第3話 真の勝ち組とは?

文字数 10,831文字

「光流ちゃん、さっそく例のブツ持ってきたぜ。うちの姉貴も一六○センチくらいだから、たぶんサイズは合うだろ」
 昼休み、部室で上森先輩が紙袋を手渡してきた。中身は上森先輩のお姉さんが去年まで着ていたという制服。つまりこの学校の女子の制服だ。
「あ、ありがとうございます」
 全くありがたくないが、一応お礼は言っておく。こんな人でも男子哲学部に欠かせないメンバーなのだ。今のところは上機嫌な様子だが、気が変わってもらっては困る。
「ウィッグは明日か明後日に用意して、月曜日に持ってくるから、もうちょい待っててくれよな」
「はぁ……」
 ちょっとどころか、ずっと待たせてくれて構わないのですが……。
 約束はしたものの、未だ実感が湧いてこない。
 これ本当に僕が着るのか? 悪い夢でも見てるんじゃないのか?
「ところで光流ちゃん、下着は――」
「上森君、その話は後だ。食後に大事な会議が控えている」
 上森先輩の不穏な発言を、小乗先輩が遮ってくれた。
 うん。今のは聞こえなかったことにしよう。
「ち、しゃーねえな。んじゃあ、さっさといただくとしますか」
 上森先輩は僕の向かいの席に座り、ビニール袋から菓子パン二つとパックのカフェ・オレを出した。さっき購買で買ってきたらしい。
 今日も和風玄米弁当の小乗先輩とは対照的に、不健康そうな昼食だ。
「いただきあーす」
 でも、ちゃんと食前のあいさつはするらしい。偉いなぁ。ちょっとラフだけど。
「いただきます」
 小乗先輩はきちんと手を合わせ、心の籠ったあいさつをする。
「い、いただきます」
 慣れていないせいか、僕はまた声を詰まらせてしまった。
 

 食事が済んだ後、さっそく会議を始める。
 内容はもちろん、男子哲学部設立に必要な残りの一人をどう獲得するかだ。
 残念ながら僕と小乗先輩には当てがないので、上森先輩に聞いてみるも――
「いないことはないが、難しいな」
 なんとも消極的な返答だった。コミュ力高そうだから期待してたのに。
「俺の交遊関係って女子が中心で男子は広く浅くだからさ。大して親しくもない連中に声かけて回るのって恥ずいじゃん。それに、二年生以上のほとんどはもう他の部に入ってんだしさ。誘うなら一年生じゃなきゃ無理だよ」
「では、一年生に心当たりは?」と小乗先輩。
「中学ん時の後輩がいるけど、知ってる奴はみんな他の部に入ってるな。一年の女子に何人か目ぇ付けてる子がいるから、そこから攻めてくって手もあるが……。期限が四月中じゃ時間が足りねえか」
 どうやら、ツテに頼るのは無理なようだ。
 皆が視線を落として考え込む。
しばらくして声を上げたのは、上森先輩だった。
「なあ、今さら新しい奴捕まえるよか、下倉(しもくら)を連れ戻した方が早いんじゃね?」
 僕が「誰?」という顔をすると、小乗先輩が「やめたもう一人の部員だよ」と教えてくれた。
「その下倉って先輩も個人的な理由でやめたんでしたよね? 今は何してるんですか?」
「彼は二年生になってから登校を拒否して、ずっと自宅に引きこもっている。私が聞いた話では、株の取引をやっているとか」
「株っていうと、あの株式会社の株ですか?」
「そうだ」
 高校生で株に手を出すとは、またしてもただ者ではない先輩のようだ。
 上森先輩が少し心配そうに言う。
「あいつ学校来てなかったんか。どおりで最近見かけないと思った。にしても株はヤバくねえか? 詳しくは知らねえけど、あれって失敗したら借金まみれで首吊りもんだろ?」
「未成年では信用取引ができないから借金沙汰にはなるまい。最悪でも手持ちの金をすべて失うだけだ」
「その辺はよく分かんねえけど……。ちょいと心配ではあるな。根暗な上に現金な野郎ではあるけどよ、一応は同じ部の仲間だった奴だ。どうせ他に当てもないんだし、勧誘がてら下倉の様子を見に行かねえか?」
「それは、自宅を訪問するということかね?」
「そりゃそうだ」
 上森先輩、意外と人情家なんだな。てっきり女の子以外は眼中になしって感じの人かと思ってたのに。
「ふむ……」
 小乗先輩は顎に手を当てて少し考えるようにした後、「わかった」と頷く。
「では、下倉君にメッセージを送っておくから、彼の了解が取れたら放課後、三人で訪問しよう。光流君もそれでいいね?」
「はい。でも……」
「なにかね?」
「また僕を取引に使うのはやめてくださいね。もちろん協力はしますけど、昨日みたいに変な約束は……」
「安心しなさい。たった今、良い策を思い付いた。今度は別の人物を利用させてもらう」
「おいおい、それって俺のことじゃねえだろうな?」
 上森先輩が不安げに声を上げた。
「いいや、男子哲学部とは別の人間だ。それに利用と言っても、その人物に不利益が生じるわけでもない。それどころか、その人物にとっても都合が良いかもしれない策だ」
 そんなすごい策があるのか。
やっぱり、小乗先輩が一番ただ者ではない気がしてきた。


 放課後。
 下倉先輩から自宅に来ても構わないという返信があったそうなので、僕たち三人は徒歩で目的地へと向かう。
 歩いて十五分くらいで行ける近場だそうだ。後で一旦部室に戻るつもりなので、鞄は置いてきた。
 交通量の少ない閑静な住宅街の歩道を歩きながら、僕は先輩方に尋ねる。
「あの、下倉先輩はどんな哲学を持ってる人なんでしょうか? 登校拒否してるのも、株取引してるのも、哲学と無関係じゃありませんよね?」
「そうだな」
 前を歩く小乗先輩が、一瞬こちらを見る。
「考え方としてはニヒリズムに近い。日本語では虚無主義というのだが、かえって分かりづらいか。ニヒルという言葉なら聞いたことがあるだろう?」
「あ、はい。自虐的っていうか、諦めちゃってる人って感じですよね?」
「そうそう」
 後ろを歩く上森先輩が、少し呆れたような声を出した。
「どうせ人はいずれ死ぬとか、所詮この世は弱肉強食とか、そんなことばっかり言ってる奴だよ。あいつと議論してると、ほんと気が滅入る」
 交差点に差し掛かり、赤信号だったので立ち止まった。
 三人横並びになって待っている間、小乗先輩が説明を続けてくれる。交通量が多い場所なので、声は少し大きめだ。
「だが、人生を悲観的に捉えて、それで終わりでないのが彼の特徴だ。人はいずれ死ぬ。だからこそ生きている間に何ができるかを考える。そうして逆算的に答えを導き出すのが彼の哲学と言っていい。現に彼は引き込もってゲームなどの架空世界に逃避するのではなく、現実的に株で儲けようとしている」
「でも、どうして株なんでしょう? お金がほしいなら普通はアルバイトでしょう?」
「目先の金を欲しているわけではないということさ。彼はもっと先を見ている」
「それなら、一生懸命勉強して一流大学に進学して、一流企業を目指した方が現実的じゃないですか?」
「もっと先だよ」
 信号が青に変わる。
 僕はしっかりと左右を確認してから、先輩たちに続いた。
 横断歩道を渡ると、また閑静な住宅街に入る。
「就職より先って、いったいどれだけ未来を……。まさか高校生のうちから老後のことを考えてるんですか?」
 僕の言葉に対し、小乗先輩は小さく肩をすくめた。
「さあ、そこまでは……。私とて彼の考えすべてを把握しているわけではないから、ハッキリしたことは言えない。彼の性格から、彼の行動の意味を推測したに過ぎん」
「性格といえば、あいつニヒリストのくせに、えらく負けず嫌いだったな」
 上森先輩が苦味の混じった声で言った。
 ニヒリストのことはよく分からないが、引きこもりが負けず嫌いなのは何となく分かる。
 引っ込み思案な僕も、実はけっこう負けず嫌いだからだ。
 もっとも僕の場合、負けたくないから努力するのではなく、最初から戦わない方を選んでしまうのだが。
「で、なんで株なの? 株ってそんな儲かんの?」
 儲かるなら自分もやると言い出しそうな口調の上森先輩。
 簡単に儲かるなら誰だってやるだろうから、そう都合よくはいかないと思うけど……。
 小乗先輩が率直に答える。
「上手くすれば儲かる。下手をすれば損をする。素人が安易に手を出すべきではない」
「そっか……。そりゃそうだわな。けど、仮に上手くいって大儲けできたとして、あいつそれからどうするつもりなんだ?」
「ある程度の予想はついているが、詳しい話は本人から聞いた方がいいだろう。その上で彼を説得できそうな策は用意した。上手くいくかどうかは五分五分といったところだが、今はそれでいくしかあるまい」
 小乗先輩が「こっちだ」と言いつつ一方通行の小道に入った。
目的地は近いようだ。
「そうかい。んじゃあ、俺が口出しして変にこじれるとまずいから、説得は龍ちゃんに任せるぜ」


 下倉先輩の家は住宅街の中にある、こぢんまりとした一軒家だった。
 小乗先輩がインターホンを押す。
 しばらく待つと、下倉先輩の母親らしきエプロン姿の女性が出てきた。
「はじめまして。我々は下倉君と同じ高校の、男子哲学部の者です」
 代表であいさつした小乗先輩に続き、僕と上森先輩も軽くお辞儀をした。
「こんにちは。宗(そう)君から話は聞いています。どうぞ、上がってください」
 てっきり突然の訪問を驚かれると思っていたが、ちゃんと話が伝わっているらしい。家族とのコミュニケーションは断絶していないようだ。
 玄関には三人分のスリッパが用意してあった。とても礼儀正しい対応だ。
 母親は嬉しそうに言う。
「宗君のお友達が来るなんて小学校の時以来です。ちょっと変わった子ではあるけど、仲良くしてやってくださいね」
「もちろんです。彼は男子哲学部に欠かせない存在ですから。最近の彼の様子はどうでしょうか?」
 とても高校生とは思えない態度と口調だ。制服姿でなかったら確実に先生と間違われるな。
「相変わらず、部屋で難しい本を読んだりパソコンとにらめっこばかりしています。せめて学校くらいは行ってほしいのだけど、あの子の話を聞いていると、世間の常識よりあの子の言っていることの方が正しく思えてしまって……」
 親を論破してしまったのか。下倉先輩、なんて人だ。
 だが、こちらの先輩も並みではない。
「お母様がそうおっしゃるのなら、彼の言っていることはきっと正しいのでしょう。ですが、正しい答えが一つとは限りません。その答えを探すために学校が有意義な場所であることを、我々が伝えてきます」
「どうか、よろしくお願いします」
 母親は小乗先輩に対し深々と頭を下げた。
 まるで家庭訪問に来た先生と親のやりとりだ。
 母親に案内され、二階にある下倉先輩の部屋に向かう。
 階段を上がるにつれて緊張が増してきた。
 小説や漫画ではよく見かける引きこもりだが、実物と会うのはこれが初めてだ。
いったいどんな部屋で何をしているのだろう? やっぱり、カーテンを閉めきった暗い部屋で、パジャマみたいな格好して、寝そべってパソコンをいじっている、あの典型的な引きこもり像だったりするのだろうか?
 母親がコンコンと扉を叩く。
「宗君、お友達がいらっしゃったわよ」
「どうぞー」
 まったりとした感じの声が中から返ってきた。
 小乗先輩が扉を開き、部屋に入る。
「お邪魔するよ」
 続いて上森先輩。
「おいーす」
 最後に僕が入り、扉を閉めた。
「お、お邪魔します」
 予想と違い、中は白を基調とした明るくてこざっぱりとした部屋だった。
 下倉先輩本人も、あまり引きこもりっぽくは見えない。やや地味な印象ではあるものの、真面目で落ち着きのありそうな人だ。体格は平均的で太っても痩せてもいない。髪も身だしなみも整っている。服装はカジュアルなパーカーにジーンズ。そのまま出掛けても恥ずかしくない。なんとなく眠たそうに見えるのは、そういう顔だからか実際に眠たいのか。細目で垂れ目だからそう見えるのかもしれない。
「やあ、みんなよく来てくれたね。とりあえず、そこ座ってー」
 部屋の中央には、丸テーブルを囲むように四つの座布団が用意されていた。
 最近の引きこもりはこんなにまともなのかと変に感心してしまう。
 四人で向かい合って座る。
 座り方には、それぞれの個性が現れていた。
 小乗先輩はピンと背筋を伸ばした状態で正座。なんとなくそんな気はしていたが、思った通りの礼儀正しい姿勢だった。
 上森先輩は片膝を立て半分胡座をかいた状態で、両手を床の上に置いている。まだ来たばかりなのにリラックスしすぎではなかろうか。
 下倉先輩は胡座をかいた状態で両肘を膝の上に置く。ちょっと――いや、けっこう猫背だ
 そして僕はというと、小乗先輩を見習って正座することにした。慣れてないから、いつまでもつか分からないけど、できるだけがんばってみよう。
 はじめに小乗先輩が口を開く。
「まずは紹介しておこう。こちらは男子哲学部の新入部員、鹿内光流君だ」
 僕は下倉先輩に向かって軽くお辞儀をした。
「よ、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくー。参考までに、どうして哲学部に入ったか聞いてもいいかなー?」
なんともまったりとした口調だ。語尾を伸ばすのは癖だろうか。
「はい。一昨日、小乗先輩と議論をして、ここでなら僕のやりたいことが見つかるかなと思って入部しました」
「そっかー、哲学にその可能性を見出だしてくれたんだー。元哲学部の先輩としては喜んでおくべきなのかなー?」
「喜んでほしいとは思うが、喜んでみせる必要はないよ」
 小乗先輩の辛辣な返しに、下倉先輩はククッと苦笑した。
「だよねー。さすがは小乗君。はっきり言うねー。それにしても、上森君が女子のいない部に戻るとは意外だったよ。何があったのー?」
「交換条件ってヤツさ。うちの部長が超グッドな条件を提示してくれたもんでね」
 ニヤリと返す上森先輩。
 僕にとっては超バットなんですけどね……。
「へえー、どんな条件?」
「そいつは部員以外の人間には教えらんねえな」
「そっかー、じゃあ仕方ないねー」
 その味気ない反応に、上森先輩は不満そうな顔をする。
「もうちょっと聞けよ。張り合いないだろうが」
「う~ん、そう言われてもねー。上森君の言う超グッドな条件っていうのは、上森君のための条件であって、こっちには直接関係ないしねー」
 起伏のないまったり口調に加え、元々眠たそうな顔をしているものだから、いっそう興味なさそうに見える。
「相変わらず身も蓋もない言い方する野郎だな。やっぱ俺、今日は黙っとくわ。部長、あとは頼む」
「承知した」
 呆れ顔の上森先輩からバトンを受け取った小乗先輩は、武士のように堂々とした佇まいで下倉先輩と向き合う。
 ちなみに、僕は早くも正座がキツくなってきた。ついモゾモゾと足を動かしてしまう。
 上手く機会を伺って、失礼のないように膝を崩そう。
「では下倉君、短刀直入に言う。男子哲学部に入部してくれないか?」
「いいよー」
「いいのか?」
「時間と労力を上回るメリットがあればねー」
 先ほどと同じく、起伏のない反応。やはり一筋縄ではいかないか。
 でも、小乗先輩には切り札がある。
「そう言うと思って君が喜びそうな話をもってきた。だが、その前に聞かせてほしい。君はいったい何がしたいのかね?」
「う~ん、そうだなー。ひとことで言えば、勝ち組になりたいってとこかなー」
「高校も卒業せず勝ち組になれると思っているのか?」
「なれるよー。資本力と決断力さえあればねー」
 悠然と言い放つ下倉先輩。
「やはりそういうことか……」
 小乗先輩は顎に手を当てて、険しい表情をした。
 え、今の会話で理解できたの? 
 さっき株取引の話をした時も思ったけど、小乗先輩ってかなり博学だな。
 僕にはさっぱり分からないので聞いてみる。
「そういうことって、どういうことですか?」
「下倉君、こちらの二人にも分かるよう説明してやってくれないか?」
「いいよー」
 その時、コンコンと部屋の扉を叩く音がした。
「宗君、入るわよー」
「はーい」
 ガチャリ、とドアノブが回って扉が開く。
 下倉先輩の母親が紅茶とお菓子を持ってきてくれた。
「ありがとねー」
 引きこもりが親に対してちゃんとお礼を言う。これをめずらしいと思うのは僕の偏見だろうか。それとも、引きこもりという人種が進化しつつあるのか。
 理解するには先入観をキッパリ捨てた方が良さそうだ。もっと広い視野で世界を見なければ、この人たちの話には付いていけない。
 でも、その前に――
 先輩たちの目が母親に向いている隙を狙って、僕は膝を崩す。
 はぁ、危なかった。もう少し遅かったら、足が痺れて動けなくなるところだったよ。やっぱり無理して慣れないことをするもんじゃないね。
 一応、背筋はちゃんと伸ばしたまま、胡座をかく姿勢になる。
 幸い、誰も気にした様子はなかった。
 姿勢が楽になったところで、紅茶とお菓子をいただきながら、下倉先輩の話に耳を傾ける。
「個人的にはね、一流大学を卒業して一流企業に入れば勝ち組なんて時代はもう終わってると思うんだよねー。一流企業の社員とはいっても所詮は『使われる側』の人間だからね。本当の意味で勝ち組になろうと思ったら『使う側』の人間にならなきゃダメなんだよー」
「要するに、社長になりたいってことですか?」
 僕が尋ねた。
「んー、それはちょっと違うかなー。ごめん、言い方が悪かったよ。『使う側』と『使われる側』じゃなくて、お金を『出す側』と『受け取る側』で説明すべきだったねー」
「それって何か違うんですか?」
「違うよー。社長だって銀行や株主からお金を受け取る場合もあるから、社員に対しては強気でも、スポンサー様にはヘコヘコしなきゃならない。大企業ならともかく、中小の社長なんて結局は『使われる側』と大差ないんだよー。だから、スポンサーである大株主になることこそが真の勝ち組なんだよ。鹿内君だっけ? 理解できるかなー?」
「な、なんとか」
「上森君はー?」
「要はヘコヘコしたくねえんだろ?」
「まあ、要約するとそうだねー」
 負けず嫌いな性格と聞いていたが、ここまでとは。
 下倉先輩は平坦な口調で続ける。
「学歴なんてものはお金を受け取る側に必要なものであって、お金を出す側にはあまり関係ないからねー。高校中退だろうと一流大学卒業だろうと、お金を出す側は立場が強い、受け取る側は弱い。それが資本主義社会ってものなんだよー」
 すごい割り切り方だ。完全に世の中を斜に見ているな。
「だから学校には行かないんですか?」
また僕が尋ねた。
「そういうこと。学校に行ってテストで点数を取るための勉強をするより、家で大株主になるための勉強をした方が遥かに有意義なんだよー。実際、株で利益も出てるしねー」
 下倉先輩は、ゆったりとした動作で紅茶を口にした。
 それから、小乗先輩を見る。
「一通り分かりやすく説明したつもりだけど、どうかなー?」
「ありがとう。とても分かりやすかったよ」
「じゃあ、そろそろ教えてくれるー? 学校に行くメリットってのを」
「いいだろう」
 僕を含む三人の視線が一ヶ所に集まる。
 小乗先輩は未だに正座を崩していない。背筋もピンと張ったまま。
 すごい耐久力だ。茶道でもやっているのだろうか?
 表情にも余裕がある。ということは、これほどまでに頑なな相手を説得する手段があるということか。確か昼休みに男子哲学部ではない誰かを利用するとは言っていたが……。
 緊張で胸が高鳴ってくる。
「下倉君、君が学校に行くメリットは二つある。一つは、学校は勉強の場であると同時に社交場でもあるということだ。君の言うとおり現行社会において最も力を持つものはお金だが、そのお金を扱うのは生身の人間だ。人間のことをよく知らなければ、大事なお金を預けるに足る人物を見つけることはできない」
「だから学校に通って、人を見る目を養った方がいいってー?」
「そうだ。同時に、君自身も信用してもらえる人物にならなければならない。そのためにも人間同士の交わりは必須だ」
「なるほど、正しい意見だねー。でも、取り立ててめずらしくもない一般論だねー」
 冷めた反応。下倉先輩にとって、その程度では大したメリットでないということか。
「それで、もう一つはー?」
「コネクションさ」
 最後の手札が切られた瞬間、下倉先輩の眉がピクリと動いた。
 小乗先輩は表情を変えぬまま続ける。
「人間社会は君が思っているほど単純なものではない。知識と行動力があり、その上、運が味方したとしても、たった一人の力で成り上がることはできない。真の勝ち組になろうと思えば、勝ち組同士のコネクションが必須になる。なぜなら、勝ち組は自分たちが勝ち組であり続けるために、新規参入者を排除する傾向があるからだ。当然、君ならそのくらいは知っているだろう?」
「それは……そうだね」
 今までのんびりまったりだった口調から、焦りがにじみ出た。
 表情にも微妙に苦味が混じっている。そこまでは気にしていなかったということだろうか。
「そう言うからには、小乗君がそのコネクションを用意してくれるのかなー?」
「直接の提供はできない。が、とある人物とお近づきになれる機会は提供するつもりだ」
「……誰なのかなー、とある人物って?」
「一年A組、水澄智莉(みすみさとり)。女子哲学部の新入部員だ」
 下倉先輩はハッと気付いたように細目を開いた。
「水澄っていうと、もしかして水澄製菓の?」
「筆頭株主様の御令嬢だ」
 水澄製菓といえばお菓子業界の最大手、日本人なら誰もが知っている大企業だ。
そこのご令嬢様ともなれば相当なお金持ちに違いない。まさか、そんなセレブ様が女子哲学部に入部していたとは。
 下倉先輩は嬉しさと難しさが混じった表情をする。
「確かに水澄のお嬢様と親しい関係になれば、勝ち組への道が一気に開けるねー。あるいは、結婚しちゃえばもう勝ち組だしねー」
 理論上はそうだ。問題はそこに至るまでの過程。
「それで、具体的にどういう機会を提供してくれるのかなー?」
「女子哲学部との定期交流会を考えている。まだ計画段階ではあるが、彼女たちが応じてくれる可能性は高いと私は踏んでいる」
「その根拠はー?」
「君も知ってのとおり、哲学とは議論をすることによって発展するものだ。そして議論とは、対立の構図であった方がより充実するというもの。ならば、我ら男子哲学部との議論こそが真理への近道であると、あの聡明な本居先輩が気付かないはずがない。四人しかいない仲間内の議論では、すぐに壁にぶち当たる。そして、それは我々も同じだ。よって、こちらから交流会の話を持ち掛ければ、実現はほぼ確実と言える」
 さすがは小乗先輩。明確で説得力のある根拠だ。
 しかし、下倉先輩の表情は気難しいまま変わらない。
「ほぼねー。で、仮に定期交流会が実現したとして、どうやって水澄さんと仲良くなればいいのー? 悪いんだけど、こっちは上森君みたいに女の子の扱いには慣れてないから、そこのところもお世話してくれないと困るんだよねー」
 なんて図々しい先輩だ。そう来るだろうとは思ってたけど。
 それについても、小乗先輩は落ち着いて返答をする。
「問題ない。彼女も君と同じく経済学を勉強している人間だ。加えて、自社と子会社の株主でもある。共通の話題には事欠かないだろう。きっかけは交流会の時に作ると約束する。その後、上手くいくかどうかは君次第になるが、どうだろう?」
「う~ん」
 下倉先輩は悩むのでなく、訝しげに首を捻った。
「どうだろうの前に、小乗君と水澄さんってどんな関係?」
 それは僕も思った。
 同じ哲学部というだけで、見知らぬ者同士の橋渡しはできない。部活以前に、本人と何らかのつながりがあるとしか思えない。
「血縁者だ」
 小乗先輩は簡潔に答えた。
「え、それって親戚ってことー? 大企業のお嬢様と?」
「そんなところだ」
「でも、小乗君の家は――」
「私のことはよろしい。それより入部の件はどうするのかね?」
 小乗先輩はやや強引に言葉を被せ、下倉先輩の質問を打ち消した。
 どうやら家庭のことは聞かれたくないらしい。
 下倉先輩もそれは察しているらしく、しつこくは聞かなかった。
「う~ん、そうだなー」
 天井を見上げるようにして唸った後、しばらく考え込む。
 前向きでないのも無理はない。上森先輩の時と違い、メリットが確実ではないのだ。たとえ小乗先輩が約束を守ったところで、水澄さんという人と良い関係が結べるとは限らない。これは厳しいぞ。
 胸中に不安がよぎる。もし下倉先輩がダメだったら、どうする?
 他に当てなんかない。そうなると、さして親しくもないクラスメートか、顔も名前も知らない他のクラスの人たちにダメ元で声をかけに行くしかなくなる。それは地獄だ。
 だからどうにか、ここで決まってほしい。
たっぷり二十秒ほど間を置いた後、下倉先輩は正面を向き、結論を述べる。
「うん。じゃあ、登校拒否は今日までにするよ。小乗君の言い分にも一理あるし、それになんだか去年より面白そうだしねー」
 やった! これで部員四人が揃った。哲学部改め男子哲学部の設立は確定だ。
でも、意外とあっさりだったな。もう少し条件面なんかで駆け引きがあると思ってたのに。
 ……ま、細かいことはいいか。僕の新たな居場所が失われずに済んだわけだし。
「ふふ、鹿内君、嬉しそうだねー」
「下倉先輩だって嬉しそうな顔してますよ」
「えー、そうかなー?」
「そうですよ」
 実際、下倉先輩の表情と口調は、ついさっきまでとは微妙に違っていた。
 取引先の相手に見せるようなお固いスマイルが、仲間内の緩い笑顔に変わっていた。
 その理由を、少し照れたように語ってくれる。
「こんな引きこもりの家に、みんなが来てくれるとは思わなかったからねー。哲学部が解散になった時点で高校生活はもう終わりだと思ってたから、なかなかのサプライズだったんだよー」
 どうやら、条件とかメリットとかいう話はそれほど重要ではなかったようだ。
 僕たちが今日ここに来たこと自体が一番大事だったのだ。
 そのきっかけを作ってくれた人の方へ、僕は顔を向ける。
「みんなで家に行こうって言い出したのは上森先輩なんですよ」
「え、上森君が?」
 下倉先輩は意外そうに細目を開く。
 すると今度は、上森先輩が照れたような顔をして文句を言ってきた。
「おいおい、光流ちゃん、余計なこと言うんじゃねえよ」
 素直じゃないなぁ、もう。


 帰り際、下倉先輩の母親に話を伝えると、泣いてお礼を言われた。
 人の親が泣くところを直に見るのは初めてだった。
 でも、よかったと思う。仮に息子が成功して大金持ちなったとしても、本音を語り合える仲間が一人もいなかったら、親としては悲しいだろうから。
 うちの両親も、親しい友達がいない僕のことを心配していた。
 帰ったら伝えてあげよう。ちょっとばかり癖の強い人たちではあるけど、僕にもこんな仲間ができたんだよって。
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