文字数 1,527文字

 昨年春、中学時代からの親友が逝去した。享年25。10年程の付き合いだったことになる。10年というのが長いのか短いのか、よくわからない。
 昔から難病を患っており、学校よりも病院に入院している時間の方が長いのではないかと思われるほどだった。それ故か、映画や本に詳しく、私は彼から多大な文化的影響を受けた。いや、「影響を受けた」なんて言うのは癪に障るので、「影響を受けた気がする」程度に留めておく。彼をきっかけに映画を観たり人並みに本を読んだりするようになったが、後は自力で文化的教養を溜め込んで今に至る。
 中学で同じクラスになったのがきっかけで仲良くなったが、中学時代よりもそれ以降の方が親密な付き合いをしていた気がする。私は地元の公立高校、彼は私立高校に進学したので、高校はバラバラになった。私の通っていた高校は進学校で、部活もしていたので、あまり会って遊ぶ機会は多くなかったが、休みの日ができるとまず彼に連絡を取っていた。
 私は高校卒業後に現役で大学に進学、一人暮らしを始めることになった。彼は地元に就職した。夏休みと冬休みに地元に帰省していたのだが、実家に帰るためというよりは彼と飲みに行くために帰省していた。その度にいつも映画の話になり、私と彼は映画の趣味が合わないので、酒が入っていることもあってかしばしば喧嘩にもなった。ただ、趣味が合わないからこそ互いに相手への興味が尽きず、新作を観るたびに「あいつはどう観たかな」と気にするようになっていた。映画の感想を半年分貯めて、帰省した時にそれをお互いぶつけ合っては楽しんでいた。私は貧乏学生、彼は社会人なので、飲み代は彼が持つことが多く、その度に出世払いを約束していた。まさか彼の死という形で踏み倒すことになろうとは、その時はツユほども思わなかった。
 私は本当にクズみたいな人間なので、段々大学にも行かなくなり、中途退学という選択を取った。その後は地元に戻って地元企業に就職したが、それも長続きせず一年で辞めた。ずっと同じところで働いていた彼とは対照的に、私は堪え性がなく、何者にもなれていなかった。大学を辞めた時も会社を辞めた時も彼は気付いていたが、殊更に話題に出すようなことはせず、あまつさえ非難するようなことは絶対になかった。
 一昨年の冬、私は仙台に引っ越すことに決めた。特に手当たりがあるわけでもなく、何かを成功させる確信もなかった。ただ地元から出たかった。彼は大きな手術の後でリハビリのため入院しており、見舞いに行った際にそのことを伝えた。歩行もままならないので杖をついていた彼は応援すると言ってくれた。今考えると、応援するべきなのは私の方ではなかったか。
 最後に会ったのは私が引っ越す前日になってしまった。私が仙台に引っ越し、感染症の拡大が本格化したこともあって、入退院を繰り返していた彼と会うことはなく、突然の発作で彼は急死した。
 私はどこに行っても何者にもなれず、中途半端に諦めては帰ってくる、というのを繰り返してきた。大物を求めて意気揚々と大海に飛び出したはいいが、小魚一匹獲れずに燃料切れになる漁船のようだ。彼は港のような存在だった。いつもそこにいて、私が不漁だろうが何だろうが、ただそこにいて存在を肯定した。その灯台に火が点くことは二度とない。一度くらいは大漁旗を見せてやりたかった。
 生前、彼は私に対して、私の書いた小説を読んでみたいと言っていた。小説なんて書いたことないし無理だよ、と答えると、向いてると思うけど、と返された。その時は酔った勢いで適当なことを言ったと思っていたが、今になってその言葉が響く。
 少しは大物見せてやらないと浮かばれないよな。そう思って筆をとった。
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