第1話
文字数 2,055文字
上条幸子は普段は吸わない煙草に火をつけた。
その煙草の持ち主、西脇太一は頭から血を流しながら、目の前の床に倒れている。
先ほどまではその指先や足先をぴくぴくと震わせていたが、今はそれも収まっている。
流れ出る血の勢いだけは変わらないが。
「どうしよっかな」
幸子は煙草の煙をふうと吹いた。臭い。
やはり煙草は好きになれない。若い頃はかっこをつけて吸っていたが。
足元にうつ伏せで倒れている太一を見下ろす。
「年とったな、こいつも」
太一は幸子と同じ年の四十四歳。胴回りは太くなり、そのわりにTシャツから出ている腕の筋肉は落ち、若さを示す張りはない。
「私もか」
それなのに、この男は若い新しい女と結び、未来を夢見たのだ。
「くだらない」
幸子は苦笑して、太一から離れた。
背の低い窓をくぐり、コンクリで囲まれたベランダに出る。
目に飛び込んでくるのは、四十年以上も前に開発された江東区の巨大団地の光景。中央の広場を囲み、何棟もの同じような建物が並んでいた。
都営線の駅にも近い団地はたいそう古いが、新宿をはじめとした都心へのアクセスは抜群だ。
幸子は向かいの棟のある部屋をじっと見る。
七階の真ん中の部屋。高さ十四階の建物の中心部にその部屋は位置している。
上下からみても、左右からみても、真ん中。臍のような場所だ。
そこから、カーテンで遮られることもなく、窓の近くにある台所の灯りが外に向かって放たれている。
その光は周囲に比べてどこかうすぼんやりとしている。
消えそうな蛍光灯の弱弱しい灯り。いつも通りだ。
「あんなやつが住んでる部屋が中心点かよ」
もっとも自分もそこに住んでいるのだが。
その部屋にはもともと母、由紀子の両親が暮らしていた。
父に蒸発された母は両親を頼って、この団地に身を寄せた。
「せいぜいしたわ。あんな愚図で稼ぎの悪い男と離れられて」
逃げられただけなのに。幼い幸子はそう思いながら母をにらんだが、母は運び入れたわずかばかりの荷物の整理に夢中だった。
父は優しくきれいな顔をしていた。
「幸子は天使みたいにかわいいね」
いつもそう言って幸子のことを愛おしそうにぎゅーっと抱きしめてくれた。
父の頭から匂っていた整髪料の匂いを幸子は長い間覚えていた。今はさすがに覚えてないけど。
気が弱く、職を転々としていた父はいつも母に責められていた。
父は弱弱しく笑ってそれを流していたが、ある日それも限界に達したのだろう。父は家に帰って来なくなった。
母はそれを何事もなかったかのように片づけた。
三人で住んでいたアパートを解約し、両親に話をつけ、実家に舞い戻った。
「馬鹿な男と結婚しちゃった。時間の無駄だったわ」
母はそんなふうに父を蔑んだ。
それでも母は時々父を思い出すのか、こんなことを言いながら、幸子の髪に櫛を入れた。
「まあ、いいわ。あんたをこんだけきれいに産むことができたから。あんたで稼げばいい。私はあの人のタネにしか用がなかったのかもしれないね」
そう、母は醜かった。顔も体も、心も。残念な女だったのだ。本当に。
母は気が弱く優しく、心と顔のきれいな父を手練手管で落とした。
そして、自分の支配下に置いてからは、つらくあたった。自分より優れたきれいなものが許せないとばかりに。
「きれいな顔してる奴なんて馬鹿ばっかりだ。ろくな奴がいない」
そう言いながら、母は幸子を撫でながらこう続けるのだ。
「幸子は特別だ。天使みたいにかわいい子だ。あんたはアイドルになれる。それから大女優だ。きっと大金持ちになれるよ。その顔のおかげで」
顔も心も醜い女。幸子はそう思いながら、母に向かって大きく笑った。
まずはアイドルになるための訓練だ。
早く成功すれば、早くこの女から離れられる。幸子は母から離れ、父を探し、一緒に暮らしたいと思っていた。
しかし、父と再会することはなかった。
幸子は部屋を振り返った。
そこには相変わらず太一が倒れたままになっている。
太一と幸子は同じ団地に暮らす同級生だった。
太一はずっと団地を出ず、両親を喪い、今は一人暮らしだ。
幸子はいったんは家を出たが(その間に祖父母は亡くなっていた)、羽振りが悪くなり母の元へ戻った。母との折り合いは当然悪い。
ここに住んで三十年以上になる。
この貧乏くさい、貧乏人の集まる団地が大嫌いだった。いつかは絶対に出ていける。そう思っていたのに(一度は出れたが戻るはめになってしまった)。
「天使のままじゃいられなかったからね」
幸子は鼻から大きく煙を吐き出す。
「ほんとに天使だ」
最初の夜、太一はそう言いながら何度も幸子を抱いた。
太一は早かったが、何度もイケる男だった。
「あんただけに新しい夢なんて見せない」
幸子は火のついて短くなった煙草をぽいと後ろに放り投げた。
煙草の明かりは夜闇に放物線を描き、消えていった。
その煙草の持ち主、西脇太一は頭から血を流しながら、目の前の床に倒れている。
先ほどまではその指先や足先をぴくぴくと震わせていたが、今はそれも収まっている。
流れ出る血の勢いだけは変わらないが。
「どうしよっかな」
幸子は煙草の煙をふうと吹いた。臭い。
やはり煙草は好きになれない。若い頃はかっこをつけて吸っていたが。
足元にうつ伏せで倒れている太一を見下ろす。
「年とったな、こいつも」
太一は幸子と同じ年の四十四歳。胴回りは太くなり、そのわりにTシャツから出ている腕の筋肉は落ち、若さを示す張りはない。
「私もか」
それなのに、この男は若い新しい女と結び、未来を夢見たのだ。
「くだらない」
幸子は苦笑して、太一から離れた。
背の低い窓をくぐり、コンクリで囲まれたベランダに出る。
目に飛び込んでくるのは、四十年以上も前に開発された江東区の巨大団地の光景。中央の広場を囲み、何棟もの同じような建物が並んでいた。
都営線の駅にも近い団地はたいそう古いが、新宿をはじめとした都心へのアクセスは抜群だ。
幸子は向かいの棟のある部屋をじっと見る。
七階の真ん中の部屋。高さ十四階の建物の中心部にその部屋は位置している。
上下からみても、左右からみても、真ん中。臍のような場所だ。
そこから、カーテンで遮られることもなく、窓の近くにある台所の灯りが外に向かって放たれている。
その光は周囲に比べてどこかうすぼんやりとしている。
消えそうな蛍光灯の弱弱しい灯り。いつも通りだ。
「あんなやつが住んでる部屋が中心点かよ」
もっとも自分もそこに住んでいるのだが。
その部屋にはもともと母、由紀子の両親が暮らしていた。
父に蒸発された母は両親を頼って、この団地に身を寄せた。
「せいぜいしたわ。あんな愚図で稼ぎの悪い男と離れられて」
逃げられただけなのに。幼い幸子はそう思いながら母をにらんだが、母は運び入れたわずかばかりの荷物の整理に夢中だった。
父は優しくきれいな顔をしていた。
「幸子は天使みたいにかわいいね」
いつもそう言って幸子のことを愛おしそうにぎゅーっと抱きしめてくれた。
父の頭から匂っていた整髪料の匂いを幸子は長い間覚えていた。今はさすがに覚えてないけど。
気が弱く、職を転々としていた父はいつも母に責められていた。
父は弱弱しく笑ってそれを流していたが、ある日それも限界に達したのだろう。父は家に帰って来なくなった。
母はそれを何事もなかったかのように片づけた。
三人で住んでいたアパートを解約し、両親に話をつけ、実家に舞い戻った。
「馬鹿な男と結婚しちゃった。時間の無駄だったわ」
母はそんなふうに父を蔑んだ。
それでも母は時々父を思い出すのか、こんなことを言いながら、幸子の髪に櫛を入れた。
「まあ、いいわ。あんたをこんだけきれいに産むことができたから。あんたで稼げばいい。私はあの人のタネにしか用がなかったのかもしれないね」
そう、母は醜かった。顔も体も、心も。残念な女だったのだ。本当に。
母は気が弱く優しく、心と顔のきれいな父を手練手管で落とした。
そして、自分の支配下に置いてからは、つらくあたった。自分より優れたきれいなものが許せないとばかりに。
「きれいな顔してる奴なんて馬鹿ばっかりだ。ろくな奴がいない」
そう言いながら、母は幸子を撫でながらこう続けるのだ。
「幸子は特別だ。天使みたいにかわいい子だ。あんたはアイドルになれる。それから大女優だ。きっと大金持ちになれるよ。その顔のおかげで」
顔も心も醜い女。幸子はそう思いながら、母に向かって大きく笑った。
まずはアイドルになるための訓練だ。
早く成功すれば、早くこの女から離れられる。幸子は母から離れ、父を探し、一緒に暮らしたいと思っていた。
しかし、父と再会することはなかった。
幸子は部屋を振り返った。
そこには相変わらず太一が倒れたままになっている。
太一と幸子は同じ団地に暮らす同級生だった。
太一はずっと団地を出ず、両親を喪い、今は一人暮らしだ。
幸子はいったんは家を出たが(その間に祖父母は亡くなっていた)、羽振りが悪くなり母の元へ戻った。母との折り合いは当然悪い。
ここに住んで三十年以上になる。
この貧乏くさい、貧乏人の集まる団地が大嫌いだった。いつかは絶対に出ていける。そう思っていたのに(一度は出れたが戻るはめになってしまった)。
「天使のままじゃいられなかったからね」
幸子は鼻から大きく煙を吐き出す。
「ほんとに天使だ」
最初の夜、太一はそう言いながら何度も幸子を抱いた。
太一は早かったが、何度もイケる男だった。
「あんただけに新しい夢なんて見せない」
幸子は火のついて短くなった煙草をぽいと後ろに放り投げた。
煙草の明かりは夜闇に放物線を描き、消えていった。