第四話 意趣返し(解説付き)
文字数 1,243文字
「密偵の勤め大儀であった。けん銃も役にたったか(*1)。
亀弥太とやらのことは任せておけ、案ずるには及ばぬ(*2)。ゆっくりと休め」
勘定奉行小栗上野介忠順は座礼をするシジミに申し渡した(*3)。
「勝の操船所から攘夷激徒が出たのだからもうお取り潰しだな…
勝も咸臨丸で船酔いしかできんくせに操船所とは笑止…(*4)
それと池田屋での手柄は新選組にくれてやろう…
これで咸臨丸と共に黒船でアメリカに渡った際に木村殿と語り合った軍艦建造のための製鉄所建設がやっと実現できる…」
*1 もちろん作者設定です
*2 池田屋をかろうじて脱出できた望月亀弥太だったが、幕府方諸藩兵によって取り囲まれ深手を負ってしまった。なんとか長州藩邸に辿り着いたが中へ入る事を許されることはなく、その門前にて自刃した、とされる。
そして、その報を受け坂本龍馬も勝海舟もその死を嘆いた、とされている。
(蛇足ですが、上記史実が小栗のフェイクとしているのが作者設定です)
*3 小栗上野介忠順は江戸時代末期の幕臣で、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。
日米修好通商条約批准のため米ポーハタン号に正使とともに乗船し、咸臨丸ともども渡米、地球を一周してから帰国した。
このときワシントン海軍工廠を見学した際に小栗は、日本の製鉄や金属加工技術などとのあまりの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰り帰国後の近代化の推進を決意したとされる。
その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランスに依頼して洋式軍隊の整備を進め、横須賀製鉄所などの建設を行った。
勝海舟は小倉を評して「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とした。
大隈重信は「明治政府が行った政策は、小栗の模倣に過ぎない」と、東郷平八郎は「日本海海戦で勝てたのは、横須賀製鉄所・造船所を建てた小栗氏のおかげ」とし、幕府側からの近代化政策を進めた人として評価している。
*4 渡米往路は日数38日間、距離4,629海里 (8,573 km)の航海であった。出港の直後から荒天に見舞われてしまい、咸臨丸は各所が破損しただけでなく、日本人乗員は疲労および船酔いでほぼ行動不能に陥り、実際の艦の運用は、技術アドバイザーのジョン・ブルック大尉指揮下のアメリカ人乗員が代行した。
なお、復路の航海では往路で同乗したアメリカ人水夫5名を雇ったほかは日本人のみでの艦を運用した。ただ好天下での航海だったのでトラブルもほぼなく、日本人乗組員の実力を確かめる機会にはならなかった。
咸臨丸に同乗した福沢諭吉は船上で勝海舟との間柄はあまり仲がよくなかった模様。自伝では「勝麟太郎(勝海舟)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった」としている。
福沢は一方で木村摂津守と大変親しい間柄だったようで、二人は木村が役職を退いたのちも晩年まで親密な関係が続いたとのことである。
亀弥太とやらのことは任せておけ、案ずるには及ばぬ(*2)。ゆっくりと休め」
勘定奉行小栗上野介忠順は座礼をするシジミに申し渡した(*3)。
「勝の操船所から攘夷激徒が出たのだからもうお取り潰しだな…
勝も咸臨丸で船酔いしかできんくせに操船所とは笑止…(*4)
それと池田屋での手柄は新選組にくれてやろう…
これで咸臨丸と共に黒船でアメリカに渡った際に木村殿と語り合った軍艦建造のための製鉄所建設がやっと実現できる…」
*1 もちろん作者設定です
*2 池田屋をかろうじて脱出できた望月亀弥太だったが、幕府方諸藩兵によって取り囲まれ深手を負ってしまった。なんとか長州藩邸に辿り着いたが中へ入る事を許されることはなく、その門前にて自刃した、とされる。
そして、その報を受け坂本龍馬も勝海舟もその死を嘆いた、とされている。
(蛇足ですが、上記史実が小栗のフェイクとしているのが作者設定です)
*3 小栗上野介忠順は江戸時代末期の幕臣で、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。
日米修好通商条約批准のため米ポーハタン号に正使とともに乗船し、咸臨丸ともども渡米、地球を一周してから帰国した。
このときワシントン海軍工廠を見学した際に小栗は、日本の製鉄や金属加工技術などとのあまりの差に驚愕し、記念にネジを持ち帰り帰国後の近代化の推進を決意したとされる。
その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランスに依頼して洋式軍隊の整備を進め、横須賀製鉄所などの建設を行った。
勝海舟は小倉を評して「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」とした。
大隈重信は「明治政府が行った政策は、小栗の模倣に過ぎない」と、東郷平八郎は「日本海海戦で勝てたのは、横須賀製鉄所・造船所を建てた小栗氏のおかげ」とし、幕府側からの近代化政策を進めた人として評価している。
*4 渡米往路は日数38日間、距離4,629海里 (8,573 km)の航海であった。出港の直後から荒天に見舞われてしまい、咸臨丸は各所が破損しただけでなく、日本人乗員は疲労および船酔いでほぼ行動不能に陥り、実際の艦の運用は、技術アドバイザーのジョン・ブルック大尉指揮下のアメリカ人乗員が代行した。
なお、復路の航海では往路で同乗したアメリカ人水夫5名を雇ったほかは日本人のみでの艦を運用した。ただ好天下での航海だったのでトラブルもほぼなく、日本人乗組員の実力を確かめる機会にはならなかった。
咸臨丸に同乗した福沢諭吉は船上で勝海舟との間柄はあまり仲がよくなかった模様。自伝では「勝麟太郎(勝海舟)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった」としている。
福沢は一方で木村摂津守と大変親しい間柄だったようで、二人は木村が役職を退いたのちも晩年まで親密な関係が続いたとのことである。