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文字数 3,362文字

 (かすみ)の中は冷涼としていた。時おり雫が垂れ、眼下の黒い森へ落ちる。流れる空には無作為に星が散りばめられ、半月は鈍く輝く。いつもこんな眺めなのだろうか、と馳せる思いもそこそこに、到着までを静かに成りすます。
 麓丸たちは雲に隠れていた。不自然にならぬよう、ほどほどの速度で上空を飛行し、月光からも身を隠す。そんな芸当を可能にしたのは、言わずもがな唯良乃の力だ。
 まず雲を集めて隠れみのを作る。体にまとわせたら上昇、そして飛行。それを人数分。覗き穴まであるので、外の様子も窺えるというわけだ。風を操る術である風遁は使い手が希少で、繊細な操作を要するため扱いも困難なのだが、唯良乃は軽々とやってのけた。
 術というのは、使うだけで気力を消費する。集中力を研ぎ澄ますため、神経がすり減り、規模が大きいものや複雑なものほど脳が疲弊する。頭痛やめまいを引き起こし、ひどければ失神したまま数日は動けない。制御が確かなら負荷は少なくて済むが、代償のある力ゆえ、若衆筆頭と目されている花岡でさえ、実戦に耐えうる威力の術となれば、連発はできないほどだ。
 ところが唯良乃は違う。風の行き先を指でなぞるように、自在に使いこなしていた。常に変化する気流を操るのは至難の業で、さらに高所を飛ぶという危険性にもまったく臆していない。むしろ総じて汎用性が高く、日々のストーキングにこれほど役立つものを、使いこなさない理由の方がないのだった。
 指定された山道の突き当たり、その直上にたどり着いた。刻限まではあと五分もない。唯良乃自前の暗視スコープにより、池を背後に三人と一人がいるのを確認できた。梅之助も連れられているらしい。水遁は水がなければ使えないため、なんらかの水場があるのは予想できている。幸いにして小ぶりな溜め池のようなので、川の水量に並ぶべくもない。手はず通り作戦を開始した。
 実は麓丸の五指のうち、一本だけ調味料入れになるのを免れた指がある。ならば普通の指なのかといえばそんなことはなく、出るのは出る。かの日の献立は遠い記憶の彼方だが、おそらく揚げ物でもこしらえるつもりだったのだろう。調理の中核すら担うその液体は、呪いがかかった時、しっかりと視界に入っていた。
 唯良乃は風を使い、雲の中に仕込んでいた材木を並べはじめた。それぞれに、麓丸の小指よりもたらされた黄色い液体が染み込ませてある。気取られぬよう、音もなく組み立てられたのは底のない箱だ。唯良乃はそれを無慈悲にも急降下させた。そして同時に麓丸らを追わせる。さらに花岡が印を結び、材木の内側より一気に温度を高めると、爆発的に発火した。くしくもサラダ油は火遁との親和性に優れ、突如として現れた炎の檻は敵を閉じ込めることに成功したのだった。
 麓丸がこの策を取ったのにはいくつか理由がある。まず、これまでの戦いから敵は距離を置いた戦法が得意ということ。ゆえに近距離戦闘なら充分に勝ちの目があること。檻は毒霧を封じ、炎は木遁を封じられること。主にその三つだった。
 毒霧については、鹿沼の性質からして、味方もろとも散布するおそれはあるが、先ほど自らの毒で苦しんだ百舌は、密閉空間での使用をためらうはず。
 よって最も懸念されるのは水遁による鎮火だが、これも閉じ込められていては外部から大量の水でどうこうはやりにくい。なおかつ火遁によって火勢を強め抵抗することが可能であり、風による援護付きとなれば、溜め池の水量程度ではおそらく競り勝てる。これが先ほどの川であればこちらがジリ貧だったが、不安定な橋の近くで戦うのは敵からしても好ましくないと、麓丸は踏んでいたのだ。
 この話を聞いて、花岡はまず確認した。
「そんなことをして君の弟は大丈夫か?」
「大丈夫だ。あいつは根性がある」
 かくして策は実行された。
 余談ではあるが、材木は陳氏の屋敷地下にあった屋形船を解体して調達した。文句を言われた場合、麓丸は協会にツケる気でいる。敵を倒すための必要経費だと主張する予定だ。
 山林に燃え広がらないよう風で抑えながら、降下させた麓丸たちが檻の天蓋に焼かれる寸前、唯良乃は一つの材木をずらした。相手がどういう陣形なのかはわからないが、時間を与えればそれだけ不利になる。二人は勢いよく突入した。
 高速で落ちる視界の中、とさか頭が目に飛びこんだ。真下にいたのは矮鶏だ。ほぼ同時、いくつかの視線が突き刺さる。仰いだ矮鶏の上段蹴りは花岡を掠め、麓丸の手刀が敵の首を捉える。矮鶏がくずおれ、居合いによって吹き矢を弾いて距離を詰めた花岡は百舌を打ち倒す。瞬く間の出来事だった。
 残る対角線上の斑鳩は、梅之助にクナイを突きつけながら、歪んだ憎悪の形相をしている。それは花岡に向けられていた。じりじりと麓丸らは近づく。熱気が渦巻き、紅の光炎が檻内をゆらぐ。木の焼ける音がする。梅之助はうつろな目をしていた。麓丸の額に汗がにじんだ。
 クナイを持っている以上、印は結べない。追い詰められているはずなのに、斑鳩はかえって憎しみを増幅させていくようだ。膠着(こうちゃく)状態ではあるが、何をしでかすかわからない。もはや人質の安全など眼中になさそうだ。よほど花岡にやられたくないらしく、自身が滅びようとも道連れにしかねない雰囲気がある。麓丸は甘さを自覚した。自爆攻撃だけは阻止しなければならない。
 橋の上での戦闘から、相手は印を結ぶのが速い。とは言え、一気に踏み込む高速の居合いならば、発動より前に仕留められる。その認識は共通にせよ、花岡の中で緊張以外の感情がうごめていることに、麓丸は気づかなかった。
 射程圏内に入る直前、クナイが放たれた。花岡が弾く、と思われたが、なぜか刀から離れない。強力なトリモチが付着していたのだ。同時に印を結ぶ斑鳩、駆けだす麓丸。花岡は懸命に振り払おうとする。端にいる斑鳩は唯良乃の位置から見えない。術を発動されても援護が遅れる。
 駄目だ、間に合わない。
 そう思った時。
 何も起こらなかった。唯良乃が察知したか。はたまた花岡が。いや、そうではない。斑鳩は手に異物感を覚えていた。結びきったはずの両の手に差し込まれた物体がなんなのか、縁遠い彼にはすぐに判別できない。
 だが、梅之助にとっては日常の物だった。夕食の支度中にさらわれた際、とっさに隠し持っていたのだ。愛用のフライ返しを。
 斑鳩が怯んだ隙に、梅之助は駆けだした。麓丸が受け止める。
「いつばれるかと思ってたよ」
「よくやった。さすがおれの弟だ」
 梅之助を抱えて脱した麓丸は、上に合図を出した。檻を解体して池に投げ込むと、唯良乃は定位置、麓丸の後方に戻っていく。倒れる百舌と矮鶏の他に残ったのは、膝をついて尚、怨念を放ち続ける斑鳩と、刀を向けた花岡だけだった。
 ところが花岡は振り下ろさない。
「早くやれ!」
 麓丸が叫んだが、やはり動かない。目を見開き、小刻みに息をする。葛藤を斬れぬ刀は微かに震えていた。
 因縁はなるべく本人が断つべきだが、こうなってはやむを得ない。そう思って麓丸が近づこうとすると、いきなり閃光が走った。次いで雷鳴。
 えも言われぬ予感がした。
 花岡を突き飛ばした。一瞬間の後、元いた場所は黒く焦げ、斑鳩の前に一人の男が立っていた。
 一目見ただけで悪寒が走った。古傷だらけの体は越えた死線の数を物語り、何者をも射殺さんとする圧力は身をすくませる。対峙しただけで恐怖を感じるのは、かつてない経験だった。こいつこそが小夜子の言っていた男に違いない。
 それは花岡も同じで、前の緊張とは別種の切迫感が襲っていた。二人は思うように動けない。麓丸はかろうじて、逃げるよう梅之助に身振りをした。
 男が手をかざす。
 命がおびやかされる危機は白い色をしていた。重たい染みが、胸をぎゅっと締め付けた。
 奪う者の理不尽は、しかし、降りかかる刹那に止んだ。男が退がったとわかった時、地面には氷柱(つらら)が刺さっていた。
 麓丸の体は熱くなった。その中身はほとんど安堵だった。子どもの頃から描いていた憧れが現実にある。もうずっとだ。ずっと待ちわびていた。戦場で見る師の背中はとても大きく、頼もしかった。
真雁(まがん)……」
 意思を問うように嵐蔵が呟いたが、男は黙っている。
 再び閃光が走ると、沼の忍らは消えていた。
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