、所轄に出てからの事でしてね——」
 滝川と仲良くなったのも、その頃らしかった。
 警察では所轄署の事を「第一線」とも呼んだりするが、本庁の指導官の肩書きが外れた後、一応一階級昇任を果たした先生は、役は上がった出世人事と言う名のあからさまな左遷で所轄署へ転勤した。そして文字通りその最前線で、人目につく日々を送り始めたらしい。それは何も先生が特別な事をしていた訳ではなく、当たり前の事を淡々とやっては組織的に「良いように使われていた」だけらしかった。
 では何故、人目についたのか。
「あの形のくせに、当たり前を貫く据わり方をしてやがったものですから」
 要するに、肝は据わっているのに柔な見た目のせいで、とにかく舐められては軽く見られていたらしい。犯人、被害者、関係者、部内外問わず、誰であろうとその表面的なギャップ故に、上っ面しか斟酌出来ない人間にはとにかく甘く見られたそうだ。
 そのピンぼけの印象そのままに、
「善悪是非、怨親平等などと生意気な事を抜かしてやがりましてね」
 善悪を行う者に良いヤツも悪いヤツもない、と言う絶対的視点だ。それを平然と口にしては、淡々飄々と当たり前を貫き通す強さを持っていた。そしていざ肉弾戦になるものなら、圧倒的な強さを見せつける。
 その真実を知る僅かな者達だけが、
「狼でしたね。正真正銘羊の皮を被った狼。そのイメージギャップと言ったら最悪」
 口々にそんな事を吐いては、恐れていたのだそうだった。そこは確かに、これまでの真琴も感じていたものである。この虎皮羊質ならぬ羊皮虎質の如き外柔内剛の男には、これまでに色々と驚かされて来たのだ。
 だがそうした男の本質を知る者は少なく、やはり大抵は見た目通りに軽く見られてしまい、誰彼構わず当たり前を言っては相手を怒らせる事が多く、よく苦情を招いたらしい。
 一番苦労させられたのは、
「逮捕身柄に舐められると、否認に転じるもんですから——」
 それが否認事件を招いた事らしかった。こうなってしまうと、被疑者から犯罪の立証に有益な供述が得られないため、罪に対する適度な量刑を得るには、捜査機関独力による裏づけ捜査頼みとなる。それは大変な手間と証拠固めを要する事を意味していた。任意捜査なら基本的に手続きに時間的な縛りがないため、比較的にゆとりを持った捜査が可能だが、逮捕などの強制手続きに踏み切った捜査は、基本的にその手続きには時間的縛りが発生する。基本的人権に言う自由権を、公共の福祉名目で一時的に国家作用の強制力をもって剥奪しているだけなのだから当然だ。周囲の捜査員達は、その時間に追われては泣かされ続けた訳である。
「特に飛び込みの事件は大変だったようでして」
 計画性を持った追跡捜査中の事件だけならまだ良いとして、事件にはそうした事前準備をすっ飛ばして、現行犯で逮捕された状態から始まるものもある。これを俗に「飛び込み」と呼ぶのだが、それを受け持つ担当者は、昼夜休日を問わず職場から呼び出されては手が取られるのだ。「非常召集」と呼ばれるその状況下で否認事件を作ったのでは、ただでも忙しいのに手間が増える事極まりない。
 しかしそのミスキャスト振りは、人事権を握る者の責任であって先生の罪ではない。しかも全うに務めを果たそうとしているその向きに関わらず、周囲は辛辣だった、と言う。要するところの八つ当たりだ。
「恨まれてましたねぇ。『お前はすっこんでろ!』って、周りの人間からよく怒鳴られてましたよ」
 箔もないのに顔を出しては甘く見られるな、と。
「周りの連中が、その箔に気づいてないだけだったんですけどね」
 滝川は笑った。
 結局のところこれは、図らずも供述に偏重しない証拠固め、つまり徹底した裏づけ捜査を推進させる格好であり、冤罪を遠ざけ、真相究明を旨とする捜査機関としては好ましい姿なのではあった。が、
「それはまぁ、建前ですから」
 捜査経済、と言う言葉も存在する訳で、慢性的な人材不足である警察の現場の事、本音は省けるものは省きたいものだ。それでも結果的には、犯人の供述を頼みにしない証拠収集、つまりは先述の弾劾的捜査観を地で行かされていた、と言う事になる。
 そんな問題児の事務分掌は、
「組織犯罪対策でしてね」
 組織犯罪対策部門は、一昔前で言うところの暴力団対策部門だ。その取締る対象の定義を拡大し、核として暴力団根絶を睨みながらも、それに絡む良からぬ者達も根こそぎ取締ると言う、現代警察の暴力団対策に対する決意を示したような部署である。その事務分掌は広く、そうした所謂暴力団めいた反社会勢力が絡む事件であれば、殆ど何でも受け持つ。それに加えて、そうした勢力からは逆恨みも買いやすいもので、大抵の人間は進んでやりたがらない。
「そもそも組対何てのは、刑事の中でもそれなりのベテランや手練れが行くとこですからね」
 そこにいきなり放り込まれたそれは、分かりやすい辞職勧告だったようだ。捜査未経験者が、いきなりそこの係長である。一言で無茶苦茶、と言って良かった。
 それが、始めこそ大変だったようだが、
「まぁ事件屋でしたから——」
 事件屋とは、警察内部の蔑称の一つで「事件を呼び込みやすい者」を意味する。次々に事件を呼び込んでは、一年もすれば、それなりに一端になったらしい。元々性根は据わっているのだから、これまた当然と言えば当然だった。変わった事件を呼び込んでは、知恵を絞り脂汗をかきながら体得する。警察が絡みそうな法知識は、こうして磨かれたようである。
「政府交通統計悪用詐欺、みたいな事件もやったりしてましたよ」
 私なんかは、これをどう犯罪に結びつけたものかも、どう捕まえたものかも分かりゃしませんが、などと空笑いする滝川の口にした戒名は、確か先生と出会った梅雨のある日、本人から聞き覚えがあったそれだ。「前に調べた事がある」と言っていた事を思い出すと、真琴は少し顔が緩んだ。
 滝川が、笑うところではない、と言うような顔をするので、
「何でもありません」
 とだけ言っておく。
 馴れ初めとも言えるその事をまだよく知らない人間に話すのは、流石に気恥ずかしかった。
 その先生を、一、二年もすれば、周囲では侮る者もいなくなり、
「居並ぶ強面共の上に、素朴でうだつの上がらない貧相な男がちょこん、と上座って黙々と仕事をしてる」
 ある意味で物凄い迫力である。真琴はヤクザ者の上座で、苦笑いしながら所在なく座っている先生を勝手に連想して、これには思わず噴き出した。
 そんな男が、変な事件に首を突っ込んでは、
「部下を驚かせ、同僚から嫌がられ、上司を悩まし——」
 それでも淡々飄々と突き進む姿に、支持はされなくとも、少しは恐れ入る向きが出始めたものらしい。
「何でそんなに淡々と突き進めるのか、尋ねた事がありましてね」
 すると、日本人の幼稚さに怒っていた、と言う。
「幼稚さ?」
「自由と責任の原則、ですよ」
 自由を得るには責任を伴うとは、名を変え時を隔て、古今東西の識者が語って来た人間社会における根幹に近い思想であり、原理原則と言っても良い。それが、自由に感けて好き放題やった挙げ句、責任を放置して都合が悪くなったら警察頼み、組織頼み
「——てのはまぁ、結構ありましてね」
 普通は諦めの境地としたものなのだが、先生は根に持っていたらしい。
「私らの時代は『罪を憎んで人を憎まず』と言ったもんですが」
 日本で良く引用されるこの言葉の本意は、罪を犯したその動機・背景にまず目を向けるべきであって、罪そのもの、ひいては罪人のみに囚われるべきではない、と言う意味の孔子の言葉である。なのであるが先生は、
「『聖人君子の言う事なんか、凡人にゃ分かりゃしませんよ』と——」
 鼻で笑っていたそうだ。
 高度で複雑化した人間社会において、そんな性善説的思想が通用しない事は、現世の乱れたモラルが物語ったもので、一言で言うと無責任を憎んでいたらしかった。
 警察の分かりやすい立ち位置は、世に蔓延る悪や罪に対する正義の番人、としたものだが、先生はそれだけでは定義づけられない社会正義から目を背けようとしなかった、と言う。
 法の条文の行間を疎かにしない、羊の皮を被った独善の一匹狼は、
「自分の生活環境を重ね過ぎたのかも知れませんね」
 何せ、踏み倒せる親の巨額債務を、正々堂々と返済したような酔狂である。大抵の世人ではついて行けないのも無理はなかった。
 しかし、本人はそれで良くても、それに振り回される周囲の人間には、家庭があれば事情もある。ついには、何やら組織の内外で、揃って報復めいた事が散見されるようになり、左遷人事が相次いだ挙句、辞職に追い込まれたらしかった。
「最後は組織の方が堪り兼ねて、梯子を外したって格好ですかね」
 仏軍で揉まれながら社会経験を積んだ男は、協調性重視で突出を嫌う日本型の曖昧さに染まる事が出来ず、つまりが忖度出来ず浮いてしまった訳だった。

 米軍輸送機内の移動中、事前に滝川から聞いた話を記憶力抜群の真琴がそこまで話すと、
「いやいやいやいや——」
 慌てて先生が割って入った。
「そんな孤高の男じゃないですよ!」
 何の意図があるのか知りませんが「それは話が盛られてます」と景気良く手を振っては、先生はそれを真っ向から否定する。
「税金泥棒って言われるのが悔しくて悔しくて」
 日常の鬱憤の捌け口のような無責任な誹謗中傷に晒され「こうも支持されない仕事も中々ない」と結局は、国民の負託と言う名の一方的で無責任で盲目的な依存心に
「疲れたんです」
 と、捲し立てては苦笑してみせた。
 確かにそうした向きもあったのだろう。それは日頃の観念的な先生の姿が物語ったものだ。しかし真琴は、それに釣られないネタをもう一つ持っていた。
「外務省は、そんな風には思わなかったみたいよ」
「はぁ?」
 まだ何かあるんですか、と口を歪める先生に、
「言っとくけど、いくら何でもこんなに急に外交旅券は出ないのよ」
 真琴は悪戯っぽく微笑む。

 母の命を受けた真琴が、外務省に着くなり滝川と共に乗り込んだのは、いきなり事務次官室だった。
 こんな時に限って——
 外務大臣の高千穂は、国会会期中にも関わらず、何の用事か分かったものではないが外遊中であり不在だ。美也子が脅せば一も二もなく外交旅券を発給しただろうが、いないのではどうしようにもなかった。
 せめて美也子の伝を使い、現外相の父である元首相高千穂隆一郎の口添えで、事務次官を引っ張り出した。が、門前払いを回避出来ただけの事だ。その事務次官は、よりによって真琴の元上司である。特に問題のない上下関係ではあったが、何となくばつが悪いのは気のせいではなかった。その微妙な関係性が、無茶を押し通そうとする真琴の勢いを弱める。
「君もそんなところは、よく理解したものだろう」
 と、事務次官は苦言を呈した。
「本来の用途としてはこの向きだ」
 と、事務次官は言ったのは、緊急旅券の発給だった。
 緊急旅券は、まさに今回のように急遽の事で、渡航しなくてはならないにも関わらず、旅券を持たない場合に文字通り緊急で発給されるものである。しかしそれでは、基本的に公務の担保は取れない。それなら始めから公用旅券を取りに行く方が効率的だが、警察庁の公用では、捜査権を有する組織故に、他国での捜査干渉に抵触する可能性が拭えず都合が悪い。よって警察以外で公用担保を得る。それには外交旅券が最も都合が良かった。厳密には、外交旅券が即刻公用公務とはならないのであるが、もし作戦時の先生の身に何かが起き、後の人生に何らかの支障を来した場合、国にその責任を負わせる上でも最低限外交旅券はせしめておきたい。民間人の力を都合良く使うのだ。ある程度の身分の保証はつけてやるべきだろう。
 国は法に則り、出来得る限りの対応はしている。国家としては、それで国民の負託に答えたつもりなのだろうが、国民からすると守ってくれない法など全く意味がない。クルーズ船には四〇〇〇人を超える乗客が乗船しているが、その大半は邦人だ。治外法権だからとて、手をこまぬくような状況では決してない。国としては、作戦の状況次第で都合の良い立ち位置を獲得するためにも、積極的なアクションは嫌がるだろうが、その実このどん詰まりを都合良く打開できるエージェントの存在は、まずもって願ってもない事である筈なのだ。
 それを認めさせなくては——。
 協力して貰う先生に申し訳が立たない。が、外務省にとってそれは
「逆に邦人を危険に晒すのではないか?」
 迷惑以外の何物でもなかった。
 作戦が成功すればそれに越した事はないが、失敗すれば乗客に危険が及ぶ余りか、一枚噛んだ外務省にも何らかの責めが及ぶ。リスクの大きさを考えれば、外務省は何もせず静観する方が都合が良い。捜査は警察の範疇だ。それに加担して片棒を背負うなど、一見すると、リスクの大きさとメリットの小ささが際立つばかりである。兎にも角にも治外法権下、の話なのだ。
 高坂の世迷言に、旅券の中で最も崇高な外交旅券など渡せるものか。それも一、二時間以内の即日発給など、ウルトラCどころの騒ぎではない。そんな怨嗟が聞こえて来ては、門前払いされてもおかしくなかった。
「そもそも、それだけのリスクを負うに値する成果が、その男に見込めるのか」
 その元上司の手元には、警視庁がデータで送付した不破元警部補の在職時の職員情報が、ペーパーになって置かれている。何枚かになっているそれをめくる目が、如何にも胡散くさそうな物を見るようであり、逆に元上司に説教染みた問答に持ち込まれた。
「——見てみるかね?」
 と言われて、応接テーブルに置かれたのは、警視庁作成の職員情報ファイルと功績調書だ。功績調書は、特定の功績ある人物を叙勲や褒章などの栄典や公的な顕彰などに推薦するため、官公庁などに提出、保管される文書である。公務員の場合、上級幹部以外は大抵職を辞する前に、貰えるかどうかも怪しい将来の勲功を見据えて職員自ら作らされる物であり、真琴も外務省を辞職する際自分で作り提出したものだ。そんなものを作ったところで、中途退職した者がそのような栄誉など賜る訳もないのだが。
 真琴が先生の職員情報に手を伸ばすと、滝川は功績調書に手を伸ばした。職員情報は、単純なステータスの羅列だ。身長、体重、生年月日、出身地、保有資格、特技等々。どれもこれも、良くも悪くも目を引くものはなかった。資格や特技は未記載である。採用段階で秘匿事項とされたのか。真意は分からない。意外なのは学歴で、高校中退、とあった。つまりは中卒である。公務員になるには、基本的には高卒資格以上が必要なのだが
 ——どう言う事?
 と、思っていると、備考欄につけ加えるように「高等学校卒業程度認定試験合格者」とあった。高認を取得していれば、公務員の受験資格には問題はない。確かに先生の親代わりの武智からも、高校中退だとは聞いてはいたが、俄かに信じられず何となく受け入れられないでいたものだ。改めてその事実を突きつけられても、やはり信じられなかった。熟れた所作やいざと言う時の据わり具合など、何処かしら人間としての懐の深さや厚みが、それを認めない向きに作用していたようだ。以前、その素性が気になり始めた盆踊り会場で、法学部卒のクレー射撃経験者だとか想像した事があったものだが、ここでもまんまと騙された事を思い知らせる。
 一方で悪い意味では、これほど賑やかなものはないのではないか、と言うくらい、これでもかと記載された苦情や罰の羅列。それらの殆どは「けん責処分」つまり始末書処理されていた。始末書など大抵は、最後に破かれて終わりとするケースが多いものだが、それが記録として残されていると言う事は、揉み潰す事が出来ない程に揉め事を起こした、又は巻き込まれた、更に言えばわざわざ組織的に論われた、と言う事だったのだろう。
 注目すべきは最後の苦情で、これは書類送検されて不起訴処分になっていた。何をしたものか。流石に詳細は記載されていなかった。当然、賞などあったものではない。まさにここまで来る車中で、滝川から聞かされていた通りを裏づける内容に、然しもの真琴も言葉がなかった。そんな特異な資料の右上角には、それを象徴するかのように「特」の字のゴム印が押されている。何が特別なのか。
 一通り目を通し終えると、とっくに読み終えていた滝川の目の前にある功績調書と交換する。手にして滝川が読み終えるのが早かった訳が分かった。職員時代の単純なステータスや経歴の羅列以外、何も記載がなかったのだ。功績を記載する欄などは、わざわざ最上行に「以下余白」と記載されている。二つの書類から垣間見る職員像は、一言で問題児以外の何者でもなかった。
 今度は真琴が早々に目を通し終え、滝川が読み終わるのを待っていると、滝川は職員情報ファイルをテーブルに置きながら堪え切れずに噴き出したものだった。
「いや失礼」
 わざとらしく滝川が喉を整えていると、事務次官がその理由を黙って待っている。
「しっかし、特別採用者の資料とは思えんなあ」
 滝川は、笑いを噛み殺しながらものんびりと吐いたものだ。特の字のゴム印は、どうやら警察から求められての採用を意味していたようだった。
「不起訴になった件は、私も詳しく聞知しておりますので——」
 と言って切り出したのは、職員情報に記載されていた苦情や罰の羅列の一番最後の事である。車中では「問題児」の一言で片づけていた先生の処罰に関する事を、よりによってこの場で詳らかにし始めた滝川は、警視庁を悩ましたその問題児が、国民の無責任に沸騰していた一方で、
「公権力の、えーと? 不可謬性? だったか? それと法の諺に、何か怒ってましたわ。そう言えば」
 辿々しくも使い慣れない文言を口にし始めた。下の下の司法官憲ながら先生は、周囲を憚らず国家のそれにも沸騰していたらしい。
 不可謬性とは、キリスト教のカトリック教会における最高位者ローマ教皇の教義の在り方「教皇不可謬説」を説く折にその文言が用いられ、敬虔な信者か事情があって学ぶ事がない限り耳にする事は余りない。
 ——あいつらしいわ。
 読書家の先生なら、出て来そうな言葉だと真琴は思った。滝川は、と言うと、果たして一般的な多数派であり、聞きなれない文言に口を歪めたものだったらしい。
 法の支配、法の下の平等を原則とする法治国家において、法や公権力が間違える事は出来ない、と言う不可謬性は、当然と言えば当然の国家の国民に対する誓約である。
「確かに『ミスをするな』とは良く言われ続けたもんでして」
 警察に限らず、どの組織でも良く言われるそれは、先生に言わせると「間違えてはならない」が、いつの間にか一人歩きして「間違わない」に変わってしまう。つまり、間違う事が出来ないと言う不可謬性が「間違わない」と言う
「無謬性を生み出す、と——」
 国家と組織の増長を、それに属していた先生は公言していたそうだ。それは余りにも、世渡りとしては素直過ぎであり
「バカな事をヤツだと思ったもんですよ」
 と言う滝川の言はもっともだった。兵隊は難しい事を考えず「上の指示に従ってれば良いものを」と言い切ったものだ。
 が、一方で先生の言う事は、公職に就いた事がある者ならば、大なり小なり感じ得る国家作用の不遜ではあった。その理由の一つに、法治国家がその拠り所とする国内法の数が挙げられる。
「我々なんぞは、その極々一部を除くと、戒名すらまともに口に出来ない訳でして、」
 と、滝川が語るその数は、自治体条例なども含めると、六万とも七万とも言われる時代なのだ。公権力の執行者も並の人間である。これ程膨大で煩瑣な法を前に、果たして「間違わない」と言い切れるのか。そんな事など有り得ないどころか、専門家でも間違わないよう迷う事が多いとしたものだろう。言い切る事自体がそもそも胡散臭いのだ。司法の主宰たる裁判所の裁判官でさえ、公判廷においては必ず、物凄い厚みのある裁判所六法をめくりながら公判を取り仕切る。それは法に対する畏敬だ。
 であるのに、公権力如きが国賠を恐れる余り過ちを認めず、嘘をつき、隠し、その上で都合良く法諺を引用する。
「法の不知は宥恕せず」
 法を知らないと言い訳しても罪を許さない、と言う意味のそれは、日本においては刑法第三八条に言う犯罪における故意の概念を記した条文の、その三項を語った法諺である。
 更に、
「権利の上に眠れる者は保護するに値わず」
 読んで字の如く、不知、無知の事情に構わず怠惰な者の権利は守らない。
 挙げ句の果てが、
「法は些事にこだわらず」
 である。法は細かい事には拘らないと言う、やはり字面通りの意味なのだが、つまりは法は条文の字面通りの判断しかしない、細かい事情は知らない、と言う突き放しだ。
 公権力は完璧で、法の不知を宥恕しないのに、怠惰や些事は放置する、
「とは、制度として一方的ではないか、都合が良過ぎないか、と言いやがるんですよ」
 体感として、罪に対しては厳格であるのに、不都合な現実は見て見ぬ振りと言うそれは「奉仕者として国民に向き合っていると言えるのか」と言う、少なくとも現場の一兵卒が悩むには大袈裟な内容である。そう言う意味でも先生は浮いていた、と言う事だった。不適格者の烙印を押されていたらしい。国家機関に属する者が、それを批判するのだ。当然の見立てである。
 そんなある日、所轄署で先生が夜間当直勤務中に
「『ホームレスを逮捕しろ』と通報があったそうで、まあヤツが対応したらしいんですが——」
 事件事故は時と場所を選ばないため、当然警察署は空に出来ない。よって、署内で勤務する者が交代で当直に就き、電話番や発生する事件に対応しているのだが、その折の通報らしい。当直勤務中は、自らの事務分掌外の仕事をする事も多いのである。
 確かにホームレスは、実はその存在自体が軽犯罪法に抵触する状況があったりするのだが、警察はこれらの人々を闇雲に逮捕したり捜査したりする事は殆どない。しかも軽犯罪法は罰も軽く、例え検挙しても拘留か科料で決着する犯罪である。そもそも軽犯罪法には「濫用禁止規定」がわざわざ条文に付されている事情もあり、再びホームレスに戻る可能性が強い人々を警察が捕まえる事に、果たして意味は見出せない。それが根本的解決となり得ないからだ。
「しかして不破は、結局捕まえる事が出来ず——」
 捕まえる代わりに、貧困対策活動に殉じているNPO法人や弁護士に連絡し、対応を協議した。これは「合理」的でありかつ「妥当」とも言え、表面的には非常に正しい判断である。しかし捜査機関として、それは肝心な部分の裁量が欠けていると言わざるを得ず、自ら泥を被る事になった。「合法」とは言えないからだ。例え悪質性が低く社会的脅威になっていないとしても、罪は罪なのだ。
 結局、犯罪を見逃したとして苦情を受け、先生は罰を受けた。通報者は先生の行為を「犯人隠避」の罪である、と譲らなかったのだ。確かに罪だけを見つめれば、事実としてはそうなる。罪は罪だ。
「捜査機関としては、不破の行為を捜査する事こそ、合法、合理、妥当の原則を欠くもんだと分かっちゃいましたが——」
 それが警察官を訴追するものとあっては、如何に合理性、妥当性に欠く訴えであったとしても、清廉性を重んじる組織故、訴追を無視出来ず捜査しない訳にはいかない。合理性、妥当性を鑑み、属する組織の体裁を守るため、一個人の責任で泥を被り罪を宥恕した者が、峻烈な法の一部分を論われ、属する組織の体裁を守るために、合理性、妥当性を抜きに処断される、と言う強烈な皮肉。
「俗世間では理不尽、と呼んだものです」
 結果的に泥を被った男は、甘んじてその訴追を受け入れ、内部捜査後に書類送検され当然不起訴になり、内部処分も軽微なもので終わった、と言う。実を言うとそれは突き詰めると、先生の無茶振りに対する何らかの報復めいたものの一環だったらしかった。
 公権力は間違わず厳しく取締り、しかして不都合な現実を放置する。その典型ともなったこの件は、先生が辞職する大きな要因になった。出る杭は打たれる、と言う典型である。今まで通り在職すれば、また似たような事で組織に迷惑をかけるとして、
「その身の引き方も、実にヤツらしいと言うか、あっさりしたもので」
 ぐずぐず大樹にしがみつかず、拘らない妙な潔さが際立った、と言う。そもそもが、答えが出るようならこの手の社会問題など存在し得ないのだ。そう言う解けない謎々に、
「我々みたいながさつな連中は、面の皮も厚いもんですから」
 見向きもしない。してもすぐに忘れてしまうものだ。善悪や罪罰だけで割り切れる程、複雑に肥大化した現代の高度文明社会は単純ではない。しかしてその理不尽に晒され、潔く泥を被った男は、法に厳しく、しかして不都合な現実に国家として向き合わないそのご都合主義を、
「忌むべき矛盾だ、と言っとりましたな」
 実はその指摘は、近年散見される自己責任論の横行の原点であり、国家が法諺に託けて作り出したとも言えるもっとらしい言い訳と見る事も出来る。
「言われた時には、知らぬ間に随分と想像力が衰えていたものだ、と嘆いたもんでしたよ」
 長年の捜査経験を有する男が、片手の指程の年数にも満たないキャリアの新参者に足元を掬われたらしい。
 現代では、こうしたホームレス問題のように、短絡的に罪と呼ぶ事が憚られるような、罪を憎んで——の孔子のその概念でさえ当てはめる事が適当ではない、警察の対応に答えが見出せない事柄が増えているのも揺るぎない事実だ。そうした中で先生は、社会正義から目を背けず、矛盾に抗って公僕としてあるべき姿を求めた。言葉にすれば格好はつくが、要するところ
「まあ無茶でバカなヤツでしたよ」
 と、言う事だった。
 末端の司法官憲ながら、善悪や罪罰を乗り越えた先にある物から目を背けないその姿勢こそ、単純ではない物に向き合うそうした者こそ、国民にとっては望ましい奉仕者としたものだ。しかしそれは、本来国家機関が束になって立ち向かうべきであり、警察の一兵卒がそれをやると、
「まあヤツみたいに、組織の中で浮いちゃうんですが」
 と、言う事になる。
 警察で出来ない事は、組織を飛び越して連携を試みていたらしかったが、公務員は総じて動きが鈍く、民間では警戒される事が多かったようだ。要するに、その淡々と当たり前を貫くその迫力に
「ついて行ける者が少なかった」
 と、言うのが事の顛末だった。
「これらの罰は、わざわざ被ったものなんですよ」
 事務分掌の広い部署の係長は、色々な所に顔を突っ込んだり突っ込まされては、厄介事を引き受けたり、拾い上げたり、投げつけられたりするものらしい。その結果、揉めて収拾がつかなければ、責任者として潔く罰を被り続けた。
「責任を負いたがらない腰砕けが多い中で——」
 そうした意味でも先生は浮いていた。よく言えば逃げなかった、と言えるが
「保身が出来ず、組織には向かない男だった訳です」
 とどのつまりが、そう言う事だ。
「今回のような事件の使い方が出来るのなら、ヤツらしいと言うか、こう言うのもアリだな、なんて思ったもんですな」
 最後に滝川は、追加で悪びれず笑ったものだ。最後の最後まで持ち上げようとせず、最後の最後で落とすような滝川の話し振りは、聞き手に余計悪い印象を与え兼ねない。
 これじゃ——
 日和るばかりではないか。
 国が手を出せない現状は、実は正味のところ、国内向けには都合が良かったりするのだ。法治国家故、法の壁に阻まれ、可能な限り手を尽くしてはいるがやりようがない、と言うスタンドプレーだけで、結果を伴わなくとも一応役目を果たした事になる。しかも、批判されたとしても、それを躱す事が出来る論拠を有している。短期決戦が見込めないのであれば、如何に効率良く対処するか。その一点に尽きる。見せ掛けの熱意をちらつかせ、根底にドライな勘定を弾く。国も予算で動いている。無償の奉仕など、何処にも存在し得ないのだ。負わされる責任は軽ければ軽い程良い。
 一方で都合が悪い現実も、また存在する。他国に対する影響だ。乗員乗客の大多数は邦人であるにも関わらず、日本政府が手を出せない状況は、裏を返せばそっくりそのまま、船籍国と沿岸国たる米国へその労を押しつける格好となる。その労が大きければ大きい程、この事実は外交上の負債となるのだ。
 それを差し置いて、自分達だけ戦火が及ばない後背で
 ——ぬくぬくさせてたまるか。
 国がご都合主義で無様を呈している現状で、かつて国のために泥を被った男がまた、その義務も責任もない今、一肌脱ごうと言うのだ。しかも、最も外交負債が軽い方法で解決しようと言うのだから、外務省は願ったり叶ったりだ。国のスタンスは、この際知った事ではない。只、最低限の担保ぐらいは出させてやらないと気が収まらない。
 あの男の価値は、
 ——軽くないわよ。
 国にとっても、自分にとっても。
 滝川の話を聞き終わった事務次官を真琴が睨みつけていると、
「そう睨みなさんな」
 高坂君、と言って表情を緩めるなり、元上司はあっさり大至急の発給手続きを指示し始めた。
「次官——」
 呆気に取られる真琴の横で、滝川がしたり顔をする。
「もっとも——」と前置きした事務次官は、二人の前にもう一つペーパー資料を差し出した。
「ホームレスの方を逮捕するような人間なら、今この瞬間で却下したでしょうな」
 びっちりアルファベットで記載されたそれは仏語である。滝川が読めないと言わんばかりに首を横に振るため、仕方なく公職でも何でもない真琴が、またその資料を手を伸ばした。が、途中で手を止める。そもそもが、いくら先生のためとは言え、この場でやり取りされる文書は非公開の公文書だ。先程は、促されてうっかり見てしまったが、本来何ら権限を有しない真琴はそれを目にするべきではなかった。
「いいから、読んで見たまえ」
「しかし——」
 と、言いつつ真琴は滝川を見るが、滝川も所属する組織が違うのだから、やはりそれを見る権限はない。そもそもが、
「私には、これが何語なのかすら分かりません」
 滝川は、読めと言われたところで読める訳もない、と早々と匙を投げたものだ。
 仕方なくそれを手にした真琴が目にしたそれは、在仏日本大使館作成の仏在留邦人データを印字した物のようだった。名前欄を見るとそこだけ漢字で「不破具衛」とある。その資料に添付されている別資料も、仏語でびっちり記載されていたが、それには名前が二つあった。本名は先生のものだが、もう一つはやはりそこだけ漢字で「武智次郎」とある。それは仏軍外人部隊司令部作成の隊員データだった。もう一つの名とは、つまり「アノニマ」だ。
 ——タケチ、ジロウ。
 何処かで聞いた、と思った真琴は瞬間で、先生がサカマテの専務室に乗り込んで来た時に使った偽名である事を思い出した。
 まさか——
 あの名前がアノニマだったとは。思わぬところで、その起源を突きつけられた真琴は、一々行動に何かしらの根拠を頼むような先生のそのスタンスに、公職経験者たる出自を垣間見る。
 やっぱり——
 そう言う男なのだ。従事して来た任務は殆ど荒事専門だが、単なる乱暴な犬ではない。その所作にも見られるように、何処かしら何かしらの節度を思わせる。そんな男なのだ。
 その男の在仏日本大使館の邦人データが、何故仏語なのか。その資料に、何故仏軍作成の資料が添付されているのか。そして何故その資料は、二つとも先生が
 二二歳の時までの——
 ものなのか。
 邦人データは、何て事はない一般的な住所、連絡先などの記載だけだが、外人部隊のものは、在隊五年分のものながら、経歴功績ともに警察の功績調書とは打って変わって頗る輝かしいものだった。
 これは——
 流石に警察の特殊部隊の指導員になる訳だ。これを目にしたなら、事務次官もその実力を思い知った事だろう。   
 ——なのに。
 それにしては当初は、随分と旅券の発給を渋っていたのは何故なのか。
 その事務次官は、訝しむ真琴に「その資料に接するのは初めてのようだな」と前置きすると、
「彼は、フェレール公の遭難事件時の立役者だったんだよ」
 これらの資料は、その時フェレール家からの調査依頼に基づく回答資料だ、と言った。
「そう、だったんですか」
 真琴は驚きの余り目を剥く。
 それは、高坂とフェレールとの密約時の謎が解けた瞬間だった。
 母美也子からもたらされた先生の「情報」は、目の前にあるような詳細な資料ではなく、とりあえずの間に合わせ的なプロフィール程度の経歴の羅列だったのだ。その上、当時外務省勤めだった真琴は産育休中で詳細を知らなかったし、復帰後には遭難事件の件はすっかり過去の事で、知る機会を失っていた。それがまさか、巡り巡って自分を救う事になろうとは。当時から今までを辿ると、数奇としか言いようがない。
 当時のアルベールは、褒美を受け取ろうとしない雲隠れした英雄に「何でも一つ願い事を叶える」と口走った。現職の仏大統領にして世界に名だたるフェレール財閥の長が吐いたその一言は、その影響力と発言力と発信力の大きさも手伝って、一時期世界的な話題になったものだ。
 それを、今更——
 自分のためではなく、他人のために行使したのだ。それだけでも返し切れない借りが出来たと言うのに、その上更にその力にすがろうとしている。
 真琴が密かに打ちひしがれていると、
「スキルは申し分ないようだが、為人が知りたかったんだ」
 事務次官は一転して表情を和らげた。多数の人質を盾に取られる可能性がある状況下で、乗船している大多数の邦人の立場に寄り添った活動が出来る人間かどうか。その可能性を推し量っていたらしい。それが出来ないのなら、やはり却下するつもりだったと言う。
「状況が硬直している事は理解している。それを打開出来ない無力さも。だからと言って法を蔑ろにする事にはならない」
 事務次官といえども、一官僚であり一公務員に過ぎない。怪しい根拠に山を張るなど普通はしないものだ。当然の意見だった。軍人上がりの元警察官など、いくら特殊技能を有するとて外務省のキャリアに言わせれば、脳味噌まで筋肉の無法者ぐらいにしか見えないだろう。荒事専門職には任務に対する忠実さが、一方で狂気や盲目的にも見えるものであり、そうした危うさが否めない事も無理はなかった。真琴ですらそう思っていた節があるのだから、それをとやかく言えたものではない。が、
「個人的には、こう言うのは嫌いじゃない」
 と最後には、警察からの「資料提供」を組織的担保として捉えた、と嘯いて滝川と笑ったものだ。
「それはもう」
 滝川も悪戯っぽく笑っては、何となく握手をしている。
「外務省としても、この状況は健全とは考えていません。頼みましたよ」
「実際にやるのは不破ですが」
 一騎当千とまでは言いませんが、贔屓目に見ても一騎当十くらいにはなりますから、などとのんきに笑い始めた。
 まあ確かに——
 仏のフェレール家で、先生がジローをこてんぱんに伸した、と言う話をリエコから耳にしている真琴である。それなりに一目おいていたジロー程の者を、手出しさせないレベルが如何程のものか。実戦で揉まれて来た者の凄さを物語ったものだ。当十は中々腑に落ちる数ではあった。
「私の周辺の噂だと、不破のヤツは外人部隊では最終的に中尉だったそうですが、その資料にもそうありますか?」
「え?」
 唐突ながらも相変わらず何処か鷹揚とした滝川の問いかけに、真琴が改めて資料を手に取ると「軍曹」とある。
「でもこれは、ちょうど軍歴の中間ぐらいのデータですから」
 そう言えば、母の資料にも確か階級があった
 ような——
 気がしたが、何かにつけて大急ぎの事であり、読み飛ばしていたようだ。思い出せない。自分はいざとなると、本当に何処か抜けてしまう。こんなところでも、密かにそれを悔しがる真琴の前で、
「中尉で退官したそうですよ」
 それを事務次官がつけ加えた。遭難事件後に特進し、気がつくと異例の幹部候補生となり、
「本人の意に反して出世街道を走り始めたそうで」
 僅か一〇年で中尉まで昇進した、らしい。
「意に反して?」
 滝川に変わって、今度は真琴が軽く首を傾げる。
「フェレール公の発言で、一躍有名になりかけたのを嫌って、異例の出世と共に異例の任務に追われて中々大変だったようだよ」
 このネタの資料はちょっと出せないんでね、と事務次官は、軍歴の後半の経歴も掴んでいるようだった。その口振りからして、恐らく母からの「情報」だろう。
 結局は——
 母の画策による「出来レース」だった訳だ。
 真琴が俄かに怒りをたぎらせ始める横で、
「やはり日本警察は、まんまとその芽を摘んじまったようですな」
 滝川は空笑いしてみせた。これには真琴のみならず、事務次官も少し首を傾げる。
「特別採用時、ヤツは巡査部長待遇で雇われたんですよ」
 それは先程見た警察の資料にもあった。巡査部長と言えば、民間では主任待遇の役職である。
「特殊技能の指導員なら、普通は最低でも前職同様の待遇か、一つ上の待遇で引き抜くもんなんですがね——」
 軍で言う中尉とは、民間では概ね課長待遇の役職であり、日本警察の階級では今の滝川と同等の警部に相当する。
「それを中卒だからって、二階級も落として引き抜いたんじゃあ。——始めっから物を教わる態度じゃなかった訳です」
 その実力だけなら、本来なら警視待遇で雇ってもおかしくなかったのに、と先生を良く知る滝川は相変わらず呆れながらも、何処かやり切れなさと悔しさを滲ませていた。
「もっともヤツの事ですから、階級に拘りなんかなかったでしょうが、教わる連中はそれなりに厳しい競争を勝ち抜いて特殊部隊員になってる連中なんで、どうしても中卒の部長じゃ『下』に見ちまう」
 勿体ない、と重ね重ね嘆息したものだ。
「実際に、技能レベルでこの作戦に臨める警察官なんざ、全国探してもいやしないってのに」
 採用段階さえ誤っていなければ、先生は恐らく未だにそれなりの待遇で「指導員」として、警察の中枢にいたのかも知れない。母が本作戦の主導権を一方的に宣言した時、滝川に対して、先生の身の扱い方について何処か呆れていたのは、
 ——そう言う事だったのか。
 今更ながらに思い至った真琴だった。
 この母と言う人間は、
 いつから、何処まで——
 先生の事を知っているのか。
 少なくとも、真琴と先生のおかしなつき合いよりは長いのだろう。
「フランス軍は、良い買い物を正当に評価したようですね、確かに」
 実力のある人間を正当に評価するのは、欧米では当たり前過ぎて語るまでもない概念だが、
「悲しいかな、日本は未だに必ずしもそうじゃない」
 と、事務次官も自嘲してみせた。以前、先生にも言った事がある「日本の学歴偏重主義」を、先生はその身をもって、とっくの昔にこっ酷く体感させられていた訳だ。真琴自身の経歴を誇示するかのような言い振りだったそれは、巡り巡って
 こんな所で——
 自分自身を苦しめる。
 私はなんて——
 バカなのか。
 今更ながらに、世の中のバカな男達をバカにしていた自分、その男達と一緒にして先生をからかっていた自分が、凄まじい時間差で自分の胸を抉る。
 まさに——
 能無しの口叩き、だ。
 自分が言うのもいい加減鼻について内心腹立たしいが、先生の方が余程知性豊かで理性的ではないか。こうなってしまっては、先生と比べる事も何処か烏滸がましいが、形式的な学で言えば、先生より遥かな高みを修めた筈の自分が、とにかく薄っぺらくて情けない。
 滝川と事務次官が話しをする中で、密かに重ね重ね打ちひしがれていた真琴に、
「発給条件が二つある」
 事務次官がしたり顔で口を開いた。
 一つは、用済み後は速やかに返納する事。
 もう一つは、
「返納は君のつき添いで、私宛まで本人に直接返納させる事」
 そう言って、真琴の元上司は意地悪く笑んだ。
「君程の人に頼られる男と言うのを、見てみたくてね」
 追加で思いがけぬ理由を吐いたものだ。
「な——」
「事後承諾だよ、事後承諾」
 反射で硬直し、背中を反らした真琴に、事務次官は笑いながら宥めた。外交旅券は本来外交使節に発給する。その素性を押さえるのは当然の作業であり、緊急発給ならばその作業は、発給時は必要最低限とし他詳細は事後、と言う事だった。
 加えて外務省は、真琴が切り出す前に、既に関係国と本件の擬律判断を折衝済みと来ていた。真琴はしっかり謀られたものであり、次官の人の悪さに流石の真琴も呆れて声が出なかった。結局全ては、母の根回しで殆ど片づいていたのだ。真琴の役目と言えば事実上、出来た外交旅券を受け取るくらいのお遣いだったのである。
 結局は——
 母に踊らされた、と言う事だった。もっとも自分は、先生の素性も知らなければ作戦も思いつかず、その実行力も持たなかったのだ。こう言うところが母に言わせれば「詰めが甘い」の一言に繋がる訳だ。
 悔しいけど——
 反論の余地はなかった。
 その真琴が先生の経歴の一部始終を知ったのは、旅券をせしめた後、堪らず母に詳細な「情報」を催促した後の事だ。外務省で滝川と別れ、真琴は先生を待ち受けるべく羽田へ向かう道中で、それをデータで受け取った。送信者は母美也子自身だった。何処から引っ張り出して来たものか知った事ではなかったが、事前の宣言通り「事情は追って」説明された格好だ。色々手筈を整えながらも、あの年にしてこの短時間でそれを送りつけて来るところなどは流石としか言いようがない。
 と思ったところで、どうせなら外務省に掛け合う前に
 ——欲しかったわね。
 と訂正しようとしたが、止めた。それだと滝川を外務省に連れて行く理由がなくなっていたため、印象深いその話を聞く事が出来なかっただろう。そうした機微すら感じざるを得ない母の動きが、一々小憎らしい事極まりなかった。悔しいが今の自分は、到底その領域には及ばない。
 データを送りつけて来たメールの文末に、
"粗相のないよう支えておあげなさい"
 とあった。
 ——どっちが?
 これでは、真琴の粗相を言っているのか、それとも先生が粗相なのか、どちらとも解釈出来る。と思ったが、また止めた。あの母が頼るような男なのだ。
 ——私か。
 この期に及んでも相変わらずの負けず嫌いに、真琴は自嘲したものだった。

 で、今の米軍輸送機上に至る。
「私が聞いたフワトモって人は——」
 不破警部補の蔑称だったそれは、四万人を超える巨大組織において、表舞台での在職が僅か数年ながら、良くも悪くもそれなりに名を馳せた、と言う。真琴は上手く、後に続く言葉を吐き出せなかった。
「拗らせていただけですから」
 先生は、察したように続きの言葉をすり替える。真琴は仮にも現役弁護士だ。正直言って、
 ——みくびっていた。
 警察官など、司法行政の端くれのくせして体裁だけは一丁前だと侮っていた。はっきり言って、何の意志も考えもなく、国家に洗脳されて犬に成り下がっている、とまで思った向きすらあった。
「危うい程愚直で、洗脳的で、低俗な司法官憲に見えない事もないんですが——」
 そんな先生は、大なり小なり、過去の栄光にすがって悦に浸っているものと思っていた。が、
「常に不信って言うんですかね。まぁ色々疑うのが仕事でしたから——」
 最後には正義まで疑っては哲学めいて来る、と口にするだけで、そう言う向きが全くない。
「よくある警察ドラマの、出世争いとか派閥抗争とか組織防衛とか。そんなつまらないものに振り回されてる程現場は暇じゃないし、頭を使わないといけない事は、日々の仕事の中に山程あるもんでした」
 そうしたドラマなど見ない真琴でさえ、そうした先入観が多少はあった。世の中に蔓延る無責任な潜在意識に、いつの間にか毒されていた事を密かに恥じる。
「でもまあ、管理職はそう言う事をするものなのかも知れません」
 私はそうした人々の苦労を知らないので、と、すぐに推測を訂正したものだ。確定要素だけで素直に語ろうとするその姿勢がまた潔い。そうした先生の姿は、真琴が勝手に抱いている先生の人間性と合致するもので、ふと安心感を覚えた。それと同時に、現場の警察官達の苦労が少し分かった気がする。
「警察は、刑事だけで回ってる訳じゃありませんしね」
 そうした話に偏重している事を気にしたかのように、先生は唐突にそんな事を吐いた。
 日本の司法警察作用の代表格である刑事を始めとする捜査部門の過酷さは、ドラマでもその一端を垣間見る事が出来、確かにそうした非現実性はドラマ映えしやすいものだ。だが、日本警察には、世界に誇る交番制度にも見られるように、刑事以外にも誇らしい民主警察の範は存在する。複雑化する社会構造に揉まれながらも、そうした地域密着型の窓口として働く警察官達もまた、警察官として立派な職責を果たしている、
「と、したものよね」
「よくそんなに流暢に説明出来ますね」
 真琴が澱みなく説明すると、先生は苦笑して見せた。でも、と僅かに顔を曇らせたかと思うと、
「結局、何も出来なかったような。何をしてたのか、と言う喪失感、ですね」
 無念めいた事を口にする。警察の、それも刑事などは、悪を捕まえる、または悪に睨みを利かせる事が専らの任なのだ。苛烈な割に
 報われない——。
 一人の警察官に出来る事など、高が知れている。それは、警察全体の犯罪検挙数と個人のそれを比較するだけでも分かろうものだ。それを一人で
 ——抱え込み過ぎたのよ。
 その結果が、あの罰や苦情の山なのだからやり切れないだろう。
 国家に対する国民の不信感は募る一方、と言う現代の事である。国家機関の支持率は、下がる事はあっても上がる事はないものだ。その上警察は、何かと逆恨みを買いやすいとあっては浮かばれない。無念も無理からぬものだ、と真琴は素直に思った。
 こうした司法警察権を有する組織は、日本では警察以外にも存在する。検察や海上保安庁、厚労省麻薬取締部などがそれだ。が、国民の認知度として、それらは警察のそれと比べると低いと言わざるを得ず、日本の主権が及ぶ場所の全ての事象において、基本的に第一次捜査権を有する警察の認知度は圧倒的である。よって、その警察が被る逆恨みも相当なものだ。それでも一昔前までは、凶悪犯罪など社会的認知度の高い犯罪を迅速に検挙する事で、逆恨み以上に一定程度の国民の支持を集めているような雰囲気があったものだが、現代に至っては複雑化する民意を汲み取れていない感は強い。
「警察は支持率低いですし」
 先生は、何処か切なげに笑った。
 常日頃は「国家の犬」として蔑まれる事が多い国民の敵だ。罵声や誹謗中傷に晒される事は多く、感謝される事は少ない。それでも、公平中正を旨とし不可謬なる職務に邁進しなくてはならない。「支持などされずとも尽くすのが公僕だ」と言われればそれまでだが、公僕といえども生身の人間なのだ。いくらそうした批判に耐性があるとは言え、それを長年組織の内外で強いられて来たとあっては、人嫌いになるのも
 ——無理はないか。
 真琴は不意に、山に籠った先生の気持ちが少し分かったような気がした。特に先生は只でも擦り減りやすい部署で勤めて来たのだ。軍歴まで遡れば、実に二〇年もの間、死中に活を求めるような生活をしているにも関わらず、先生の為人の安定感と言ったらないではないか。恐らく心底では相当な我慢を、それこそ歯を食いしばって歯茎が痩せ細る程の辛抱をして来た事だろう。
 よくぞ——
 頑張って来たものだ。誇らしく思ったものだったが、それを口にするのはやはり恥ずかしかった。つい先程、その無念を受け止めると言ったばかりなのに、いざとなると素直にそれを口に出来ない自分が悔しい。慰めてやりたい気持ちはあったが、
 ——ダメだ。
 やはり今は、恥ずかしさが勝ってしまった。
「まあ、聞いて貰える相手に乏しいものですから」
 何処か吹っ切れたように言った先生は、
「お陰様で、何かすっきりしました」
 少しはにかんだように見えた。
 その相手として認識されている事が、掛け値なく
 嬉しい——
 と感じると、また何かが迫り上がって来る。真琴は、その照れをごまかすため、米空軍の繋ぎを着た者らしからぬ事を抜かす男に
「その格好で言われても、理解はしてないかも、よ?」
 薄く笑いながら答えた。
「組織外で話す内容としては、弁護士さん程分かる人はいないんじゃないですかね?」
 と、先生も軽く笑う。
「あなたの話なら、理解を示す弁護士は多いでしょうね」
 先生の思想は、元組織に対する偏りに乏しく、逆に破壊的だった。誤りを誤りと言える強さや潔さは清々しいものだが、これでは確かに
 組織向けしない訳ね。
 滝川が「問題児」と言ったその意味を、自分の一言で追認する格好となった真琴は、先生のその清々しい潔さが気になった。
 そんな先生が語る
「今回の件の、日本警察の無念は相当なものです」
 その言葉は、負けず嫌いで高飛車で偏屈も入り混じる真琴の耳にも、素直に入って来る。
「警察を擁護するつもりはありませんが、屈辱以外の何物でもないでしょう」
 只でも支持が低い警察の、またとない挽回の機会である事は言うまでもないのだ。が、法の壁が立ちはだかり、最後の詰めを他人に委ねるなど、功名心もそうだが「不完全燃焼もいいところの、煮え切らないイライラを募らせるような悔しさ」だろう、と言う先生の口を介した警察の無念は、何となく胸に届いた。その苦悩は、全く理解出来ていない訳ではなかったのだが、やはり許した声に言われると、自分ともあろう者が殆ど無分別にそれを受け入れようとしている事に、改めて気づく。
「実はこの件で、気がかりが二つあるんですが——聞いて貰えますか?」
 先生が思い至ったように、やや重そうに口を開いた。少し前には、もう準備万端として本を読んでいた筈だったが、何を思い出したものか。
「何? 今のうちに遠慮なく言ってよ」
 死地へ赴かせ、難しい役割を強いる事を、真琴はつい忘れそうになってしまう。それはこの男が、これまでに中々有り得ない立居振舞をこなして来ていると言う、その結果に対する慣れだ。本来はそれは、忌むべき安易な希望的観測の筈ではあった。が、不思議な事にこの男なら、
 またあっさりと——
 何とかしてしまうのではないか。そう思わされてしまう。真琴の真摯な口振りを感じ取った先生は、重いながらも口を開き始めた。
「もう、人を出し抜いて、功をなしてやっかみを買うのは懲り懲りなんです」
 何処かしら、ちんまりとして言うその形は、如何にも頼りない。
「私はもう、権利権力めいたものから身を引いた人間ですから」
 縛られたくない、と言うそれは、元仏大統領を助けた時の事を言っているに違いなかった。
 その気持ちは、今なら
 ——良く分かる。
 その半生を詳しく聞いた今なら。
 この男は、そうした野心に色めき立つような男ではない。その癖強くて潔いと来たものだから、真琴の琴線を弾いたのだ。だが、
「そうは言っても、高坂はそんな事許さないわよ」
 特に母は「只で民間人を危険に晒した」などと揶揄される事など我慢ならないだろう。それは少なからず、真琴にも思い当たる感情だった。
「フェレール大統領の時の二の舞はもう——」
「それがあったから、私は高千穂と復縁しなくても済んだんだけど」
 その高千穂は外遊中とは言え、気まずさも極まったもので連絡すら寄越さない。もっとも忙しいのかも知れないし、ばつが悪くてそうしないのかも知れないが、何であれ連絡して来たところで真琴は電話など出た事もなく、出るつもりもない。そもそもが早々に、着信拒否設定していた。
「本来そうしたものは、私の手には余るんです。哀れな仔羊ですから」
 土壇場でしれっと、
 仔羊を捩じ込んだものかな。
 真琴は口を歪めて、常の意地の悪さが口に覗き始める。
「哀れな仔羊にしては、随分と色々やらかして来てるわよね」
「まあ、それは——」
 否定しませんが、と言った及び腰の先生は、次の瞬間、真琴の心中を貫く一言を吐いた。
「こんな事の癖がつくと『仕事人』稼業に身を染めそうですから」
 そう言われると、真琴は小さく驚き目を剥いた。如何にももっともな話だ。先生はまさに打ってつけの人材である。それを課すには、その生い立ちと経歴、それに天涯孤独の現在の身分は申し分ないではないか。
 そう思い至ると、真琴は
「それも——そうね」
 そう言う以外、言葉がなかった。
 このような都合の良い使い方は、
 絶対に今回限りに——
 しなくては。現に滝川も、それを匂わすような事を既に口にしていたではないか。
 組織の体裁故、一個人で泥を被り、組織の体裁故、受ける必要のない罰を被り辞職に追い込まれたような男に、この上国家は更に、組織の都合を押しつけると言う構図は、この男に三回泥を被させたも同じである。
 その卑劣。その片棒を担ぐ自分。
「ごめんなさい」
 その言葉は、自分でも驚く程素直に出た。どんな窮地に陥ろうとも、こうも素直に謝るなど、自分でも経験がない。
「そう、思い詰められると——」
 それを如才なく汲み取る先生は、また土壇場めいてくると、何処かしら据わって来るそれである。
 急に気恥ずかしさを覚えた真琴は、
「じゃあどうしたものかしらね!」
 拗らせ屋さん、などと嘯いた。
「どうしても、何か褒美が貰えるのなら、今この状況だけでいいです」
 すると先生はあっさり、怪しい事を言い出したものだ。
「この状況?」
「山小屋の縁側みたいで。懐かしいです」
「な、何よそれ!?
 今——
 それを言うのか。
 真琴は急転直下、突然向けられた仄かな好意のような物に動揺して、顔を背けながら頭を掻いた。
「あ、あなたは、本当に——」
 毛穴が開くような感覚を覚え、本当にそこかしこに急激な痒みを覚える。貨物室内は昇温昇圧されており寒さこそないが、決して暑くもなかった。着ているのは素気ないダウンジャケットにデニムのパンツだ。騒音に託けて衣擦れの音に構わず身体を掻いたり擦ったり、である。
「土壇場になったら素直ね」
 輸送機の貨物室内は、山小屋の縁側とは似ても似つかないが、唯一似ている事があった。それに気づいた真琴は、今更内心で動揺する。それは、一定の空間を
 二人切り——
 で共有している、と言う事実だった。
「まぁひょっとすると、これが最後かも知れませんし」
 すると先生はまた、只ならぬ事を立て続けにあっさり言ったものだ。その一言に、真琴は思わず胸に手を当てた。動揺に対処出来ない程に、瞬間で心臓が跳ね上がったのだ。開いていた毛穴が一瞬で収縮し、今度は急激な悪寒で身の毛がよだち、身体が強張る。
「いろんな意味で、ですけどね」
「な、」
 何を急に——
 つい悪い癖で反射的に反駁しようとすると、
「この場は、あと何時間かは、誰にも邪魔されませんから」
 先生は相変わらず、またあっさりと嬉しそうに呟いた。
 邪魔されないって——
 確かに、三万フィート上空を飛ぶ米軍輸送機の只っ広い貨物室に二人切りだ。かと言って、
「パイロットがいるじゃない」
 こうも動揺させられる事に立腹し始めると、不機嫌そのままに真琴がぼやく。
「軍人なんて、少々の事じゃ驚くようなたまじゃありませんし、欧米じゃ人前なんて気にしないんでしょう?」
 そ、それは——
 確かに以前、そんな事を言ってこの男を籠絡した事があった。が、この土壇場でそれを今
 も、持ち出すか!
 そもそもが、妙に素直で大胆だ。
「ダ、」
 ダメだ。こんな所で、何を言い出すのか。何がダメなのか、それは頭の中で突然暴れ始めた煩悩である。
「だ、大胆——な、事を、言ってくれるじゃないの?」
 ダメだ、と言うつもりが、口が滑った。口が滑るとか、これまた自分史上で中々覚えがない。様々な黒歴史を持つ身は、滑舌が売りのアナウンサー稼業も有するのだ。それが、舌がもつれるなどと。
「元々空は好きで、気圧も低いし、うるさいし、誰もいないしで、何か解放的になるんですよ」
 一方で先生は、本当に嬉しそうな顔をしている。
 何を悠長な——
 と言い出そうとしたが、止めた。
 そうさせているのは、紛れもない自分なのだと思い当たる。辛気臭い状況に苛む自分を気遣っている。そんな事も分からなくなる程、今の自分は
 ——余裕がないのか。
 情けなさにまた打ちひしがれると、言葉が出なくなった。
 それから、どのくらい時間が経ったのか。良く分からない間を経て、先生は
「もう一つは、」
 と、呟いた。
 まだ——
 何かあるのか。
 この調子で立て込まれると、どんな跳ね返りをしでかすか。自分でも予想がつかない。真琴がとりあえず、軽く顔を向けて反応を示すと、
「息子さんの事を、聞いておきたいんです」
 先生は、言葉を選ぶように言った。
「え?」
 真琴が思わず、その横顔に食いつくように驚くと、
「いや一応、助けるべき人を間違えないように、と言う意味で、ですよ」
 先生は慌てて、身体的特徴を中心とした事だ、と取り繕った説明をする。
 が、すぐにそれを
「いや——」
 自分で取り消した。
「それもあるんですが——」
 そう言うなり、口が鈍る先生を
「何? いいから言いなさいよ」
 真琴はつい急かす。
「あなたの、その、分身の人の事も知りたいんです」
 その思わぬ思わせ振りな言葉に、真琴はまた、反駁の勢いに任せて何事か吐こうとしたが、先生の表情がいつの間にか緊張している事に気づいて止めた。
「実は、前から気になってたんです。——何で一緒に住んでないのか、と」
 その急に真摯な顔をし始めた先生に真琴が飲まれ始めると、
「何かの事情である事はお察ししますが——」
 先生は、重い悩むように漏らした。
「少なくともあなたは、自分の子供に辛く当たるようには、私には見えないので」
 真琴の何処を見て、そんな事を言ったのか。真琴には全く理解出来なかった。が、何処か分かったような口を聞く先生を歯痒く思う以上に、そんな理解をしてくれていたらしいその言葉に喜ぶ自分がいる。
「もしも私なんかに、何か言えるような事があるのなら、最後に伝えておきたいんです」
 先生のその一言は、思いがけず染み込んでしまい、真琴は不覚にも一瞬で嗚咽が漏れてしまった。

 長年ちやほやされて、ろくでもない男達につき纏われて来たが、真純の事を気にするような男は誰一人としていなかった。皆、真琴の美貌や財産ばかりに目が向いて、その内側を見つめようとする者など皆無だった。それは当然、そこに至るまでの関係性に到達出来た男が、誰一人として存在しなかった、と言う寂しさの裏打ちでもあったのだが。
 この土壇場で——
 そのデリケートな事柄に触れる事が出来る、それを許す事が出来る者が現れた事に対する真琴の感慨は、只でさえ、最近めっきり緩くなってしまい困っている涙腺を、あっさり崩壊させてしまった。
 真琴は堪らず、ダウンジャケットのポケットから先生のタオルハンカチを取り出して、顔を拭い始める。
 何でこんな土壇場で——
 この男はこうも見事に、心の隙間に入り込んで来れるのだろう。
 何故、人の事を考えるゆとりがあるのだろう。
 何故、こうも堂々として、落ち着いていられるのだろう。
 しばらくぐずぐずになり、話すも何もなかったが、
「何から話せば良いのか分からない」
 喉を引き攣らせながらも、どうにかそんな情けない世迷言を吐くと、
「何からでもいいですよ」
 先生が、やはり鷹揚に答えたものだったから、もうだめだった。子供のように嗚咽を重ねた後、少し落ち着きを取り戻すと、後はそれまで一人で抱えていた鬱憤を、無様にぶちまけた記憶でしかない。
 何をどんな筋道で話したのか。息子の事、と言う筈だったが、確かに真純の事から話し始めはしたが、後はそれに付随した、幼少期からの母との確執、学生時代の陰湿ないじめ、社会人でのセクハラ、お妃候補に担がれそうになる程の婚難。それを逃れるための行き当たりばったり婚の末の早期離婚。シングルマザーの末に、それなりに大事に思って来た愛息からの余りにも早い三行半、と言う数々の詳細な顛末。
 以前にも話した記憶があった事も含めて、洗いざらい、べそをかきながら、人生の黒歴史を語り尽くした。一番最後に口にしたのが、一番ハードルが高く、一番情けなかったが、それでももう止められなかった。
「私、嫉妬したの」
 それを口にする事は、これまでの真琴には最も有り得ない感情だった。他人のそれに、散々苦しめられて来た真琴である。それは、忌むべき感情であり、人嫌いの真琴が他人を羨むなど有り得ないにも程があった。その羨んだ相手とは、更に有り得ない事に、実の息子とその婚約者だった。
 親の真琴を差し置き、男と呼ぶには余りにも拙い年齢ながら、その成熟した健全な精神で、生涯の伴侶を見つけ出した息子は、解き放たれたように真琴から離れて行った。
 ——どのくらいもつかな。
 うら若き二人を前に、真琴は侮っていたものだ。何年も、何十年も追い求めながら、自分が手にする事が出来なかった当たり前の幸せを、実の息子にあっさりと出し抜かれるように見つけられた真琴は、その後本当に婚約した二人を前に激しく動揺した。
 何で、こうも簡単に——
 幸せを手にする事が出来るのだろう。自分には何が欠け、何が違うのだろう。本当に婚約してしまうとは思っていなかった真琴は、
 いずれ解消するに決まってる。
 などと、密かに歪み始めた。
 しかし、一年、二年と月日は順調に経過する。その後真純が司法試験予備試験に合格し、昨年中学を卒業後、早々と法律事務所で勤め始めると、俄かに結婚、と言う具体的な話が上がり始めた。
 ウソ——。
 まだ一六の年であり、結婚可能年齢は二年先である。しかし婚約者の千鶴は、後二、三年で三十路だ。今でこそ、その実家となる兄宅で暮らしている二人だが、真純が一八を迎えると同時に結婚して別に所帯を構える、と言い出したのだ。確かに千鶴の年齢を考えると、その選択は正しい。
 その報告を受けた真琴は、
 ——好きになさい。
 突き放したような言い方しか出来なかった。
 どうせ——
 自分は、結婚に失敗した口だ。いつまで経っても一人で突っ走って、周りに当たり散らしては強がっている弱い人間だ。そうした実は負の感情に塗れている自分が、人生の先立として言えるような事など何もない。ましてや親としてなど、何一つまともな事を言える自信がない。人間関係と言う人間関係に失敗し続けている人間が、たまたま人の親になっただけだ。愛など殆ど無縁の感情のままに、子を作り産んだような軽薄な親だ。そんな親が、
 今更偉そうに——
 何を言ってやれると言うのか。
 そもそもが、そんないい加減な生き方をして来た人間だ。親たる資格などないではないか。
「何て格好がつかないんだろう——」
 語尾は喉が締まり、声が揺れて細い高音になった。
「私の方が子供だったの——」
 最後の悲痛は小さな悲鳴に近く、文字通り子供が泣きながら何かを訴えるそれと何ら変わらなかった。また嗚咽が出始めると、それを何とか抑えようとするが、我慢しようにも溢れた感情が暴走してしまっており、なす術がない。
 すると、頭の上に何か柔らかい物が乗ったように感じた。ハンカチ越しに頭を上げると、いつの間にか二人の間の席に置かれていた筈のリュックがなくなっており、先生が座っている。その先生が手を伸ばして、頭を撫で始めたようだった。真琴の顔を見ないように、ぎこちなく正面を向いたまま、頭頂部から後頭部へ撫でつけては、淡々とそれを繰り返している。その拙い手が温かく、柔らかかった。
 ——四つも年下のくせに。
 この安心感は何なのだ。
 その手に撫でられた別れの日も、やはり泣いていた。でも今は、比べるまでもなく、掛け値なしにとにかく嬉しい。それでも不意に、何か違うと感じた真琴は、すぐにそれに思い当たると、先生が着ている借り物の米空軍の飛行服のファスナーを襟元からずらした。
「なっ!?
 慌てて驚いた声を上げる先生に構わず、真琴は更にその下に着込まれた先生の薄手のダウンジャケットのファスナーもずらす。その下に着込まれたライトジャージのファスナーもずらしてシャツが露わになると、一も二もなく頭から飛び込んだ。それなりの勢いで飛び込んだにも関わらず、柔らかい身体つきのくせして予想通り如才なく受け止められる。瞬間で固くなった身体に黙って顔を埋めていると、ぎこちなく腕を身体に回され、力なく抱き寄せられ、また頭を撫でられ始めた。
 顔を押しつけたその胸から、期待通り仄かにパン屋のような、穀物系の良い匂いが鼻腔を刺激する。泣いている事を良い事に、何度も何度も鼻を啜っては、その懐かしい匂いを嗅いだ。もうバニラの匂いは何処にもない。冬を迎え、米糠から熱がなくなったためだろうが、鼻と直結する脳は男の大きさがそうさせていると判断していた。この状況で担ぎ出される男なのだ。先日母に、この男を「凡夫」と詰られ腹を立てた一方で、過去の自分もそれをほくそ笑んでいた事を、今更ながらに恥じた。それを今ここで謝れたものではないが、その匂いを精一杯嗅いで受け入れる姿勢を見せる事で罪滅ぼしだ。そうすると何処か悔しいが、どうしようにもない程気持ちが落ち着いた。物語で見聞きした、麦藁に飛び込んで休むような、そんな感覚だ。
 これが、
 最後——?
 でも良いのか。
 安心し始めると、思考回路が脳内で再起動する。
 私は——
 どうなんだ。
 改めて、脳内で唱える。
 そんな事——
 確かめるまでもなかった。
「最後なんて、私は嫌」
 真琴は身を小さくして、先生の胸に顔を押しつけたまま、まだ少し頼りなく揺れる声で呟いた。想いを声に出して確かめると、収まりつつあった発作めいたものがまた再発し、大量の涙になって溢れ出て来る。
「絶対嫌だから!」
 嗚咽と共に言葉を吐くと、喉の痙攣が止まらなくなり、しゃっくりが出始めた。
「これだけ泣かせといて、何か言ったらどうなのよ!」
 それでも、少し戻った思考回路で精一杯の皮肉を口にする。声はよれたままで、やはり全く締まらなかった。
「絶対、帰って来ますから」
 先生が、ようやく一言呟くと
「じゃあ何で最後なんて言ったのよ!」
 真琴が、勢いそのままに即座に噛みつく。そもそも先生が何度も、
「最後最後って連呼するから!」
 それに動揺させられて、この有様に追い込まれたようなものだった。「あなたのせいよ!」と一方的に責める真琴の頭を、それでも先生は撫で続ける。
「それは、この事件での意味じゃなくて、今後の意味でしたから」
 先生のその言葉に、真琴は押しつけていた顔を胸から引っぺがすと、両腕をその首に巻きつけ、今度はその首根っこにしがみついた。
「だからそんなの嫌なんだってば!」
 子供染みたヒステリックさで、文字通り駄々を捏ねるなど、これはこれで普段の自分からすると相当有り得ないにも程がある。
「分かりました」
「何がどう分かったってのよ?」
「また山小屋でお待ちしてます、で合ってますか?」
 人嫌いを公言する先生のそれは、程度こそ量り兼ねるが、好意の表れである事は言うまでもない。それを勝手に最大限良いように解釈した真琴は、殆ど噛みつく勢いで、今度は先生の頬に顔を擦りつけるようにしがみつき直した。
「——今はとりあえず、それで許してやるわ」
 うー止まらない、などと真琴は半泣き半笑いでしがみつく。涙や鼻汁で顔はめちゃくちゃだ。百歩譲ってそれを受け入れるとして、それが先生の頬や首筋についてしまっている。顔を拭うため頭を離そうとしたが、尚も真琴の頭を撫で続けるその手が、真琴の頭を離そうとしなかった。
 真琴は離れる事を諦めて、ぐずぐずの顔のまま、しばらく大人しくその手に頭を撫でられ続けた。

 日付が変わった東京時間午前一時前は、米国ホノルル冬時間では前日午前六時前である。常夏の島といえども北半球の冬であるハワイ州近辺は、まだ真っ暗だった。東の空の、太陽が水平線から顔を出す辺りの闇が、言われてみれば僅かに極鈍い明るさを伴っている程度である。
「タクさん! 間もなく降下ポイントです!」
 シャーさんがインカムで割り込んで来た。身体は前席から顔を覗かせる程度である。気がつくと真琴は、先生の肩に頭を置いて寝ていたようで、
「あ、ごめんなさい!」
 そのインカムの声で、慌てて身体を起こして詫びた。
「いえ」
 相変わらず柔らかく答えた先生は、この期に及んでまだ本を読んでいたようだ。が、呼ばれるとインカムを外し、自前のリュックサックを真琴に手渡す。
「荷物を頼みます!」
 後は地声でのやり取りになり、
「分かった!」
 寝起きで声を張り上げた真琴が、予想に反して軽く咳き込んだ。散々に泣き疲れ、いつの間にかまた寝落ちしていたようだ。喉にまだ少し、疲労感を覚える。
 サポート要員で
 一緒に来たのに——
 被害者の親と言う立ち位置よりも、元は屈強なエージェントとは言え、今は完全無欠の民間人である先生を頼む申し訳なさの方が圧倒的に強かった。せめて、任務上の懸念を振り払えるよう、尽くすつもりで一緒に輸送機に搭乗したのだが、逆に気を遣われてしまっているではないか。
 結局、
 ——粗相、してしまった。
 まさに、母が事前に送りつけてきたメールの言いつけを守れていない。この際母の言いつけなどはどうでも良いとして、事実として先生に負担をかけてしまった事には違いないのだ。母に見透かされていたと言う悔しさと、自分の情けなさと、重ね重ね先生に対する申し訳なさで、俯かざるを得なかった。
 手にしているタオルハンカチは、涙やら鼻汁やらでぐずぐずになってしまっている。目元には目やにがついていて視界がぼやける程で、それ程までに泣き腫らした、と言う事だった。きっと酷い顔をしている事は考えるまでもなかったが、瞬間で状況を巻き戻した真琴は、慌ててタブレットを確かめる。約一時間前に滝川からメールが届いていた。
 ヘルメットを被り、降下用パラシュートを確かめる先生に歩み寄ると、一緒にメールの中身を確かめる。すると先生は、一瞥しただけで片手を軽く上げて理解を示した。その余りの速さに、真琴の顔色が変わりかける前に、先生は手話を使い始める。事情は真琴が寝ている間に、シャーさんから聞いたらしかった。
 真琴も、
「そう」
 と、手話で返す。
 犯人グループは、やはりシージャックを宣言した。約二時間前、米国領海から約三〇海里離れた公海上で宣言し、停船中らしい。これには米国沿岸警備隊も、
「流石に、遠巻きで監視してるだけだそうです」
 とりあえず静観としたものらしい。
 国連海洋法条約未締結であり「海の憲法」とも呼ばれるそれを遵守する義務がない米国だが、慣習的にはそれに準じているのだ。船の所有国、旗国とも他国籍で、その上米国領海外の国際的な外航客船と来ては、流石に慎重を期する他ないようだった。領海ではないにしろ、一定要件下で「近接権」や「臨検の権利」が認められるケースもあるが、やはり二の足を踏んでいるらしい。最終的には、米国籍者が数人しか乗船していない、と言う事実が「被害者国籍国」を宣言するには余りにも少数、と判断したようだった。それでも、所謂乗船客の中に米国のVIPがいようものなら、それこそお構いなしで形振り構わずなのだろうが、それがないと言う事は一般市民、と言う事らしい。
 クルーズ船の停船位置は、一応米国の排他的経済水域内ではあるが、それは資源に関する事のみ主権的権利が認められると言う、これも海洋法上の取り決めであり、言わば例外の権利だ。
「まあ、海賊船じゃありませんしね」
 所謂「海賊行為」が認められる船は、公海上であろうとも「旗国主義」の例外とされており、それに対する各国の軍艦、政府船は、先述の近接権や臨検の権利を行使出来るとされている。が、それは明白な海賊船に対しての事であり、客船に対してそれを行使するのは流石に論争を巻き起こし兼ねない。いずれにせよ、米国の立ち位置は当事者国間では最も関係性の薄い立場であり、無理は出来ないと判断したようだった。
 公海上とあっては、兎にも角にもまずは「旗国主義」に基づく船籍国が主導権を握っているのだ。
「船籍国が、何か協力要請でもしてくれればいいだけなのに」
 と真琴が不満を漏らす一方で、その船籍国は当初の宣言通り、犯人グループのシージャック宣言を受けて、ようやく事案の検討を開始したようだ。が、それ以降進展は見られない。要するに、精一杯日本の外交負債を煽り立て、少しでも自国の利益を
「引き出す魂胆のようです」
 と言う、終始一貫の対応を取られたようだった。
「どうするの?」
 真琴が曖昧に尋ねると、先生は装着したばかりの一見軍用のヘルメットに、外したばかりのインカムをつけ直す。装備品の最終チェック中のようだが、器用にも目と手を忙しく動かしながらも、合わせてまたインカム越しに口を動かし始めた。手話では詳細を伝えるのに労が嵩む、と判断したのだろう。
「ごめん! 準備して!」
 目と手が疎かになっては悪いし、それで作戦時に何かトラブルでも起きようものなら、即刻先生や被害関係者の命に関わるのだ。今は何より、その思考は真琴にではなく、クルーズ船に向けさせるべきだった。が、
「いえ、大丈夫ですから」
 やはり先生はやんわりと、しかしててきぱきと、目と手と口を動かし続けた。
「とりあえず私人として、船籍国内法の監禁罪の事実で現逮します」
 船籍国に「監禁罪」が成文化されている事を確認済みらしい。事件が現在進行形なのであれば、監禁状態の現行性が途切れる事は有り得ない。それを捉えたようだった。分かりやすい犯罪で逮捕するのは、捜査経験を有する者ならば基本である。無罪の謗りを受けないためだ。当然、私人逮捕の権限も
「確認済みです」
 と、抜け目がなかった。
「犯人グループがシージャックを宣言したなら——」
 良く耳にする航空機の「ハイジャック」に関しては、実は国際的な共通認識の下で、それを防止し取締る条約が締結されている。いざ国際線でそれが発生したならば、即時「犯人所在国」「機体国籍国」「被害者国籍国」の関係各国に余波を及ぼす国際犯罪であるそれを、締約国間で明確に定義づけ、条約に則した内容の犯罪行為を各国に成文化及び訴追を義務づける事により、ハイジャックを予防、取締るためだ。
 そのハイジャックと同様に、所謂和製英語で言われるところの「シージャック」に関しても、国際テロや海賊対策の高まりに起因して条約が締結されている。
「——『海洋航行不法行為防止条約』が生きて来るけど」
 まさに今、真琴が口にしたそれだ。正式には「海上航行の安全に対する不法な行為の防止に関する条約(通称SUA条約)」と銘打つそれも、ハイジャック同様に締約各国に対し、犯罪行為の成文化は言うまでもなく、原則的に犯人所在国に対しては訴追を義務づけている。筈なのだが、船籍国は同条約締約国であるにも関わらず、
「この日和見は、最早信用なりません」
 と、先生はまた、あっさりと言い切った。
「それにSUA条約は、解釈や見解に争いやブレが散見されますし」
 と、どうやらこれは、仏軍時代の経験則が物を言ったようだ。何かと粗野な印象が拭えない軍の事だが、それでも自由民主主義陣営の法治国家に属する軍の事ならば、様々な派遣先においては、様々な根拠をその活動に求めるものだ。特に仏軍外人部隊と言えば、仏軍内では激戦地に赴く最先鋒である。海外派兵経歴が、そうした意識を根づかせたのだろう。
「それに、船籍国のシージャック対策法や海賊対策法に目を通してみたんですが——」
 裁判例がなかったらしい。船舶の保有数では世界指折りの国であり、それなりに同国船舶は事件に巻き込まれていてもおかしくない筈なのだが。が、これはそう深く考えるまでもなく答えは簡単で、公海上であれば日和見と言う名の事実上の放置で、SUA条約の締約国などに
「対応を丸投げしてるようです」
 と言う、総じていい加減な対応ばかりのようだった。
 つまりは一昔前に言う「安かろう悪かろう」だ。船籍を獲得すれば、船に関する税は安く法も緩いため、実際の所有国の厳格な法を気にする事なく、税や労働力など船にかかる手間を省く事が出来る。その代わり、事件など有事が起きようとも政府は動かない。正しくは「動けない」のだ。船籍国は反政府ゲリラや、国をまたがる大規模な麻薬組織があるような「小国」だ。軍と警察が一緒くたの荒っぽい治安機関は、国内向けの事すら満足に対応出来ていない。だから、都合良く船籍を獲得したような船の事など「金」でも積まれない限り積極的に対応する訳がないのだ。それでも、
「何件か対応事例があった事はあったんですが——」
 やはり裁判例は見当たらなかったらしい。つまりは、裁判を起こすまでもなく解決した、と言う事だ。船籍国の対応とは、それ程までに大雑把で荒っぽい。
 結局は、そんな国家のSUA条約絡みの法律など
「信用出来ないので——」
 それを拠り所とする事に希望が見出せなかったらしい。一応、日本も船籍国も、同じSUA条約締約国なのだが、国が変わればこれ程までに何もかも違うのだ。と、これは
「シャーさんに頼んで、軍の端末でちょちょっと調べて貰ったんですが」
 満足の行く資料だったとか何とか。中米に位置する船籍国絡みの資料であれば、その公用語たる西語で記録された物なのだろうが、
「私はスペイン語は全く分からないんですが、」
 流石に米軍端末としたものか、ご丁寧にきっちり日本語訳つきの物で分かりやすかったらしい。
「で、監禁で勝負する事にしました」
 犯人グループを捕まえたならば、一味と先生は諸共船籍国に「所在」しているとは言え、裁判権を持つ同国は遥か数千km先の海の彼方だ。その上未だ、言い訳がましく何の部隊も展開していない日和見のその政府に、物理的にも状況的にも即刻頼れないとあっては、一味を引き渡す前に何事か起きてもいけない。よって、船内の不安定な状況の早期回復のため、緊急避難的観点でそのまま行き先地であるホノルルへ向かう。その後、米国領海で待ち構えた同国沿岸警備隊の艦船に引き継ぎ、米国の法的根拠に基づく
「偽造パスポートによる不法入国で逮捕。合わせて国際手配された監禁と旅券法違反の事実で、身柄を確保してもらいます」
 通常、外国船舶の中で沿岸国の主権が及び始めるのは沿岸国港内からと言う見解が一般的だが、洋上で米国籍の船舶に乗り換えた上でそこが米国領海内であれば、問答無用でそこは米国である。主権行使に異議を挟む余地はない。
「日和って何もしないくせに、御用になった後の犯人を掻っ攫って外交カードにしようなどと。そんないいとこ取りはさせませんよ」
 船籍国を完全除外化し、有無を言わせない。船の所有国であり、大多数の日本人乗船客を有する被害者国籍国である日本の立ち位置は「旗国主義」に基づく船籍国に肉薄するものなのだ。犯人グループが米国に渡ってしまえば、後から追っかけで船籍国が絡む余地はほぼない。後に何かの利権を求めて旗国主義を振りかざし、犯人の身柄を要求する可能性もあるが、もしそうなら早々に対応している日本と米国が何らかの「圧」をかけるだろう。
 以上は現場レベルでの話に過ぎないが、先生のその見解は、真琴が寝ている間にシャーさん経由で、沿岸警備隊及びFBIと認識を共有済み、と言う周到振りだった。
 いずれにせよ、実際に犯人を確保した後の事は日本の警察庁が上手く調整するだろう。日本と米国は二国間で「日米犯罪人引渡し条約」を締結している。よって条約に則り日本警察が犯人を米国から引き受け、日本に移送の上国内で捜査し、国内法で日本の司直に付する事になるのは間違いなさそうだった。
「仮に、もし作戦が失敗しても」
 その時点で船長に遭難を宣言してもらう。遭難船舶ならば、沿岸警備隊も活動根拠としてはそれなりに固いだろう。仮にクルーズ船が遭難通信を飛ばせなくとも、沿岸警備隊側が先生の作戦失敗を認識した段階で、次の作戦行動に入る手筈だ。それも既に、シャーさん経由で沿岸警備隊を始めとする関係機関へ通知済み、との事らしかった。
 結局のところ、
 全部、先生に——
 調整させてしまい、
 何も——
 していない。
 それどころかこの男と来たら、本来真琴がやるべきそれを、片手間のように淡々と処理してしまっているではないか。しかもそれを、突入を目前に色々と気忙しい中、現を抜かして居眠りしていたような体たらくに、お人好しにも準備をしながら丁寧な説明をするなど、
 何処まで——
 神経が図太いのか。
 しかも先生と来たら、捕まえた後の事ばかり気にかけている、と来たものだ。こうした場合、普通なら捕まえる時の事こそ気にかけるものではないのか。
「それもあるけど——」
 真琴は今更ながらに、その不安に駆られ始めた。いくら凄腕とは言え、夜明け前の真っ暗な空中をパラシュートで降下して、単独潜入の上犯人制圧など本当に出来るのか。とはまさに、
 今更過ぎ——
 て、とても口に出来たものではない。
 一方で、そんな思いの逆を
「責任は、あなたじゃなくて私にあるから」
 口が吐いたものの、その裏で犯人の要求に対する手配を全くしていなかった真琴だった。これこそまさに「無責任」と言うのではないか。
 犯人の具体的な要求は、指定口座への期限内の身代金の入金と、その後行き先を船籍国へ変更、と言う二点のようであり、良くも悪くも真琴は、身代金を準備しようと思えば出来たのだが、何もしていなかった。そもそも家内における指揮は、母美也子に移っているのだ。その母が、身代金を用意するつもりがない今は、とにかく先生を頼るしかないのだが、
「余り、無理しないで」
 そんな矛盾を吐く自分が、余りにも情けなかった。結局泣き疲れて、擬立判断や折衝を先生にさせてしまい、挙句の果てに最後に伝える内容かも知れないその言葉が、感情と拙さに塗れたもの言う素人振りだ。
 こんなんじゃ——
 何のためにつき添ったのか。全くの無意味ではないか。それどころか逆に、気を遣わせた分だけ負担をかけてしまっているではないか。自分がしていた事など、愛息を放ったらかして好きな男に甘えていただけではないか。
 何という——
 不甲斐なさか。
 先生の身を案じる以上に、心中に押し寄せる無力感に苛まれる真琴を前に、先生はこの土壇場でも相変わらず何処かしら柔らかく佇んでいて、ふんわり飄々としているのだ。が、そんな男が、今最終チェックをしながら纏っているのは紛れもない軍服と言う凄まじいそのギャップ。これが罪作りと言わずして何なのか。果たしてこれは、よく言われる「本人に罪はない」と言えるのか。
 気がつくと、またそれを見守る目に熱を帯びてしまっている。また一人で勝手に動揺している真琴の何かに気づいたらしい先生が、
「大丈夫。心配ご無用です」
 いつも通り静かに、それでいて丁寧にはっきりと言い切った。その一言の、何と頼もしい事か。確かに圧倒的な経験に基づく沈勇もあるのだろうが「度胸がある」と言うよりは、いつも相変わらずで、まさに「いつも通り」の安定感。
 ——そうか。
 先生が据わっているのではなく、単に
 私が——
 慄いていただけだったのだ。
 今この瞬間、目の前の男に抗えない何かを感じ取った真琴の前で、そんな事など知る由もない先生が、
「じゃあ、ちょっと種明かしを」
 と、繋ぎの中から取り出したのは、サカマテの専務室に先生が乗り込んで来た時に、盗聴盗撮機材を見つけるために使った
「スペクトラムアナライザ、だっけ?」
 である。
「はい。持って来て良かったですよ」
 合わせて先生は、自分のスマートフォンも取り出して、稼働状況を確かめた。
「犯人を盗聴する訳?」
「まあ、そうですね。想像通りなら」
 真琴が僅かに首を傾げていると、輸送機の後部ハッチが開き始める。時間だ。
 これが、
 最後——
 の時なのかも知れない。
 先生が口走っていたそのフレーズが脳内でこだまし始めると、固まって動けなくなってしまった。そのハッチに釘づけになっていると、不意に身体が軽くなる。一瞬後に我に返ると、先生にお姫様抱っこされていた。
「なっ!? ちょっ!?
 線が細いくせに、意外な力強さだ。真琴が驚くのも束の間、椅子に降ろされてシートベルトをつけさせられた。
「危ないですから」
 降下ポイントと言う事は、もうすぐハワイ到着と言う事でもある。軍の輸送機は窓こそないが、感覚として確かに随分と降下して来た感はあった。
「着陸まではこのままで」
 最後に、今度こそインカムを外した先生がそれを真琴に手渡すと、また手話を使う。そのまま静かに離れる先生のその手を、真琴は思わず取った。
「絶対何が何でも帰って来て!」
 手話を使わず、その顔を見て怒鳴り散らす。最後の最後なら、この男のように思い切るとしたものだ。その不安を消すように、後悔しないように。
「失敗しても、変にカッコつけなくていいから!」
 良いように使われている事が分かっている筈なのに、大人しく従うその諦念が、真琴の胸中を掻き乱す。
「変に責任感じなくてもいいから!」
 とは、
 ——矛盾だ。
 これもまた、この男が過去に「忌むべき」と語っていたそれだ。無理を強いておきながら、無理をするなとは都合が良過ぎる。
 何て勝手なんだ——
 土壇場でそれに押し潰されそうになると言葉が出なくなり、不覚にもまた涙腺が崩壊した。
 ——ホント、無力だ。
 散々偉そうに生きてきたくせに無様にも程がある。気がつくと真琴は、両手を組んで目を瞑り、うずくまっていた。今更ながらに日常は、非日常の連続である事を突きつけられ、祈らずにはいられない。それを弱いとさえ思っていた自分の、何と愚かだった事か。それは、初めて経験する運命に対する畏敬だった。猛烈な不安に襲われ、縮こまっていないと震えでどうにかなりそうで、怖い。
 それを、軍用グローブ越しに思いがけない強い力で肩を叩かれ、組んだ両手を捕まれ揺さぶられると、強引に現実に引き戻された。
「真琴さん!」
 力強く名前を叫ばれ、遠退いていた周囲の音が耳に戻る。
「気を強く! 確かに!」
 その声に驚き、顔を上げて目を剥くと、しゃがみこんだ先生が親指を立てて柔らかく笑んでいた。力強さと柔らかさのギャップも大概だが、この土壇場で本名で呼ばれるなど。まるでこの時のために取っておいたかのようなその小賢しさが、小憎らしくて、嬉しかった。
 まさに、
 ——詐欺師だ。
 目紛しく様々な思いに襲われる中、別の意識の向こう側では、その左手首を占めるレア時計を確かめる先生がいる。その様がやはり、淡々飄々としたものだ。そんな男は気がつくと、まるで水溜りを軽い歩調で飛び越すかのように、ふんわりと闇に向かって飛び出していた。

「制圧したそうです」
「は?」
 結果は極当然に、インカム経由でシャーさんからもたらされた。
「え? もう?」
 先生が出て行って、まだ一〇分かそこらしか経っていない。輸送機は着陸態勢には入ってはいるが、まだ着陸すらしていなかった。
「素人相手なら、こんなもんですよ」
「そう、なの?」
「全て作戦通りです」
 シャーさんはそれだけ言うと、インカムを切った。同時にタブレットにも滝川からメールが入る。作戦通りクルーズ船は既に、米国領海に向け航行を再開したらしい。
 ウソ——
 では、ないらしい。こうもあっさり片づくとは。
 ——うわ。
 こうなって来ると、それまでの自分のみっともない程の狼狽だけが、記憶の中で際立ち始めた。関係者はほっと一息、としたものなのだろうが、そうした面々はシャーさん然り、きっと高確率でこの成果を予想していた、と思うと歯痒くもなる。
 ——は、
 恥ずかしい、の一言。
 その手が、ぐずぐずのタオルハンカチを握っていた。慌てて上着のポケットに隠すが、それでなかった事になる訳もない。只ならぬ汁気を帯びたそれが、じわじわと身体を上気させ始めた。
 私一人だけ——
 バカみたいではないか。
 その恥ずかしさに耐え切れない真琴が、堪らず両手で顔を覆う。合わせて一気に嬉しさが込み上げて来ると、また目頭が熱くなるのを感じた。
 真琴の予想を大きく反し、犯人制圧より遅れる事数分。輸送機がハワイ・ヒッカム空軍基地に到着すると、シャーさんが
「関係者は、ホノルル警察署に集合です」
 と、米空軍の車を出してくれた。
 本来ならば、基地の正門までの随行予定だったそうだが、
「ついでですから」
 一二もなく、車に押し込まれた。
 一体——
 どう言うつもりか。
 真面目そうな若い米兵に車を運転させながらも、後席は真琴に明け渡すと、シャーさんは助手席でニコニコしている。
 何か話しでも、
 ——あるのか。
 と身構えたものだったが、二〇分そこそこの道中で交わした会話は、
「良い天気で良かったですね」
「ええ」
 その程度だった。
 日の出にはまだ少し間があるようだが、顔を覗かせる直前の太陽が、ダイヤモンドヘッドの向こう側を神々しく照らすそれは、北半球の厳冬期である事を忘れさせる。シャーさんは、そんな独り言をぼんやり呟いていた。
 答えが出たのは、ホノルル警察署に着いてからだった。低層で重厚なコンクリート造りの警察署前には、早くもマスコミが溢れ返っているではないか。真琴が少し口を歪めると、
「ここが米国側の捜査本部でしたから」
 シャーさんが如才なく、運転手に裏へ回るよう指示を出す。裏門から署内の捜査本部まで連れて来られると、
「じゃあ、不破さんに宜しくお伝えください。お貸ししている装備品は、お手数ですが後程ヒッカムまで持って来て頂けると助かります」
 私は一足先に日本に戻るので、と言ったシャーさんに、意味深なウインクをやり逃げされた。それを見た真琴が一瞬、独立していたらしいインカムを
 聞いてたのか——
 と疑ったが、すぐに撤回する。そんな事をせずとも、自分は見た目からぐずぐずでよれよれで、先生に慰められていたではないか。その一部でも見られたならば、
 ——気づくか。
 当然、としたものだった。
 先生の類友は数こそ少ないが、中々粋な人間が粒揃いだ。
 その中に——
 自分は入る事が出来るのだろうか。立ち去る類友のその後ろ姿に、真琴はふとそんな事を思った。
 署内の捜査本部別室で、FBIの捜査官から受けた聴取は、主に素性の確認だった。それが終わると、流暢な英語で通訳を介さず応対する真琴の経歴を垣間見た担当者が、素人ではないと判断したようで、把握済みの事件概要を詳らかにしてくれた。事件の中心地は未だ洋上であり、その主体たるクルーズ船のホノルル港入港予定は昼前だ。当然、署の前に押しかけているメディアにも詳報はもたらされていない。その中で真琴は、それに最も早く触れた民間人となった。
 一億米ドルもの身代金は、犯人達が中米の麻薬王に匿ってもらうための身元保証金だったらしい。主犯の谷岡は、高千穂現外相の汚れ役として、金絡みでありとあらゆる泥を被っていた。その高千穂に切り捨てられると、その立場は急転直下の地獄行きで御用になるのは時間の問題。大至急逃走計画を模索するが、中途半端な逃げ方ではすぐに国際手配されて苦しい逃亡生活となるは必定だ。谷岡はそれを逆転の発想で、手配されても確実に逃げ通せる程の宿主を頼る事にした。それが中米の麻薬王だったのだ。
 FBIとしては、その接触ルートの解明こそがこの件に絡んだメリットとしたものだが、それは高千穂の黒い交際の「枝葉」と見て間違いないだろう。「集金」を得意としていた谷岡だが、麻薬王は足元を見て桁違いの保証金を要求した。それで、手っ取り早く大金になりそうな人間を拉致して、その身の代金で難局を乗り切ろうとしたその被害者が真純だった、と言う訳だ。
 ハイジャックを避けた理由は、ひとえに特殊部隊に突入される事を恐れたらしい。片や国際船舶をシージャックし絶海の洋上に持ち込めば、今回各国を悩ませたように物理的にも法的にも、何かと犯人側の都合に合わせた展開が可能となる。折しも直近に、横浜港から出港予定の太平洋横断客船があり、しかも船籍は麻薬王の根拠地だ。高千穂と真琴の復縁の件の腹いせに、高坂の御曹司を人質に取れば金は無尽蔵に要求出来る。それを餌に麻薬王はおろか、いざとなればその脆弱な政府をも抱き込めるのではないか。そんな青写真を描いて偽造パスポートで乗船し、優雅な旅がてら一路ハワイへ向かった、と言うのが事の顛末だった。
 が、それは
「もし飛行機を使われていたら——」
「状況は厳しかったでしょうな」
 可能ならば、そのまま麻薬王の所へ飛び込めば良かっただけの話である。そうなれば、恐らく身の代金の額は跳ね上がるどころか真純の命はなかった、と見るべきだろう。それをしなかった、と言う事は、
「金は前払いだったんでしょう」
 更に言えば、仮に上手く事が運んだとしても、金だけふんだくられた可能性が高い。世界有数の闇組織にして国をも飲み込む一大勢力のそれは、自国の薬物汚染に業を煮やした米国が捜査協力を飛び越し、頻繁に大なり小なりの軍を投入している程で、にも関わらずあの米国をして根本的な解決を諦めているような相手なのだ。一言、甘くない。
 少人数での決行は、人数に比例して保証金が上がるための苦肉の選択だったらしい。もし麻薬王が乗り気で加勢していたならば、事態は最悪だっただろう。
 とどのつまりが、
「始めから、」
 相手にされず、ここでも「切り捨てられた」の一言に尽きた。その事件の金にすがりつく程、麻薬王は困ってはいないのだ。まさしく窮鼠の跳ね返りだった一連の犯行は、愚かで哀れとしか言いようがない。
 もっともこれは、
「犯人が一〇人いようと、ダメだったでしょうなぁ」
 最後にFBIの担当者は、呆れ気味に漏らした。真琴が軽く首を傾げると、
「まさか『上忍』を送り込むとはね。連中もたまげたようですよ」
 私も映画以外でそれを聞くのは初めてです、とこれはジョークなのだろうが、結果として滝川の明言通りだった訳だ。
 犯人達はシージャック宣言後、即刻一部の人間を除き下船を要求したが、これは船長の交渉で夜明け後にずらしたらしい。もし先生による犯人確保が夜明け後になっていたなら、大勢の人々は、
「救命ボートに乗り換えを強いられたでしょうから、」
 船の負担は、最小限に食い止めたと見てよいだろう。その点でも日本側の作戦は、
「良かったと思います」
 米国側もそれなりに納得のようだった。そもそもが、船籍以外は日本人塗れの船だったのだ。手間をかけたくない以上に、勇猛果敢な国家にとって「静観」はストレスだった事だろう。
 それにしても、
「事情の掌握が迅速ですね」
 真琴が素直に関心を示した。
「恐れ入ります」
 今回は身柄も事件も日本のものとは言え、そこは流石にFBIである。沿岸警備隊の艦船に乗り込んだ捜査官の、迅速な「尋問」らしい。
「まあ、我々が持つ事件ではないので」
 何やら言い訳めいた説明をした挙句、担当者は軽く舌を出した。要するに「超法規的措置」を講じた、と言う事らしい。

 ホノルル冬時間午前九時過ぎ。
 真琴が、捜査本部の隣室に設けられた関係者待機室で、何人かの警視庁捜査員と共に待機していると、
「真琴さん!」
 千鶴が飛び込んで来た。
 FBIの担当者から解放され、一室の椅子に座ってうとうとしていた真琴は、その声に意識を戻され頭を上げる。
「千鶴さん」
 千鶴は流石に青い顔をしており、一目散に真琴の傍までやって来るとその両手を掴んで俯き、しばらく何かを堪えていた。
 高坂千鶴(こうさかちづる)、二七歳。真琴の息子真純の婚約者にして、真琴の実兄の長女である。兄の子は四姉妹の才媛揃いで「高坂四姉妹」と言えば業界ではそれなりに有名だった。叔母たる真琴は、三〇で本格的に渡欧するまでは適度に交流があったが、他三姉妹が華が開いたような煌びやかさを帯びる中、千鶴だけは何故か凡庸だったものだ。その千鶴を、真純が見初めた時の驚きは今でも忘れ得ない。
 千鶴は、確かに人格が高く熟れていて落ち着きがあり、加えて教養も高く所謂「リケジョ」で、その分野では真琴も敵わなかった。のだが、以前の千鶴は高坂の女にしては一見して華がなく、中々辛辣な周囲の中で真琴ですら「もう一息何とかなれば」と思ったものだ。その凡庸さに今一つでも美しさが伴えば、嫁の貰い手に事欠かないのではないか。千鶴は、そんな学生時代を送っていた。
 それに小五の真純が喰いついたのだから、人生は不思議なものだ。が、更に驚く事に、その後千鶴は美しく年を重ね始め、気がつくと他三姉妹の誰よりも清楚で奥ゆかしい淑女となっていた。その変貌振りに周囲が驚く中、真純だけが当然の顔で「それを見抜いてた」と言うから、刮目ネタに事欠かない二人である。
 千鶴の形は、真琴がその母性では敵わないと認めている家政士の佐川由美子を、品の良さと熟れた人格の分だけ上回っており、実は真琴が女として決定的に欠けている母性の観点で、嫉妬すら覚える女性である。
 千鶴と真純の関係性に嫉妬心を持つ事を、先生には認めている真琴ではあるが、流石に本人達を前にそれを見せるような愚はなかった。つもりが、二人の結婚が近づくにつれ、真純に対する態度に俄かにそれが滲み出始めているような。そんな自分自身に振り回される始末の真琴を知るや知らずや、千鶴は相変わらず優しかった。
 千鶴からしてみれば真琴は叔母であり、そうした呼び方を許される身だ。が、他三姉妹がそうする中で、千鶴だけは一貫してファーストネームでの呼称を貫いていた。真琴は姉妹達に「呼ばれ方に拘りはない」と公言していたが、千鶴はそうした機微に優れ、痛みが分かる人間なのだ。恐らく真琴の葛藤をも見抜いているのだろうが、それでも千鶴は変わらなかった。真純の婚約者とは、今となっては真純が慌てて婚約をせがんだ事が文字通り痛い程良く分かる、そんな女性だった。
「大丈夫。大丈夫だったから」
 すっかり涙脆くなった真琴が、平生の気丈さを失いかけている千鶴の姿に思わず涙ぐんだ。実は千鶴も真琴同様に、米軍輸送機でハワイに向かう事を希望していたのだが、実は真琴がそれを一方的な理由で止めさせた経緯があった。その分到着が遅れた千鶴は、焦らされた分だけ気苦労を負った、と言う事だ。
 軍機は民間人が思う程安全な乗り物ではなく、不測の事態が発生しないとも限らない。そんな時、真琴だけならまだしも千鶴諸共その不測に巻き込まれたとあっては、真純が助かったとしても決して喜ばないだろう。そんな事情を良く知る真琴としては「真純に申し訳が立たない」と言う、もっともらしい理由に基づく説得の裏で実は嫉妬があった。
 表向きの理由の裏側で、つまるところ本音は、千鶴の圧倒的な母性を間近にした先生が横恋慕するのではないか、と言う悍ましい嫉妬でしかなかったのである。その真琴の表向きの理由で、千鶴は昨夜の羽田発ホノルル行きの民間機で現地入りする事となり、先程到着したばかりなのだった。
「真琴さんがアメリカ側に事情を説明してくださっていたお陰で、早く解放されました」
 少し落ち着きを取り戻した千鶴は、早速そんな気遣いが出来る。そんな千鶴に、心貧しき自分など
 ——適う訳がない。
 真琴が疲れのままに顔を緩ませていると、一緒にいる警視庁の捜査員達が気遣わしそうにしていた。
「千鶴さん、ちょっと出よう」
 それを察した真琴が立ち上がると、千鶴の肩を支えながら部屋を後にする。出てすぐ所で通りすがりの署員を捕まえると、すぐ別部屋を要求した。
「捜査員と一緒で落ち着かないわ」
 真琴の言い分は理解されたようで、すぐ様隣にもう一室、被害関係者用の部屋が用意される。この辺りの早さは、疲れていても衰えず
「——流石です」
 真琴が認めた相手も、素直に感心を示した。
 真純と先生が無事である事は確かめてはいるが、
「昼前に入港しても——」
 その後事情聴取があり、解放されるのは夕方の予定なのだ。やはり被害関係者は個室の方が、警視庁の捜査員としても気疲れせずにすむだろう。被害者対応は気を遣うものだ。
「千鶴さんが来たら、個室を貰うつもりだったから」
 気構えていれば、
 ——大丈夫だ。
 いつまでも醜態を晒す訳には行かなかった。もうすぐ再会するのだ。
「それまで休んでましょう」
 軍用機と民間機の違いこそあるが、それぞれ夜通し不安な中を飛んで来た二人だ。室内の椅子に座りそれぞれ目を閉じると、安堵感と疲労感で深い眠りに落ちて行った。

 ホノルル冬時間正午前。
 真純はFBIが用意した車でホノルル警察署へ向かっていた。隣には、何処からともなく突然現れ、犯人グループを制圧してしまった三〇前後の日本人らしき壮年の優男が、如何にも眠たげに緊張感なく座っている。
 一週間前の週末。久し振りの定時上がりで浮き立つ気持ちを抑えつつ帰宅していた真純は、突然背後から鋭利な何かを突きつけられた。瞬間で投げ飛ばそうとしたところ、
「自宅に爆弾を仕掛けた」
 と脅されてしまい、やむなく大人しく拉致される事にした。虚言だとは思ったが、犯人は真純の素性を知っており万が一を考えた、と言う訳だ。ちょうど刑事裁判修習中の身でもあり、刑事事件の実相に興味が湧かなかった、と言えば嘘になる。この早熟の異才にとって、その素人臭い犯行の第一印象はその程度の認識だった。そんな連中のやる事なら、
 煩わしくなれば——
 自ら制圧するまで。そう考えていた。
 しかしてクルーズ船の旅は退屈だった。用足しと食事以外は拘束され、目はアイマスク、口はガムテープ、手足は手錠だった。それでも強く自己を律する自信はあったが、何日か経つと、流石に感覚がおかしくなった。自己制圧の目論みはあえなく瓦解し、
 ——まずい事になった。
 と、とりあえず精神と生命の維持に努める事とし、後悔しているところへ今隣にいる男が、まるでちゃぶ台返しのように状況を一気に覆し、終わらせてしまったのだ。
 アイマスクに手錠姿で救出された真純は、音もなく忍び寄り旋風のように犯人を制圧した男の形を見て、俄かに信じられなかった。
 どんな厳つい男だ?
 と想像していた真純のアイマスクを外したのは、何処かぼんやりした印象の線の細い優男ではないか。
「お名前を伺ってもいいですか?」
 見た目に違わず、柔らかく口を開いた男が氏名を尋ねて来たので素気なく名乗ると、
「良かった。お母様が大変心配されておいででした」
 小さく安堵して、男は自己紹介したものだった。
 客室の一室に拉致されていた筈が、いつの間にか舞台は船橋に移っている。そこでの優男の、その余りにも鮮やかな手並みは、乗員がドッキリか何かと勘違いする程だったと言うが、真純の素性が船長から告げられると皆一様に顔を青くした。晴天の霹靂で事件に直面した乗員が事件関係者の素性に気づくには、シージャック発生からの時間経過に乏しく、結局その詳細に触れていたのは船長と一等航海士だけだったようだ。余計な動揺を排除するため、高坂会長からの厳命で箝口令が敷かれていたらしい。そのグループの船にして、その御曹司である。その後の展開は、ドラマでよくある正体のバレた大物のそれであり、別の意味で途端に沸騰し始めた状況下で、優男は飄々と船舶無線を手にした。それを通信士が止めようとすると、
「一応『一総通』の保有者です」
 と言って、真純対応で慌てる船橋内で、俄かに乗員を驚かせたものだ。国内無線資格では最高峰と名高い「第一級総合無線通信士」の略称たるその免許取得者は、一万数千人と弁護士より数が少ない。もっとも資格を得ても世に活躍の舞台が少ない、と言うその一方で、難易度の高さも際立つのだ。が、
「でも船籍国での免許はないので、まぁ緊急事態って事で」
 と、何処か抜けている。
 慣れた調子で男が沿岸警備隊と交信し始めると、以後はその如才ない調整で、船は米国領海へ移動された。待ち構えていた米国艦船の指揮下に入ると、犯人グループがその艦船に移送されるのと同時に、入れ替わりでFBIの捜査官が乗船して来たが、ここでもやはり優男はその如才なさを発揮した。流暢な英語で話している内容は、意外にも関係各国の活動に関する根拠法の解釈や犯罪認定における法解釈に加え、国際手配事実の確認である。
 力任せのエージェント——
 かと思っていたが、また意表を突かれた。
 どうせ身分を隠した日本警察か自衛隊の特殊部隊員だろう、と高を括っていたのだが、それにしては法に対する接し方が繊細で、根拠に基づく活動に対する気の配り方は、どうしてどうして中々のものだ。法曹の卵である真純の視点からしても、無分別に侮る意識は一瞬で消え去った。
 そんな中、FBIの捜査官が真純の体調に配慮しながらも「入港までの時間を使って事情聴取をしたい」と持ちかけて来ると、ここでも優男が、
「それならついでに船長と自分も纏めて聴取して貰いたい」
 と提案し、集合面接形式めいたそれになるや、やはり優男が上手く調整するではないか。そのせいか、事情聴取は入港までに終わった。更に驚いたのは、FBIが事件と犯人を条約に基づき引き渡すだけであり、超法規的措置を講ずる構えであると見るや、それに託けて、
「ポリグラフ検査、するんでしょ?」
 と、もっともらしく依頼した事である。別名「嘘発見器」と呼ばれる現代機器の精度と運用レベルは高く、AI化も進むなど多用化するそれが、何でも見透す現代版「水晶」になる日は遠からずとしたものだ。その中で捜査上日本では、任意手続き限定で実施出来、一定要件下で証拠採用されるが、先進的な米国では逆に参考資料扱いだった。にも関わらずFBIがそれをするのは、麻薬王絡みのネタ集めに他ならない。事件を担当しない米側に証拠は不要だからだ。ネタが掴めればそれで良い。とはつまり、勢いに託けた米側の無茶であり、それを察した優男は続け様に、
「犯人による爆弾設置の事実を確かめて貰えませんか?」
 と依頼した。
「身柄引き渡しの際の不手際は、お互い避けたいものですよね?」
 引き受け予定の警視庁が今後同検査を実施するのは、相当後に成らざるを得ない。そもそも犯人がそれに応じなければ無理なのだから、今それが可能でありかつやる気満々の米側が、その事実を確かめないのは不作為だ。と言うそれは、依頼と言う名の言いがかりだった。
 ホント——
 意外に、やる。
 それにより、犯人の悪意から被害者を解放しようとするその意図は、これまた中々細やかではないか。真純は素直に驚いた。犯人の出任せなのだろうが、確かに念には念だ。ならばそれなりの根拠と結果が必要である。でなくては本当に爆弾を探すべきであり、広大な高坂でそれをするとなると、一言、大変だった。で、結局「ネガティブ」だった、とは後刻伝わって来た話だ。
 事情聴取が終わり入港待ちとなると、護衛を兼ねたFBI捜査官共々、空いていたロイヤルスイートルームに押し込まれた。そこでこっそり男に、言いがかりの懸念を伝えると、
「恐らく高坂宗家から米側に、相当の謝礼が支払われます。あのぐらいは範疇ですよ」
 と鷹揚に言った男は、
「昨晩余り寝てないので」
 何とそのままソファーに横になって寝てしまったではないか。
 これまた見た目に反し、
 随分と——
 豪胆な事だ。
 然しもの真純も言葉が続かない。その代わりに、急に眠気が来た。かく言う自分も、流石に疲れている。で、試しにベッドに横になってみると、あっと言う間にまどろんでしまったのだった。
 で、ホノルル港に到着後の今、車で移動中である。
 とは言え、目指すホノルル警察署は港から二マイル程度であり、すぐに着いた。その玄関先に押し寄せるメディアの数に思わず顔を顰め、車である事に安堵する。事件が世に知れてまだ半日程度の筈だが、その素早さに
「暇だな、この人達」
 真純が思わず悪態を吐いた。
「仕事ですよ」
 が、優男は生欠伸のついでに呟いたものだ。
「このあからさまな好奇の目が?」
「監視の目でもありますから」
 嫌悪感を露わにする真純に、男は構える事なくあっさり言い切る。その鷹揚な物言いの中に妙な見識を思わせるこの男は、船内における事情聴取時、
 只の通りすがりの——?
 一般人だと堂々と答えたもので、思わず激しく突っ込みそうになった真純だ。犯人制圧直後には、母からの依頼だと語っていた筈ではないか。
 そもそもが一番驚いたのは、そう語った優男が、FBIに引き渡す前の主犯格の男のバッグ内から、何やら盗聴器めいた物を抜き取った事である。
「それは一体——」
 いつ、仕込んだ物か。何故、事前に仕込んでいたのか。
「これを辿って来たんです」
 それで真純の疑問に答えたつもりか、男は軽く舌を出して悪びれては、自らの服のポケットにそれを収めたのだ。
 辿って来たとは、
 ——何処から?
 ——いつから?
 ——何なんだこの男は?
 疑念は渦巻くばかりだった。
 署の裏口から静かに案内された一室では、婚約者の千鶴と母真琴が座って眠りこけていた。すぐ気づいたのは千鶴で、目を潤ませながらも朗らかに歩み寄って来ては、静かに真純をほぼ同一目線から抱きしめる。
「ご無事を信じておりました」
 真純はまだ成長途上で、身長は一六五弱だ。父高千穂の偉丈夫振りや、母真琴の女傑振りからすると、その遺伝子の割に外見はまだまだ見劣りする。身体こそ細身だが、筋骨は隆々とした真純の背丈は、幼少期から母真琴に鍛えられた事で早くから筋肉が発達し、それが伸長を妨げたようだ。
「ご心配をかけてしまい、すみませんでした」
 それでもようやくこの頃、千鶴の身長を抜かすところまで背が伸びた。昔は千鶴の胸とか顎の辺りまでしか頭が届かず、精神の発達に比べ随分と遅れている身体を疎ましく思ったものだ。真純は、どうしてもその背丈の関係が面白くないのだが、
「お身体に障りはありませんか?」
 婚約以来、決して子供扱いしようとしない千鶴の真摯な淑徳さに、自らの未成熟振りを痛感するのと同時に、どうしようにもない愛おしさを再認識する。
「はい。ちょっと疲れているぐらいです」
 しばらく黙して抱擁した後、落ち着くと異変に気づいた。
「それにしても、あれは一体——?」
 母が無防備にも昏睡しているではないか。それも、何やら緑色の如何にも素気ない、冴えないリュックを抱えて眠りこけている。その大事そうに抱え込むその姿が、余りにもこれまでの母らしからず、しかしこれはこれで妙に愛らしい。
「何事——ですか?」
 いつも気位ばかり高くて、高飛車で、自信家で、などと傲慢さの形容に事欠かない真琴を、これ見よがしにこきおろす真純は、不遇の女傑の懊悩を知っていた。
 自分と母の境遇を分けたのは、時代と性別だけである。才色兼備の富豪と言う、それだけで斜めから見られがちな典型であった母は、明らかに生まれて来る時代を間違えていた。現代の複雑な社会構造の中で、一世代早く生まれた分だけ、根強く残る前世代的な男尊女卑の悪習に立ち向かった。途轍もなく強い意志を持ち、突き進む事に妥協しない分だけ、潔く思う様慣習に否定され続けた。子供ながらにその様を体感していた聡明な真純は、早い段階でそれを言葉で言い表す事が出来た。
 孤高故の孤独——。
 その余りにも不器用で、強く生きようとする痛々しさが目に余り、母を喜ばせたくて、母を守りたくて、真純は日々懸命に励んだ。許されるものなら本当に、結婚しても良いとさえ思った事もあった。
 だが、そんな早熟の異才も、運命的な出会いの前にはなす術もなく、気がついたら母のために自己を磨いていた筈が、いつの間にか最愛の人のためだけに懸命になってしまっていた。沈みゆく母を尻目に、幸せな時を育み続けた真純の、その世代が全盛に向かっている今時分になって、時代の思考がようやく母真琴に追いついて来た時には、母の女性としての全盛期は終わっていた。それを罪と認識するこの潔い若き英才は、生涯その十字架を背負って生きていくつもり
 だったのに——。
「あんな可愛らしい母は見た事がないのですが」
 真純は素直な驚きを口にした。
 よく見ると、目を泣き腫らし、隈も浮いていて、涙が伝った跡が頬に残っている。いくら真純が拉致されたとしても、これまで通りの母であれば、ここまで取り乱す事など有り得ない。
「そもそも、あのリュックは?」
 あんな武骨なバッグなど持っている筈もなく、こうも無防備に、かつ大事そうにすがりつく様は一体どうした事か。
「途中まで同行されていた方のお荷物だそうです。——それは大変心配されておいででした」
「えっ!?
「真純さんと一緒だと聞いていましたが。不破さん、と仰られる。お婆様も大変頼りにされておられました」
 お婆様とは、近しい者の間だけに許される美也子の呼称である。
「あの——」
 ——祖母が頼る?
 母真琴に良く似た事実上の高坂宗家主宰者が、人をこき下ろす事はあっても、人前で人を頼るとか、
 ——有り得ない。
 美也子を知る者の間では、それは衝撃的な事実だった。
「その人なら、部屋の外で待ってますけど」
「事情聴取は終わったの?」
 先程までの可愛らしさはどうしたものか。いつの間にやら母真琴が、例のリュックを片手に腰に両手を当て、顎を上げては尊大そうに立っている。
「母さん」
「終わったなら、とりあえず帰ってもいいらしいわ」
 その変わり身の早さは、真純の知る母であり、相変わらずの切り替えに舌を巻いた。
「入港までの時間を使って船内で済ませたよ」
「そう」
 が、泣き腫らした顔はそのままだ。
 そのチグハグな強がりが何処となく、微笑ましくもあり痛ましくもある。
「あなたを助けたエージェントは何処かしら? まだ事情を聞かれてるの?」
「いや、部屋の外で待ってるよ」
「じゃあ、後は警視庁の捜査員に任せて、私達はホテルで一休みするわよ」
 見た目は隙だらけでも中身はすっかりいつも通りであり、
「ホテル?」
 先程までの母は何だったのだ、と真純は戸惑いながらも返事をした。
「ええ。真琴さんが予約してくださいまして」
 相変わらずの行動力は頭が下がるばかりで、と千鶴は恐縮する。
「私は心配するばかりで、何も出来ませんでしたのに——」
 千鶴の真琴信仰は止まらない。
 真純が見るところ、母真琴が「動」の女傑なら、千鶴は「静」の俊英だ。
 母の蹶然たる凛々しさは「火」であるのに対し、千鶴の確固不動たる淑やかさは「山」のそれである。タイプこそ正反対の二人だが、その女力では筆頭である美也子に次いで甲乙つけ難い存在であり、真純が愛して止まない千鶴は、そんな母の存在あってこその千鶴であった。のだが、
「えっ!?
 真純の目の前で、その家中の女格では類を見ないその一角が、廊下の長椅子で仰向けになって死んだように眠りこけている不破と言うエージェントを認めるや、取り乱しては食ってかかっているではないか。
「ちょっと! 母さん!」
 慌てて止めに入るのを、千鶴が止めた。
「な——」
「不破さん、と言う名前に反応して起きたんですよ」
「は?」
「さっき。真琴さん」
 あの母が、男の名前に反応する程の、
 それ程の——
 男なのか。
「まさか——」
 母とは言え、今となっては気難しい事この上なく、家中の者でも近寄り難くなっているあの母が、
「ちょっと! しっかりしなさいよ!」
 ただ疲れて眠りこけているだけとも知らず見境なしに狼狽し、血相を変えてその安否を気にするような男が、
「地球上に存在するなんて——」
「良かったですね」
 千鶴が泣き笑いする様子に、真純は呆れて口を開けた。
「事件の被害者は、主人公じゃないのか」
 ぼやく真純の前で、
「な、何事ですか一体!?
 両肩を激しく揺さぶられて慌てて起きた不破は、相変わらず何処かしら間が抜けている。
「ひ、人がどれだけ心配したか分かってんの!?
 母は母で、今度はその胸倉を掴んで、文字通り噛みついている有様だ。
「真純さんには私がいるから心配ない、と言われてましたから。真琴さんは」
「まあ、そうですけど」
 千鶴の答えに釈然としない真純だったが、
「大した事ないんなら、ちゃんとそう説明してから出て行きなさいよ! 私だけ心配させられてバカみたいじゃないのよ!」
「私は安直な気休めは言わない事にしてるんですよ!」
「今回ばかりは許さないわよ! 詐欺師振りも大概にしろ!」
 どんだけ懲りないのよ! などとぎゃあぎゃあ子供の喧嘩を繰り広げている女を真純は知らない。相変わらず不破の胸倉を掴みながらも、ついにはそのまま頭を埋め、面前構わず当たり散らしては声を震わせ泣いている母など、真純の知る母ではなかった。
「あ、ヤバい! 今、日本時間何時でしたっけ!? 帰らないと!」
「こんなに早く終わるなんて思わなかったから、今日の便なんて予約してないわよ!」
「ウソでしょ!? ヤバい! た、武智さんに電話しないと! 仕事が!」
「私がもうしたわよ!」
 あれ程の事をあっさりやってのけた男と、常に破裂しそうな危うさすら帯びていた女が、コミカルにおかしな絡み方をしては泣き笑いしている。
 あの母を絡め取る人間が、
 ——現れるとは。
「何物なんです? あの人?」
「詳しくは存じませんが——」
 不思議な物を見るような真純の横で、
「——真琴さんが言うには『詐欺師』だそうです」
 千鶴は嬉しそうに笑った。
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