第九話「侵入」

文字数 3,712文字

 東の山の稜線が少しずつ白み始めた。夜明けが訪れたのだ。過去の記憶に浸る時間は終わりだ。
「エリス。これから夜が明けるよ。今は木の上にいて視界がいいからから、夜が明ける様子が見えやすいんだ。太陽が少しずつ姿を現すのが見える。……地平線や水平線があるところで見ると、また違った見えやすさになるけれど」
 朝日がその全貌を現すまでの間、フィリアはそれをずっと眺め、その景色を説明していた。説明が終わる頃には、頭上でも眼下でも鳥が盛んに鳴き交わし始めていた。動物たちも目覚め始めているのだろう。フィリアはエリスを背負い、慎重に木から降りた。僅かな期待を胸に昨夜の落とし穴を確認しに行く。やはりと言うべきか、中には鼠一匹見当たらなかった。流石に餌の一つもなく穴を掘ってもかかる動物はいなかったらしい。まあ、仕方のない事だ。そもそも動物の血液で代替できるかどうかもわからないのだ。人を探すしかあるまい。
「じゃあ、行こう。街があれば、薬が手に入るかもしれない」
 フィリアは勤めて明るい声で言うと、轍の後追いを再開した。彼女にどう聞こえたかは気にしない事にする。それよりも気にするべきことはいくらでもあった。例えば、道中で人間を見つけた場合どうするべきか、とか。
 これまでなら、協力を請う、という選択肢だけが存在した。関わりたくなければやり過ごすが、そうでなければとりあえず助けを請う事が出来た。だが、今は違う。強襲して「薬を分けてもらう」ということが、フィリアには出来てしまう。しかも、その行動を選ぶかどうかを自分は一体で決めなくてはならない。
 今までは何だって二人で相談して決めてきた。その行動がフィリアの独断に近いものであったとしても、少なくともエリスがそれをどう思っているか、知った上でフィリアは動いてきた。だが、今は違う。彼女が何を望み何を思うのか、フィリアに知る術はない。
 その状況を打破したいなら、あるいは彼女を動かない肉の棺から開放してやりたいと願うなら、取るべき手段は一つしかない。迷っている余裕も、手段を選ぶ場合でもない。それは自分でも理解している。そして、機会(チャンス)が訪れたら、自分は迷いなく「そうする」事になるだろうということもよくわかっていた。それでも、フィリアはその時が来る事を恐れていた。造物主の命に外れて人間を害する事も怖かったし、この手を他者の血で汚した所をエリスに見せるのも怖ろしかった。他人の生き血を友人に飲まされたとき、エリスがどんな顔をするか、何というのか、フィリアには想像もつかない。
 それでもフィリアは一切の迷いなく、荒事をこなしてしまえるだろう。人間の肉が潰れ、骨が折れる音をエリスに聞かせてしまう事が出来るだろう。所詮、人形の感情は後付けの外装品(サプリメント)であり、目的のためなら取り外せる程度の代物だからだ。
 だからこそ、フィリアはまだ残している感情をもって、目の前に手ごろな人間が現れないことを願っていた。機会が訪れない限り、フィリアは造られた当初の目的を忠実にこなす事が出来る。その時間が長引くことを願いながらも、フィリアの認識期間は着実に人間の痕跡を拾っていた。人形の業務に手を抜くという概念は存在していない。フィリアはただ轍と足跡を探し、その時間が充分に経っている事を確認し、「残念だ」と思考すらしていた。

 幸か不幸か、結局フィリアが道中で手頃な旅人と出くわして返り血を浴びる事態は発生しなかった。手頃な動物を見つけた訳でもないし、昨夜のように二人きりの静かな夜を迎えた訳でもない。オートンに辿りついたのだ。この街に入らずしてアーグルトンの方角を知ることは出来ない。だから、この先に進むなら人目につかずに行動するのは不可能だと言えた。それでも、どうにか安全を確保する必要がある。フィリアは胸の歯車が一回転するだけの間沈黙し、思考した。そして心を決めて、物陰に腰を下ろしてからエリスに告げた。
「エリス。私たちは今、オートンを目前にしている。覚えてるかな、アーグルトンの手前にあるっていう。たぶん城下町だね。これから夜が来るのを待とうと思う。暗闇にまぎれて街に潜り込み。身を隠せる場所を探すつもり。うまくいくよう祈ってて」
 オートンの街の外壁を探るように、フィリアは充分な距離を保って外を一周した。城下町への正式な入り口は全部で三つ。いずれも門衛の見張りがついていた。フィリアはそれを把握した後、見つけた中で最も小さく目立たない門の前まで引き返した。そこは人の出入りが少ないためだろう、見張りが一人しかいなかったのだ。その一人の青年もどことなく暇を持て余している様子で、門を通る住民たちと世間話をしたり欠伸交じりに空を眺めたりとあまり張り詰めた様子も見られない。
 問題が発生した時の為の逃走経路を確認し、フィリアは背中のエリスを背負いなおした。そして、まっすぐオートンの東門へと歩みを進める。
「ちょい待ち、少年。見かけない顔だけど、身分証は持ってるかい」
 まっすぐ歩いて行くと、案の定声をかけられた。坊や、とは自分のことか。そういえば少年の服に替えたのだった。
「身分証?」
「うん、君たちがどこから来た誰なのかを示すもの。ここに来るまでに貰ったんじゃないのか?」
「これでいいですか?」
 フィリアは少し考え、エリスが父親に渡されていた書類の一枚を出した。エリスの名と出身地の村の名前が記されているものだ。彼は受け取ってそれを書き写そうとしたが、その途中で少し怪訝そうな顔をする。
「エリス? それが君の名前なのか?」
 何か失敗しただろうか、と彼の顔を伺い見る。門番の視線はフィリアの衣装と背中に向けられていた。正確には、フィリアに背負われた、外套にくるまれている物体に。ただし、まだ敵意や悪意は感じられない。少しの逡巡の末、フィリアは正直に言った。
「いや、この子の名前です。彼女がエリス・アンドラスタ」
 フィリアは背中を示して言った。彼女の髪を見られたら問題になるかもしれない。どうなるだろうか。青年は眉を潜めてフィリアの背中の外套を見た。
「おい、まさか病人連れなのか?」
「調子を悪くしています。……伝染病ではないです、元々体が弱くて」
「そうじゃない。病人がいるなら早く言え」
「ごめんなさい」
 彼は溜め息をつきながらエリスの身分証をフィリアに返した。
「まあ、いい。街の教会が孤児院をやってる。シスターの中には医術の心得があるのもいるから、そこに行けばいい。早く助けてやれ」
 意外に思ったので、フィリアは彼の顔を不思議そうな顔をして見上げた。彼はそれを道がわからないのだと解釈したらしく、「この道をまっすぐ行って出た大通りを右に行けばすぐ見える」と解説してくれた。
「ほら、速く行った、小さな騎士君」
 そういって彼はひらひらと手を振った。何かを勘違いしているな、と思ったが、フィリアは黙って頭を下げて歩き始めた。勘違いされていたほうが都合が良さそうだ。門が見えなくなるまで教わったまっすぐ歩き、見えなくなってから物陰に身を隠して考える。教会の尖塔が遠くに見えていた。2メートル歩いて頂点の角度の変化を求め、求めた位置だけをインストールしておく。教えてくれた彼には悪いが、教会にすぐさま足を運ぶつもりはなかった。医術の心得があろうとも、事情を知らない人間が純粋な人間ではないエリスをどうにか出来るとは思えない。これまでの事を考えれば、あの場所は危険すぎる。
 フィリアがこの街で行うべきことは二つ。アーグルトンまでの道のりを把握することと、エリスのための血液をどうにかして入手することだ。なりふりさえ構わなければ後者はすぐにでも達成できるが、それを下手にやると前者の達成はまず不可能になる。順番とやり方(プログラム)をきちんと組まなければならない。どうやってアーグルトンまでの道を知るか。あるいは、どうやって秘密裏に人間から血液を拝借するか。
 子供に協力的である、という意味では孤児院というのは悪くない選択肢かもしれなかった。二人の子供が親戚を頼って旅する課程で立ち寄るというのはあまり不自然ではない。立ち寄る前に達成するべき条件は二つだ。孤児院が信用できる場所かどうかを確認することと、エリスの身体を動くようにすることだ。彼女が全く動かない状態で踏み込めば面倒なことになるだろう。
「決めた。まず教会にいって安全そうかどうかだけ見る。それから薬を調達する方法を考えよう」
 フィリアは背中のエリスに告げた。まずは検証が簡単なほうを潰そう。その間に血液の調達場所も見つかるかもしれない。心を決めて立ち上がり、教会の十字架に向かって歩いていく。
 教会に近づき、子供らの声が聞こえてきた頃。ふと、背後に複数の足音が迫っていることに気づいてフィリアは後ろを見た。
「やあ、坊や。君は”ビンセンチオの子ら”じゃないな?」
 先頭に立った男の下卑た声と表情は、解析にかけるまでもなく信用に足る相手ではないことを示していた。

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登場人物紹介

自律思考型自動人形JnC-sPEV1


人の似姿。短い黒髪に青い目をした凛々しい少女……を模して造られた人形。

設計思想が「とにかく人間に近づく」であるため身体能力も少女程度。

思考プロセスは極めて人間に近く、疑似的なものとはいえ感情すら有している。

エリス


廃教会に住まう、白い髪に赤い目をした少女。

外の世界を全くといっていいほど知らない。それ故に無邪気で天真爛漫。

バーソロミュー


エリスの父親。二人で廃教会に暮らしている。本人曰く「異端者」。

医術の心得があり、それで生計を立てている(と娘には説明している)。

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