第25話  覚醒 2

文字数 3,329文字

 八月の上席、新宿末廣亭の昼のトリは圓海師だった。復帰した師匠に早速席亭から声が掛かったのだ。これには圓盛師との兄弟会や柳生との二人会の噂が席亭の耳にも入っているからだと思った。
 仕事が休みの日、激励がてら末廣に赴いた。勿論身重の薫を連れてだ。
「歩かないといけないから一緒に行く!」
 そう言ってついて来たのだ。それならそれで俺はやはり薫の体を心配する。階段のあるところはなるべくエレベーターを利用するし、無い場所では極力俺が前後左右に注意を払う。当然だとは思うが何せ慣れていないので、結構疲れるのだ。
 ようやく着いた末廣はほぼ満員だった。二階席も開放している。少しの間立っていたが、運良く傍の席が空いたので薫を座らせる。仲入りには何と盛喬が出ている。何でも代演だそうだ。他の噺家だったが地方公演か何か入ったのだろう。同じ一門の盛喬に声が掛かったのだろう。それなら後で楽屋に挨拶に行こうと思った。元々煎餅を用意して来たのも良かった。
 薫を座らせたまま、楽屋を尋ねると見知った前座さんが出てくれた。奥に盛喬の姿が見えた。何時もなら愛想良く挨拶するのだが、今日は型どおりの挨拶をすると普段自分が楽屋で座る場所に戻ってしまった。こんな事は珍しい。その知っている前座さんが俺を陰に引っ張って来て
「何だか、今日盛喬師匠変なんですよ。余り喋らないし、楽屋には早く入るし、ぶつぶつ何か言ってるし……どうしたのですかねえ」
 そんな事を言って来た。そうか、きっとあれから、ずっとこうなのだと思った。盛喬は今覚醒中なのだと理解した。ならば余計な声は掛けない方が良い。
「きっと生まれ変わる為に真剣なんだよ」
 俺がそんな事を言うとポカンとしていた。
「皆さんで食べて」
 と持って来た煎餅の箱の入った紙の袋を手渡した。前座さん何人かからお礼を言われて薫の座ってる席に戻って来た。
 すると薫の隣の席が空いたので座った。今日は運が良いかも知れない。噺を幾つか聴き、手品や太神楽を見るといよいよ仲入りの盛喬の番となった。「二上りたぬき」が流れ盛喬が姿を見せた。
 高座に座るとおもむろに
「え~代演でございます。どうぞ宜しくお願い致します」
 そう挨拶をする。末廣では代演が出るとプログラムを刷り直すので解りにくいが、他の寄席では最初の出演者の書いたプログラムのままなので、こんな挨拶をするのだ。盛喬にしては珍しいと思った。何回も出ている末廣なら代演でもこんな事は言わないはずだからだ。
 簡単なマクラを振って噺に入って行く。演目は転宅だった。いつか聴いた演目だったと思いだした。今日はあの頃とは違い、泥棒の間抜けさ、お妾さんの達者な感じ。それでいて実は必死な感じが良く出ていた。情景描写も見事で、これならどこで演じても恥ずかしく無いと思った。
「ああ、どうりで騙られた」
 サゲを言って盛喬が頭を下げると満員の客からやんやの拍車が降り注いだ。緞帳が降りると楽屋に再び向かう。見ると盛喬は着替えていて、俺を見ると嬉しそうに
「まあまあの出来だったでしょう。色々と工夫してみているんです。この後帰って稽古しなくちゃならないので失礼します。圓海師匠のトリまで遊んで行って下さいね」
 そう行って着替えるとさっさと帰ってしまった。少々あっけに取られたが、盛喬としてはきっとこの前の映像を自分の中でクリアしないと次に進めないのだろう。今日の態度からそう思ったのだった。
 その後トリの圓海師匠となった。楽屋入りの時に挨拶をしたら、俺が見に来た事を思いの他喜んでくれた。
「最初は助でいいよと言ったんだけど、席亭がどうしてもって言うから実は内緒で深夜寄席に特別という事で出させて貰ったんだ」
 深夜寄席というのは毎週土曜日の九時半から十一時まで末廣で開かれている二つ目の勉強会だ。結構人気があり本当の芝居がガラガラでも深夜寄席は満員になることがある。そこに特別出演ということで、サプライズ出演したのだという。最後の出演者が終わった後に二十分の持ち時間で軽く一席やって久々の寄席の感触を確かめたのだそうだ。
「出させて貰って良かったよ。改装して感じが変わっていたからね」
 圓海師はそんな事を言って今日の高座に期待を抱かせてくれた。「中の舞」が鳴って圓海師が出てきた。「待ってました!」の声が飛ぶ。
「え~最後のお噺でございまして、今日はこの新宿のお噺でございます……」
 この言葉で「文違い」だと思った。その途端俺は寄席のどこかに盛喬がいるのでは無いかと思った。盛喬の為にこの噺を掛けたのでないかと思ったからだ。いくら映像で見ても実際の高座を見るのとでは比較にならない。盛喬が今日代演だと知ってこの噺を掛けた可能性があると思ったのだ。
 一旦末廣を出た盛喬はカラオケボックスか何かで一人になれる空間で稽古をして、圓海師が高座に上がる時間に戻って来たのでは無いかと思ったのだ。
 もしかしたら客席のどこかに居るかも知れない。俺はそう思って後ろを振り向いていた。すると、一番後ろの隅に野球帽を被ってマスクをした盛喬が立っていた。この暑いのに変装をしているのだ。通常噺家は前に回って客席から見ることは特別な許可をその師匠や噺家から貰っていないと失礼にあたるので普通はやらない。
 盛喬はきっと圓海師の許可を貰っているのだろう。それどころか、むしろ圓海師に「前に回って見ていろ」と言われたのかも知れない。変装してるのは観客に知られない為なのかも知れない。
 圓海師の噺は寄席用に若干無駄をカットした作りになっていた。噺家さんにもよるが、寄席の時間に合わせる為に無駄をカットしたバージョンで演じる噺家さんは多い。時間がたっぷり取ってある落語会や独演会では長いバージョンでたっぷりと演じたりする。これがいいのか悪いのかは一長一短だと思う。寄席では無駄が無く素晴らしい噺をしても自身の会では無駄だらけで間延びした噺をする噺家も居るからだ。
 だが、圓海師は今日の高座も完璧だった。芳次郎の男ぶりが良く判るし、お杉も玄人の女性らしさが良く出ていた。
 元々得意演目だったのかも知れないが、圓海師は完全にこの噺を自家薬籠中の物にしたと思った。俺は噺の世界に引き込まれながも、つい後ろを見て圓盛を確認してしまう。噺がサゲに掛かると一足早く圓盛は出口に向かっていた。
「どうしたの? 何か落ち着か無い感じだったけど」
 薫に言われて、盛喬のことを話すと薫は
「やはり、そうだったんだ。圓海師匠の話しっぷりを見て、まるで誰かに教えるように話している感じだったんだ。それで判ったわ」
 驚いた。薫が圓海師の噺をそこまで理解していたとは全く思わなかった。我が妻ながら油断ならないと思った。
 楽屋に行き、その事を圓海師に尋ねると笑いながら
「やはり判りましたか。今日、代演で来るって言うから言ったんですよ。『文違い』やるから前に回って見ていろってね」
 やはり正解はそうだったのだ。圓海師は一門の若手真打に身を持って示したのだと……
「神山さんにあの日の映像を見せられてから、あいつは変わりました。その変わり様がいい方向に行けば良いと思っています」
 圓海師はそんな事を言って俺を不安にさせた。
「間違った方向に行く事もあると言う事ですか?」
「試行錯誤でしょうね。誰でもそれは通るんです。避けては通れない道ですからね」
 着替え終わった圓海師は一門の見習いの子に鞄を持たせ
「明日もあるので今日はこれで失礼します。楽日の打ち上げには来てくださいね」
 そう言って末廣亭を後にした。俺と薫はその姿を見送って
「何か食べて帰るか?」
 そう言うと薫は
「うちに帰って何か食べようよ。今日はこのまま家に帰りたい気分なの。二人だけになりたいから……」
 今日の圓海師の噺と盛喬の真摯な態度が薫をそう思わせたのだろう。
「そうか、じゃ帰るか! 何かつまみながら少し呑むかな?」
「うん! わたしも少しだけなら呑めるから付き合うわ」
 腕を組みながら新宿の街を地下鉄に向かう二人。この街の夜は未だ始まったばかりだった。
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